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鈴の音の子守唄  作者: トトコ
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第六十話

陽の下を歩く生物達が寝静まる真夜中。

月が羽衣のような雲に隠れ、夜がいっそう闇に烟る。その闇から抜け出したように音もなく影が一つ、かつて“みこ”を頂いていた白亜の神殿の前に立った。

「………おお、寒っ」

寒さを訴える声は男のもの。静寂に包まれたこの空間には似つかわしくない陽気な声。男は頭までしっかりと外套を着込み、首巻で首を覆い、厚手のブーツを履いてもまだ寒いこの北方の風に身を震わせた。

「初めて見たが、きれーなもんだな」

男は忙しなく布越しに身体を擦りながら神殿を見上げ、歯を鳴らしながらも楽しそうに呟いた。綺麗な物は大好きだ。

「ちょっと北に行くだけでこんなに雪深くなるんだな…お嬢ちゃんが寒さに強い訳だ」


ここはアルフェッラ領の最深部にして旧首都パルマーレ。

現在アルフェッラの政治の要は、バルデロの意向によって目が行き届きやすいようアルフェッラ領の南方に位置したアレーラという都市に移されている。アルフェッラの人口の多くがそちらに移り、パルマーレはかつての人口の六割まで減り、閑散としている。かつてのバルデロとの戦では殆ど被害が出なかった為か、今もなお息を呑む程に美しい都市ではあるが、どうしても寂れた風情が漂う。パルマーレの象徴であるこの神殿も、静かな荒廃の波間にたゆたい、緩やかな眠りに浸っているようだった。

「オレ寒いの苦手なんだよ、南国育ちだから。…さっさと用事を済ませるか」

一人ぶつぶつと愚痴りながら軽く屈伸運動を済ませると、男は軽やかに壁を越えて侵入を果たした。前もって調査したのだが、既にここは殆ど政治の機能を果たしていないにも拘らず、現在も厳重な警備が為されている。しかし、要人がいないこともあって、他国の王城などに忍び込むより余程簡単に忍び込めた。


闇に溶けこんだ男は影となって音もなく進む。途中見回りの兵に出くわしそうになる度に隠れてやり過ごしながら迷路の様な神殿内を駆けた。目指しているのは宝物庫。宝物庫は何処も人の出入りを最小限に抑える造りになっているものだから侵入経路は正面扉以外にないのが常だ。ここも例外ではなく、男はほどなく宝物庫のある通路まで辿り着くと堂々と正面扉に近づき、扉の両脇を固めていた警備の兵を声を上げる前に昏倒させ、鍵を拝借した。

鍵を回して身体が通れる分だけ扉を開けて室内に滑り込む。手早く鍵を内から閉めると、通路に備えられていた松明の灯りも完全に遮断され、宝物庫の中は深淵の闇に包まれた。

目が不自由するであろう暗闇の中を、しかし男は危なげなくするすると壁伝いに歩きながら宝物庫の中の物を丹念に調べていく。

「……すっ…げえ…」

一通り見終わると、その成果に満足し、感嘆の溜息を漏らした。

宝物庫の中は外よりは温かいものの、暖房設備などなく、白い息が出る程に冷え切っている。しかし、宝物庫に納められた宝物達の素晴らしさは、寒さを暫し忘れさせてくれた。

宝物庫の中の宝物は全て希少価値の高く、故に値が付けられない程に高価な代物がごろごろしていた。ここがアルフェッラの神殿でなければ一つ残らず頂いて行くところだ。

「でも、よくぞこんなに…」

財宝の価値そのものよりも、主を失った神殿に、これだけの財宝が手つかずで残っていることに驚きを隠せない。征服された混乱に乗じてこういった金目の物は真っ先に奪われるものだ。その欲に目の眩んだ者の手から守るには、管理する者が下心を起こさず、さらにそれに従う者がいて、しっかりと守らなければ為し得ないことだ。

だが、欲に勝てる人間は多くはなく、現実的な話でない。にも拘らず、それが実現している。

「……あいつか…」

現在この神殿を監督しているのは、バルデロではなく、ユリウスだ。レイディアの実兄にして現アルフェッラの総督を務め、そしてその裏側ではバルデロと敵対している男。

以前一度だけ出くわしただけだが、男はユリウスを知っていた。あの時は妹への愛に狂った愚かな男の印象しかなかったが、ここに来て、彼の印象が変わった。彼の真摯な思いと手腕を垣間見てしまった気がして、外套の中で小さく呻った。

しかし、男は首を軽く振って余計な憂慮の念を振り払った。今は彼らの複雑な兄妹関係を考えている暇はない。約束の品を探して頂いていくことが第一だ。大事に守っている物を頂くのは気が引けるが、そもそも頂戴する物は――


「もし、こんな所にお客様とは……珍しいこともあるものです」


予期していなかった女の声に、影の男はぎくりと身体を強張らせた。宝物庫の正面扉から入ってきた気配はなかった。ならば女は何処から入ってきたのだろうか。まさか始めから宝物庫にいたのだろうか。

「ですが…斯様な時刻においでになるのは、あまり礼儀に適っているとは言えませんわ。…どちら様ですの?」

迂闊にも焦りを鎮めないまま振り返り、その拍子に頭を覆っていた外套がずれてしまった。慌てて外套の位置を直すも、女に顔を見られてしまったかもしれない。女も松明一つ持っておらず、室内は暗いままだ。そんな室内で顔を確認することは難しいが、安心はできない。

しかし、不審な行動を取った男を見ても騒ぎもせず、咎めもせず、じっと彼を見つめて何かを見極めているようだった。

数拍の間、二人は無言のまま互いを観察しあった。

以前にも、こんなことがあった気がする。侵入者を前にして慌てもせず相手を見極めようとする対応を、何処かで…。

「その頬のものは…お怪我でも?」

「あ? ちげぇよ。刺青だ、刺青」

「お顔に刺青を? 随分大胆な方ですのね」

興味が湧いたのか、女はこちらに歩み寄ってきた。やはりそれなりに夜目に慣れているのだろう。そうでなければ宝物庫の構図を知り尽くしているのか。

「別にいいだろ…そんなこと」

できればこの場から早々に立ち去ってほしい。人を呼ばれても困るが、刺青の話題は見ず知らずの女に話したいものではない。けれど女はお構いなしに近づいてくる。とうとう二人の距離は三歩分のところまで縮まった。女は男の顔を覗きこんだ。

「その刺青は、大きな鳥ですのね…美しいわ。大空を舞う力強い鷹。そう言えば、身体に鷹の一部を身体に彫った盗賊がいると以前耳に挟んだことがありますわ。…もしや、貴方は、その世に名高い盗賊“鷹爪”の方、でしょうか」

女は記憶の隅にあった知識を持ちだし、男の正体を推測した。それは的確で、男はすぐにでも動けるように体勢をとり、腕を組んだ。

「その通り。オレは盗賊、お訊ね者なの。皆にきゃーきゃー言われる職業なの。危ない武器も振り回しちゃったりするの。で、今仕事中だからさ、さっさと逃げてくんない?」

「逃げて、人を呼んでもよろしいの?」

「よくないけど、それが普通の対応だろ。侵入者のオレが言うのもなんだけど、どうしてこんな所にいるんだよ。今は皆寝ている時間のはずだろ」

「ここはわたくしの部屋ですわ」

「は? だってここ…」

「淑女の部屋に無断で立ち入って、名乗りもせず、あまつ出て行けとおっしゃるの?」

明らかにここは宝物庫だが、彼の方が部外者だ。男は反論を諦めた。

「……オレはドゥオ。“鷹爪”の、頭をやってる」

女の毅然とした態度に諦めて、外套を脱いで顔を露わにした男―ドゥオは、先程から感じる女の静かな佇まいに対する既視感に首を傾げながらも正体を名乗った。

「ここは沢山宝石とかあるけど、宝物庫じゃねえの?」

「宝物庫で間違いはありませんわ」

「じゃあ…」

女は一語一語考えながら口を開いた。

「……わたくしはこの宝物庫に備えられた部屋を与えられております故、真夜中であろうとここにおりますわ。貴方の言う通り休んでおりましたところ、誰かがいらした気配に、様子を見に来ましたの」

女の答えに、ドゥオは気まずげに頬を掻いた。よく見れば女は厚手の肩掛けの中に夜着を着ていた。

「あー…そっか、そりゃ悪かった。あんた、宝物庫の管理人だったんだな」

「いいえ管理人では…わたくしはここを出ることを禁じられておりますので、成り行き上、その役目を担っておりますけれど」

宝物庫に軟禁状態。牢や塔にではなく、宝物庫に? その状況は酷く不可解だ。見れば女の纏う衣は上等な物で、健康的な身体付きからきちんと食事も与えられていることも分かる。宝物庫から出る以外は自由に動けるようだ。

罪人でもなさそうな女がどんな事情でそうなったのか。考え込んでしまったドゥオの耳に、女の小さな笑い声が届き、我に返った。

「わたくしを案じて下さいますの? 盗みを働く方ですのに、お優しいのですね」

「女子供には優しくが信条だからな。オレは盗賊だが、悪党じゃないんでね」

「まあ」

女は微笑んだ。御簾の影で忍び笑う様な、淑やかな笑み。アルフェッラの女の美徳とされる上品な笑みから、この女は由緒ある家の出であることが窺えた。どうしてここにいるのかがますます解せない。

「ここは、わたくしの姫様の宝物を納めた部屋ですの」

「姫様?」

「ええ。ドゥオ様、どうか、このお部屋から宝物を持ち出すのはお控え下さいませ。この部屋にある物は全て、…わたくしも含め、いつの日か姫様にお渡しすべき物でありますれば」

この神殿において、“姫”と呼ばれ得る者は一人だけ――巫女だ。

ドゥオはレイディアから聞いた過去の話を思い出した。その中で、一人女の歳や印象に該当する者がいた。もし、ドゥオの推測が正しければ、女がここにいる理由も―女を軟禁する趣向は理解できないが―納得は出来る。

「あんたも、宝物庫に納められた“宝物”の一つってわけか」

「ええ、勿体なくも、姫様はわたくしを慕って下さいましたから」

女の誇らしげな笑みと先程から感じていた既視感で、ドゥオは確信した。

「…あんた、お嬢ちゃ…じゃなくて、巫女の乳母か?」

女はぱっと目を開いた。

「姫様を御存じでいらっしゃいますの?」

「ああ……まあな」

ドゥオが頷くと、女はそうですか、と目を伏せた。

「姫様は、お元気でいらっしゃいますか…」

「……ああ、元気だ」

「…よかった…」

女はほっと息を吐き、次いで、不思議そうにドゥオを見た。

「それで、姫様のお知り合いの方が、どうしてこのような北の最果てへ?」

「おじょ…巫女さんの願いを叶えてやったことの報酬を頂きに来たんだ」

「…まあ、そうでしたの…」

彼女を見失ってしまっているとは、真実レイディアを案じている様子の女には言えず、事実だけを述べた。

「ああ、申し遅れました。わたくしの名はネルマ。恐れ多くも、当代巫女姫レイディア様の乳母の任を任されておりました者に御座います。どうぞお見知りおきを」

淑やかに微笑んだ女―ネルマはそっと夜着の裾を摘まみ、優雅に礼をした。やはり、レイディアの話に出て来た女の名と一致した。

「優しき鷹の御方。姫様がお世話になりましたこと、わたくしからも御礼申し上げます。して、報酬ということですが、何をお望みでしょうか」

「………根拠もなく、盗賊の言葉を信じるのか?」

話が早くて助かる半面、見ず知らずの、それも盗賊を生業としている男の話をこうも簡単に受け入れるネルマを訝しく思った。けれど、ネルマは悪戯めいた笑みを浮かべた。

「長年、盗賊などよりも、余程罪深い者達の巣窟に身を置いておりましたのよ。貴方の様なお若い方の嘘を見抜くことなど、訳はありませんわ」

「………そうかよ」

肝の据わり加減がレイディアを彷彿とさせ、流石彼女の乳母だけあると、ドゥオは肩を竦めた。







「放っておけ、とは…どういうことですか」

蔭の一員であるサリーはソネットに詰め寄った。しかしソネットは化粧台に向き合ったまま、身支度の手を止めない。

「どうって何が? あ、ねえそれより、この服どう? 私の新作なんだけど、似合う?」

振り向いたかと思えば、自身が纏う自作の服を、裾を広げてサリーに披露する始末。

「…良くお似合いですが、今はそれどころではなく」

「やっぱりそうよね。うん、自分でも自信作なのよ。服の淡い黄色に、裾から這い登る蔦と木の実の刺繍が春っぽくて良いと思わない? それに、ほらほら、髪の色も黄色に合うように明るい茶色に…」

「ミレイユ様!」

「……変えて、髪飾りも、服とお揃いの生地で花型にしたんだーけーどぉ……気に入らない?」

役職の名をきつく言い放ったサリーの剣幕を前にしても、ソネットは自分が言いたいことは最後まで言い切った。

「ミレイユ様がお召しの御衣装も、髪型も髪の色も、ついでに令嬢風の化粧も御衣装に映えてとてもお美しく、お可愛らしく全て完璧で魅力的で素敵で無敵だと思います! 思いますから私の話を聞いて下さいっ」

サリーは褒めるまで諦めない上司に折れ、自棄を起こしてソネットを褒めちぎった。ソネットは身を飾ることが好きだ。それが嫌いな女性は少ないだろうが、ソネットはただ流行を追うだけに留まらない。女の蔭として変装は必須技能であることも手伝って、ソネットは清楚な服だろうが妖艶なドレスだろうが、化粧を変えることで見事に合わせてくる。つい一昨日まで赤髪だった髪が大人しい茶色に変わっても驚きはしない。

「あら、そんなに気に入ってくれた? 良かったら今度サリーにも貸してあげるわよ?」

「…ミレイユ様」

「もう、仕様の無い子ね」

肩を竦めつつも、漸く聞く気になったソネットはサリーと正面から向かい合った。

「で、話は…後宮のことだったかしら」

「はい。後宮に蔓延りつつある軋轢を、何故(なにゆえ)、何の対策も講じずに放っておかれるのですか」

「何故も何も、陛下が放っておけって言ってんだから、どうしようもないでしょう」

「王が…?」

サリーは一瞬虚を突かれたような顔をしたが、すぐに憮然とした表情になった。

「ここ暫く、陛下は頻繁に城を空けられる。ですから現在の後宮の内情を御存じでないのです。きっとお知りになれば…」

「どうかしらね」

ソネットは立ち上がり、外套を手に取り袖を通し始めた。出掛けるつもりなのだろう。サリーもそれを手伝う。

「元々、陛下は後宮のお妃様達にはとんと興味はなかった。それに彼女達の争いに、男が入ると余計こじれるでしょ」

「けれど必要な存在です」

サリーとて、何が何でも側妃達を庇う意思はない。けれど、彼女らの後立ては有用だ。彼女達の実家の力のお陰で、即位から続くギルベルトの強引ともいえる政策が、必要以上の摩擦も起こることなく円滑に進んだ一面もあるくらいだ。国は王一人で治めるものではない。だからこそギルベルトは厭いながらも、この四年間彼女達の宮に通ったのだ。

「代わりは利くわ」

「いるに越したことはありません」

いなければいないで代用はあるが、今でも問題はないのなら、そのままで良いではないか。有能な王とは、何でも一人でこなせてしまう天才ではなく、周囲の人材を上手く使いこなして成長させる能力を有する者のことだ。有用な人材を自ら遠ざけるのは、賢くない。

それに何より問題は、後宮の真の主であるレイディアが不在であることだ。ギルベルトがレイディアを娶ったのを機に早期後宮の解散に踏み切ろうとしたのを止め、側妃達を四年もの間大事に扱ってきたのは彼女に他ならない。(レイディア)がいない間に、彼女達の処遇を決めてしまって良いものではない。

「このままでは確実に、側妃達の対立は表面化し、窮地に陥ってしまいます。最悪、後宮を辞するまでに追い込まれる者も出てきてしまうやも…それは巡り巡って、王の不利益になるのではありませんか」


たった一人の側妃が起こす問題を、むざむざと野放しにする意図が理解できない。


「………私は、陛下を盲信しているわけではないし、今の後宮を貴女以上に把握している子はいないことも分かっているけれど、あまり、陛下を見縊るものじゃないわよ」

しかし、サリーの訴えは、さしてソネットを慌てさせることはなかった。

「ねえ、サリー。陛下は城の臣下達だけでなく、私達にも具体的な命令はあまり下さないわね?」

「…それが、何か」

「それはつまり、目的を達するまでに取る手段は問わないということよ」

「………」

サリーは今更ともいえる話を、敢えて言い聞かせるソネットの意図を噛み砕いて考えてみた。

「……今の状況は、王の想定内ということでしょうか」

「むしろ、計画の一部かもね」

ギルベルトは、誰がどう動いても不利にならない手を打つことを得手としている。

「側妃達を追い詰めることがですか」

しかし、文武共に味方を減らしかねない自虐的な真似からはとても計画性が窺えない。徒に乱して良いことなどある訳はないだろうに。

「確かによろしくない状況よね。…ディーアちゃんにとっては」

ギルベルトにとってではないのか。というサリーの思いなどお見通しなのだろう。ソネットは小さく笑った。

「私だって全部分かってるわけじゃないけど、それでも読めるところはあるのよ」

今の状況はレイディアがいれば起こり得ない状況だ。逆に言えば、彼女がいないからこそ、引き起こしたともいえる。意図的に。

「もう少しだけ、様子を見ていなさい。多分、もう少しだから」

ソネットは雪うさぎの毛皮で作られた帽子を被ると、戸に向かって歩き出した。

「……陛下は怖いわよ。考えているようで考えていないのに、でもやっぱり、ちゃっかり考えていたりするからね」

未だ納得し難い顔をして見つめてくる頑固な部下に、笑みに苦みを乗せて頷いた。

「安心なさい。ディーアちゃんに関わることを、陛下が疎かにする訳ないでしょう」

「それは…そうでしょうけど」

「このお話はもう終わり。サリーだって、仕事はこれだけじゃないでしょ。頭を切り替えて動きなさい」

融通の効かない部下には難しい指令だ。だが、忠実な彼女は渋々話題を変えた。

「……ミレイユ様は、どちらに?」

ソネットが念入りにめかしこむのはたいていが仕事の時だ。

「野性味溢れる男との逢瀬よ。やっと漕ぎ着けることができたものだから……気合い入れちゃった」

サリーは目を細めた。

「……ご一緒しても?」

「いいわよ、どうせ向こうも一人じゃないだろうし」

ソネットは片目を瞑り、茶目っ気たっぷりに笑った。








レイディアは最後の一針を縫いつけると、ぱちりと糸を切った。

出来上がったばかりの衣を広げ、全体を眺めた。

自身が丁寧に織り込んだ温かな萌葱色の衣とそれを飾る白い刺繍の模様。萌葱と白の組み合わせは如何にも春らしく、自分の作品ながら美しく仕上がったと思う。この衣は明日、街に引き渡し、そしてアドス村の山の麓の街に訪れるノックターン軍に献上されることになっている。もうその日は間近に近づいてきており、前々からこの品を催促されていた。間に合ったことに、ほっと息を吐く。街の者達は献上する品が気に入られるか、不興を買わないかと期待と不安を募らせ、献上品の点検に余念がないと聞いた。

しかし、レイディアが気にかかっているのは、これとはまた、違うこと。

「………」

レイディアは目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をひとつすると、その衣を彩る模様を、そっと撫でた。

じじ、と獣脂の蝋燭に灯る火が揺れたかと思うと、かたりと背後の戸が開いた。その隙間からダレンが覗きこむ。

レイディアが振り返ると入って良いと解釈して、ダレンがレイディアの膝下に歩み寄った。

おわった?

ダレンがレイディアの手のひらに文字を乗せた。レイディアが頷くとダレンははにかむんだ。

きょう は お唄 して?

「ええ、いいわ。唄ってあげる」

レイディアの可愛い預かり子は、今夜は寝物語ではなく、子守唄を御所望らしい。

衣を畳んで膝から退かすとダレンが抱っこをねだった。それを受けて背に腕を回してやると首筋にしがみついて甘えてきた。母親を目の前で失くし、同時に声も失ってしまったダレンは村の子達のお陰で大分元気を取り戻したものの、それでもまだ魘される夜は無くならない。悪夢に怯えて声の無い泣き声を上げながら暴れ出すダレンを、その都度レイディアは夜通しこうして慰めた。

今ではダレンはこの抱く態勢に馴染み、安心を見出したらしく、仲間の子供達がいない時には甘えるのだ。

可愛いダレン。いつか、控えめにはにかむ笑顔ではなく、向日葵の様な笑顔を見せてくれるといい。そう思える程に、ダレンに愛情を抱くようになった。ダレンは日々成長している。毎日少しずつ手で字を書いたお陰で、近頃はしっかりとした線で文字が書けるようになった。家の手伝いをして、最初の頃よりも重い物が一人で持てるようになった。村の男の人が突然やってきたって無闇に泣きだしたりしなくなった。

これからもずっと、ダレンの傍で成長を見守りたいと…

けれど。

レイディアの胸に顔を埋めて寛いでいるダレンを撫でながら、レイディアは脇に置いた衣に視線を滑らせた。


あるべき者はあるべき場所へ。それが正しい形だ。


そう思い、それを成す為にこれを作った。

けれど、何の達成感も満足感も湧かない。ただ、陰鬱な気分だけが、胸に渦巻くだけ。それでも止めようとは思わない。止めることは出来ない。


私には、ダレンの成長を見届けられるほどの時間は、もう残っていないのだから。


…自分にできることは僅かだけれど。

「………守るからね」

レイディアはダレンを強く抱きしめた。不思議そうな顔をするダレンに微笑み、頬や額へ優しく口付け、もう一度強く抱きしめた。

強い瞳が、衣を射抜く。










さあ  来るがいい  ノックターンの王よ








活動報告にてお知らせあり。



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