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鈴の音の子守唄  作者: トトコ
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第五十九話

バルデロ国王都ヴォアネロに鎮座する荘厳な王城のその奥、城の中で最も豪奢で繊細な美しさを誇る後宮の一室で、秋妃マリアは静かに泣いていた。

「………」

声を押し殺して肩を震わせる様子は、見る者の心を痛ませるほどに悲嘆に暮れていた。しんと静まり返った室内に、堪え切れず時折口から漏れる嗚咽が、やけに大きく響く。周囲に侍る侍女達も主に同調して沈んだ様子なのも、室内をいっそう暗くさせていた。

「マリア様、…マリア様をお訪ねしたいと先触れが…」

そんな中、マリア付きの女官が遠慮がちに小さな声で客人の来訪を告げた。マリアは気だるげに寝台に押し付けていた顔を上げた。

「こんな…時に…?」

鼻を啜りながら何とか声を絞り出す。どれだけ泣いていたのか分からないほど長い時間沈んでいた自分はきっと酷い顔をしていることだろう。当然ながら人に会いたい気分ではない。それでも女官が客人を追い払わずにマリアに意向を伺いにきたのは、無碍に出来ない者ということだ。

「…どなた?」

「ムーラン様にございます」

予想もしなかった名前に驚き、真っ赤な眼を大きく開いた。

「え、え…? い、いついらっしゃると?」

「マリア様のご都合がよろしい時間で、とのことです」

マリアは慌てて立ち上がった。侍女に仕度を命じ、女官には会う時間を伝えさせる為に部屋から出した。

侍女に仕度させている間、マリアはぼんやりとムーランの突然の来訪の目的を考えたが、マリアに分かるはずもなかった。

ただ、ムーランなら、今のマリアを見ても嘲ったりしないだろうという期待が、彼女と会う気にさせた。


指定した時間通りに訪れたムーランを、マリアは自ら出迎えて部屋に導いた。

「突然お邪魔してごめんなさいね」

「とんでもありませんわ。ようこそおいで下さいました」

マリアは普段通りに振る舞ったつもりだったが、ムーランは気遣わしげに眉を下げた。

「あらあら、どうなさったの。目と鼻をそんなに真っ赤になさって…」

ムーランにそっと頬を撫でられ、マリアはぎくりと肩を揺らした。会う前に目を冷やして、見苦しくない程度に赤みをとったのだが、ムーランには隠せなかったようだ。

「あの、それより、今日は、どのようなご用事で…」

「マリア様が沈んでいらっしゃるとお聞きしましたの。差し出がましいかと思ったのですが……何かお力になれないかと」

申し訳なさそうに顔を軽く伏せるムーランだったが、お節介と思うどころかマリアは感動さえ覚えた。

…ああ、やはりムーラン様はお優しい方だわ。

マリアは胸がじんとなった。なんだか突然室内がぱっと明るくなったように感じた。目の前に淹れられたばかりの茶の香りも急に明瞭に感じられるようになった。後宮という、何処に罠が潜んでいるか分からない場所であるからこそ、尚更。

「…ありがとう、ございます」

ムーランは他の側妃と違って一線引いた立ち位置にいる。換えの利く取るに足らない女達がひしめいていた頃も、彼女だけは―ローゼの様に極めて有力な後ろ盾がないにも拘らず―争いごととほぼ無縁だった。

そして今や後宮において実質第二位の地位にいる。

その地位に驕ることもなく、悠然と、ごく自然に在る佇まいは、マリアには眩しく映った。

だからこそ、ムーランには他の側妃には言えないことも、言える気がした。


「……ここの所、ソラーナ様とキリエ様がいがみ合ってばかりいらっしゃるのです…」


マリアは年が明ける前から巣食っていた苦悩を、ムーランに語った。

一度口に出してしまえば、これまで堪えてきた反動なのか、現状を訴える愚痴にも似た言葉が次々と溢れ出た。

ソラ―ナとキリエの確執。その二人付きの者達も主に迎合して互いを貶めあっていること。それが伝播してこれまであった妃同士の親交も途絶えたこと。穏やかだった近年の後宮があっという間に殺伐と変わり果ててしまったこと。夏妃ローゼまでもが何故か苛立ち、誘っても自分とお茶を共にしてくれなくなったこと。そして春妃の噂。王の側妃への淡泊さ。王に蔑ろに扱われれば、その態度が使用人にも伝わってしまう。そしてそれを肯定するかのように囁かれる、側妃は最早お飾り同然で下に降されるのも時間の問題だと嗤う使用人や臣下達の心ない噂話。

おそらく脈絡なく話が飛んでしまい、ただ喚き散らしただけとなってしまったであろうが、ムーランは嫌な顔一つせず話を丁寧に最後まで聞いてくれた。

止まらなかったマリアの話が漸く一段落すると、ムーランは口を開いた。

「お辛かったのですね」

「…はいっ」

話し終えて、一方的に喋り通した自分を恥じたが、ムーランはそんな自分を受け入れてくれた。期待通りに。ムーランの肯定と慰めの言葉は、ひどく心地よかった。ムーランも同じ立場にあるというのに、それでもマリアの心情を優先してくれたと思えばこそ、彼女の言葉は真摯に感じた。

「皆様もきっと心の隅では解決する道を望んでおられますわ。今の皆様はただ御自分のことで手一杯なだけなのでしょう。マリア様がこんなに胸を痛めていることをお知りになれば、皆様もきっと応えて下さいます」

「そう…でしょうか…」

「ええ、ええ、そうですとも。マリア様ならばきっと今の荒んでしまった後宮を救うことが出来ますわ」


わたくしが、後宮を救う。


その言葉は、マリアには甘美な響きとなってマリアの思考を占領した。そして瞬く間に思い描かれていく、周囲に感謝される自分。

自分に自信のないマリアにとって、その光景は衝撃的過ぎて目が眩んだ。自分が頼りにされるという、諦めながらも密かに熱望し続けた願いが、突然現実味を帯びてしまった。

そうさせたのは、ムーランの協力を得られる、という期待。

「……お力を、お貸し下さいますの…?」

震える声に、ムーランは応えた。

「勿論ですわ」

ムーランの微笑みが醸す色香が、清涼な茶の香りを押しのけてマリアの鼻孔を擽った。









ギルベルトは出兵先の駐屯地に構えた、己の天幕の中にいた。

南方は季節感があまりない代わりに、昼夜の寒暖差が特に激しい地方で、昼は薄着で充分だが、夜は冬相応に厚手の物を着込まねば霜焼けができるほどに冷える。

そんな中、ギルベルトは換気用の隙間から覗く天上の月を肴に、ラム酒の湯割りで身体を温めていた。

「………」

ギルベルトは一尺先もまともに見えぬ暗闇の中で、独り酒を煽った。

ほんの数刻前まで、ここにはギルベルトが引き連れてきた将達が集い、今後の戦略について語り合っていた。その熱気も、ギルベルトが消した燭台の明かりと共に疾に消え去り、天幕の中は静まり返っていた。

王にとっての将兵は目的を達成する為に手足として動かす駒だ。この理念は何処の国も基本的には変わらない。先程までの将達も、王の描いた筋書きにどのように肉付けするかを唾を飛ばして熱く語り合っていた。

尤も、中心に在るギルベルトは時折相槌を打つだけで、会議の行方を眺めているだけに留めていた。ギルベルトの興奮を沸き立たせることはなかった。

これまでの戦も、これから得るだろう利益も、興味を惹かれない。微かに琴線に触れるのは、闇夜に浮かぶ淡い月明かりだけ。ギルベルトの心の水面に、月の白さだけが確かな存在感を放って煌めいている。

…月は、お前(みこ)の象徴だったな。

ギルベルトは残りの酒を一気に煽った。

今宵は三日月。新月から数日、闇の隙間から顔を覗かせたような見事な弓型の月だった。新月の夜には敵軍の駐屯地の数点へ奇襲を仕掛けさせ、そしていよいよ、明日は現在進行中の部族の要を攻める段階にまで来ていた。戦により得る喜びはただ一つ。それだけレイディアに近づけるということ。


―満月までには、この戦も片が付くだろう。


ギルベルトは杯を置き、もっと月の近くへ行こうと、天幕から抜け出した。








かたり、と戸が開く音がした。レイディアは機を織る手を止め、後ろを振り向いた。

戸の隙間からは家主のアンの顔が覗いていた。彼女が掲げた小さな蝋燭の明かりの中に彼女の顔がうっすらと浮かびあがっている。

「お月様が天辺に昇っちまうよ。そろそろ寝な」

「…はい」

レイディアは自分の手元だけを照らす燭台を持ち上げて立ち上がった。アンはそれを確認したあと、闇にぼんやりと浮かぶ機織りに目をやった。

「あの織物は、献上品かい?」

「はい。明日には出来上がるでしょう」

「すまないね。でも、まだ急ぐ必要はなかったんだよ。王様が来るまで何日かあるんだから」

「いいえ、あの布には刺繍も施そうと思っているのです。そうすると、あまり時間がありません」

レイディアが無心で織りあげていた布は、ここアドス村に最も近い街に立ち寄る予定のノックターンの王軍へ献上する物だ。出兵中の軍は、その途中、物資の補給の為に行軍経路にある街に立ち寄る。そしてその街の者は献上と称してほぼ無償で物資を軍に納めるのが常だった。特に法などで強制されたものではないものの、街の安全と引き換えの献上であることは暗黙の了解として民の末端まで浸透しており、納める側も受け取る側も、これらの決められたやり取りを当然のものとしている。

それを知ったレイディアも、街から要請を受けて、機を織ることとなった。

「刺繍か。いいねぇ。あんたの織物は街でもちょっとした評判になっているんだよ。きっとお偉いさん方も満足してくれる」

「…そうであれば、よいのですが」

レイディアの謙遜に、アンは小さく笑った。

実際、レイディアの織物は、繊細な模様と丁寧な織り目が美しいと、初めて街に卸した時から話題となった。街の女達の他愛ない噂話から、仕立屋など専門職の口へと布の評判が街中に広まった。そうなると当然作り手が誰かということになるが、本人の希望で名を出さず、卸す際の交渉は全てアンの夫であるジャンと彼の相方のガラックが引き受けている。

…そう、いつの間に頼んだのか、夫達はレイディアから仕事に必要な文字を子供達と一緒になって教わったらしく、交渉する術を備えたようなのだ。


アンはちらりとレイディアの横顔を盗み見た。あまり顔を晒さない生活を送っているが、彼女は非情に優れた容貌をしており、尚且つ賢い。美しい女は田舎では珍しいが、ちょっと大きな街に出ればいくらでもいる。しかし学のある女は珍しい。貴族層でも女に学ばせる国は少ない。夫の様に女から教わろうとする男も珍しいが…。

それはともかく、評判となってからレイディアへの依頼が日に日に増え、近頃アンの家では、夜遅くまで機織りの音が続くことが多くなった。

「それに、あれの他にもまだ十数枚依頼もありますし…」

献上品の機は先約を後回しにして織っている。仕方がないとはいえ、待ってくれている者に申し訳なく感じる。

「全く、織るのはあんた一人なんだから、ジャンもたまには断ればいいのに」

「急ぎのものは断って頂いてます。依頼の物はいつでもいいという方だけですよ」

「ひゃあ、いつでもいいってだけでそんな枚数になるのかい。困ったもんだねぇ…」

アンとて女として美しい衣を身に纏いたい気持ちが分かるし、レイディアにとっても収入が増えることは良いことだ。しかし、昼間は子供達の世話やアンの家事の手伝いも並行してさせているのだ。恐らくレイディアは、宿代としてできるだけアンの家に金を納めたいと思っている。しかしこれ以上睡眠時間を削ってしまっては身がもたないから居候主のアンが常に休めと言い続け、レイディアはそこそこに従う。それで丁度よくなる。

…生真面目な娘だこと。

その気持ちは嬉しいが、無理をさせたいわけではない。

「無理するんじゃないよ。あんたの坊が不安がる」

「はい。お気遣いありがとうございます」



レイディアが子供達の部屋に入ると、疾に眠った筈の子供達が一斉二こちらを見た。

「あ、レイディア、お仕事終わった?」

「ねえ、レイディア。お話して」

「悪党をやっつける英雄のお話がいい」

「えぇ、格好いい騎士様と結婚するお姫様がいいっ」

口々に親に聞こえないよう小声でレイディアに催促する。レイディアは部屋数がない為、子供と同じ部屋で眠っている。そして仕事を終えたレイディアが少しだけ物語を語って寝付かせている。当初は中々寝付けなかったダレンの為に物語を聞かせてやっていたのだが、子供は大人には秘密で少しだけ夜更かしする状況が楽しいらしい。すっかり習慣になっていた。

「…ダレンは、何か聞きたいの、ある?」

レイディアは子供達と一緒に眠らずにいたダレンの傍に腰を落とした。ダレンは未だ声が戻らない。その代わり目や仕草で自己主張することを覚え、最近では弱く袖を引いて直接レイディアの気を引くようになった。

レイディアの問いかけに、ダレンはレイディアの手のひらに覚えたての文字を指でたどたどしくなぞった。


はおう の おはなし が いい


「……『氷の王』がいいのね?」

ダレンが頷く。子供達は口々に何か言っていたが、結局ダレンの意見が通ったようだ。子供達がそれぞれ自分の寝床に入ったのを確認して、レイディアはダレンの頭を撫でながら話し始めた。




昔々 ある所に とても欲張りで とても残酷な 王様がいました

その王様は あらゆることを 己の意のままにしなければ気が済まず 民や臣下達を虐げ 自分に甘いことを言う者だけを可愛がり 国は荒れました

ある日 民の嘆きを聞きつけた神様が 心を入れ替えるよう 王様を諭しました

しかし 王様は神様の声など知らんぷり それどころか 神様に酷い言葉を投げつけ  さらなる富を願いました

神様は怒りました そして王様のお城を氷にして王様を閉じ込めてしまいました

氷のお城を中心に、王様の国は春の来ない凍土の地となり 人の住めぬ場所となりました


王様は初めこそ怒ってばかりで 神様を憎みました しかし いつしか肩を落とし しょんぼりとして 毎日をぼんやりと過ごすようになりました

そんな王様を 氷の城から逃げられずに一緒に留まっていた一羽の小鳥が ずっと巣の上から眺めていました 

しかし小鳥は飢えに耐えきれず とうとう餌を求めて飛び立とうとしましたが 上手く飛べずに王様の足元に落ちてしまいました 王様は驚いて小鳥を掬いあげ 小鳥を温めてくれました

小鳥はまだ巣立つ前の未熟な鳥でした しかし親鳥がいなくなってしまい 小鳥は独りぼっちでした 小鳥も 独りぼっちでした

王様は弱った小鳥を助けようと 凍った果物を手のひらで温めて小鳥に与えました

王様が誰かに優しくしたところを見たのは初めてでした 王様も誰かに感謝されたのは初めてのようでした

王様は嬉しくてたまらないというように小鳥を大切にしてくれました 小鳥も王様の想いに応えて傍に寄り添いました

けれど 人と小鳥ではずっと一緒にいることはできません 何故ならお互いは違う生物だからです 生きる世界も 身体の強さも 命の長さも

氷に包まれたお城の中は 小鳥が生きるには厳しくて 王様が一生懸命衣で温めても 小鳥はついに飛べなくなり そうして 二度と王様に囀ることができなくなってしまいました


王様は嘆きました 何も口にせず 来る日も来る日も小鳥の死を悲しみました

そんな王様に 城を氷にした神様が再び現れました そして問います 小鳥を蘇らせたいか と

王様は頷きました 神様は冷たくなった小鳥を王様から受け取り 王様に告げました

今 世は戦乱に苦しみ荒れ果てている お前がこの大陸を統一し 民を安寧に導けたなら 小鳥の魂をお前の許に戻そう

神様は消えました すると城の氷も解け去り 王様は城から出ることを許されました

王様は旅立ちました 何も持たぬ身で大陸を渡り歩き 剣劇が繰り広げられる戦の中に身を投じました


小鳥の魂は神様の手によって人間の女として新しく生を受けました

彼女が生まれる前から続く戦の世に 彼女は憂いていました

彼女の名はフロークフォンドゥ 名前は育ての親から授かりました 生みの親は分かりません

育ての親は俗世を嫌い 深い深い森の奥に居を構え ひっそりと生きる老人でした 彼女も彼に倣い静かに暮らしていました

彼女には不思議な力がありました 病めるものを癒やし 森の住人達と言葉を交わし 風の音を聴き 美しく神秘的な声で唄う力が

育ての親はフロークフォンドゥに人の前ではその力を使うことを禁じました しかし彼女が美しく成長すると 今度は何故か人の前に出ることも禁じるようになりました

彼女はその言いつけを忠実に守っていましたが ある日 彼女達が暮らす森に一人の男が足を踏み入れた

その男は彼女を見つけるや 彼女を己の城に連れ去りました

男は言います 自分をずっと探していたと けれどフロークフォンドゥには何のことかは分かりません 彼女には小鳥であった頃の記憶がないのですから

フロークフォンドゥは故郷の森に帰せと男に懇願しましたが男は聞き入れてくれません それどころかフロークフォンドゥを説き伏せ 彼女を妻にしました

男に怒り 拒み 故郷を恋しがるフロークフォンドゥでしたが 精一杯自分に愛を乞う男の姿に 不思議な懐かしさを覚え 恨みを抱き続けることはできなくなりました


そうして再び心を通わせた二人は 手を取り合い大陸を永い平和へと導きました――




「そのお話、初めて聞くな」

レイディアが一旦口を閉ざすと、子供達は不思議そうな顔をしてレイディアを見ていた。

「…そう?」

『氷の王』は有名な物語なのだが…。

「うん。小鳥の方のお話は初めて」

「………」

「やっぱり覇王様って素敵! 人になった小鳥をそうだって分かるんだもん」

「…そうね」

「神様だってさ…」

「さあ、もうお話はここまでにしましょう。おやすみなさい」

まだ何か言いたそうな子供達の頭をそれぞれ撫で、レイディアは話を打ち切った。

小さく子守唄を唄いながらダレンも寝かしつける。そして漸く子供たちが全員眠りにつくと、レイディアは燭台の火を消し、そっと一人部屋を抜け出した。









ギルベルトは小高い丘にいた。眼下には自身が引き連れてきたバルデロ軍の駐屯地が、そして上を見上げれば美しく弧を描く三日月がある。

月に近づきたくなるのは、レイディアを想う傍らに、『氷の王』の物語が脳裏にちらつくようになったからかもしれない。

傲慢な王が小鳥と出会い、小鳥との未来と引き換えに茨の道を選んだ覇王。

ギルベルトはずっと、彼を愚かしいと思っていた。自分なら、神に願うまでもなく、自分の力でレイディアを手にしてみせると。そもそも神の存在など信じていない彼にとって、いもしない存在に対して無闇に縋ることなど弱い者のすることだと、そう思っていた。その思いは今も変わっていない。

しかし、物語の中にある、大陸を支配すれば小鳥を返してやろう、という神の言葉が、ギルベルトの中でずっと繰り返されている。神など信じない。けれど、レイディアを取り戻せるなら、いくらでも祈ってやろうと思った。

道化になれというのなら、望み通り踊ってやろう。

舞台は大陸。望むは制覇。

ギルベルトは手を上へと伸ばした。月には、届かない。当たり前のことだが、無性に苛立ちを覚えた。

ギルベルトは顔を歪め、吐き捨てた。

「………(おまえ)の望みが大陸の平定であるならば、俺がその望みを叶えよう」







これ以上、歯車を回してはいけない。

レイディアは家の裏口にある少し開けた場所で、厳しい目で三日月を見上げた。

「貴方のことなんて、どうでも良かった筈なのに…」

“みこ”として生まれた宿命として、幾つもの制約に縛られた人生に諦め、それでも自我だけは手放さないという決意の下、レイディアは生きてきたのに。

…物語には、続きがあった。

心を通わせた二人だったが、やはり、お互いの時間に違いがあった。覇王は己の人生をかけて大陸を奔走した。その時間は決して短いものではない。彼が大陸の支配する頃には何十年もの時間が経っていた。

そう、小鳥と再会を果たした覇王は既に、老いていた。今度は小鳥の方が、残されてしまったのだ。

それだけではなく、覇王がいなくなっても、フロークフォンドゥは解放されなかった。周囲が彼女を覇王の許に行かせなかった。

盟約は、続いた。だから“私達”がいる。私達はずっと覇王を待ち続けた。そうするしかなかった。氷の城を彷彿とさせる、北の大地で。

もう始祖(フロークフォンドゥ)が求める“王様”はいないのに。フロークフォンドゥ自身も、もういないのに。私達はこの世に在り続け、願い(くさり)を連綿と繋げ続けてきた。

自分の物ではない願いを渇望する己が恐ろしかった。覇王が迎えに来る間に飢えさせないように“みこ”を囲う檻に慄いた。

何が神の祝福だ。こんなもの、“呪い”以外の何物でもない。

―呪ったのは、神か、覇王か。

どちらにしても、もうレイディアは彼の子を産む訳にはいかなくなった。始祖(フロークフォンドゥ)の二の舞にはさせまいと…。

しかし結局、レイディアがしたことといえば、無様にも彼から逃げることだけだった。

覇権など求めていなかった彼に、茨の道を選ばせたのは私。鎖で繋いでしまったのは私。

だから、“鎖”は、私の代で、止めてしまおう。

そして、私は眠りにつこう。

彼を、解放しよう。

レイディアは手を月へと伸ばした。届かない。分かってはいるけれど、飛べない自分が切なかった。

「……今更かもしれないけれど――」








―また、正気が揺らぐ。

ここのところ断続的に襲われる感覚に身を委ねた。これまで心の片隅で巣食っていても抑え込むことが出来ていた狂気が、再び頭を擡げる。


レイディアがギルベルトを見ないなら、他を映す眼などいらない。

自分の声が聞こえないなら、他の声を聞く必要はない。

自分から遠ざかろうとする足などいらない。

ああ、しかし、腕だけは残そうか。自分へ伸ばす為の腕ならば。


お前は知らないだろう。小鳥の巻く鎖など、蜘蛛の糸のように細く脆いもの。獅子が動けば、容易くちぎれてしまうそうな程に。彼女の鎖はギルベルトにとって縛る物ではない。彼女へと繋がる大事な絆だということ。最初から、ギルベルトは承知の上だということを。

小鳥(みこ)は覇王のもの。覇王だけが得られる最愛の番ならば、自身が覇王となる。それだけだ。

取り戻さなければ。自分が、実行に移してしまう前に。

己の闇にもがく俺は、さぞ滑稽だろう。

「笑うなら笑え。呪うなら呪え。覇王に盟約を与えたのは、貴様だ。だから――」








「――貴方に鎖は似合わないわ……ギルベルト」

レイディアは手放すように、指を綻ばせ、





「――レイディアを、返してくれ」

ギルベルトは引き寄せるように拳を握りしめた。










他サイト様の方でも小説を書きはじめました。詳しくは活動報告にて。



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