第五十七話
天女を見つけた。
サクサクと、枯れ葉を踏みしめて進んだ先の、美しい泉。
水を飲みに集う森の住人達を照らす光。心を鎮める小川のせせらぎ。
そんな楽園で、幼子に囲まれて水を掬う、彼女を。
「あ…くそっ」
男はきゅぽんっと音を立てて銜えていた水筒から口を離した。
酒が切れた…。
水筒を逆さに振って空であることを確かめた後、諦めて蓋を閉めた男はぶらぶらと歩き始めた。
幾ばくか歳のくった男は、淡い光の差し込む森の中にいた。世話になっている画家の工房の親方に頼まれて薪を見繕いに来たのだ。
…今更雑用の真似事をする羽目になるとはな。
彼の本業は情報屋。少し前までバルデロの王都ヴォアネロで情報屋を営む傍ら、酒屋も営んでいた彼は、しかしその本業の為にバルデロの出奔を余儀なくされた。
かなり際どい情報も流すことで、彼はこの道ではそれなりに知られている自覚はあった。それでもこれまで上手く身を潜めていたが、ついに王の犬に勘付かれたのだ。それも、ある意味最も面倒な相手―ミレイユ―に。
バルデロ王に忠実なる裏部隊『蔭』。その実態は謎に包まれているが、存在が確認出来ている数少ない者の一人にミレイユという女がいる。男のような情報屋にとって最も面倒な敵は法の違反を監視する存在、つまりミレイユのような間者だ。王の意向に沿って、巫女の情報を流す者の粛清をここ四年に渡り断行してきた蔭の主力はミレイユだという話だ。
四年前のバルデロとアルフェッラの戦の終結後、行方知れずとなった巫女姫。彼の姫の情報は非常に扱いの難しい代物だが、巫女の情報に莫大な金を積む者は未だに後を絶たない。バルデロ王を恐れて巫女の情報を売る者が少なくなったことでいっそう情報の価値が上がり、男の様な玄人の情報屋にとっては危ない橋を渡ってでも売る価値のある情報であった。
だからこそ無数の虚実も存在する。それでも諦めないのは、もしも彼の姫を手にすることが叶えば、それによって得られる利益は計り知れないからだ。
男はそういった者相手に商売を続けていたが、そういう訳で暫く正体を隠して一画家として、たまたま立ち寄った街の芸術工房に世話になっている。
絵画や彫刻の依頼主は、当然だが金持ちが殆どだ。かつてお訊ね者の似顔絵を描くことを生業としていた男にとって、筆や彫刻刀を握る毎日はそれなりに充実し、生活自体に不満はないが、この歳になって工房の先輩だが年下相手に大きな顔をされて面白くない思いを味わって少々鬱憤が溜まっていた。
「…さっさと集めて帰るか…」
溜息一つ吐いて、薪を探す気になったはいいが、なかなか良い薪が見つからない。この辺りは大して雪は降らず、良い感じに乾燥しているものの、薪に向かない樹種が多いらしい。
男は迷わないよう気を配りながら森の中を歩き回った。そして漸く一抱えの薪を手に入れる頃、出掛けは肌寒かった気温はすっかり高くなっていた。そろそろ帰らなければ工房に帰る頃には日が暮れてしまうだろう。
道を引き返そうと腰を上げた時、この近くを流れる小川の方から人の声が聞こえてきた。
近辺の村人でもやって来たのだろうと思い、何とはなしにそちらに足を向けた。
別に何かを期待していた訳じゃない。強いて言うなれば、複数の楽しそうな声に惹かれたのだろう。
小川にはいくらも歩かない内に辿り着いた。茂る枝葉を少しだけ分けて、光の降り注ぐ葉の向こうを、そっと…覗きこんだ。
「おねえちゃん、ごめんね…」
ぎゅっと布を抱きしめる幼子は、その眦に涙を溜めて項垂れる。
「…気にしてないわ、アドル」
レイディアはそう言ったものの、他の子供達は不満げである。
「あんたってほんと間抜けねっ」
「見てよ、みんな真っ白けっ」
「………ぅん」
「さぁ行くわよ」
小さな頭をそっと撫でて項垂れたままの背を推して家から連れ出した。実際、レイディアにとって、子供達の他愛ない悪戯の延長線としてしか感じていなかった。
こんな事態になったのはほんの数刻前。子供達とお菓子を作っている最中、一人の子供―アドル―がくしゃみをしてしまった。くしゃみは自然と出てしまうものなので仕方ないことではあるが、小麦粉に向かってしてしまったことはいけなかった。
パイ生地組だったアドルのくしゃみを引き金に、小麦粉が台所の食卓を中心に盛大に宙に舞った。それだけなら机に軽く粉が撒かれる程度で済んだのだろうが、ふわりと浮いた小麦粉が他の子供の鼻をくすぐってしまい、被害は拡大、くしゃみした拍子に小麦粉袋からも少々溢してしまったらしく、台所は悲惨な有様になった。レイディアは少し離れていたおかげで服に少々粉が付いてしまっただけで済んだが、同じくパイ生地組の子供達は頭から真っ白になってしまった。
この事故は、すぐさま台所の主であるアンの知れる所となり、こってり子供達を叱りつけ、しっかり台所の片付けをさせた。当然お菓子作りは中止である。
「身体を洗ってきな。少し上流に行けば泉があるんだよ」
これだけ汚れてしまうと、濡れ布巾で身体を拭くよりも直接水を被った方が手っ取り早い。まだまだ寒い日が続いているが、このあたりは冷え込むのは朝夕だけで、日中はそれほど寒くない。この地で生まれ育った子供達はこの季節でも水浴びに抵抗がないようで、当然のように水浴びの準備を始めた。レイディアは監督不行届きの責任として子守を言いつけられ、子供達と一緒に近くの泉まで着いて行くことになった。
「いいね、ちゃんと外套を被っていくんだよ」
出ていく際、アンに厳重に外套を身体に巻かれた。今日に限らず、レイディアは外出時、頭からすっぽり防寒具に包まれる。それは単に寒さを凌ぐ為だけではない。
「村の若い衆に声をかけられても相手にしちゃあ駄目だからね。一人にもならないように。いいね」
「はい」
どうやら村の若者にとって、レイディアは目下興味の対象となっているようなのだ。外から来る人が珍しい田舎に、突然明らかに都会から来たと分かる物腰の若い女が来れば致し方ないことではある。しかし、レイディアが既婚者であることは村人達も承知であるにも関わらず、レイディアに含みのある視線を向ける者がいる。アンやモリーは、人妻だろうが旦那が傍にいない若くて綺麗な女を見りゃ男が反応しないわけがないと笑っていたが、しっかりと対策を立ててくれた。外套で顔を隠し、一人の行動を禁止された。レイディアは日中あまり外出しないので意識する必要はないはずなのだが、ジミー達から村の兄貴達が自分の話をしていたと聞いたり、たまに夜中にレイディアの部屋の窓を叩かれることもあっては、意識しない訳にはいかなかった。
左手にダレン、右手にシイナ、そして口を噤むことを知らない子供達に囲まれて森へ入って行った。
「姉ちゃん、巻き込んじゃってごめんな」
ばつが悪そうにジミーが荷物のたらいをくるりと回した。くしゃみ以外にも、実はほんの少しだけ悪戯心もあって小麦粉の被害が拡大したことに責任を感じているのだろう。ジミーは年長者といっても、他の子と幾つも違わない。けれど子供の歳の差は大人のそれよりもずっと大きい。たった一歳違うだけで身体の大きさも、考え方も変わる。面倒を見なければならない、より小さな子供が傍にいれば、責任感も生まれる。
レイディアは気にするなという意味を込めて、首を振った。
暫く歩いて辿り着いたそこは、泉のような淵だった。渓流から流れ込む鋭く清らかな水が、この辺りの緩やかな傾斜に差し掛かると、穏やかに流れを変え、動物達に憩いの場を提供している、川の中継地点である。
子供達は川に着くなり早速服を脱いで水辺に駈け出した。勢いよく水飛沫を上げて各々身体を清め始めたのを見届けると、レイディアは地に散らかった服を拾って、ジミーからたらいを受け取って洗濯を始めた。
昼を少し過ぎた今頃の気温はほんのりと温かく、水仕事もさほど辛くはない。
ふと、そう思える自分に気付いた。
バルデロで働いてきた時はソネットやフォーリー女官長気から手荒れを治す軟膏を貰っていた。ここには高価な薬などある筈はなく、レイディアの手に皸が出来始めた。そうやって傷がしみる水に耐えている内に、レイディアの手はいつの間にか随分逞しくなっていたようだ。
「お姉ちゃん?」
自分の身体を洗うよりも先に焚火の準備をしてくれているジミーがレイディアを見上げた。ダレンも己の手をしげしげと見るレイディアを怪訝に思ったのだろう、じっとこちらを見ていた。レイディアは何でもないと首を振って洗濯を再開した。
およそ十人分の洗濯を済ませ、焚火の傍に衣を干した後、レイディアは村の子供達と同じようには水に飛び込めないダレンの衣を解いた。子供達の服を乾かす為に焚いた焚火で少し温めた水に手ぬぐいを浸して頭髪から清めていく。粗方清め終えると、風に晒されて冷えたのかダレンが小さくくしゃみをした。
「ごめんなさい、冷えてしまったわね」
ダレンには用意してきた衣を手早く着せて焚火に当たらせた。
「お姉ちゃんも、身体洗ったら?」
「そうね」
一連の作業を終えてジミーは服を脱ぎ始めた。レイディアは頷いて川辺に近づいた。膝を着いて指先を川に浸した。冷えた水が爪を舐めて流れていく。レイディアは北国育ち故か、寒さにとても強い。北の大地を流れる川の周囲は雪景色に彩られ、レイディアは清めの儀式として、そんな極寒の中で川に身を浸した経験もある。それに比べれば、この程度の冷たさは寧ろ温いくらいだ。
レイディアは胸元を弛め、毛先に付着した粉を拭う。髪をかきあげて先程ダレンに使った布を川に浸して首筋を拭った。
「………」
身体を拭きながら、じっと水面を見つめて考える。
…手足も少し洗おうか。
この辺りは水が豊かではあるが、風呂に入る習慣はない。年頃の娘は頻繁に身を清めるものだが、だいたい五日に一度身体を清める程度だ。レイディアは居候の身ということで身体を洗うことを遠慮してきたが、こうして水場に来ると身体を洗いたくなった。
レイディアはゆっくりと足を爪先から水に入れた。川の淵は深いが、おそらくレイディアの腰くらいの水深だろう。奥に行かなければ大丈夫そうだ。
レイディアは誘惑に勝てず、帰ってから下着を換えれば良いと思い、下着姿となって川に身を浸した。
―気持ちいい。
レイディアは川から顔を上げると、髪をかきあげて、うっとりと青空を見上げた。
――天女だ。
男はその光景を言葉もなく眺めていた。
光の中でなお眩い白い肌。しとどに濡れる深緑の髪。水面に劣らぬ美しい漆黒の双眸。
男は生唾を飲み込んで食い入るように女を見つめた。
薄い衣が肌に張り付いて身体の線がはっきり見える。折れそな腰の細さに、程良い大きさの胸の膨らみ。女の裸体は商売女で見慣れていた筈だったが、彼女は衣を身に付けていてさえ、いや衣を肌に張り付けているからこそ、見つめることに羞恥を覚える程に艶めかしかった。
「………」
この光景は幻なのだろうか。
澄み渡った水に浸るこの世ならぬ美女が空を見上げて浮かべた微笑に背筋に戦慄が走った。
彼女の胸元へ甘えるように縋った子供を受け止めて戯れる姿に心を温めた。
―永遠に見ていたい。この一瞬を切り取ってしまいたい。
そう願った邪念が通じてしまったのか、彼女ははっと顔を上げるとこちらを見た。
顔を見られたのか分からない内に、彼女は素早く川から上がると布を掴んで森の中に逃げていった。
子供達もそれに倣って、水をかけて焚火を消すと彼女を追って行ってしまった。
あっと言う間に消えてしまった楽園に、男はじわじわと笑いが込み上がってくるのを感じた。
「は……はは」
堪え切れない哄笑の発作。目を押さえて思いきり声を抑えることもなく笑い続けた。
ひとしきり笑い終えると、未だ肩を揺らしながら男は薪を抱え直した。
何故、“彼女”がここにいるかは知らない。だが、“彼女”の正体は間違いない。男は知っていた。ずっと追っていたのだから、間違える筈がない。
今の光景は瞼に焼き付けた。この景色も、周囲の子供達の顔も……彼女の容姿も。
さて、この情報を、どうしようか。
「さあ…さっさと帰って、仕事しねえとな」
男は枝葉に隠れた川辺の向こうにいるだろう彼の天女に向かって、胸に込み上げる予感を告げた。
歯車が、回るぞ