第五十五話
夢を見た。伸ばした自分の手が届かない、絶望の夢。
はっと目を覚ましたゼギオスは、荒い息を整え、痛む肩を押さえながら起き上った。額にかかる髪をかき上げると汗でべったりと張り付いていた。汗で身体がべたついて不快だった。
「…ッチ」
嫌な夢を見た。もう何年も見ていなかったのに。
登場する人物がレイディアになっているだけで、内容は同じだった。また掴むことが出来なかった悔恨が見せた幻なだけに、その苦しみはゼギオスの胸中を漆黒に塗りつぶした。
「おはよぉ、ゼギーちゃん」
ゼギオスの心中などお構いなしの呑気な声に顔を上げると、ゼギオスの足元に寝そべるエリカが膝をパタパタとバタつかせながら串焼きを頬張っていた。
「…何してんだ」
「うん? ゼギーちゃんも食べる? あげないけど」
「いらねぇよ」
意地でも何でもなく実際食欲はなかった。代わりに猛烈な乾きを覚える。
「水は?」
「そこ」
エリカが指差した竹筒に手を伸ばして喉を潤す。冷たい清涼な香りが幾ばくかゼギオスの荒んだ気分を癒した。
「…ここは?」
「えっと」
エリカは肉を口に加えると、床に放っていたゼギオスの荷袋を手繰り寄せて両手で中をかき回した。そして出てきたのは地図。それをゼギオスに放る。
「あの川に沿って歩いてたから、その辺」
かなり大雑把な説明だったが、エリカにしては上出来だ。ゼギオスは枕を背もたれにして地図を広げた。
自分がはっきり覚えているのはレイディアが川に消えた後、“鷹爪”やユリウス一派と再戦し、ユリウスとその配下に切りつけられて負傷したところまでだった。どうやって彼らを切り抜けたかははっきり覚えていないが、奴らにしてもレイディアの安否に気を取られ、まともにゼギオスらを、とりわけ興奮状態のエリカを相手にする余裕はなかった筈だ。
どちらからともなく、自分達はそれぞれレイディアの行方を追うこととなり、なんとか応急処置を施してここの宿をとったところまで思い出した。
「…ここはベリーヤの隣国か」
レイディアが落ちた川はアルフェッラからノックターンまで続く長い川に繋がる川だ。幾つもの支流と合流し、ノックターンに辿り着く頃には巨大な川となる。しかしレイディアがその流れに従ってそのままノックターンまで流れ着くとは考え難く、何処かで障害物に引っかかって岸に辿り着いたと考えるのが自然だ。
レイディアの落ちたあたりから川を指で辿ると、おおよその自分達の現在地である、ベリーヤと国境を接する国に差し掛かった。ここら一帯は大国に挟まれた小国がひしめいている地帯で、国境線が日夜変わって情勢不安な地帯もあるが、概ねノックターンやバルデロの影響を強く受けて治安は安定しいる。
…ここらなら共通語で事足りるな。
出身地が悟られないよう訛りには気を付けなければならないが、様々な人種が入り混じっている地域では、ゼギオスらの外見が目立つことはないだろう。暗躍しやすいのは、ゼギオスにとっては有り難い限りだ。
「……ねえ、ディーアちゃんは何処行ったのかなぁ? お膝でごろごろしたい」
「また、探すんだろ」
レイディアが死んでしまったという可能性は考えていない。エリカも同様だ。かつてクレアに腹を貫かれたレイディアを見てしまった二人は特に、再び彼女の死を間近に感じてしまうこと恐れている。
その可能性が僅かでも意識の上に浮かび上がれば、今度こそ自分は狂いそうだ。きっと生きていると思わねば、上司のソネットの言葉にさえ耳を貸さずに大陸を当てもなく放浪し、手当たりしだいに周囲に牙を剥きかねない。彼女の遺体を見つけるまで。
「…出掛けてくる」
取りあえず街に出て現在地と周辺の情勢の情報を入手するところから始めよう。それから、簡単な報告をソネットに送って…ああ、その前に湯を使いたい…それから…。
ぶつぶつと呟きながらゼギオスが立ち上がるとエリカはゼギオスが横になっていたところで大の字になり、寝る体制に入った。
「いってらっしゃぁい」
どうやらゼギオスが眠っている間、エリカはずっと起きていたらしい。そのことに思うところがあったが、ゼギオスは何も言わず部屋を後にした。
ソネットは自分の店である『ミレイユのお菓子工房』の屋根の上で風に当たっていた。今日の気分に合わせた青色の髪が風に揺れる。つい先日の霙を境に風がより冷たくなってきた。
「………」
ソネットは風に弄ばれる髪を耳元で抑え、眼下に広がる王都の街並みを眺めた。王都の賑わいは普段と比べ何処となく大人しく感じるのは気のせいだろうか。それとも賑々しい新年の祝いの準備を遠くから見つめているような、自分自身の気分の所為だろうか。
「ミレイユ様」
配下が王都を眺めるソネットの背後に現れた。ソネットは手だけを後ろに出すと、配下は彼女の手のひらに丸められた紙を乗せた。
「………全く、やっと来たかと思えば、どいつもこいつも」
紙を広げて内容を読み終えたソネットから出てくるのは溜息ばかり。中でも衝撃的だったのは…
「ディーアちゃんが…」
「レイディア様に何か?」
配下が眉をハの字に下げる。ソネットは後で話すといったん退け、代わりに問うた。
「ゼギオスを連れ戻すことは出来そう?」
「……現状では難しいかと」
「だよねぇ」
ゼギオスはレイディアを追ってバルデロを飛び出したきり暫く連絡が途絶えていたが、たった今来たことで消息が掴めたのだが、勝手な行動は継続するらしい。
書かれている内容は簡潔だった。レイディアを追っている最中にエリカと合流したこと。レイディアを見つけたこと。その時“鷹爪”とユリウスと衝突したこと。その際に負傷したが大したことはないということ。そして、レイディアが川に落ちて再びはぐれてしまったことが手短に書かれていた。
ゼギオスはこの手紙を飛ばした後すぐにレイディアの行方の捜索を再開しているだろう。とするとこちらはゼギオスからの連絡を待つしかない。
「まあ…エリカがいるなら、なんとかなるでしょ」
一番困るのは任務の途中で行方が分からなくなることだ。死んでしまったのか、敵に捕まってしまったのか分からないからだ。だから原則、一つの任務に対して二人以上を当てる。その点、エリカと別れない限り、それに関しては安心出来る。エリカがずっとゼギオスと行動を共にすると確信は持てないが。
「このことが終息次第、勝手な行動を起こしたゼギオスにはお仕置きしてやるとして、今はディーアちゃんね」
レイディアが川に落ちた。
その一文を目にした時、ソネットは一瞬血の気が引いた。しかし文脈からゼギオスはレイディアが死ぬという可能性は考えていないらしい。ソネットもそれを疑うことはなかった。
何故なら、レイディアはまだ死ねないから。
ただし、その行方の心配をすることとはまた別の話だ。
「お姉様を困らせるなんて、困った弟妹達よね」
「如何なさいますか?」
「私はこれから王に報告しに行くから、貴方はネリーにこのことを知らせてあげて。牽制も込めてね」
街並みに背を向け、配下を振り返る。歩き出したソネットの後ろに配下は静かに追随する。その気配を感じながら、王都を発つ前に交わしたネイリアスとの会話を思い出した。
〈じゃあ、行ってくるよ〉
〈…気を付けてね〉
まだ日の出前の早朝、身軽な旅装に身を包んだネイリアスと、既に普段着に着替えているソネットは向かい合った。
〈まず何処を目指すつもり?〉
〈西の経路を取るつもりだよ〉
〈西?〉
レイディアが向かったのはおそらく北だ。
〈だってそうだろ? 何でいったん北へ進路をとったかよく知らないけど、きっと長居はしない。お兄さんに見つかってしまうし、雪で足止めを食らってしまうからね〉
レイディアが最終的に向かうのは、順当に考えて東のバルデロからも北のアルフェッラからも遠い西の地方というのが妥当だ。中にはどちらとも殆ど交流のない国もあるし、比較的雪量も少ない。この季節にはうってつけで、“鷹爪”にしても暫く西に身を潜めたいと考える筈だ。
〈もしかしたら回り道して南に行くかもしれないけど。あの頭領さんの故郷が南海らしいしね〉
〈それも頭に入れているよ〉
西に向かうには海路と陸路の二つの候補があるが、地方に散っている蔭に号令をかけて目ぼしい港は全て押さえている。残る陸路では砂漠経由か、中央の国々を横断するしかない。
〈でも、その手前の中央あたりに身を落ち着けるかもしれない、とも思っているんだ〉
〈…どういうこと?〉
〈大きな街にはレイディア嬢は行けない。だけど、別に大きな街を通る必要はないんだ。各地に点在している村があるんだから〉
村と一言で言ってもその規模にはばらつきがある。百人単位の大きな村もあれば、数十人しかいない村もある。街に近くて人の行き来が活発で開放的な村もあれば、余所から来る人間など年に数えるほどしかない閉鎖的な村もある。後者の村は身を潜めたい者にとって絶好の隠れ家だ。どれも何処かの国の領土に違いはないが、自国内からも殆ど忘れられているような辺境の村だって珍しくない。そんな村は中央地方にも無数にある。加えて中央は東西南北何処にでも行ける経路があり、いざという時に身動きしやすい。情報も他と比べて流通している。
〈…そんな所にディーアちゃんがいるなら、捜索は困難になるわね〉
だが、一方でソネットらにとっても、安心出来る。痕跡を残すことを常に考えながらの旅よりもずっと確実に諸国から身を隠せるのだから。ソネットらは何処の国よりも早く見つければいい。
〈でもね、巡り合わせっていうのかな。時が来れば、きっとレイディア嬢はいづれ表に引きずり出されるよ。もう一度〉
〈…その予感は副長として?〉
〈そうとって貰っても構わないよ〉
ネイリアスの柔和な笑みは変わらない。だがその笑みはソネットを安心させはしなかった。
〈…まだ何かあるの?〉
〈あるねぇ。でも、これは元男娼としての勘かな〉
ネイリアスはこめかみを軽くかいた。
〈レイディア嬢は妊娠しているかもしれない〉
男性と朝に交わすには微妙な話題が突然出てきたことにソネットは面食らった。
〈…ちょっと〉
〈真面目な話だよ。一月も寝室に詰め込まれてればその可能性を考えなくちゃね。実際、その間にレイディア嬢に月のものは来てないみたいだし?〉
レイディアがギルベルトの部屋に軟禁されていた期間はおよそ一月。途中でレイディアが過度の疲労で二、三日寝込むなど体調を崩した期間もあったが、それだけの間ギルベルトと毎夜避妊もせず繋がっていたのだ。
〈周期が乱れでもしない限り、何処かで排卵日と重なるだろう?〉
〈そうかもしれないけど…〉
ソネットだってその可能性を全く考えなかった訳ではない。だが、“みこ”は子供を授かりにくいと聞く。十年床を共にし続けて漸く一子を授かった例もあるくらいだ。だから、たかが一月で、という思いがあり、その可能性を深く考えていなかった。それに…
〈もし、そうだと仮定して、レイディア嬢が気付かないまま動かれたら困るなぁ〉
妊娠初期はちょっとしたことで流産しやすいから、とぼやくネイリアスにソネットは首を振った。
〈…いいえ。もしディーアちゃんが王の子を身籠っているなら、ちょっとしたことでは流産はしないわ〉
ネイリアスは口を閉ざし、ソネットの顔色を窺った。
〈ソネットは、レイディア嬢の身体に関しては、おれ以上に知ってるみたいだね〉
聞いてもいい? と促すネイリアスに知っていることを話すと、ネイリアスは難しい顔で考え込んだ。
〈……それ、陛下は知ってる?〉
〈訊ねたことはないけど、多分ね〉
ギルベルトは鈴主だ。仕組みはよく分からないが、訊ねるまでもなくレイディアの身体のことを察することが出来ても不思議ではない。
〈だとしたら他国に見つかることへの焦り以外にも、その辺が絡んでるのかもね。…あまり時間がない〉
荷物を担いだネイリアスに、ソネットは別れの言葉の代わりに忠告した。
〈…あんまり、派手にやらかすんじゃないわよ〉
ネイリアスは弾かれたように笑った。
〈善処はするよ〉
どうせ、聞けないだろうけど。
そんな言葉を、聞いた気がした。
―あら、お久しぶりね―
ぼんやりと漆黒の虚空を漂っていたレイディアはその声にふっと目を開いた。
―…始めましての間違いですよ―
―でも、私のこと知ってるでしょう。貴女以前の誰かに聞いてみれば?―
―…『星姫』―
レイディアの呟きに、美しい緑玉の髪を持つ少女は艶然と口端を上げた。
―ほら、知ってる―
―でも、貴女は私のことを知らないでしょう?―
―『唄姫』でしょ。私と同じ姫の名がつく可愛い小鳥ちゃん―
―それは私達の総称です。私のことではありません―
― 一緒のことでしょ、続いてるんだから。今は貴女というだけで―
―私達と私は違う人間ですよ―
緑玉の少女は己の髪を指に巻き付けて弄んだ。
―貴女達はこっちでも特殊なのよ。半分人間の癖に名前持ちだなんて―
―残りの半分も人間ですが―
―よく言うわよ。そんな雁字搦めに縛られておいてよく耐えられるものだわ。外見に似合わず根性あるのね―
―……いずれ、解きます―
少女は冷笑した。まるで可笑しな冗談を聞いたみたいに。
―どうやって?―
「ほら、着いたぞ」
目覚めと同時にバサリと麻布が捲られた。乾いた音と共に馬車の中に日の光が差し込む。レイディアはその眩しさに目を細め、子を抱いていた手で目の上に翳した。
「ずっとその子を抱えて疲れただろ。寄こしな」
レイディアは馬車を覗きこむガラックの手に子供を預けると、ゆっくりと馬車を降りた。
「…ここが?」
「ああ。ここが俺達の村、アドスっていうんだ」
ジャンが馬の馬具を解きながら頷いた。村の規模はそれほど大きくなさそうだが、辺境の地にしては大きい方だ。ざっと見渡すだけでも木々の隙間から数件の家屋が見える。当たり前のように放し飼いにされている犬や鶏を見ると、村の長閑さが到着したばかりのレイディアに伝わってきた。
「ここには滅多に外の人間が来ないからなぁ。暫く村人から騒がれると思うが、我慢してくれよ」
ガラックはおよその光景が予測出来ているのだろう。苦笑しながらざらつく顎を撫でていると、ガラックに片腕で軽々抱えられていた子が身じろぎした。慣れない腕の感触に違和感を感じたのだろう、ぱちりと子供が目を開けてガラックを見ると暴れ出した。
「お、おいおい」
驚いて子供を両腕で抱え直そうとするが子供は降りようともがく。レイディアは子供が落ちる前に腕を差し出した。
「良い子ね。いらっしゃい」
母親を失くして以来、ずっとレイディアの腕に抱えられて声を聞いていた為か、レイディアの声はすぐに認識したようだ。子供はレイディアに腕を伸ばし、再びレイディアの腕の中に戻った。
「お前、顔が怖いからなぁ。自分の子にも生まれたばかりの時は泣かれてたよな」
「煩ぇよ」
ジャンがからかうようにガラックの肩を叩いた。レイディアが子を宥めていると、村の方からざわつく声があがった。彼らに気付いた村人の誰かが出迎えに来たのかと見てみると、バンと乱暴に戸が開かれる音と共に恰幅のいい年輩の女が飛び出してきた。その手には麺棒。真っ先に反応したのはガラック。
「あ、母ちゃん…」
「あんたぁ! 何処からその子を連れて来たんだい!?」
麺棒がガラックに投げつけられる。それは幸い彼には当たらなかったが、飛び上がったガラックの胸元をその女は掴みあげた。
「いつかやると思ったんだよ。あちこちを旅する荷運びの仕事だなんて。あたしの目が届かないからって子供までこさえて…この浮気者!」
「え! ちが…落ち着け、モリーッ」
揺さぶられながら女を宥めようとするガラック。しかし効果はないようだ。その間にも村人がわらわらと家から出てきた。
「お帰り、あんた。その子達はどうしたんだい?」
「今帰ったアン。この子らは…ちょっと訳ありでね」
人だかりの間からジャンの女房だろう、ガラックの女房より痩せている女がレイディアの傍までやって来た。
「お嬢ちゃん、名前は?」
レイディアは数拍間をおいた。
「…レイディアと申します」
「モリーが旦那を締め上げてるんだけど、本当のところはどうなんだい?」
アンはモリーよりずっと冷静な性質らしい。
「川に落ちて流されていたところを助けて頂いたのです」
「あら、まあ、何でまた川なんかに……でも、なんか大変だったみたいだね。…モリー! 旦那を離してやんな。浮気相手じゃないみたいだよっ」
張り上げたアンの言葉に夫の胸座を解放したモリーだが、依然疑わしそうにレイディアを見た。
「何だって?」
「だから、あたしの旦那とあんたの旦那に助けられたんだってさ」
「何がどうしてこいつらに助けられることになったのさ? それに子供までいるじゃないさ」
「その事情を訊くんだろう。…えーと、レイディア、だっけ。何でこんな季節に川なんかに落ちたんだよ。子供と一緒に落ちたのかい?」
「ああ、違う違う。このお嬢ちゃんを助けた後でその子を拾ったん」
「あたしはこの娘に訊いているんだ」
ジャンは女房に黙らされた。
大声で話し、自分達が何者か見極めようとこちらを見下ろしてくる女達に怯えた子供は、顔を背けてレイディアの首筋に顔を埋めた。その頭を撫でながらレイディアは考えた。彼女らが余所者であるレイディア達を警戒するのは当然で、その事情を詳しく知りたがるのは分かるが、こちらとしても本当のことなど言えない。かといってレイディアは嘘が吐けない。
彼女らに警戒と解いてもらえて、かつ詳しい事実を全て省いて今の状況を説明すると…
「…主人と喧嘩して、家を飛び出してきてしまいました」
口に出してからこの説明はどうかと思った。これではただの痴話喧嘩の末の家出だ。
「その先で、事故…に…」
が、二人の瞳には理解の色が宿っており、彼女らがレイディアの味方になったことを悟った。