第五十一話
「――これが、アルフェッラ陥落の顛末です」
口を閉じたレイディアの顔をドゥオとゼロは凝視した。
「……神殿までの障害を無視して一気に王手をかけるたぁ、戦の定石のくそもねえな」
「でも、そうでもなければ一月足らずで、満足に下調べもしていない国を征服することは不可能でしょうね」
あの後、レイディアの手を取ったギルベルトの行動は早かった。
レイディアの手を引いて、来た道を戻り自分の天幕に匿った後、アルフェッラ軍に向かって巫女の首を打ち取ったと宣言した。勿論その報せだけでは誰も信じないのは分かっていたから、レイディアの一房の髪と装飾品を見せ付けて。
「…それから紆余曲折は色々ありましたが、その顛末は話す必要はないでしょう。何せお芝居になるくらい有名ですからね」
「そのどれもが事実とは微妙に違ってるけどな」
まあ仕方ない。劇とは脚色してあるものだ。現実は浪漫的な展開とは程遠く、暫くギルベルトは現地に留まり戦後処理に奔走し、レイディアは蔭の実戦部隊長であるシアを付けられてずっと船内にいなければならなかった。魔の海路を何度も行き来は出来ないので仕方ない。特にレイディアはごく僅かなギルベルトの側近以外にはバルデロの陣営でも姿を見られてはならぬとして、その間の行動はかなり制限された。
戦が始まったのは降臨祭前の初秋だったが、戦後処理を終えて帰路に着く頃にはアルフェッラは冬を迎え、既に雪がちらついていた。そう、丁度今と同じ時期だ。厚い濃淡のある灰色の雲が空を覆い、雪が降る前触れの木枯らしがレイディアの頬を打ち、赤く染める。かじかむ指の冷たさが懐かしく感じる程には時間が経った。
四年前のこの時期に、バルデロ軍は無事自国に凱旋を果たし、対アルフェッラ戦に従軍した者達は全員異例の出世をした。アルフェッラの不可侵の伝説があった為に諸手を挙げてこの戦勝を喜ばない者もいたけれど、時を経るごとにその危惧は薄れ、やがてこれまで誰も為し得なかったことを為し得たことでバルデロは周辺諸国に対して自信をもった。その自信が士気を高め、また周辺諸国の進軍が予期されていたこともあり、軍の権威は王の指揮下の許、戦を境に急上昇した。
人々の喜び様を、当時のレイディアは密かに唇を噛み締めて眺めていたものだ。そのやるせなさは自国の敗戦を目の前で喜ばれる屈辱ではなく、エリックを失った戦故に。
でも、それだけならまだ我慢出来た。戦は人の識別が無くなる。誰を殺そうと、敵兵の軍服を着ていればそれで正当な理由になる。バルデロの兵は敵兵を殺しただけ。エリックの素性云々ではなく。そう言い聞かせることくらいは出来た。エリックを死に追いやったのは、兄ユリウスだ。ユリウスが殺したのではないという事実を作る為にバルデロは利用されただけ。だからエリックは戦って死んだのであって、罪人として裁かれたのではないと。
「…ですから……私は、初めはエリックを心の中で弔うだけで満足するつもりでした。バルデロで生きる以上、それくらいは弁えなければと。でも…」
「…でも?」
「……時折聞く、宦官への侮辱に、抑えきれなくなりました」
バルデロに来て暫くはフォーリーの屋敷に身を寄せていたが、春になると同時に新しく出仕する女奴隷の少女達に混じって後宮に入った。そうして下層から見上げると、人の素顔が見えてくることに気付いた。
■ ■ ■
ある日、洗濯場や使用人が利用する食堂がある後宮の片隅を通りかかった時だ。レイディアは休憩中の女奴隷達が賑やかに喋り込んでいるのを見かけた。
初めは物珍しかったその光景も、城に入って数日もすれば慣れてしまった。歓談の光景は階級に限らず女性が集まれば何処でも創られるものだったから。
「――でね、あの子が嫁いだその男は、子供が作れない身体だったんだって」
「えーじゃああの子騙されたってこと? 男の子産んで一生遊んで暮らすって言ってたじゃない」
「養子をもらうらしいわ。だからあの子は体裁を整える為に迎えた完全なお飾りの奥方。家格もあの子の方が下だし、その男の都合で離縁を言い渡されても文句は言えない」
「しかも、その男結婚するや田舎に引っ込むとか言い出したとか。それを聞いた花嫁姿のあの子の顔! 唖然とした顔が、みるみる憤怒の表情になって真っ赤っ赤」
会話の輪の中に笑い声が弾ける。知り合いの女性の恋愛事情を本人がいない場で論うのはよくあることだ。
「自分で産んだ子じゃない子供をあの子は愛せるの? 子供は好きじゃないって言ってたじゃない」
「あの子お金持ちと結婚出来るって意気揚々とここを出て行ったけど、そういう落とし穴もあるんだねぇ」
「いくらお金持ってても…不能じゃあねえ」
「宦官と結婚するようなものね、可哀想」
レイディアはそのまま通り過ぎようとし、耳に滑り込んできた単語に足を止めた。
「うわっ、そこまで言う? ひどい女ね、あんたって」
「お金持ってるだけその男の方がマシでしょ?」
「宦官と比べてマシとかそっちの方が酷いって」
「せめて人と比べてあげようよ。よぼよぼのお爺ちゃんとか団子鼻の醜男とか」
そこでどっと笑声が大きくなる。彼女達は始終笑顔だった。軽い気持ちで紡ぐ言葉の意味など露ほども考えもせず。
「―――」
レイディアが茫然とする間に彼女達の話題が変わり、漸くレイディアは呪縛が解けたようにその場を離れることが叶った。ただ前に進むだけの足で何処をどう歩いたのか覚えていない。気が付けば会う約束をしていたフォーリーの部屋の近くをふらふらしていた。
エリック本人から聞いていたではないか。自分は蔑まれる存在だと。石を投げられても蹴られても誰からも何とも思われない人以下の存在だと。けれど、実際にその片鱗を見たのとでは全く違った。彼女達の笑い声が蘇り、口元を押さえて回廊の隅で蹲った。
子供を作れない男性は差別される。子供が産めない女性も差別される。その引き合いに出されるのが宦官だ。彼らよりは上等な人間と笑って…彼女らが蔑んでいたのは金持ちのその男性と、彼と結婚した元同僚で、宦官については何とも思っていなかった。何とも…
「まあ、レイディアさ…レイディア。どうなさいました?」
顔を上げるとフォーリーがすぐ目の前にいた。こんなに近くにいるのに声をかけられるまで気が付かなかった。
「…フォーリー女官長」
フォーリーは周囲に誰もいないことを確認し、急いでレイディアを自室に招き入れた。
「時間が過ぎてもいらっしゃらないので、どうかなさったのかと心配しておりました。レイディア様、お顔色が悪うございます。御気分でも…」
フォーリーの気遣わしげな顔が下からレイディアを覗きこんできた。本心からだと分かる優しい表情に、レイディアは少し希望を抱いた。彼女なら…
「…女官長」
「はい、何でしょう」
「あの…宦官は、この国の宦官のことは」
言いかけ、レイディアははっと口を噤んだ。フォーリーの顔付きが変わったからだ。
「レイディア様。宦官に会われたのですかっ? 何をされました?」
「え、いいえ…そうではなく」
首を振るレイディアにフォーリーはほっと息を吐いた。それから困ったような笑みを浮かべた。
「それは良かった。いきなりあの者達のことを申されるので…。でも、よろしいですか、レイディア様。彼らを見たらすぐに大声で助けを呼んでお逃げ下さいね、何をされるかわかりませんから」
レイディアを心配するその表情は本物なのに、真心が籠もった優しい言葉の筈なのに。
「………」
涙が、出た。
「…レイディア様? 何処かお苦しいのですか? お薬を御用意致します」
慌てるフォーリーの声が遠い。
初めて会った時から必要以上に畏まらずにいてくれたフォーリー。優しく、分け隔てなく人に接する彼女でさえ、宦官という言葉を聞いただけで不快な顔をした。彼女でそうなら、一般の者達の反応は推して知るべしである。
何を期待していたのだろう。彼らにとっては常識であることを態々確認しただけではないか。レイディアは嗚咽しそうになる息を堪えた。けれど耐えきれず熱い雫と共に喉がしゃくりあげる。常識の恐ろしさにレイディアは震えた。
エリックが当初レイディアを警戒したのも当然だ。
周りから常にあんな目を向けられてどうして人を信用できよう。
踏みにじられることしか知らないその手を、どうして伸ばすことができよう。
嗤われることが当たり前のこの世界は彼らには生きづらい世界だ。常識を人は疑うことをしない。犯罪を犯す者や強欲な者は寧ろ“普通の人間”達の中に潜んでいることを知っていながら。
「…レイディア様?」
フォーリーに気遣われるのはこれ以上耐えられそうになかった。このままではすぐさま王に報せられそうで、レイディアは覚束ない足取りで自室に逃げ込んだ。寝台に顔を埋め気持ちが落ち着くまでじっとしていた。でもきっと蔭が今日のレイディアの様子をギルベルトに報告してしまう。そうでなくても鈴が今のレイディアの揺れを捉えただろう。王に会う前に態勢を立て直さなければ。
「…もう、大丈夫」
こんな調子では、レイディアに近しかったエリックの存在が知られたら周囲が彼のことをどう思うかは火を見るより明らかだ。死して猶も彼を貶めさせるものか。
もう二度と、貴方を傷付けはしない。
エリックをあの忌まわしい記憶と共に心の箱に仕舞って、隠しきる覚悟をした瞬間だった。
■ ■ ■
――レイディアは四年、という年月に拘っておりました。
あの夜、自室で酒に溺れていたギルベルトの許に訪れたムーランは言った。
〈――何故レイディアとわたくしが繋がり得たのか? 簡単ですわ、わたくしとレイディアには共通点があったからです〉
〈共通点だと?〉
〈人の世で生きていくのに不可欠なものが、決定的に欠けていたことです〉
〈レイディアにはそんなもの〉
〈ございますとも。わたくしには良心がないように、レイディアには常識がありませんでした〉
ムーランのは先天的であるのに対し、レイディアは後天的なものという違いはあれど、人の世で生きるには大きな障害であることには変わりない。そして人の世で生きていくことを強いられた身。それを補う必要があった。
〈わたくしは人好きのする笑みを覚えることで。レイディアは人を真似ることで〉
ムーランが常に柔らかい笑みを口に乗せていれば、周囲がムーランを優しいと勘違いしてくれたように、レイディアは常識に則って行動する身近な者達から学び取ることで周囲に自身を溶け込ませた。
手段は違えど擬態する互いを相互に感じ取り、レイディアとムーランの距離は短期間で縮まった。しかし、それはきっかけに過ぎない。
〈そもそも、レイディアが甘えた子供のままでしたら、わたくし達は互いの事情を共有し、語らうことはなかったでしょう〉
そうであったらとおの昔にムーランに潰されていただろう。ムーランは栄華を極め尽くし、あとは腐敗していくだけだった神殿の奥で大事に仕舞われ、いつまでもそれに甘んじるだけの女に興味はない。
〈…陛下。数多の人間が混じる世の中で、欠けたまま、疎外されずに生きていくことの難しさが分かりますか? 己と異なる常識の中で生きていく難しさを? わたくしは幼少の頃より、その術を自然と身につけましたが、レイディアはそうでは御座いませんわよね〉
本来ならば、生まれてから成長する過程の中で自然と学んでいくことを、レイディアは一つ一つ考えて行動しなければならなかった。ほんの一言でも彼女には命取りになる可能性があった時期もあった。
レイディアが特殊な環境で育ったにも拘らず、考えることも、努力することも失くしていなかったからこそ、ムーランは彼女を好いた。
たとえギルベルトの庇護の許であっても、彼が庇えるのは外敵からだけで、日常生活においてレイディアを守ってくれるものは彼女自身以外にない。どれだけ後宮にいる蔭やフォーリー女官長が援護しようとも、表立っては手が出せず、やはり限界がある。後宮に入りたてで何も出来なかった頃の彼女を知る一部の女官が、今もレイディアを冷遇するのを無闇に処分出来ないのがいい例だ。
〈それと、わたくしは彼女に舞ってもらうのを四年待ちました。どうしてだと思います?〉
当代巫女の舞いの素晴らしさは、レイディアがバルデロに来る以前より後宮にいたムーランの耳にも届くらいだった。その舞いを見たいと思うのは当然。けれど、ムーランは我慢した。ここに来たばかりのレイディアはそれを拒んだから。
初めて恋した相手の、喪に服したいと言って。
そう告げるとギルベルトの目元がぴくりと動いたのを、ムーランは気付かなかったことにした。
彼女が恋する相手であるエリックは大陸中から忌まれる宦官。実の兄に奪われ、なかったことにされてしまった。ただでさえ閉鎖的な神殿の中で恋をすることは、想像以上に困難なことだ。その困難を超えて想い合った彼を失ったのだ。さらにその失意を吐き出す当てもない。なかったことにされても誰も不都合に思わない。だからレイディアはそれに抵抗した。それは彼女の怒りの表れだったのかもしれない。
そんな者達ばかりだからこそ、エリックの存在を知っても否定しなかったムーランをレイディアは特別扱いした。後宮を管理するのあたって公平を期していた彼女がだ。
〈…よっぽど嬉しかったのでしょうね〉
ムーランの気まぐれに付き合い、ムーランのお遊びの犠牲になった者達を保障して、ムーランを諫めても決して遠ざかることはしない。何故ならムーランはレイディアの理解者だから。そしてムーランも彼女を認めた。その証が、四年という歳月。
〈…四年〉
四という数字は四季、そして死に通ずる特別な数字。弔われる者への最大の敬意を表す年数だ。かつては自国の王やそれに準ずる地位の者達に適用されていたが、近年、乱れた世の中にあって、長い間喪に服す余裕はなくなり、たとえ一国の王に対しても長くて一年。短いところでは三カ月のところもある。それを、四年。
破格どころか異常な年数。単純に喪に服すといっても簡単ではない。それに思い至り、レイディアのエリックへの想いと覚悟の深さを見せ付けられた思いだ。ギルベルトの胸が哀しさとも、妬ましさともとれる筆舌し難い熱が胸を圧迫した。宦官であろうが無かろうが関係ない。彼女の心を占める者のなんと忌まわしいこと。ギルベルトがそう思うことをレイディアは見越していたのだろう。だから隠し通した。邪魔させない為に。
だが、ムーランの手前、感情を剥き出しにすることは憚れた。この女の前で隙は見せられない。
〈…では、今回、あれが出ていったのは計画の上か〉
そんな辛うじて冷静さを保ったことなどお見通しなのか、ムーランは謎めいた笑みをゆったりと浮かべた。
〈さて…レイディアの本心を知る術などありませんわ〉
ギルベルトは鼻を鳴らしたが何も言わなかった。感情的になってはこの女の思う壺だ。
ムーランはまだ半分ほど残っていたグラスのワインを焦らすようにゆっくりと飲み干すと、ふらつきもせず、すらりと立ちあがった。
〈とはいえ、これだけは言えます。今申し上げたことは、どれもこれも、四年前のレイディアだということ〉
ムーランは彼女らしい微笑みを唇に乗せたまま、部屋から出て行った。
ギルベルトは自分の居室にて蔭からの報告書を捲っていた。レイディアから姿を消してからもうすぐ一月経つ。季節は既に冬。あと半月もすれば年が明ける。レイディアの消息は未だ掴めない。比較的温暖なバルデロも朝と冬は冷え込む。温かい火がくべられる城内でもそうなのだ。恐らくアルフェッラ付近にいるだろうレイディアの感じる寒さは如何ばかりか。
城が冷え込むより速く、城内で噂が広まる方がずっと速かった。レイディアの存在は日を重ねるごとに浮き彫りになっていき、既に彼女が巫女であるという噂が噂でなくなり、確定的となっていた。時として人は証拠など必要としない。
それは構わない。時は満ちた。どの道レイディアを表に出すつもりだった。今の状況が予定通りではないにせよ。
バルデロは既に小国に非ず。沈黙の四年の間にギルベルトの名はバルデロと共に大陸中に響き渡った。簡単に他国の侵入を許すような治世は布いていないつもりだ。少なくとも、すぐに大局が動くことはない。問題は、巫女がバルデロにいないのを、周辺諸国に知られること。収穫祭の夜、レイディアの兄ユリウスと対峙した後、ギルベルトはレイディアを自室に閉じ込めた。あの時は我を忘れてしまっての行動であったが、それが功を奏して、レイディアが城に居るのかいないのか曖昧な状況になっていた。詳細を知るのは、ギルベルトが王位を継いでから彼を支える上層部と密命を受けた兵、そして蔭のみだった。これまでは。
情報というものは防ぎきれるものではない。いつかは外に漏れる。そして既に巫女が外に出たと囁かれ始めている。この噂は下層が発信源だ。これまで一緒に仕事をしていた仲間が急に姿が見えなくなったのだから不審に思うのは当然ではある。それでもこれまで広まらなかったのは、シェリファン王子が取り乱すこともせず沈黙を保っていたから。何を思ったのか、ここ最近のレイディアの主であったシェリファン王子は、彼女の不在を吹聴せず、ギルベルトに事情を聞きに来ることもせず、さらに配下のリクウェル侍従や女官にも余計なことは言わぬよう言い聞かせていたらしい。お陰で、彼女の不在が街に流れるまでに猶予が出来た。
しかしその猶予も期限を迎えた。いらぬ乱れを生むとしてギルベルトが緘口令を布くのは逆効果だ。圧力を加えた分だけ巫女を幽閉した揚句に逃がしたという謗りや嘲りも国内外から出てくるだろう。だが、その程度は普段向けられる妬み嫉み、そして憎悪に比べれば些細なものだ。言いたい奴に言わせえおけばいい。実害が出たら叩けばいいだけだ。ただ、問題は起こらないに越したことはない。
ギルベルトは報告書の机に放り、立ち上がった。窓辺に映る月が冴え冴えとして美しい。祭りの時の艶やかなレイディアを連想させた。
「……レイディア」
窓のガラスに手を這わせた。氷のように冷たかった。その冷たさはレイディアとの隔たりを彷彿とさせ、月の光に伸びる影が一人きりであることに違和感を感じ、たまらなくレイディアを抱きしめたくなった。ギルベルトは這わせていた手を握った。拳の中だけが熱を帯びる。
今すぐに、愛馬を駆りだしレイディアを探しに出て行きたい。人任せになどしたくない。
けれど、ギルベルトは動けない。何故なら自分は王だから。
冬の間は通常戦は小休止の季節だ。民草にとっても春に作物の種を蒔く為の準備期間だ。冬の間の殆どを家族と過ごし、ゆったりと火を囲んで団欒の時を過ごせる貴重な時間。
だが、冬は同時に略奪の危険性が高くなる季節でもある。冬は作物が育たず、その年は豊作の地域があれば不作の地域もある。元々不毛の地に暮らす民族も在る。故に、食糧はあるところから奪えと短絡的に考える輩が必ず現れるのだ。個人や盗賊の小規模なものから、国や部族単位の大規模なものまで。
一度何処かの村や街に攻め込まれれば、被害は戦に準ずる規模になる。
冬の間に食糧を奪われれば、奪われた者達は飢えてしまう。そして今度はそれらの者達が食糧を得ようと略奪に走り出す。そうなれば簡単に収拾がつかなくなる。春になれば全て丸く収まるとは簡単に言えない負の連鎖が始まる。この問題は毎年どの国も頭を悩ます議題だった。バルデロも例外ではない。春に向けての戦の準備を進める一方で、食糧を狙う輩の討伐、冬の影響が小さい南国からの侵攻、そして今年はアルフェッラの動向の把握など、この冬の間に処理しなければならない問題は山積みだった。それら全てがギルベルトを城から動けなくさせる。レイディアを手に入れる為にまだ受け継ぐ気のなかった王位を引き受けたのに、それが彼女への道を阻むとは皮肉だった。
「……くそっ!」
握った拳をガラスに怒りのままに叩きつけたが、不快な音を立てるだけで窓は割れなかった。割れないだけの力で殴ったのだから当然だ。酒に溺れて暴れるだけではレイディアは取り戻せない。遠ざかるだけだ。城の中で憤りをぶつけないだけの理性は取り戻していた。けれどレイディアを抱けない腕の中の空虚さはどうにもならない。ギルベルトは苛立たしげに髪を掻きあげた。
何故お前はここにいないのか。この四年間、レイディアの存在を感じられない時などなかった。ギルベルトが戦に出ている時でさえ。
誰が奪った。誰がギルベルトからレイディアを隠した。
「鷹…爪が…」
あの薄汚いコソ泥共が、彼女の失踪に手を貸したのだとギルベルトは確信していた。ユリウスが攫ったのではないのは明らかだ。レイディアにとってユリウスは大事な兄でも、奴の許に戻るつもりは彼女には無い。今、彼女の失踪を手助け出来るだけの実力と動機、そして彼女が手を取れる者は鷹爪以外になかった。だが奴らは神出鬼没で有名だ。彼ら独自の移動経路があるのだろう。ギルベルトの指揮下にある蔭でもその経路を辿れるかどうか。
ソネットが奴らと何やら交渉しようとしていたようだが…やはりあの時消しておけばよかった。奴らの追跡を蔭と正規の軍に命じ、どんな下っ端でも例外なく捕えて城に連れて来いと本格的な鷹狩りを始めた。今の時点で既に何人か捕えられ、ギルベルトの手で尋問され、粛清された。
それでもギルベルトの怒気は収まらない。彼女をこの手に取り戻すまで。
レイディア、レイディア。
お前の姿が見えない。お前の心が見えない。今、どんな表情をして、何を感じているのか、お前の鈴は語らない。繋がれない手の不安さが、こんなにも俺を攻撃的にさせる。
そんな剥き出しの剣を構えた自分が囁く。レイディアがギルベルトの領土内にいる限り彼女を見失うことはない。自分の領土でさえあれば、彼女を追うことは容易だと。
例えば、大陸を全て己の物としたならば、レイディアを感じられない場所などなくなる、と。
「………」
ギルベルトはこめかみに当てていた指を離した。
忘れていた訳ではない。改めて思い知っただけだ。今の領土程度ではレイディアには狭すぎる。
レイディアの脚がなければいいと思ったこともある。だが、それではレイディアと共に歩めない。その手を失くしてしまえば、その手を繋いで街を歩けない。彼女から光を奪ってしまえば、彼女に微笑んでもらえなくなる。
だからギルベルトは考える。
どうすれば彼女を取り戻せる。自国の領土を広げればいいだけだ。
何故自分は動けない。国を守らなければならないからだ。
だが守るだけでは被害は消えない。略奪は突発的に起こる時もある。このままではいたちごっこだ。
ならば…どうせ被害が防げないなら、いっそのこと防ぐ前にその地を治めてしまえばいい。
ギルベルトの双眸が暖炉で燃え盛る炎を映して揺らめいた。
レイディアは閉じていた目を開いた。
ここは川の流れる音が響く崖の上。冬の川の傍は凍える寒さだ。だがその寒さがレイディアのぐちゃぐちゃになった思いを洗い流す。ざあざあと流れる川の音は大きいが不快ではなく、心を無にしてくれる。今はそれ以外の音は聞こえない。聞きたくない。世間の騒ぎも、お兄様の言葉も、あの人の声も。今だけは。
ここまで連れてきてくれたドゥオ達は少し離れた後ろに下がってくれていた。レイディアは崖の上には椿の木に囲まれるようにして鎮座する大きな岩を見つめた。一見ただの岩。けれどレイディアにはそれが何なのか知っていた。ネルマに頼んで作ってもらった彼の…
ずっとここに来たかった。
そっと歩み寄り、石に額を押しあてた。
「…遅くなって、ごめんなさい」