第五十話
いつから、私達は擦れ違ってしまったのでしょうか。
貴方とお手玉で遊んだ思い出だけが優しすぎて、胸が苦しいのです。
目を覚ますと、レイディアは一人だった。
身体がだるい。床に身体が沈むのではないかと思うくらいに身体が重い。頭がぼんやりとして、レイディアが今の状況を把握するのに数泊かかった。
「………」
把握したからといって、何をするでもなく、違和感の残る身体を起こすこともしなかったが、天井に向いていた目だけは無意識に室内を見渡し始めた。
エリックの亡骸が見当たらない。何故。ああ、そうだ。ここは午睡の間ではない。ここはレイディアの寝室。いつの間に寝室に運ばれたのか覚えていない。
室内は美しい調度品と、花瓶に生けられた控えめな香りの花で柔らかく彩られた、見慣れた空間だった。身体の痛みがなければあれは夢だったと錯覚してしまいそうなほどに、ここには昨日を彷彿とさせるものが何一つなかった。
けれど、夢ではないことは分かっている。夜中まで続けられたあの行為は、レイディアに無視できぬ傷を刻みつけた。レイディアの身体はとうに限界を迎えていたのに、ユリウスの動きは止まらず、レイディアの身体を貪った。レイディアは殆ど覚えていないけれど、この身体に、その熱が沁み込んでいる。この心と裏腹に。
…まるで熱湯と氷水が、同時にレイディアに被せられたかのようだ。
「お目覚めでございますか?」
レイディアが目覚めたのを見計らったように侍女が寝室に入って来た。これもいつも通りだが、何処となくレイディアの様子を窺う様子に、彼女は昨晩のことを知っていることを悟った。
同時に、彼女はユリウスの僚属にあることも。他の侍女も、おそらくは。
「おはようございます」
「………」
口を開くのも億劫だった。彼女への不信が、レイディアの口を重くした。
「巫女様?」
「………」
…今まで、何も疑問に思わなかったわけではなかった。
レイディアの近しい使用人達は全員女性だ。同性の使用人だけを使わなければならないという規律などなく、実際シェイゼラ付きには男性もいた。けれど、レイディアには日常的に顔を合わせる者達の中に男性はおらず、レイディアが知る男性は限られている。父イーニスと時折ご機嫌伺いにやって来る婚約者や臣下だけだ。だが、彼らとの顔合わせは義務に縛られたものだった。その上、たいていは御簾越しでの対面で、彼らと相互に心を通わせていたとは言い難い。誠実なラムールでさえ、婚約者という肩書を持つ故に、一本線を引いた関係だった。
だから、エリックと出会うまで、レイディアの身近な男性といえば、ユリウスただ一人だけだった。
そのことに不思議に思いはしても、不満はなかったから、やはり何も言わなかった。寧ろ、兄以外がいないことに気楽ささえ感じていた。甘えていたのは、レイディア。ユリウスとの、他人が入る余地のない密接な仲を許容したのは自分自身だ。彼の想いを斟酌することもせず。
「お召し替えを」
「……それよりも、湯を使いたいわ」
「…畏まりました」
侍女がしずしずと退出し、再び一人になると、だるい身体を起こして寝台を降りる。廊下に誰もいないことを確認し、午睡の間に向かった。
「…無い」
重い足を引きずって午睡の間に辿り着くや、部屋中を隈なく探した。だが、レイディアが探すものは見つからない。部屋は昨日の情事や死体があった形跡が綺麗に消されていた。寝台は綺麗に整えられ、床に敷かれていた絨毯さえ、新しい物に変わっていた。
「……エリック…何処にいるの」
次第に溜まっていく目元の熱に気付かないまま、レイディアは室内を歩きまわった。何かないかと。何でもいいから。このまま彼が存在した証が消えてしまうなんてあんまりだ。
「…姫様」
庭園に飛び出そうとしたレイディアの背に声がかかった。一瞬侍女がレイディアを探しに来たのかと身構えたが、彼女らの中にレイディアを姫と呼ぶ者はいないことを思い出す。しかも、その声がここで聞く筈のない、馴染みのある声だったから、レイディアは驚いて後ろを振り返った。
「ネル…マ?」
焦茶色の巻き毛に、同じ色の瞳。釣り目の所為で厳しい印象を抱かれがちだが、それだけではないことをレイディアは知っている。
名をネルマ。レイディアの乳母だった。
「…どうしてここに?」
もう何年も会っていなかったが、ふくよかだった体格が少し痩せてしまった以外、彼女は何処も変わっていない。だが、レイディアは再会の喜びよりも疑いを抱いた。
昔は顔を会わせぬ日はなかったが、ここ数年、体調が優れぬと、長くレイディアの前に参じることはなかったのに。どうして、今、ここに現れたのか。ネルマもレイディアの周囲を固めていた女達の内の一人だ。彼女もユリウスの支配下にある者だとしたら、ここにレイディアがいることを許しはしない。
しかし、ネルマはレイディアを咎めることはせず、静かに歩み寄った。哀しげな眼差しが、レイディアの警戒心を緩ませる。
「ネルマ?」
「…こうなることを、恐れておりました」
こうなること、とは今のレイディアに思い浮かぶのは一つしかない。
「ネルマは…お兄様の想いを知っていたの?」
ネルマは頷く代わりに小さく息を吐いた。
「ユリウス様は、貴女様をとても慈しまれ、あらゆる悪意や欲望の渦から守って参りました」
それはレイディアが一番よく知っている。レイディアはユリウスに導かれ、育ってきたのだ。
「たった一人の兄妹を守ろうと懸命に努められ…ただ、それだけだった筈ですのに…」
ネルマはレイディアの両手を取り、軽く握った。温かい体温と共にレイディアのよく知る彼女の香りが鼻を擽った。
「……そんな方さえ、この神殿は狂わせてしまうのですね」
ユリウスは国を憂えていた。そして神殿を変えようとした。そんな希有な愛し子だった。けれど、結果は…。
何処で、歪んでしまったのだろう。その兆候はあった。けれど、ネルマは止める術を持たなかった。
「姫様。わたくしは、体調を崩していたのではないのです。あの方に、貴女様の乳母の任を解かれてしまったのです」
「え…」
始めて知る事実だ。レイディアがネルマを信用していたことを知るユリウスが、意図的に彼女を遠ざけていたなど…昨日のことがなければ、レイディアはネルマの言葉を一蹴しただろう。
過去、“みこ”の乳母を務めた者達が、“みこ”の親愛の情を利用して神殿で大きな権力を握ることもままあった。その為、神殿の秩序を乱すと見なされた乳母が任を解かれたこともある。
だが、それは議会で可決し、“みこ”の承諾の許で正当に施行されるものだ。レイディアは、ネルマの身に起こったことの何一つ知らされていない。
「どうして…」
レイディアの侍女は何も…否、侍女達はユリウスの子飼いだ。彼女達はユリウスが許可したことだけをレイディアの耳に入れていたと思っていいだろう。ネルマの件は一例にすぎない。解せぬのは、臣下達も誰ひとりとして、ネルマの事情をレイディアに教えてはくれなかったことだ。ネルマが離れた理由に嘘の事情を伝えさえした。ネルマの容体を訪ねても、巫女様がお気に病むことではありません、と。
「……」
レイディアは愕然とした。自覚する程にまざまざと感じる兄の創り上げた柵。レイディアを本当に閉じ込めていたのは神殿ではなく…。
「わたくしは、ユリウス様の望む世界には不要だったようです」
片やネルマは冷静だった。ユリウスの仕打ちに対し、何を思っているのか窺い知れない。
「でも…」
ネルマのことを、ユリウスも信を置いていたはずである。だからこそ、彼女に神殿の腐敗に対する憤りを溢したのではないのか。彼女と一緒に、レイディアを守ってきてくれたのではなかったのか。
ネルマは首を振った。その信頼を上回る想いが、ネルマを遠ざけただけだ。
レイディアから自分と同等の信頼を寄せられるネルマが疎ましくなったからか、ユリウスが創り上げようとしていた世界に異議を申し立てられたからか、ユリウスは次第に彼女を倦厭し始めた。ユリウスはネルマを遠ざける口実を作り、彼女を追い払ったと思えば辻褄は合う。ユリウスと相容れない考えを持つ者がレイディアの傍にいれば、きっとユリウスの世界を疑問に思うようになるから。
望む世界。レイディアとの二人だけの世界。互いを最愛とし、互いだけを見て、他の者を受け入れず、顧みない。そんな、酷く狭い世界。
だけど同時に樹上の温かい巣のような慈しみに満ちた世界だ。中に籠もる二人にとっては、とても居心地の良い場所。ネルマを遠ざけ、自分の息がかかった者達でレイディアの周りを固め、ユリウスがついに作り上げた巣の中で、レイディアは半生を過ごした。確かにその中で守られていたレイディアは幸せだった。それもひとつの真実だ。ただし、ユリウスの教えに従い、それを疑うこともせず…無知だからこそ、享受出来た幸せだ。
けれど、レイディアはエリックに出会って、恋をした。巣の中で蹲っていた雛鳥自身が外の世界に目を向けてしまった。ユリウスはそれを許さなかった。これまで、彼に叱られた時点でレイディアは己の行いを修正してきたが、知ってしまった今、同じことを繰り返すわけにはいかない。
もう、あの頃には戻れないのだから。
「姫様?」
レイディアは握られるだけだった手に力を籠め、ネルマの手を握り返した。
「…お願いがあるの」
張りつめた緊張が滲む声に、ネルマの顔つきも強張った。けれどレイディアを安心させるように微笑んだ。
「何でも仰ってくださいませ。わたくしは、貴女様の味方です」
その言葉は嬉しかったが、これから自分が頼むことを承諾してくれるだろうかという不安は拭えなかった。
「…エリックという男性の遺体を探して、人知れず、彼のお墓を建ててほしいの。出来れば、神殿から離れた地に」
「…エリック、とは」
「私の好きな人よ」
まあ、とネルマは目を見開いた。その目には、安堵が浮かんでいる。レイディアがユリウスに染まりきっていなかったことに対する安堵だ。
「彼とは身分が違っていて…でも、私にとっては、とても尊い人」
レイディアは生前は彼と一度も触れあったことはなかった。手に触れたことさえない。互いに不慣れな関係に戸惑い、取り巻く環境に気遣い、その歩みはひどくゆっくりだった。
彼は常に遠慮気味で、レイディアの方も、隣で彼の作業を眺めているだけで満足だった。まだまだ、幼くて淡い想いだった。
彼が冷たくなって午睡の間に倒れ込んだ時に触れたのが、初めてだったのだ。レイディアは温かい彼を知らないまま、ついに失ってしまった。その後悔がレイディアの胸を締め付けた。
「…きっとお兄様はまともに埋葬をして下さらないから……せめて身体の一部でもいい、彼を見つけて、きちんとしたお墓に埋めたい」
あの怒りようではエリックを罪人同然に扱うことは間違いない。そんなのは嫌だった。だが、レイディアの頼みはネルマに必然的に無残に切り刻まれた遺体を見せることになる。頼むことに躊躇いを覚えるが、どうしても譲れない願いだった。
彼が宦官だということは伏せた。エリックから宦官は忌まわれる存在だと聞いている。少しでも彼女が躊躇う要因を増やしたくなかった。
「お兄様はお許しにならないかもしれない。今度こそ貴女は神殿を出されてしまうかもしれない…でも」
尚も言い募ろうとしたレイディアを遮って、ネルマは口を開いた。
「承知いたしました。きっと見つけだしてその方を埋葬致しましょう」
レイディアは俯かせていた顔をぱっと上げた。
「…でも、そうしたら」
「初めて貴女様が頼って下さったのです。嬉しくない筈が御座いません」
ネルマはゆるりと首を振った。
「それに、わたくしのことなど気にすることはありません。このまま神殿に留まっていても、貴女様の傍にいることも、他の仕事を言い付かることもなく、ただここに在るだけなのですから」
「……外は危険かもしれないわ。バルデロと戦中で…」
「わたくしもバルデロとの戦がどうなっているのか分かりませんが、大丈夫です。余所者が知り得ぬ道など幾らでも御座いますのよ」
ネルマは励ますようにレイディアの手を優しく叩いた。
「ユリウス様の怒りに触れたからには最も重い罪人の塚に投げ込まれているのでしょう。今は戦中で、監視の目も緩い筈。ユリウス様も今は不在。きっと上手くいきますわ」
レイディアは俯いた。どうしても譲れないと思いながら、ネルマに励まされ、不安を取り除いてもらうなんて情けない。
「…頼みます」
レイディアはエリックの特徴を述べ、彼女の手を放した。
ネルマと別れた後、まもなく侍女に見つかり、部屋に戻され、侍女が用意した湯で身体を清められた。ユリウスの感触がくっきり残ったままでいたくはなかったから大人しくしていた。だがそれが済むと、勧められた食事に手を付けることなくレイディアは再び午睡の間に向かい、庭園に出た。
切なる願いを聞き届けられ、レイディアの心は僅かだが軽くなった。けれど、エリックの死を受け止めるだけの余裕はなく、かといって声を上げて嘆き悲しむでもなく、レイディアの意識は浮遊していた。おそらくまだ思考の何処かが凍結しているのだろう。今はそれでいい。今はエリックとの思い出にだけ思いを馳せていたかった。
エリックが主に携わっていた椿の並木道は、世話をする者がいなくなってもまだ日が浅いからかそれほど荒れてはいない。…これから、この並木道はどうなるのだろう。新しい庭師が引き継ぐのか。それともこのまま、荒れていくだろうか。
庭を歩きながらエリックとの会話を思い起こした。話題が豊富でなくても満ち足りた時間。剪定鋏の音。そして不器用な彼の笑顔。
「………」
ユリウスと蓮を眺めながら散策したことも思い出した。ユリウスが外国から帰ってくる度に聴かせてもらった異国の話。頭を撫でてくれる温かい手。優美な彼の仕草。抱きしめてくれる大きな腕。
全部、崩れてしまった。
レイディアはそっと目を伏せ、湧き上がる感情を押さえつけた。それからも暫くふらふらとあてもなく歩いた後、一面に咲き誇る花畑に辿り着いた。エリックと過ごしたのは影になる椿の下ばかりで、こんなに陽の降り注ぐ花畑で過ごしたことはなかった。だがここへは思い出に浸る為に来たのではない。エリックに花を供える為に来たのだ。
「…綺麗」
美しい花畑はさやさやと音を立てて、風と戯れている。花畑の色は秋桜の白や桃色が主だったが、その他にも様々な花が咲き誇り、花の絨毯の模様を多彩にしていた。レイディアは花畑の中心まで歩き、花を摘み始めた。
今ここで花束を作っても、エリックの墓前に直接供えることは出来ないのは分かっていたけれど、レイディアは無心になって花を摘んだ。レイディア以外に、エリックに花を供えようとする者はいないだろうから。
そうして、花束として形になった頃、風に揺れて葉が擦れる音以外の音―レイディアのものではない足音を捉えた。
「お前が巫女か」
この場にそぐわぬ武装した男が、突然レイディアの前に現れた。
その日の朝は、何処かいつもの朝とは違っていた。何が違うと説明できるものではなかったが、強いて言うならば予感めいたものを感じていた。
ギルベルトは天幕から出て顔を洗いに川まで足を運んだ。今や父から王位を受け継ぎ、新たなバルデロ王となった彼であるが、王太子時代より必要以上に人を周りに呼び寄せない彼は、慣れた手つきで一人で朝の支度を手早く済ませる。
準備中の朝餉の香りが風に乗って漂ってきた頃、ギルベルトは何者かの視線を感じ、ギルベルトは瞬時に周囲の気配を探った。シアが傍にいるはずだが、絶対ということはない。
あたりに刺客らしき気配は感じないが、油断なく木の幹を背にし、あたりを見渡していると、目の端に動くものを捉えた。
「……鳥?」
一羽の鳥が高い位置にある枝に留まり、ギルベルトの方をじっと見つめていた。何だ鳥か、とギルベルトは肩の力を緩めた。だが、すぐに気を散らして去って行くと思われたその鳥は、まるでギルベルトを待っているかのように彼から目を離さない。
「…付いてこいというのか」
鳥相手に口を利いたのは初めてだ。ギルベルトは何やら妙な気分だったが、鳥は肯定するように、枝に留まったまま翼を羽ばたかせた。
「おぉい、ギル…陛下。めしの準備が出来…何処行く気だ」
天幕とは反対の方向へふらりと歩きだしたギルベルトの背に、乳兄弟であるユサが訝しげに声をかけた。ユサはギルベルトの乳母を勤めたフォーリー女官長の息子である。ギルベルトが戦場で背を預けられる数少ない忠臣であり親友だ。
「今はいらん。暫くここを頼むぞ」
「頼むって…何処行く気だって訊いてるんだ」
「知らん」
「は? 知らんってじゃあ何で……待てって。俺も行く」
「シアがいる」
遠征中に一国の主が共も連れずに外をふらふらするなんて言語道断だ。だがギルベルトは自分が思うようにしか動かない。長年付き合ってきたユサには慣れたものだが、ここは国内ではなく、友好国でもない。交戦中の敵国である。流石に危険が過ぎると思ったが、ユサは木々の間から微かな気配に気付き、その存在を認めた。蔭の長は常に王の傍にあるが、長年ギルベルトの傍にいたユサでもシアの姿を直接見たことはない。が、その実力は認めている。
「ったく、昼には移動するんだからな。それまでには帰ってこいよ」
溜息を吐き、既に遠ざかっている背中に声を張り上げた。
とにかく、ギルベルトがいない間は軍を纏める存在が必要で、今それを引き受けられる将軍は自分だけ。他の将は、別の砦を攻める為に別行動中だ。
ユサは後ろに控えていた己の従者と共に野営地に戻った。
「何処まで行く気だ…」
ギルベルトは声―シアだけを引き連れて暫く森を歩いた。周囲は始終似たような景色で、目印がなければもう一度同じ道は辿れないだろう複雑な道のりだった。ギルベルトとシアは木の幹に剣で傷を付けながら鳥について行った。シアはさっぱり事情が呑み込めていないが、ギルベルトの方も何故鳥を追いかけているのか分かっていなかった。ただ、信頼している己の勘が、ついていけと命じていた。望むものが鳥の導く先にあると。
それからさらに数時間歩くと、森が突然開け、巨大な神殿がその姿を現した。
「ここは…」
珍しくシアは自発的に言葉を発した。それほどに辿り着いた場所が思いがけぬ場所だったのだ。
そこは、紛うことなき、巫女のいる神殿だった。
たいていのことでは驚かないシアもこれには驚いた。残りの砦をいくつか落とした後に辿りつく予定だった最終地点の神殿が、目の前に出現したのだから。
「…流石に圧巻だな」
神殿自体が芸術品のようだ。離れたここからは壁や柱に彫られた精緻な彫刻を見ることは叶わないが、荘厳な神殿の美しさは充分感じられた。画家がこの場に居合せたなら、すぐさま画布を広げるだろう。神殿は通常ならば全貌が見えないほどに広大だが、今、ギルベルト達は神殿の全貌を眺めている。何故なら彼らが立っているのは断崖の上。
そこは、神殿のすぐ後ろにあった。
ギルベルトは鳥が導くまま進んでいたが、やけに道が険しかったのが気になってはいた。ここにきて、その理由を悟る。
アルフェッラの神殿は難攻不落と言われている。それはその地の利を生かして攻めづらい構造になっているからだ。ギルベルト達が立っている深く険しい森が背後を守り、前方は幾つもの山脈が阻んでいる。この深い森の向こうには国はない。あるのは大海だけだ。
逆にいえば、後ろが無防備だということだ。自然の防壁の上に胡坐をかいていた。侵攻を危惧するべき隣接している国も部族もない。確かにここへは軍勢を率いて来られない。個人にしても森を熟知していなければ辿りつけない。だが、今ギルベルト達はここにいる。鳥に導かれて。
「………」
鳥に目を向けると、相変わらずギルベルト達から付かず離れず、程良い場所にある枝に留まって羽を休めていた。鳥がどういう訳で彼らをここに案内したのか、そもそもただの野生の鳥に為し得ることだろうか。この鳥が訓練された鳥だとしたら、誰かの意思で動いていることになる。だとしたら、その目的は何なのか。
「…行くぞ」
「お待ちを。罠かもしれません、わたしが先に参ります」
罠の可能性も当然考えている。だが、これを利用しない手はない。上手くいけば今日で戦は終わる。
ギルベルトは崖を降り、神殿の内部へ易々と侵入を果たした。神殿の背後より入ったので、既にここは神殿の奥。巫女の居住区に近い筈だ。ここは庭園だろう。それも、限られた者しか立ち入りが許されない禁域。先程の森とは打って変わって、人の手によって美しく整えられた花木の中に、珍しい品種のものが多く植えられているのを確認し、そう判断を下す。
あたりには誰もいない。庭師も、愛し子も。耳にさざめくのは風の音だけ。ここだけは別世界のように、酷く静かだ。戦のことなど知らぬげに、ここの庭園はただただ美しかった。
けれど、ここの花はしとやかと言えば聞こえはいいが、生命力に欠けていた。これだけ美しく咲き誇っているのに、眠りについているかのように、陽気さがない。
歩きながらそんなことを考えていると、一面に広がる花畑に辿り着く。
そこには一人の女がいた。深くヴェールを被り、身を屈めて花を摘むその小さな背中に、ギルベルトは確信を抱く。
「お前が巫女か」
「………」
突然の闖入者に、しかしレイディアは特に身を守ることもせず、花を摘む手も休めなかった。身の安全などどうでもよかった。今は花を摘むこと以外に何もしたくなかった。
「この国は、俺が貰う」
反射的に花を摘む手を止めてしまった。
「これまで栄えてきた神国アルフェッラもこれまでだ」
彼の言葉に慄いたかのように、風が花畑を波のようにうねらせた。静かに、さやさやとレイディアの耳元で風が囁いた。
とりどりの花弁の舞う幻想的な風景の中で、彼だけが異質で、その声はこの世界をはねのける力を宿していた。
「………」
レイディアは漸く男に目を向けた。
薄いヴェールの越しの漆黒の瞳と、男の翡翠の瞳が合わさる。
その瞬間、レイディアは諒解した。去年、降臨祭でレイディアが舞っている最中に感じた眼差しの主は、この男だったのだと。
「…そうなったらお前もこうしてはいられまい」
彼は続ける。
「だが、ここでお前に選択肢をやろう。一つは国と共に美しく滅ぶか。儚げな少女が国と共に散る。なんとも情緒的じゃないか。吟遊詩人共はこぞってお前を悲劇の巫女と崇め奉るだろうさ」
レイディアは答えない。
「二つめは、お前が、俺の妻となること。そうすれば、アルフェッラは俺の国の一部となって存続することが出来る」
この男は“みこ”が欲しいのか。なら、過去にアルフェッラを攻め落とさんと勇んだ男達と同じ類いだ。だが“みこ”を得ても、得をすることばかりではない。あらゆる弊害も生む。楽に国を治め、他国を圧倒出来るなんて、そんな便利なものではないのだ、“みこ”というものは。それを、この男は分かっているのだろうか。
レイディアはほんの少し憐みを感じて、ゆっくりと口を開いた。
「…私を妻に? お止めなさい。私のような女の為に人生をふいにするよりも、良き統治者として民を満ちたらしめる方がずっと有意義。もし、私を以って他の国々をも支配したいとお思いなら、悪い事は言いません。お帰りなさいな。それが、貴方の為です」
初めて聞いた少女の涼やかな声に、ギルベルトの背筋は泡立った。興奮と、歓喜がギルベルトの身体に走る。まだ幼いものの、ギルベルトと対峙する彼女は立派な国の頭だった。
ギルベルトは彼女の反応を見る為にああ言ったが、実際に彼女を殺す気はなかった。目当ての者を殺しては本末転倒である。
結果はギルベルトの満足のいくものだった。
「お前を使おうなどとは思っていない。人を治めるのに、自分以外の力をあてにした時点で、その王に未来はないだろう?」
レイディアは彼の言葉を噛み砕くようにゆっくりと瞬きをした。この男は愚かではない。
「では、何故、この国を攻めたのです? …バルデロの王よ」
彼は一瞬意外そうに眉を上げたが、そう驚くことでもない。彼は己の身分を明かさなかったが、その全身が物語っていた。彼には他者に従うような殊勝さがない。
「お前をここから連れ出す為に」
彼の言葉は簡潔だった。けれど、レイディアには理由は分かっても動機が分からない。“みこ”でないレイディアに、彼はどんな価値を見出したのか。
チリィン―…
その時、レイディアの首元の鈴が音を立て、レイディアは小さく息を呑んだ。レイディアは顎を上げ、視線を彷徨わせると、ギルベルトの肩越しに一羽の鳥が飛び立っていくのを見つけた。
「………」
レイディアは目を眇め、数拍顔を俯かせた。そして顔を上げたかと思うと、レイディアは徐に歩きだした。
「何処に行く」
レイディアが彼の脇を通り過ぎる間際、レイディアを引き止めた。
「…そこの池まで」
レイディアは足を止めずに答える。すると彼は付いてきた。レイディアは好きにさせた。
蓮の池に辿り着くと、レイディアは摘んだ花を一本一本池に落とし始めた。エリックの墓に供えられない代わりに、思い入れの深い池に献花として捧げた。ギルベルトは何も言わずにレイディアを待った。
水に献花を浮かべる風習は限られた地域にしかないらしい。実際に見たことがないので分からないが、アルフェッラは海に近い為、庶民の間では水葬で弔われることが多いと聞く。そして捧げる花は遺体を沈めた海に投げ込まれる。レイディアはそれに倣った。バルデロにこの習わしがないのなら、レイディアが何をしているのか分かるまい。
時間をかけて最後の一本まで花を落とし終えた後、レイディアは後ろで彼女を待っていた彼を振り返った。彼は最中に邪魔をすることはなかった。それだけは感謝した。
「…貴方は、どうあってもこの国を攻め取る気ですか」
「そうだ」
「私が貴方に下れば、民の命を保証すると」
「そうだ。お前が俺に膝を突くならば」
「………そう」
レイディアの答えは鈴が鳴った時点で決まっていたが、その答えを伝えることを先延ばしにした。この地に別れを告げねばならないことを惜しんだわけではない。ただ、この庭園を少しでも長く眺めていたかったのだ。見納めに、この庭園を目に焼き付けておきたかった。エリックが世話をしたこの庭園は、今しか見ることが叶わないから。
兄と擦れ違った果てに迎えた結果は、なるべくしてなった結末だったのかもしれない。でも、たとえエリックがいなくなっても、彼に抱いた想いをユリウスに差し出すことは出来ない。
ユリウスは最愛の兄。誰よりも大切な人。レイディアの全て。
でも、恋じゃなかった。
この王にしても、自分に何を望んでいるのか分からない。彼が私をどう扱おうが構わない。彼の都合で殺されようが、国土の拡大に利用されようが、諸国に号令をかける新しい神国の象徴として据えられようが構わない。彼の妻になって、王を敬い、子を産み育てることも承知しよう。ここから出してくれるなら、私に差し出せるもの全てを引き換えにする。
その代わり、レイディアも彼を、バルデロを利用する。レイディアがギルベルトに対して望むのはただ一つ。
どうか気付かないで。彼が生きた証を奪わないで。これから鈴主になる貴方が望めば、私は拒めない。気付かなければ、貴方が不快になることもない。これが、きっと最善。
何でもする。何でも差し出すから…
「……好きになさい」
だから
静かに彼を弔わせて。
長らくお待たせしました。こんにちはトトコです。今話は記念すべき第五十話にして、二人が出会う序章の場面。良い区切りが付けました。
追記:お気に入り登録2000人突破ありがとうございます。2000突破記念に御礼小話を一本書きます。少し間が空くかも知れませんが、待っていて下さるとうれしいです。