第四十八話
かつて、残酷で享楽に溺れる一人の王がいた。
傲慢な王は神の怒りに触れ、氷の城に幽閉された。
共に閉じ込められていた忠臣と信じていた臣下達の裏切りと、凍える氷の蒼さに、王は憤り、絶望した。
けれど永い孤独な時の中で、次第に彼は一人の人間としての心を取り戻す。
そんな彼の傍らにいたのは、一羽の小鳥。
昔々の、お話。
大巫女シェイゼラとイーニスの死により、春先に控えていたレイディアの婚姻の儀式が延期になった。彼らの葬儀は雪深い冬の時期ということもあって、ささやかに行われた。春に改めて各国の使者も交えて葬儀を行ったが、愛し子のものとは思えないほど質素なものとなった。見送る遺体が既に埋葬されていたからだ。
今回の不祥事の真実は全面的に緘口令が敷かれ、事実が伏せられたまま、葬儀は執り行われた。そして、イーニスはシェイゼラが埋葬される土地から遠い地に埋められることになった。大巫女に刃を向けた罪人であることも伏せられたので、そのことに疑問をもつ者達もいたが、イーニスの死は大巫女崩御の報の前には影が薄く、大した問題にはならなかった。
如何に皆の死んだ愛し子への関心が薄いかが伺える。
全ての儀式が終了し、各国の使者を国へ返すと、漸くレイディアは一息吐くことが出来た。喪の期間はまだ明けてはいないが、両親を亡くした傷心から立ち直る時間はあった。慌ただしくて彼らを偲ぶ暇もなかった。元より彼らとは生前より儀礼的な場面で顔を合わせるだけで、彼らを偲ぶ思い出が極端に少ない。
レイディアは雪が解け切った大地に柔らかく芽吹いた草を踏んだ。雪の下で耐え忍んで漸く日の目を見た草花は息を呑むほど美しく、逞しい。
誰もいない庭園を歩くと、いくらもしない内に会いたかった背中を見つけることが出来た。
「…エリック」
振り向いた彼にレイディアはそっと目を伏せた。
冬の間、ずっと考えていた。出会った当初は、彼を見つけられないことの方が多かった。会えても半刻以上探したあと。会う約束をしていなかったから仕方ないかもしれないが、彼の事情を知ってからは、彼とすぐに会えるようになった。会いに行くとは言ったが、何処で会うと明確にはしなかったにも拘らず。
それは、きっとエリックがレイディアを拒絶しなくなったからだと気付いた。すぐに会えるように、レイディアが来る時間帯には池の近くで仕事をしてくれているのだと。
今更のように気付いたそれに、レイディアは胸が震えた。彼はレイディアに多くを話してはくれないけれど、彼もまた、レイディアと会うことを望んでくれていると思えば、足跡など気にせず、雪の庭に走りだしたくなった。
けれどレイディアは雪が消えるまで、慎重に外に出ることを我慢し続けた。ユリウスは冬の間は神殿を離れることはなく、レイディアと二人で過ごす時間も多い。万が一、兄が足跡が午睡の間から続いているのに気付けば、理由を問われてしまうから。
「お久しぶりです」
「……ええ」
長い冬の間、次に会ったら何を話そうかと色々考えていたのに、彼の顔を見た瞬間、言うつもりだったものを全て忘れてしまった。
「…冬の間は、何をしていたの?」
「時々椿の世話をする他は、ずっと部屋に籠って、のんびりしていました」
「風邪とかは、ひかなかった?」
「お蔭様で、病気一つしませんでした」
「そう。よかった」
レイディアは冬以前と同じように彼に話してもらえたことで肩の力が抜け、ごく自然に彼の隣に座ることが出来た。
「…正直、もういらっしゃらないのかと思っていました」
予想外のことを言われ、レイディアは目を丸くした。
「どうしてそう思ったの?」
「一度、行くことが途絶えると、それ以降、行く気が失せてしまうものですから」
「…ずっと、雪が解けるのを待っていたの」
「ええ。ですから、雪が解けてすぐに来て下さって…少し、安心しました」
エリックの笑みと、椿の葉を剪定する鋏の音。以前と変わらないようで少し違った。彼は笑顔が苦手だった。いつも引き攣る様な、意識して作られた笑みだった。これまで笑ったことなどなかったのだろう。それが今では自然と綻んでいる。
「…安心、してくれたから」
「何か言いました?」
レイディアは首を振った。今の顔を見られたくなくて、誤魔化すように話すつもりだった内容のどれでもないことを口にしてしまった。
「結婚の儀が伸びたわ」
鋏の音が止まる。視線を感じ、レイディアは失敗を悟る。
「……そうですか。それは…残念ですね」
レイディアは胸が苦しくなった。彼にとっては残念なことなのか。
「結婚がなくなったんじゃないの。先延ばしになっただけ。喪が明ける秋にはまた新しく決まるの」
「今年は婚姻の儀は出来ない筈では?」
「正式な儀式はまた来年にして、先に伴侶が来るの。異例のことだけど」
イーニスの不祥事があったから、少しでも早く次代の“みこ”が欲しいのだろう。レイディアはその相手が全く顔も知らない男になるかもしれないと思うと、流石に気が滅入った。
「今のご婚約者ではないのですか?」
「…今の婚約者の顔ぶれも、がらりと変わるかもしれないから」
シェイゼラ達が亡くなり、その報を届けに訪れた神官はそのまま婚姻の儀式の延長を伝えた。そして、このようなことがあったからには、もう一度詮議する必要があると。
シェイゼラの死とレイディアの婚約には何の関わりもないのに、何処に再検討する必要があるというのか。
「それは、神殿の勢力範囲が変わるから」
シェイゼラの生前は、政務の中心はシェイゼラの側近達で占められていた。レイディアの婚約者もその序列も彼らが決めたこと。けれど、シェイゼラの死で、その影響力に陰りが生じる。つまりレイディアの周りを固める若い臣下達の発言力が増すのである。
「貴女の婚約者達は前政権と繋がりのある方が多かった。その中に貴女側の臣下達には具合の悪い者がいてもおかしくない。だから、ですか」
そうだ。再検討は彼らの都合だ。
レイディアは頷いた。レイディアの婚約者の名簿に名を連ねる為に、シェイゼラ派の臣下達に相当な金貨が積まれたはずである。けれど、シェイゼラの死によってそれが崩れた。今はレイディアに近い臣下達に金貨が積まれている頃だろう。レイディアの婚姻が目前に迫っていただけに、双方共に慌てたことだろう。一度結婚してしまえば、余程のことがない限り伴侶の席から外されることはないが、その前にシェイゼラが死んでしまったのだから。今彼らは指針変更に手一杯の筈だ。
それを証拠に、早速シェイゼラ側だった臣下達もやけにレイディアのご機嫌伺いにやってくるようになった。中には貢物を持って訪れる者も。主人の喪が明けていないというのに。その節操のなさに呆れ、その殆どを突っぱねている。けれど彼らの辞書に諦めるという言葉はない。諦めることは即ち、我が身の没落を意味するからだ。
「婚約者にしても、今更名簿から外されたくはないから、雪が解けた瞬間から毎日のように文や贈り物が届くわ」
時には自ら乗り込んでくる。まだ夜と早朝には冷え込む日が多い中御苦労なことだが、レイディアに口添えを打診しても無駄なのに。
「何故? 御結婚なさるのは貴女御自身です。貴女が言わないで誰が発言するのですか?」
「…だって、どうでもいいことだから」
顔ぶれが変わろうがレイディアには大した違いはない。顔や性質が多少変わっても、紡ぐ台詞は異口同音。家柄や特権に興味のないレイディアにはどう区別を付ければいいのか分からないくらいだ。台風の目であるレイディアは周囲がどれほど荒れようと、自身の周りだけは変わらぬ静けさを保っている。それが崩されない限りは誰が己の伴侶になろうが構わないのだ。
「………それは」
「酷いと思う? でも、私は嘘が吐けないから」
だから、いつからか、レイディアは何も言わないことが当たり前になっていた。
レイディアが黙っているのは興味がないからだ。
従っているのはどうでもいいからだ。
勝手に結婚相手を宛がわれても、変えられても、勝手にすればいい、と。
その代り、レイディアは彼らの誰にも与しないと決めている。だから、巫女の婚約者の地位から降ろされれば家の権勢が衰えると訴えられても、何をするつもりもない。それは彼らのこれまでの行動が招いた結果だ。
「酷いとは思いません。ただ、あまりにあっさりと仰られるものですから」
「愛し子は慈愛に溢れ、臣民を見守り、愛す存在ですものね」
婉曲にものを言うことがたしなみである国柄で、その象徴であるレイディアの物言いは、公の場では不味いかもしれない。けれど、ここで仮面をつける気はない。
「それは…嬉しいですね」
彼が顔を顰めると思っていただけに、その言葉は意外だった。
「嬉しい?」
「誰にも言えないことを仰って下さるのは、それだけオレを信じて下さっていることでしょう?」
「貴方を疑ったことはないわ」
「そういう意味では…まあ、いいんです」
エリックの苦笑が妙に面映ゆく、レイディアは椿の木に集中するふりをした。
「巫女姫様っ」
エリックと再会してから数日後、春らしい色の衣に黒い上着を纏ったラムールがレイディアの許に乗りこんできた。シェイゼラの葬儀にノックターンの使者として来国して以来ずっと留まっている。彼の面会を拒み続けたからか、衣装とは裏腹にラムールの顔には焦燥が滲んでいた。
「どういうことですか。神殿が婚約者の再検討をすると…」
「ラムール様、今は喪に服している期間です。みだりに騒がれるのは不謹慎で」
「そんなことより、婚約者の入れ換えなんて…」
行儀のいいラムールが珍しく作法を無碍にしている。レイディアは一先ず落ちつかせようとラムールを散歩に誘った。
人払いを命じ、二人きりになる。勿論遠くに侍女や従者が控えているが、声は聞こえないだろう。レイディアは口を開いた。
「確かに、伴侶の再考が為されていますが、私の意図したことではありません」
「貴女はそれでよろしいのですか? 臣下に都合のいいように婚約者を換えられて」
「………」
レイディアは顔を伏せた。
「貴方は、ここに来てはいけない方」
どの家が権勢を誇ろうと、没落しようと、ユリウスとエリック、そして罪のない民に害が及ばなければ構わないと割り切っている中で、ラムールは唯一の例外だった。
「何故ですか? 先代様が亡くならなければ、わたし達は今頃正式な夫婦となっていたはずなのに、今更…」
「態々、神殿に入られることもないでしょう」
ノックターンの王子であるラムールは、たとえ金貨を積まずとも婚約者の名簿から消えることはないだろうが、彼は、寧ろ婚約者の序列から外してあげたかった。
彼に神殿に来るべきではない。彼は優しすぎる。そして優しさは時に弱さにも変わる。神殿の者達に利用され、足を引っ張られ、腹を探りあう毎日。そんな日常は彼には似合わない。
ラムールを異性として見たことはないが、彼を好ましいと思うからこそ、神殿のやり方に染まってほしくはなかった。
「ノックターンなら、貴方が伴侶の候補から外されたくらいで傾くような弱国ではありません。貴方なら、他にいくらでも良縁が」
「そんなことどうでもいいんです!」
ラムールはレイディアの肩を掴もうとした。
「お下がりください。ラムール様」
いつの間にか衛兵がレイディア達を取り囲んでいた。その敵意はレイディアに手を伸ばしたラムールに向いている。
何かあればすぐに対応出来るようにレイディア達を監視していたのだろう。シェイゼラの一件があった所為で、レイディアに近づく者に必要以上に神経質になっている。槍の切っ先をラムールに向け、彼を威嚇した。遠くに控えていたラムールの従者のマシューが憤然として駆け寄ってきた。
「何をなさる! 殿下に槍を向けるなど」
「下がられるがよろしい。従者殿。怪我をしたくはないのなら」
「何だとっ」
頭上で交わされる口論に、レイディアは溜息を吐いた。
「下がりなさい」
マシューが唇をかんだ。
「貴方達もです」
レイディアは衛兵たちを一瞥した。
「しかし…」
「誰が貴方達を呼んだの?」
「…御身の身の安全の為に」
「殿下が巫女姫様を害するとでも言うのか!」
「万が一を考慮したまで。元より、御伴侶でない者が巫女様に触れるのは、それだけで不敬罪にあたります」
「殿下はいずれ巫女姫様の御夫君に…」
「…もういいわ。皆、呼ばれるまで下がっていないさい」
再び始まりそうになった口論を遮り、手を振って全ての者達を遠ざけた。
レイディアは振り返り、ラムールと向き合った。
「…ラムール様。今はこのように皆気が立っております。このことは、落ち着いて話が出来るようになってから…」
「……出来るようになった頃には、貴女の隣には他の男がいるのですか」
「………」
つい先ほど槍を向けられたばかりだというのに怯えた様子もない。意外に肝の据わった王子だ。それとも、今はそれ以上に気にかかることがあるからだろうか。
「…ねえ、巫女姫様。昔、わたしとかくれんぼをしたのを覚えていますか?」
「…ええ」
彼の意図が読めず、曖昧に答えた。記憶はある。まだ、二人が婚約者候補として顔を合わせて間もない頃のこと。
「わたしが鬼になって、貴女は隠れました。わたしは、なかなか見つけられなくて、結局、貴女が出て来てくれたんでしたね」
「そうでしたね」
「今度は貴女が鬼になって、でも、貴女はすぐにわたしを見つけてしまった」
ラムールは懐かしむ様に笑った。
「あの時、わたしはとても悔しくて、今度は絶対に見つけてみせると、意地になってしまいました」
「…貴方はその通りになさいました」
「ええ、幼い、他愛のないことですが」
何度も挑んで、漸くレイディアを見つけた時の達成感を今でも覚えている。そしてそれ以降、ラムールは意識せずとも彼女の姿を自然と目で追えるようになった。
存在感がないのではなく、気配が極端に薄い彼女は、ともすれば見失ってしまいそうだったけれど。
「でも、貴女を見つけられたあの日から、わたしはすぐに貴女を見つけられるようになりました」
「………」
「たとえ、貴女を見失っても、わたしは貴女を捜してしまうでしょう」
「ラムール様…」
「落ち着かないんです。貴女を見て安心していたい。貴女をすぐに見つけられるように、傍にいたいのです」
ラムールの想いが痛いほど伝わってくる。けれど、レイディアはゆっくりと首を横に振った。
「…どうしてですか。わたしの何が御不満ですか? 貴女の気に触るようなことをしてしまったとしたら、これから直していきますから、だから」
「貴方に不満などありません。その逆です。神殿に貴方は勿体無い」
思いがけない言葉だったのか、ラムールは一瞬呆けたように言葉を詰まらせた。
「どういう意味ですか?」
「貴方には、こんな閉鎖的なところなど似合わない」
「わたしが生きていきたいのは貴女の傍です。わたしの望みはそれだけです」
「……それだけではありません。貴方にはまだまだこれから多くの道が」
「そんなものいりません」
ラムールは吐き捨てるように言った後、唇を噛んでレイディアに一礼した。
「…すみません。でも、貴女がわたしを嫌っていないのであれば、わたしに諦めるという選択肢はありません。また日を改めて、お伺いすることに致します…今日はお時間を頂きありがとうございました」
マシューを呼んでその場から立ち去るラムールを、レイディアは見えなくなるまでずっと見送っていた。
それからは、他の婚約者候補や臣下達が訪れる以外に何事もなく、レイディアの日常は過ぎていった。判を押した様な毎日は、レイディアの時間感覚を麻痺させ、全てがたった一日の中に収められている様な、一秒も時が進んでいないような錯覚に陥らせた。
いつの間には季節は夏。庭園の池の蓮が咲いたと報告が来た。朝が見頃、昼には閉じてしまう蓮の花を共に観賞しようと、ユリウスは朝早くにレイディアを外に連れ出した。
「今年も見事に咲いたね」
「はい、お兄様」
白く、先が淡い桃色に染まった花弁が美しい。花弁の描くまろやかな曲線も、触れずとも滑らかな感触を伝えてくる。肉厚の花弁の花開く音もなんとも心地よい。
ユリウスに手をひかれ、レイディアはゆっくりと池の周りを散策した。その数歩後ろから侍女がレイディア達を見守るように付いてくる。夏は、冬に次いでゆっくりと出来る時期だが、秋に向けて下準備が始まるころだ。アルフェッラの夏は短い。あっという間に風は北向きに変わり、収穫期が訪れ、次いで降臨祭がやってくる。
けれど、今年はいつになく静かだ。シェイゼラの喪に服している為だ。神事や日々の儀式は行うが、 “みこ”の亡くなったその年は降臨祭を除く全ての華やかな行事は自粛される。喪の期間は半年と定められているが、その年いっぱいは祝い事を慎む。
レイディアは己の纏う黒い衣を見下ろした。明るい夏の庭に、黒い衣の二人の姿は酷く不似合いだ。レイディアはシェイゼラの葬儀から常に黒を身に纏っている。ユリウスも同様に、夏ということもあってレイディアと同じ風通しのいい薄い黒衣を身につけている。侍女達も、夏らしからぬ色を抑えた衣装である。だからこそ、蓮の桃色がよりいっそう映える。
池を眺めながら、この蓮もエリックが手掛けたのだろうかと考えていると、いつからかレイディアを見下ろしていたユリウスと目があった。
「ねえ、レイディア」
「はい」
「わたしはこれから、また神殿を空けることが多くなる。長い時には十日以上空けてしまうかもしれない」
「…十日」
多忙のユリウスは普段から神殿を出て四方に飛んでいるが、十日もの間不在であったことは殆どなかった。
「…何をなさっているのですか?」
そういえば、レイディアはこれまで兄の仕事内容について訊ねたことはあまりなかったように思う。ユリウスは気の進まないそぶりを見せながらも答えてくれた。
「今回は……仕事といえば仕事なんだけど、わたしの縁組についてなんだ」
レイディアはすぐに言葉を返すことができなかった。
「お兄様が、ご結婚?」
「といっても、今は喪中だから、すぐに決まるわけではないけれど」
「……その、女性に会いに行かれるのですね」
「わたしが望んだわけじゃない。わたしの上司が変に気を遣う方でね。今回は断るつもりだけど、だから神殿を空けることが多くなりそうなんだ」
今回は。つまり縁組は一つや二つではないということだ。レイディアは今更なことにそのことに気付き、少々動揺した。
何を動揺するのか。レイディアに結婚話があるなら、ユリウスに来ていないわけがない。寧ろ、レイディアよりもずっと以前から話はあったはずだ。今までレイディアの耳に届いていなかったことの方が不思議なくらいだ。
「でも、良い方であれば」
「今は結婚なんて考えられないよ。目が離せない可愛い妹もいるしね。他は目に入らない」
「お兄様、私はもう手のかかる子供ではありません」
「まだまだ可愛い子供だよ。わたしがいない間はいい子にしていると約束しておくれ」
レイディアは頭を撫でる兄に、仕方なしに頷いた。
「はい。お約束しますから、お兄様こそ、道中お気をつけて」
レイディアはどうにか笑みを作り、兄を見送った。
「エリック」
その日の午後、レイディアは再び庭園に出た。今朝見たばかりの池の蓮と、兄との会話に複雑な心境を抱きながら。
「…巫女様」
「エリック」
現れたエリックにほっと息を吐き、彼に歩み寄ろうとした。けれど、違和感に気付き、足を止めた。
「…どうしたの?」
彼の服装が、いつもの褐色の仕事着ではなかった。初めて見る服装だ。私服だろうか。
「何処かに出かけるの?」
「……巫女様」
改まったような声に、レイディアの心がさざ波立った。
「巫女様。これから暫く、お会いできなくなります」
「…え…どうして?」
「訳は今は言えません。ですが、いつか帰ってきたら、きっとお話しいたしますから。今暫し、待ってはもらえませんか?」
「どのくらい待てばいいの?」
「それも分かりません。数日か、数年か…ですが、絶対に帰ってきます」
エリックの言葉は決意が滲んでいた。何を決めたのだろう。彼は一瞬口をつぐみ、躊躇いを振り切るように続きを告げた。
「帰ってきたら、その時は、オレに、あなたを覆うベールを取り去る栄誉を頂けますか?」
「………」
レイディアは言葉に詰まった。それを誤解したのか、エリックは尚も言い募った。
「貴女は、遠くない未来、申し分ない家柄の美しい御夫君が大勢娶られることになるのは分かっています。でも、それでも…」
エリックの懸命な言葉は、それ以降続かなかった。
「…答えは、今は聞きません。伺っておいて逃げるようにここを去るのは非礼にあたるのは重々承知しています」
「エリ」
レイディアが躊躇いがちに伸ばした手から逃れるように、エリックは数歩後ずさった。
「…すみません。もう、行かなくては」
エリックは周囲を気にするように、あたりを見渡すと、あっという間にレイディアの前からいなくなってしまった。
「………エリック?」
伸ばした手が空を掴み、レイディアを覆うベールを暖かい風が揺らした。
レイディアはエリックが庭園から去ってしまってからも、時折庭に出ては彼を探した。けれど、短い夏が過ぎてもエリックと会うことはなかった。
嫌な予感がして、レイディアは落ち着かない日々を過ごした。
レイディアの知らぬところで、何かが始ってしまったような。
いくつもの流れが、一つの結末に向かって。
そして、延期になっていた、レイディアの結婚相手が決まる日が近付いてきた頃、バルデロの襲撃の報せが、レイディアの許に届いた。