第四十六話
少し加筆修正しました。(3/11)
「エリック」
素晴らしく晴れたある日の午後、レイディアは午睡の間から抜け出し、庭園で仕事をこなすエリックを見つけた。
「…またいらしたのですか?」
エリックは仕事の手を休め、後ろを振り返った。さも仕方なさそうに溜息を吐くけれど、迷惑がってはいないことは、彼の人となりを知った今では分かる。
エリックは少し立ち位置をずらして、レイディアが収まる場所を空けた。
「今日は何をしているの?」
レイディアの第一声はだいたいこの一言から始まる。
「椿の手入れですよ」
エリックの返答もだいたい同じだ。最近のエリックは手を休めずにレイディアの会話に付き合うという小技を身に付けていた。
「最近よく来られますが、きちんと眠らなければ、大事なお役目を果たせませんよ」
「降臨祭の準備で神殿は忙しいけれど、私自身が準備に奔走するわけじゃないもの。午睡の時間じゃなくても寝る暇くらいあるわ」
「なるほど。レイディア様は時間のやりくりがお上手なようだ」
エリックは小さく笑った。
エリックが己の素性を明かしてから一年経った。
彼との逢瀬は続いている。けれど、レイディアはエリックの素性を知ってからの暫くは、彼に会いに行かなかった。彼の身分を忌避したのではなく、自分の意思で会いたかった旨を伝えたのは初めてで、どんな顔をして会うべきか分からなかったからだ。言われたことはあっても言ったことのないレイディアは、エリックがその言葉に対して何を思ったか気になって仕方がなかった。それに、忙しい時期と重なったこともあり、行くに行けなかったという事情もある。
悶々と考え続けたが、結局彼に会いたい気持ちが勝り、そわそわした気分を抱えたまま庭に出た。とはいえその日はとりあえず直接会わず、こっそり背中だけでも見るだけにしておこうと思っただけなのだが。
しかし、エリックを探してうろついていた彼女の後ろにエリック本人が現れた。何もしてないのに後ろめたい気持ちになったレイディアだったが、エリックの空気は思いの外和らいでいた。彼の呆れたような、ほっとしたような顔を見て、彼が自ら築いていた壁が低くなったことに気付いたレイディアは、彼の元を訪れることに躊躇いはなくなった。
そうして瞬く間に時が過ぎ去り、季節が一巡した。今は短い夏が過ぎ去り、あと一月もすれば高山の方では雪がちらつき始めるだろう季節になった。この時期は北方地方においては最も過ごしやすい。その所為かこの時期には催し物が多く、降臨祭はその内の最大の祭典である。
巫女であるレイディアはその祭の舞い手である。現在は舞の練習に励む毎日を送っている。正直に言えば舞は酷く疲れるので少しでも休息をとりたいところだが、エリックと会う機会をふいにしてまで欲しいとは思わない。だからレイディアは他の時間を削ってここに来るのだ。
「…エリックは、いつも椿の手入れをしているのね」
「それはそうですよ。オレの仕事ですから」
「どうしてこんなにあるの」
「何を仰います。貴女の象徴花ではないですか」
「………」
エリックは黙りこんだレイディアを見下ろした。
「椿はお嫌いですか?」
「好きじゃないわ」
レイディアは初めて白状した。いつも己に捧げられる花を、実は好んではいないと。
「それはまたどうして? こんなに鮮やかで美しいのに」
レイディアはエリックに撫でられる椿の葉を見上げた。
「だって、儚いわ」
「花はいずれも寿命が短く儚く散るものですよ」
「椿はその中でも一際儚い。花がそのまま根基から落ちるから。首がもがれるみたいに」
まるで用済みと言わんばかりではないか。少しでも老いて力が衰えると、あっさりと次代に全ての関心が移ってしまう“みこ”と重なってしまうのだ。
「ははあ、なるほど。確かにそういう見方もあるかもしれませんね」
エリックはひとつ頷いた。
「でも、逆に言えば潔いとは思いませんか? 一枚一枚散っていく花も綺麗ですが、枯れ切る前に堕ちて木の周りを赤く彩る椿を、オレは好きですよ」
「…そう。かつての主役が、新しく咲いた花の引き立て役に回るのよ」
エリックは少しの間、上を向いて考える仕草をした。そして、何か思いついたように笑った。
「椿の花言葉をご存じですか?」
「…贅沢、でしょう?」
その花言葉もレイディアの椿を遠ざける要因の一つだ。
「おっと、そっちにいきましたか」
エリックは顎下を土の付いた手で撫でた。
「花言葉は他にもありますよ。例えば気取らない魅力という意味もある。ひけらかさず魅力を隠し持っているなんて、味のある花だと思いませんか?」
「……そう?」
「そしてもう一つ」
エリックは真っ直ぐにレイディアと目を合わせた。
「わたしの運命はあなたの手に」
エリックが真剣な目をしていたから、レイディアは小さく跳ねた。
「…初めて聞いたわ」
「だからオレは、椿は貴女に相応しいと思うんですよね」
「どういう意味?」
エリックははぐらかすような笑みに戻り、答えなかった。
「さあ。どういう意味でしょう」
「レイディア」
レイディアは物思いから覚め、下から覗きこむ兄を見下ろした。
「お帰りなさいませ、お兄様」
「ただいま。いい子にしてたかい?」
ユリウスは身体を伸ばしレイディアに軽く口付けた。
「どうにか間に合ってよかった」
日が経つのはあっという間で、レイディアはこれから降臨祭の前に、潔斎の為に禊の間に籠るところだった。舞い手である“みこ”は毎年祭で舞う前に身を清めるしきたりがある。
禊の間は、レイディアの住まう神殿の向こうにある禁域の山の神の社にある。その山は、神が大陸の隅々まで観察する山という意味から、御弥山とも呼ばれている。神の社はその山頂におかれており、御弥山は標高は高くはないが、そこに至るまでは険しい山道が待ち受けている。途中まで輿で移動するが、中腹からは限られた者しか入ることは許されないため、供の女祭司と二人で社まで歩かなければならない。
「潔斎する三日の間、レイディアに会えなくなるからね。一目見ておきたかったんだ」
「私も会えてほっとしました」
レイディアは輿から降り、ユリウスの背に労わる様に手を回し、兄を見上げた。
「少し、お痩せになりました?」
「仕事が忙しくてね。寂しかったかい?」
「…はい」
ユリウスはその血筋故に政治においても地位を持っているが、正式には軍部に所属しており、現在准将の地位にある。若年でありながら既に少しずつ発言権を増しているという噂を聞いた。巫女であるレイディアの実兄であるユリウスだ。その噂は真実であろう。だが、同時に多忙を極め、最近とみにユリウスは神殿を離れることが多い。
「それじゃあレイディア。気を付けて行くんだよ」
「もう行かれるのですか? 少しは休まれては…」
「祭の日までには帰ってくる。君の舞いを楽しみにしているよ」
ユリウスはレイディアの背を優しく叩き、すぐに背を向けて去って行った。本当に忙しいのだろう。レイディアは兄の背を心配に思いながら見送ったが、あまり寂しく思っていない自分を不思議に思った。
ユリウスとレイディアは二人きりの兄妹で、レイディアにとっては何よりも大切な人だった。生まれた頃から兄を見上げて育ち、あらゆることをユリウスから教わった。レイディアを形作る根底にはユリウスがいる。
ユリウスが政に関わるようになってからは、二人で過ごす時間が減ってしまった。それが不満だった幼いレイディアは、彼が行ってしまう度に駄々をこねたものだ。仕事に兄をとられたとぐずるレイディアを宥める兄と、兄に言われ彼女を引き受ける侍女達が日常の光景だった。
それほどに、レイディアにとってユリウスは全てだった。
けれど、今では兄が碌に話もせず去って行ってしまっても、すんなり見送れるようになった。心配はすれど、寂しくはないのだ。それは単に、自分が精神的に成長した証でもあるのだろうが…。
「………」
レイディアは兄の背に触れた手を見下ろした。
勿論ユリウスは最愛の兄で、何よりも優先にすべき肉親だ。彼の身を案じ、労り、寄り添いたい思いは常にある。一緒に過ごす時間は穏やかで温かく、レイディアの優しい記憶は全て兄で占められている。それは決して変わることはない。
ただ、ユリウスへの関心が薄れていることをレイディアは自覚した。彼がいなければ寂しくて退屈で何も残らなかったかつての己から脱しつつある。
その代りにレイディアの意識が向いてしまった方向もまた、レイディアは既にちゃんと知っていた。
三日間の潔斎も無事に終え、レイディアは赤い絹を纏い、降臨祭に臨んだ。
「お美しゅう御座いますわ」
「ほんに。現世に降りられた仙女様のよう」
椿の刺繍が施されたその衣装は、この日の為だけに何カ月もかけて織られた最上級の絹で、うっとりするほど柔らかく滑らかな手触りだ。けれどこの衣装はレイディアの舞が終わり次第、感謝の祈りを奉げた後、聖火で燃やされる。
女の巫女の舞いは特に神降しと呼ばれ、舞に呼ばれ神は巫女の身に降り、年に一度人の前に姿を現すと云われている。つまり、その時巫女が身に着けていた衣装は神の衣装であり、神聖なものであるとして、神に奉納するのだ。
レイディアはこぞって褒めそやす侍女達の言葉を聞き流し、鏡に映る己の姿をじっと見つめた。
顔に施された化粧はいつもよりも厚く、レイディアは自分の顔に違和感を持った。レイディアは去年から母シェイゼラの後を継いで舞うようになったが、厚い化粧にはやはり慣れない。赤い衣装はレイディアの為に作られたのだから当然身体にぴったり合うのだが、派手すぎると思わなくもない。普段身に付ける衣装と差があり過ぎるのだ。侍女達は良く似合うというが、実際のところどうなのだろう。
…エリックなら、なんと言うだろう。
ふと、この姿で彼の前に立ちたいという思いにかられた。
似合わないだろうか。大人びた衣装すぎて不釣り合いだろうか。それとも、綺麗だって言ってくれるだろうか…。
「………」
「巫女様? 如何なされました?」
自分を気遣う侍女の声に、いつの間にか俯いていた顔を上げた。
「何でもないの」
「御覧下さいませ。今宵は良く晴れて星がよく見えておりますわ。これも巫女様が神に特に愛されている証ですわね」
「本日は大陸中の国々からいらしております。巫女様の御美しい姿を一目見ようと、名代の者には任せず、王族の方自らがいらしているとか」
「去年は大巫女様が突然舞い手の交代を宣言なさいましたから、巫女様の初舞台を逃して悔しがる国も多かったですものね」
去年。エリックと出会った年だ。その年にレイディアは初めて舞台に立った。シェイゼラが突然宣言した故に。その彼女は宣言した後、数カ月ほど療養の名目で首都から離れたところにある小神殿に少数の供だけをつれて神殿を離れていた。
その理由を知る者はレイディアとシェイゼラの側近の一部。
ともあれ、“みこ”の舞い初めは特別だ。しかし舞い手の交替の宣言が降臨祭の直前で、前年と同じようにシェイゼラによる舞が披露されると思われていた為、名代を行かせた国も多かった。
だから、今年は多くの国が王族が出向いているのだろう。未だシェイゼラの影響力が強いが、少しずつレイディアの時代になりつつある今、少しでもレイディアに顔を覚えてもらおうという寸法なのだ。
「………」
けれど、レイディアにはどうでもいいことだった。レイディアは自分の前に現れた者の顔は忘れない。覚えてほしいというならいくらでも覚えておく。だが、それだけだ。
今の彼女の中を占める思いは、これから舞う舞を、エリックが何処かで見ていてくれるかどうかだった。
「巫女様。そろそろ御出で下さいませ」
時間を告げる侍女に頷き、レイディアは立ち上がった。
舞台に立ち、レイディアは舞い始めた。
舞い始める瞬間は、世界が変わる瞬間だ。取り巻く全てのものが変貌する。荒々しいものは凪ぎ、眠りについていたものは穴蔵から顔を出す。“みこ”の舞は万物の流れを表現する舞だ。遠く、近く、儚く、根強い。
既にレイディアの身体に沁みついた舞の動きは、意識せずとも勝手に四肢を導いて形成していく。レイディアに合わせて鈴が鳴り、風が唄い、扇が蝶のようになめらかに回る。
気持ちいい。
その時、レイディアの悦びを敏感に感じ取ったかのように、一陣の風が裾を空へと舞い上げた。
舞うのは好きだ。大気の流れに身を任せ、一体となったかのように心地良くなれる。無心に舞うほどに意識が現実から離れていく。まるで、本当に飛翔しているように。
旋回して、雲を突き破り、仲間の鳥に合わせて囀り、甘い木の実を啄ばむ。
懐かしくさえある感覚が、舞の中にあった。
しかし、その快感にも似た浮遊感から、一瞬にして現実に引き戻された。辛うじて舞を止めるなどという失態を犯さずに済んだが、レイディアはもう地上から意識を引き離すことが出来なくなった。
…強い眼差しを、感じた。
レイディアの背筋が戦慄に震えた。恐怖にも近い。レイディアが初めて受ける類の眼差し。
誰だろう。
舞を続けながらもレイディアはその眼差しの主を探した。レイディアはこの先の一年に不安を抱いた。せめて、その眼差しの主が分かれば少しは落ち着くかもしれない。
けれど、一瞬の戦慄以降、舞が終わっても、レイディアはその視線を感じることはなかった。
「殿下」
呼ばれた男は返事もせず席を立った。
「殿下、どちらへ。まだ舞は終わってはおりませんが」
「帰る」
「しかし、このあと宴が御座いますが。巫女もお見えになるでしょう。陛下より少しでも近付きになるようにとの御言葉が…」
従者の言葉に彼は耳を貸さない。誰もが巫女の舞に陶酔になり、堂々と出ていく彼に目を向ける者などいない。もとより、ここでは彼は軽んじられる立場にあった。
「必要ない。宴には連れてきた誰かを代わりに行かせればいいだろう。どうせ俺の国程度では近くにも寄れんのだ。体裁が整えばいい。無意味な時間を過ごす気はない」
「けれど、このような見事な舞を途中で抜けるのは些か惜しい気もします」
「こんな遠い場所から見たところで何になる。遠くから仰ぎ見て、跪き、希少な貢物を携えて御機嫌を伺いに参上する。そんなことをしても周りに埋もれるだけだ」
「…殿下?」
「これから忙しくなる。まずは、父上から王位を貰わねばな」
「それは…」
彼は赤銅色の髪を燭台の炎に煌めかせ、息を飲む従者を振り返った。
「あれは俺のものだ。見つけたからには、返してもらう」
■ ■ ■
「御機嫌よう、陛下」
ムーランは酒瓶の転がる王の居室を訪れた。勿論周囲には内密でだ。時刻は真夜中。当直の者以外は皆眠りについている。ムーランは王の部屋の扉を守る者には少々眠ってもらうことにして、堂々と正面からギルベルトの許にやってきた。
「何の用だ」
王の掠れた声は地を這うようで恐ろしい。人の口を噤ませるのに充分な威力を備えていた。けれどムーランは気にしたふうもなく、侍女に持たせていた酒瓶を机に置かせた。
「まあ、愛妻に実家に帰られたくらいでなんてザマですの」
ころころと笑う側妃にギルベルトは漸く目を向けた。
「殺されたいか?」
「お好きに」
ムーランはこれまた持参したグラスに酒を注ぎ、ギルベルトが直接呑んでいた瓶にぶつけて音を鳴らした。
「でも、わたくしに殺すだなんて脅しは意味のないことですわ」
ギルベルトは腕で覆っていた目を晒した。酒の所為で淀んだ翠の瞳に、ムーランは笑みを深くした。
「何しに来た」
「自らを激務の中へと追い立てて、自暴自棄になっている王の晩酌にお供する為ですわ」
すぐにグラスを空けたムーランは、もう一杯注いだ。
危険を冒してまで王の居室にやってきたくせに、ムーランはそれ以降喋る気もなさそうに呑み続けた。後ろで酒瓶を持つ侍女は、何も見ず聞かず言わずを貫いて主の奇行に付き合っている。今度は何を企んでいることやら。
「…何故レイディアは、お前に色々と話していた」
前々から察していたことだ。ムーランはレイディアの事情をより深く知っている。恐らくは、ギルベルトよりもずっと。
「仲良しですから」
ムーランの答えを、ギルベルトは鼻で笑った。
「女奴隷として働いていた者とか」
「わたくし、身分はあまり気にしませんの」
「下女の身では側妃の近くに行く機会は殆どない。お前が呼びよせない限りは」
「勿論ですわ。わたくし、宮で働く者達は最初に面通りさせて把握するようにしてますの」
「それだけか」
「親しくなるのに、時間はあまり関係ありませんわ」
ギルベルトはソファに横たえていた身体を起こした。
「レイディアの弱みでも握ったか」
「随分なお言葉。まるでわたくしが極悪人のよう」
「お前と比べれば極悪人など可愛いものだ」
「極悪人はこうして気落ちしている陛下を御慰めに参ったりはしませんでしょう」
「誰もお前を呼んではおらん。極悪人を相手に剣を振るった方が気が紛れる」
「あらあら、落ち込んでいることは認められるのですね」
ギルベルトは舌打ちした。この女はすぐに本題をずらそうとする。
「はぐらかすな。レイディアは己のことを語ることを避けていた。多少気心が知れたからといって、簡単に話すものか」
「そうですわね」
「言え。どんな汚い手を使った」
「そんなこと、今更重要ですの?」
「重要かどうかは俺が決める。お前はまだ色々と知っていそうだ」
ギルベルトはいくら呑んでも酔えない酒瓶を放り投げた。暗い室内で瓶が割れる音を聞いた。
「丁度いい。いずれお前に聞こうと思っていたところだ。どんな手を使ってでも吐かせる」
その言葉は脅しでも何でもなかった。僅かでもレイディアの手掛かりを掴む為ならムーランを拷問にかけ、殺すことも厭わない。レイディアを失って荒れているだけではない。元より、この王は苛烈で残酷な本性を秘めている。
ムーランは溜息を吐いた。
「別に、彼女を罠に嵌めたのでも、脅した訳でもありませんわ。ただ受け入れただけです」
「受け入れただと?」
「陛下は、あの娘にエリックという恋人がいたことを御存じ?」
ギルベルトは不愉快そうに顔を歪めた。
「だから何だ」
「では、エリックと言う若者が、宦官だということは?」
ギルベルトは口を閉ざした。
「…宦官だと?」
「その様子だと、御存じありませんでしたのね」
降臨祭の日。ギルベルトが怒りに任せてレイディアを抱く直前。レイディアはユリウスと再会したことによって我を忘れ、過去のことを零した。
ギルベルトに語ったのは自分にとって如何にエリックが大切な存在かということと、ユリウスがその男を奪った為に失ってしまったことだ。今まで抑えていた感情が溢れだし、ギルベルトにぶつけた言葉を繋げていけばそんな内容だったが、宦官という言葉は出てこなかった。
「レイディアは、宦官を愛したのか」
「そのお言葉が意味するお気持ちは何でしょう。その男を無能者と蔑むお気持ち? レイディアを軽率だと軽蔑するお気持ち?」
「……何故、レイディアは宦官と出会う機会があった」
「彼は庭師だったそうですわ。彼女も出入りする庭園を管理する」
そういえば、レイディアの言葉の中には、時折庭園の単語もあった気がする。
「レイディアは宦官と知りつつそいつが近づくのを許したのか」
「それは、その男がレイディアを唆したと言いたいのですか?」
「違うか? 宦官は子孫を残せないが故に、権力や財に走りやすい」
「全ての宦官がそうだと?」
ギルベルトは一瞬間を開けた。
「そうは言わない。だが、その男が善良であるという保証もない。神殿にいた者だ。当時アルフェッラの内部は腐りきっていた。周囲に感化され、権力を追い求める者ではないとは言い切れまい」
「つまり、エリックという者がそうであると思っておられるのですね」
「…何が言いたい」
「何故、レイディアが口を閉ざして、彼を心の箱に仕舞い込んだか、お考えにはなりませんの?」
ギルベルトは一人暗い室内に座り込んだまま虚空を見つめていた。否一人ではない。
「陛下」
声が天井裏から気遣わしげに声をかけた。けれど、今のギルベルトに声と話す気力はなかった。
「…下がれ」
たった一言で声の気配が消える。
ムーランはとうに退出していた。好きなだけ呑み、好きなことを言ってさっさと出て行った。
一人になり、漸くゆっくりと考える余裕が出来た。
「レイディア…」
レイディアは宦官に恋をしていた。それだけを聞けば、世間知らずな少女が権力欲しさに近づいた奸臣に唆されたと思っただろう。事実、似たような例は過去に数え切れないほどある。
その事例によって、いつしか宦官は強欲で富を貪ることを生きがいとする亡者と世間でみなされるようになった。
そう。常識だ。いわゆるまともな感性を持っているものならまず彼らに近づかない。そしてギルベルトもその常識の中で育った者の一人だ。
ギルベルト自身は身近に宦官がいなかった為、彼らのことを気にしたことはなかった。積極的に迫害したこともない。けれどその常識は当たり前のように念頭にあり、宦官と聞けば侮蔑の対象とみなした。何の違和感もなく。
だがレイディアは違う。世俗から切り離されて育った彼女は、世間で通じる常識など殆ど知らなかった。巫女の耳に穢れた者とみなされている宦官のことを吹き込まれるとも思えない。だからこそ、何の偏見もなく、エリックという男自身を見ることが出来たのだろう。
ギルベルトは己の手を眼前に広げた。一月もの間レイディアを抱き続けた感触が今もはっきりと残っている。
レイディアはギルベルトに応えた。四年間かけて築いた関係は、レイディアの中で確かに根付いていた。ギルベルトの手に素直に反応するのは、彼自身が教えたから。そうとは気付かず時間をかけて、気付いた時にはもう遅く、ギルベルトの傍に安息を見出しつつあった。けれど、レイディアは逃げた。
ギルベルトに背を向けたのだ。
先程のムーランの言葉がギルベルトの胸に突き刺さった。同時に焼けつくような嫉妬と喪失感が再熱する。
レイディアは自分のもの。それは五年前、レイディアの舞う鮮麗な姿を見たその時から確信したことだった。レイディアは居並ぶ諸国の頂点に立つ巫女。片やギルベルトは大陸中に犇めく小国の王太子。ギルベルトの思いを誰かが聞けば一笑に付して仕舞いだろうが、ギルベルトは当たり前のように受け入れた。何故かは分からない。
そしてレイディアと初めて真正面から対面した。あの日のことは今でも鮮やかに覚えている。花の咲き乱れる美しい神殿の最奥に広がる庭園で、彼女は花を摘んでいた。
「……皮肉だな」
当時は気にも留めなかったが、巫女が自ら花を摘む筈がない。部屋に飾る為なら侍女か下男が手を汚す。
だが、今更気付いたところでどうしようもない。ギルベルトはもはやあとには引き返せないところまで来ている。引き返す気もない。それを望んだのはギルベルトだ。たとえ、彼女に拒絶されようとも。与えてきた自由を奪うことになってしまっても、回り始めた歯車を、ギルベルトは止めるつもりはなかった。
「…来い。シア」
呟くような声だったが、シアは応え、ギルベルトの傍に降り立った。シアは跪き、ギルベルトの命令を待った。
ギルベルトは懐からレイディアの鈴を取り出し、軽く揺らした。しかし、内部の珠は、乾いた音を出すだけで美しい音で鳴くことはなかった。この鈴は、不思議なことに揺らしても音は鳴らない。半身であるレイディアの心の揺れに合わせて鈴は鳴く。
今、鈴は反応こそしないが、どうすればいいのか分からず途方に暮れているレイディアを仄かに感じた。何故レイディアは出て行ったのか。彼女自身、分かっているのか、いないのか。
「早く…見つけなければな」
「是」
ギルベルトはシアから差し出された水を一気に飲み干すと、酒気を帯びて霧がかっていた思考が冴えわたってゆくのを感じた。
「陛下は、レイディア様がどちらへ向かわれたのかお分かりになったのですか?」
「あの女が手掛かりを落としていった」
シアは内心首を捻った。先程の会話の中に、レイディアの行方を示唆する部分があっただろうか。
「あいつの考えていることは分かりたくもないが、無意味なことはしない女だ」
ムーランが危険を犯してまで動くのはいつだって自分の為、己の楽しみの為だ。なにもレイディアの昔の男のことを掘り返してギルベルトを挑発する為だけではない。
恐らく、ムーランが伝えたかったのは、最初の一言。
「あの女…実家に帰られた、と言っていたな」