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鈴の音の子守唄  作者: トトコ
48/81

第四十四話

レイディアを一言で表すなら、物分かりの良すぎる子。


それが、大巫女の評価だった。



「先日は軽率だったわね」

五歩分離れて正座するレイディアの前で、肘付きに凭れかかる妙齢の女性が言った。彼女より一段上の座にあるレイディアの母、シェイゼラである。

「申し訳ございません」

母が軽率と言ったのはラムールと夕日を観賞した件のことである。一週間前、レイディアが何となく気が向いて交わした約束だ。レイディアの場合、たとえ気まぐれであろうと微笑ましい子供同士の逢瀬では済まされず、他の婚約者候補らが抗議の声を上げたのだ。

彼らの訴えは単なる恨み事ではなく、遠回しに自分とも規定に凝り固まった定期的な面会以外でレイディアと会う場が欲しいというものだった。

ラムールを特別扱いしたと映ったのだろう。実際彼とは他の者達より気安い。不満に思った彼らに一斉に声を上げられ、レイディアはこの一週間というもの大幅に自由時間が削られていた。彼らと会う時間に割いている為だ。急場凌ぎなので都合を付けて会うにも一日一人が限界である。その順番や、会う場所、時間、警備、それに付き添う人員選抜。レイディアもその候補者は皆王族や貴族だ。彼らが動けば大勢の者が動く。ただ一言会うといっても、簡単ではないのだ。


早速昨日に、まず序列第一位の者との逢瀬を済ませたばかりだ。彼はユリウスよりも年上だ。武人らしい身体つきをしており、ユリウスの柔らかい雰囲気とは正反対だ。彼との会談は滞りなく済んだが、兄と過ごす時間も同時に削られ、口にも顔にも出しはしないが少々不満に思っていた。その兄は今は仕事で神殿を離れている。

明日も、第二位の者と会う予定がある。その調整をしている時、遣いの者が訪れ、シェイゼラが呼んでいると告げた。

「何を謝るの? 私はただ、人とはそういうものだと覚えておきなさい、と言いたいだけ」

「そういう?」

「人間はね、自分以外が贔屓されるのが大嫌いなの」

シェイゼラは大義そうに身を起こそうと肘を伸ばした。

「御気分が優れないのでしたら…」

「いいの」

今は人払いされておりシェイゼラの居室に二人きり。シェイゼラは自力でゆっくりと起きあがり、レイディアに向き合った。

「レイディア。私達の役目は分かっているわね?」

「はい」

「私達は何に対しても平等に接しなければならない」

「はい…」

軽く呼吸をすると沈香の香りが喉の中で香った。シェイゼラの香りだ。ユリウスも、沈香の中でも最上級である伽羅を好んで焚いている。シェイゼラの用いる香りは伽羅よりも甘い香りがする羅国だ。似ているようで、似ていない親子。

「一方に傾けば、もう一方は必ず不満を持ちます。傾くだけ、軽く扱われたと。傾いた天秤を元に戻さなければならないけれど、同じように大事にされるだけでは足りないと訴えられるもの」

「………」

「人間はね、誰かが贔屓されるのはひどく嫌うけれど、贔屓してもらうのは大好きなのよ。その上、一度贔屓してもらったら、ずっとそうであるように望む。そしてそれが当然になれば、更にそれ以上を望む様になる。それが人間」

「はい」

シェイゼラは愛しげに己の腹を撫でた。

「今更言うまでもないことだったわね、レイディア。貴女は賢い子だもの」

「………」

「でもまだ幼い故に、時には失態も犯してしまう。だから、これから学んでいかなければ」

「心得ております」

「全ては私を義務から解放してくれた可愛い娘の為に。少しでも貴女の重りを軽くしたいの」

「…ありがとう存じます」

レイディアはシェイゼラを見つめた。自分と良く似た母親を。レイディアは彼女似だ。容姿だけでなく、中身も。母親である前に彼女は巫女だった。生真面目な彼女は責務に潰されそうになっていたが、レイディアが生まれたことで義務から解放され、シェイゼラは漸く安息の日々を手に入れることが出来た。

「私達は求められたら、求められただけ与えてやらなけらばならない。過不足なく、均等に、誰もが納得するように。愛してほしいといわれたら愛してあげなさい。でも、それだけよ」

レイディアは揃えて床に手を着き、深々と頭を垂れた。

「…はい。母上様」


それが、午前中のこと。


レイディアは昼食後、午睡の為の部屋に移り、久しぶりに会った母親の言葉を反芻していた。

忘れるわけがない。『私達の役目』。ずっとずっと昔から連綿と口伝で伝えられてきた私達の存在意義。

その為に、“みこ”達は生きて、死ぬ。

レイディアもその一人になる。役目を果たせる者が現れるまで血を繋ぐ鎖の一人。

忘れるわけがない。それ故に眠れなかった。祈りの為に正午と日にちの変わる深夜は起きていなければならない。その為の午睡なのに。

ふんわりとレイディアを包む寝台に仰向けになる。そうすると天窓の向こうが見えた。

青い空。本能なのだろうか。焦がれる気持ちに抗えず、レイディアは身を起こした。

「………」

いつもはこんなことは思わない。けれど、今日は違った。

外に出たいなんて。それも一人で。

レイディアは何重にも仕切られている襖の向こうにいるだろう侍女を思った。この午睡の時間だけ、レイディアは一人になれる。兄も今はいない。

今なら…

初めて一人で外に出ることに、ほんの少し悪いことをしている気になった。けれどそれを上回る高揚感にも似た期待が胸に膨らんだ。レイディアはヴェールを適当に被った。

そうして雲の白さと風の柔らかさを求め、侍女が待機している入口とは逆の縁側から庭に出た。




午睡の間に面した庭は、神殿の最奥にあり、愛し子しか立ち入れぬ禁域である。他国から贈られた珍しい花木や花も庭を彩っているが、現在巫女であるレイディアの象徴花の椿が一番多く植えられている。レイディアは椿の間を進む。この道の先には蓮の咲く池がある。今は咲く時期ではないが、取り敢えずの目的地として足を向けた。


「…巫女様」

池のほとりに辿り着くと先客がいた。この庭に足を踏み入れられる数少ない者の一人だが、滅多に訪れない以外な人物。

レイディアとユリウスの実父である男だった。

まさかここで彼に会うとは思っていなかったレイディアは首を傾げた。

「…如何なされました、イーニス様」

「貴女様こそ。一人でかような場所にお出でになられるとは。付き人は如何なされました」

壮年の年頃にしては華奢な体格をした彼は、ともすると少女の様に儚げだった。

「今は午睡の時間なのですが、眠れなくて…」

「そうですか…」

彼は間違いなく父親であれど、シェイゼラと同様、親子として過ごした記憶はあまりない。自然、会話はよそよそしいものになる。特に、最近彼は自室にこもりがちで、神殿ですれ違うことすら稀だった。

けれど、この時は互いに一人だったからか、いつもより少しだけイーニスを身近に感じた。

「…お互い、一人になりたかったようですね」

「そのようです」

小さく笑いあう。親子らしくはないけれど、何気ない貴重な会話だ。互いに従者を連れないで会うなんて状況は本来あり得ない。恐らく最初で最後だろうから。


「……巫女様。少し、お話ししてもよろしいでしょうか」

「どうぞ」

レイディアはイーニスの隣に立った。座りはしなかった。座っている彼はレイディアをちらりと見上げ、池に目を戻した。

「わたしの従者から聞いたことですが…巫女様は、シェイゼラ様と今日の午前にお会いしたそうですね」

「ええ」

「どのようなご様子でしたか。最近、彼女と会うことが叶わず…」

「少し、御気分が優れないようでした」

「ご病気なのでしょうか。わたしだけじゃない。他の…者達も彼女は会おうとなさらない」

他の伴侶のことを口にした時、イーニスは顔を僅かに歪めた。

「少しお疲れなだけでしょう。動くのも大儀そうでしたが、ご病気というほど大事ではありません。ですから、少しの間だけ、静かにお過ごしになりたいのでしょう」

「しかし、もう二月も…」

「イーニス様。大巫女様の異母弟であり、彼女との間に兄ユリウスと私という子を儲けた貴方が、何をそんなに思い悩んでおられるのです」

「…わたしは不安なのです。もしや、わたしから心が離れたのでは、と」

巫女とはいえ、娘であるレイディアに情けない顔をする程に、シェイゼラと会えない日々を不安に思い、気に病んでいるようだ。

「シェイゼラ様に会いたい。御気分が優れないなら、何故わたしを呼んではくれぬ。慰めさせてはくれぬのだ」

巫女の父親ともなれば、望めばいくらでも栄華を極めることが出来るというのに。彼はいい意味でも悪い意味でも純朴だ。

「少々おやつれになられた姿をお見せになりたくないのかと」

「そんなに酷いのですか? ですが、どのようなお姿でもわたしの心は変わり得ないのに。シェイゼラ様はわたしの想いを信じておられぬのか」

悲鳴のような訴えは、妻であるシェイゼラに届けられない。立場は彼女の方が上。彼女が許さなければ会えもしない。手に顔を埋めて呻く彼は、とても苦しそうだ。


真実シェイゼラに心を捧げている彼が、他の伴侶がいる状況でそれでも耐え忍んでいるのは、シェイゼラの子が、自分の子でもあるレイディアとユリウスしかいないからだ。しかし、絶対の自信を身に付けるには至らず、イーニスの悲嘆は終わりを知らない。

だからレイディアの言葉を求めたのだろう。シェイゼラと自分の子であり、嘘を言わぬレイディアみこの答えを。

「シェイゼラ様は貴方を愛しておられます。そんなに気を落とされますな」

「ですが…」

イーニスはいくらか安堵に表情を緩ませたが、不安は拭い去ってはいなかった。宿る瞳の暗さがいっそう彼の顔色の悪さを際立たせた。頬が少しやつれている。夜も眠れず、食事も満足にとっていないのがレイディアにも分かる。

危うい気がした。

「イーニス様。貴方こそ、そんな状態ではいざシェイゼラ様とお会いなさる時に倒れでもなさったらどうします。どうぞ、心を安らかに、ご自愛なされませ」

微かに頷き、イーニスは立ち上がった。

「そうですね。…ありがとう。従者も探しているでしょうし、もう戻ります」

立ち上がればレイディアの頭は彼の胸元にあった。レイディアは静かに彼の背中を見送った。懸命な慰めも、イーニスにはあまり効果がなかったようだ。レイディアは溜息を吐いた。

「…愛してはいるのですよ」


特別でないだけで。


レイディアは先程イーニスが座りこんでいた場所に腰を下ろした。

「…眩しい」

池は陽の光を反射してきらきらと輝いている。レイディアは少し目を細めた。好きだし、綺麗とは思うが、強い光はあまり得意ではない。

「………」

誰も私を見ていない。誰も私の声を聞かない。誰も私に話しかけない。

「なんて…」

なんて、気楽なんだろう。他の者はこんな気楽さをいつも味わっているのだろうか。羨ましい。


レイディアは少し身を前のりにした。鯉がいつの間にか岸辺に集まっている。池の中に手を差し入れ、近づいてきた鯉の背を撫でた。冷たい。

暫く鯉と戯れていたが、ふいに首に下げられた鈴が鳴いた。レイディアは顔を上げ、あたりを見渡す。

「………」

今は一人でいたいはずだった。けれど、鈴に呼ばれ、気になったレイディアは、池から手を出し、人の気配のする方へ歩き出した。



手が渇く位の時間を歩いていると、茂みの向こうからぱちんという音が聞こえた。刃物で枝を切るような音だ。

「…誰かいるのですか?」

音が止まった。鋏を持ち、背の低い木の前に立っていた男は振り返り、自分に声をかけた人物を見て驚愕に青ざめた。鋏を落とした男は、倒れ込むように地に跪いた。

「巫女姫様…も、申し訳ございませんっ」

「………」

男は咄嗟に謝ったが、レイディアより先に口を開いてしまったことに気付き、己の失態に男は慌てふためいた。

「あ、その、申し訳ございません。大変な御無礼をっ」

再度謝った男は酷く震え、レイディアの言葉――おそらく罰則の通達――を待った。

一方、男の慌てように少々呆気にとられたレイディアは、少しの間何も言えずに男の頭髪の渦を見つめた。取り敢えず罰する気はないことを伝えなくては。

「……貴方を咎める気はありません。面を上げなさい」

「は…しかし」

「上げなさい」

命ぜられ、男は恐る恐る顔を上げた。しかしレイディアの顔を仰ぎ見ることはしない。レイディアは地に転がる鋏を見て、彼がここにいる理由を知った。

「貴方は庭師なのですね」

「…は」

「仕事を中断させて邪魔をしてしまったのは私の方ですね」

「いえ、滅相も…」

「この庭は、全て貴方が?」

男は何故レイディアが男を会話を続けようとしているのか分からず、すぐには答えなかった。レイディア自身もよく分かっていない。他愛ない会話を自分から振るのは兄以外にしたことがなかったのだが。

「…いいえ、他の庭師もおります。このあたりはオレ…わたしの管轄ですが」

「そうなの」

レイディアは男に歩み寄った。男の身体が跳ねて跪いたまま後ずさったが、レイディアは鋏を拾い上げ、彼に追いついて鋏を差し出した。

「え、あの…」

訳が分からないまま両手で鋏を受け取った男は、鋏とレイディアを交互に見た。目を合わさぬように。

「…貴方の作業を見ていていいでしょうか」

「…え?」

呆けた男は、レイディアの言った意味が分からなかったようだ。

「仕事をしながらでいいので、少し話し相手になって下さい」

「いや、しかし、オ…わたしは不作法者で、きっと巫女姫様を御不快にさせると…」

「迷惑でしょうか」

「その…」

「貴方の作業を見ているだけにします。半刻したらちゃんと戻りますから」

「戻るって…お付きの方は如何なされました」

ここで漸く、レイディアが一人でいるという良からぬ状況に思い至ったようだ。

「…少し散歩に出ただけです。ここは宮の最奥。誰に付いてもらわずとも結構」

レイディアの言葉の端々に、神殿に戻りたくない意思が見えたのだろう。男はレイディアのヴェール越しの顔を少しだけ盗み見た。

「巫女姫様には退屈でしょうが…」

「構いません」

レイディアは未だ膝を着く男の横に、裾を地に着かぬよう膝裏に挟み込み、しゃがみこんだ。レイディアが本気らしいことを知った男は諦めて、落ち着かないながらも作業を開始した。

ぱちん ぱちん

単調な鋏の音は、しかしレイディアは不思議と飽きなかった。鋏が音を鳴らす度に、木が綺麗に丸くなっていくからか、男が何も考えていないようで、何処をどう切れば綺麗になるのかきちんと考えているからか。

ぱちん ぱちん

男はレイディアの存在を気にしながらも、レイディアに言われた以上、作業を続けるしかない。自分から声をかけるわけにもいかず、剪伐に没頭しているふりをした。本来であれば一生間近で見られる筈のない雲の上の少女。それが何故か自分の隣で自分の手を見つめている状況に混乱しながら。



「そろそろ戻ります」

半刻後、約束通りレイディアは立ち上がったが、聞き忘れていたことを思い出した。

「…名は?」

男は土の付いた手で鼻を擦った。

「エリックと、申します」




 ■ ■ ■




その日、バルデロ王ギルベルトの側妃の一人、秋妃ソラーナは、マリアと共に庭園へ散策に行く約束をしていた。

「御機嫌よう、マリア様」

「御機嫌よう。本日はお誘い下さいましてありがとうございます」

ソラーナがマリアを誘ったのは、彼女が自分の趣味の一番の理解者であるからだ。ソラーナは夢見がちなところがあり、王の訪れがない日々の無聊を慰める為に小説を読む。読書家ではない。恋愛物以外の書物には興味を示さないから。ソラーナが求めているのは胸のときめき。退屈な生活に色を添えてくれる架空の恋人。作り話だからこそ自分の都合のいいように恋人を想像できるし、楽しい時間を過ごせる。

勿論王を慕っているが、彼女の上にはローゼやムーランがいる。最近ではシルビアも加わり、自分より王に近い印象を受ける者達の為に、嫉妬はすれど、甘い想像を膨らませることが出来なかった。

「マリア様、こないだお貸しした本は御読みになりました?」

「はい、つい昨日読み終えましたので、お返しします。とても面白かったですわ」

ソラーナはマリアから直接本を受け取った。

「それはよかった。実は続編もあるんですの。そちらもご覧になります?」

「まあ、本当ですか? 是非、お願い致します」

マリアはソラーナと同じ位にある。後宮入りした時期も近い。対等に接せられる気安さから、マリアをソラーナの趣味に引きこみやすかった。彼女は穏やかな性格で、我先にと話すのではなく、きちんと相手の話を聞ける辛抱強さもある。悪く言えば引っ込み思案で、ローゼの後ろに隠れがちだが、その消極さはソラーナを苛立たせる要因ではないので気にしていない。重要なのは、思う存分小説の内容を語り合えることだ。


生憎快晴とはいかないまでも過ごしやすい気温の中、庭園を歩いたり東屋でお茶をしながら楽しいひと時を過ごしていると、庭に面した回廊の方から声が聞こえてきた。

「何ごと?」

ここから遠い所為か声は小さいが、穏やかではないことくらいは察せられる。

「見て参ります」

マリアの侍女がその場を離れた。

すぐに帰ってきた侍女は、何やら困惑した様子だ。

「何? 何か問題でもあったの?」

マリアが問うと、侍女は適切な言葉を探すように目を泳がせた。

「その、冬妃様が、たいそうお怒りのようでして…」

冬妃、という言葉に反応したのはソラーナ。

「お怒り? ただの癇癪の間違いではないの? あの方は気分屋でいらっしゃるから」

「ソラーナ様…」

窘めるようにマリアは彼女を呼んだが、ソラーナは顔を背けた。マリアは仕方なく、侍女に顔を戻した。

「ねえ、キリエ様は何故御気分を損ねられてしまわれたのかしら?」

「そこまでは存じませんが…」

「…ねえ、ソラーナ様。キリエ様のところへおいでになりませんか」

ソラーナは信じられないという顔をした。

「何故です? キリエ様の不機嫌はいつものことではありませんか。それもたいてい大したことではないことで」

「でも…最近、城が落ち付いていないでしょう? それに、やはり同じ後宮の住人として放っておけませんし…」

マリア達は詳細は知らされていないが、何処となく感じるところはあった。

「…少しお話しするだけですから…」

「仕方ありませんね…」

ソラーナは立ち上がり、侍女に案内されてキリエの許へ赴いた。



「これじゃないって言ってるでしょうっ!」

甲高い声とともに女官の頬を打った。ソラーナは顔を顰めた。いちいち彼女の癇に触る声だ。ここはキリエの宮。ソラーナ達がいた庭に程近いところにあった。

「キリエ様、どうか、お気をお沈めに…」

「煩いっ! だったら言う通りのお茶を持ってきなさいよっ」

「今お持ちしますから…」

「何なのよ。陛下はいらして下さらないし、侍っているのは主人であるわたくし好みのお茶ひとつ淹れられない役立たずな使用人。わたくしをこれ以上いらいらさせないで」

「そのぐらいになさったら? 見苦しい」

キリエは顔を埋めていたクッションから顔を上げた。向けられた目は歪み、今の彼女の顔はお世辞にも美しいとは言えなかった。

「庭にまで貴女の声が聞こえてきましたわ」

「何のご用? 先触れもなく失礼だわ」

「わたくしに八つ当たりは止してちょうだい。使用人にもよ。小さいことで騒ぎ立てて…妃として失格だわね」

「何ですって…?」

「お止めなさい、二人とも……」

冷えた空気に怯えたマリアが仲裁しようとしたが、二人は彼女の言葉に耳を貸さなかった。

キリエはソラーナを見下す様に嗤った。

「貴女に妃の心得を説かれるとは思わなかったわ。以前シルビア様が後宮にいらっしゃっると知らされた時、真っ先に抗議なされた方に」

「今はちゃんとシルビア様を受け入れているわ。昔のことを掘り返すなんて意地の悪い人ね」

「わたくしが意地が悪いなら、貴女は卑怯者だわ。シルビア様に積極的に嫌がらせをして、ローゼ様に認められるや、手のひらを返したようにお優しくなって」

ソラーナの頬が紅潮し、言い争いが激化しそうになるのを悟ったマリアや使用人は慌てて彼女らの間に入った。

「申し訳ございませんっ、キリエ様は御気分が優れず…心にもないことを…」

「ソラーナ様も、御慰めする為に伺いましたのに、彼女を責めてどうなさいます。落ち着かれませ」

「そうよ…折角貴女の為に足を運んだのに、こんな無礼な仕打ちをされるなんて、許せないわっ」

「余計なお世話よ。勝手なことしないで」

「キリエ様っ」





ソラーナとキリエの言葉の応酬、マリアの弱り切った制止の声、使用人同士の言い争う声まで交じる中、遠巻きにしていたキリエ付きの女官が、見かねて女奴隷を呼び付けていた。

「キリエ様のお好きなお茶はまだなの? 早く持ってきなさい」

いつもなら、それでたいていの癇癪は抑えられる。しかし、女奴隷達は互いの顔を見合わせて困った顔をするだけだ。

「何をしているの。ほら、貴女達が作るいつもの蜜を入れた…」

「あの、その蜜は今は切らしていて…」

女官は呆れた。しかし、後宮において気の短い方ではない彼女は辛抱強く叱りつけるのを控えた。

「わたくしは持ってきなさいと言ったの。切らしているなら買ってくるなり作るなりすればいいでしょう」

しかし、彼女達はますます弱り切った顔をするだけだった。いよいよ物分かりの悪い部下を不快に思い始めると、叱られると察知した一人が恐る恐る口を開いた。

「それが…その、出来ないのです。あの蜜はいつもなくなる度に貰ってくるのですが、どうやって作っているのか分からなくて…」

また別の一人が言葉を続ける。

「ただの蜂蜜の筈なのに…彼女から貰った蜜以外ではキリエ様は御怒りを沈められなくて…」

「ならその作ってる人にまた作ってもらえばいいでしょう」

「私達も、そう思ったんですけど…でも、会えなくて」

「会えない? それは誰なの?」

彼女達は再び顔を見合わせ、口を揃えて一人の名を告げた。


「レイディアっていうんですけど。あの、こないだお祭りで巫女役を務めた…」





綻びは、少しずつ、少しずつ。



お知らせ


現在、活動報告にて番外編『クレアの章』を執筆中です。なので、少し本編のペースが落ちますが、同時進行で書いていくので、放置することはありません。

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