第四十三話
何処から話し始めましょうか。
私の巫女としての生活は、とても単調でしたから、話せるような思い出はあまりありません。
目が覚めて、兄と朝食を頂いて、朝の祈りを済ませ、兄とお手玉などであそんで、正午の祈りの句を述べて、昼食のあとは午睡をとり、兄と夕食を頂き、宮女に汚れてもいない身体を丹念に磨かれて、兄とお話しして、三更の祈りを済ませ、そして眠る。
だいたいがその繰り返しでした。貴方達には退屈でしょう。
だから、今に繋がる部分をお話ししましょうか。
「姫様はどんなものがお好きなんですか?」
向かいに座っているラムールは言った。
「どんな?」
「ほら、お好きな色とか、お花とか、料理とかです」
レイディアは小首を傾げて、
「お料理なら、柚子のお豆腐が好きです」
ラムールはぱっと顔を明るくした。
「僕も好きですよ。さっぱりしてて、夏にはたくさん食べたくなります」
「ええ。冬は湯豆腐も美味しいです」
ラムールは同意して首を縦に振った。
ラムールはノックターン国第三王子。巫女の婚約者候補の序列三位を占め、一番親しいのも彼だった。他の婚約者候補は、レイディアに質問ばかりしたり、逆に自分のことばかり喋り通しだったりと、レイディアを退屈させる。ラムールとのようにちゃんと会話が成り立つのは案外難しい。
後ろで控えるラムールの従者マシューは、己が主を誇らしげに思った。
巫女は御歳十二になられる。今年十四になられたラムール王子とはお似合いだ。序列こそ第三位だが、双方の性格を鑑みても二人は相性も良く、選ばれる伴侶が王子一人ではないとしても、将来二人は特に仲睦まじい伴侶となるだろう。
「あと、僕は青色が好きなんです。落ち着く色だから」
そういうラムールの今日の装いも青色だ。レイディアは薄い橙色の衣を撫でた。
「私は…夕日の茜色が好きです」
「夕日?」
「高楼から眺めるととても綺麗で」
「あ、じゃあもしよろしければ今日の夕刻、晴れたら一緒に見ませんか?」
それにはレイディアの後ろに控える宮女が顔を顰め、王子を諌めようとしたが、レイディアの方が早かった。
「よろしいですよ。では、今日の日暮れ前、西の高楼にいらして下さい」
マシューは内心飛び上がらんばかり喜んだ。規定に縛られたこの謁見以外で巫女姫の傍に寄ることを許されることはつまり、それだけ巫女に心を許された証。しかもそれは巫女自身から出た許しなのだ。他の候補者より頭一つ抜きんでることができた。
これでラムール様の将来は安泰だ。
退室後、やけに上機嫌な従者に、ラムールは首を傾げた。
レイディアは部屋に戻る回廊を歩いていると、一目で誰だか分かる背中を見つけた。
そっと近づき、配下と言葉を交わしているその背中に抱きついた。
「お兄様」
一瞬だけ強張った背中がこちらを振り返り、お返しとばかりにレイディアをきつく抱きしめた。
「こら、悪戯っ子め」
ユリウスの叱る言葉は優しくてちっとも怖くない。レイディアは軽く兄の衣を掴んで頬ずりした。
「どうしたんだい? 珍しく表に…ああ、そういえば、今日はノックターンの殿下とお会いする日だったね」
「はい。お兄様はお仕事中でしたか?」
「そうだよ。でも、すぐに終わるから、後で一緒に庭でお昼を食べようね。だから良い子にしておいで」
「はい、お兄様」
ユリウスの温かい手がレイディアの髪を耳にかけ、そのまま髪に手を滑らせた。くすぐったい、とレイディアは笑って身を捩った。
生まれた時から兄が傍にいた。大巫女である母よりも、父よりも、兄はレイディアに近く、彼の香りは無条件に彼女に安らぎを与えてくれる。仕向けられるまま顎を上げ、頬を温めるぬくもりに、素直に目を瞑った。頬に額に唇にと降ってくるそれは、とても優しくて、柚子豆腐より、茜色の夕日よりも、レイディアが大好きなものだ。兄との触れ合いは、物心が付いた頃には既に日常のものとなっていた。
「ねえ、お兄様。今日の夕方は晴れるでしょうか」
レイディアの頭を抱えるように抱きしめる兄を目だけを動かして伺った。ユリウスは少し顎をそらして空の具合を見た。今は青空が見えていても、夕刻から天気が崩れることはよくあることだ。
「ん…多分ね。どうしてだい?」
「先程ラムール王子とお約束したのです。一緒に夕日を眺めようと」
「……そう。殿下とは仲が良いのかな」
「他の方よりは、一緒に話していると楽です」
「殿下はレイディアと御歳も近いし、話が合うのかもしれないね」
ユリウスはレイディアの腰を引き寄せ、顔を覗きこんだ。
「…ねえレイディア。一緒に夕日を眺めるの、わたしもご一緒していいかな?」
「はい?」
「嫌かい? 二人で見たいかい?」
レイディアは緩やかに首を横に振った。ユリウスと一緒に過ごす以上に嬉しいことはない。
「いいえ、嬉しいです。では、お仕事頑張って下さいね」
ユリウスは満足そうに頷き、レイディアのこめかみに口付けた。
「すぐに終わらせるよ」
「お帰りなさいませ、巫女様」
「本日は兄君と昼食を召しあがられますのね、給仕の者に手配させますわ」
「ノックターンのラムール様とのお話は如何でした?」
レイディアが自室に戻るや、部屋に待機していた侍女達がレイディアを取り囲んだ。
「お疲れでしょう? お茶をお淹れ致しますね」
「巫女様。お昼のお着替えの時間ですわ。どうぞこちらへ」
「今日はどちらで御食事に? 東の庭園でしたらこちらの青い衣がよろしいでしょうね」
レイディアが何かを言う前に侍女達は自発的に動きだす。レイディアは促されるままに着替え、髪を結い直され、お茶を啜るだけでいい。レイディアが特に指示する必要はなかった。いつも一緒にいる侍女達だが、ユリウスやラムールのように会話はあまりしない。一方的に彼女達が話しているだけだ。
なんとなく侍女の顔を見渡した。皆見知った顔ばかり。いずれも美しく、洗練され、誰かと争うところなど見たことがない。教育の行き届いた女達だ。
「巫女様ももう十二。あと二、三年もすれば御夫君をお選びになられる御歳になられるのですね」
「巫女様の御夫君は、やはり序列の方上位三名になりそうですわね」
「あら、第五位の方も素敵ではありません? それにあの国は豊富な鉱山が…」
「あちらがどうしてもというなら、加えて差し上げても…。お優しい巫女様なら、どれだけ御夫君がいらしても平等に大切になさいますものね」
「それに、どの方との次代様でも、賢く可愛らしい御子となられるのは確実ですわ」
「楽しみですわ。ねえ、巫女様」
「………」
耳に反響する彼女らの言葉。しかし、耳の周りで響くだけでそのまま消えていく音だ。彼らが言うのはいつも同じ。
巫女様 巫女様 わたくし達の自慢の巫女様
物静かで もの分かりが良くていらっしゃり 我儘も言わず 理不尽な命令もせず 差し出された物を素直に受け取り 望むままにそこに在ってくれる 理想の巫女様
貴女の幸せは私達の幸せ 私達の幸せは貴女幸せ 私達は貴女を守り 貴女もまた私達を喜ばせることで貴女に幸せを運ぶのです だから私達と共にある限り 巫女様は幸せでありつづけることができるのです
ここは楽園 愛し子の揺り籠 悲しみもなく 憂いもなく 怒りもなく 誰かを妬む必要もない
ですが この国の外は野蛮で無意味な戦があるばかり 人々の野卑で身勝手な主張が渦巻くばかり 我々には関係のないことですが 時に奴らは私達の巫女様に手を伸ばす 身の程知らずもいるのです
ですから巫女様 私達と離れないで下さいませ 巫女様の優しさを穢されるのは耐えられないのです 外は危険で一杯です どうか 奴らの薄汚い欲望に耳を傾けないで下さい
いつまでも 一緒に穏やかに過ごしましょうね
誰もが口を揃えてレイディアを褒め称え、期待する。代々変わらぬ安寧を。穏やかな笑みに、自分の都合を乗せて、レイディアを仰ぎ見る。特にレイディアは文句の一つも言わないから、その願いの成就を疑っていない顔をレイディアに向けるのだ。
…けれど彼らは私達の願いを聞こうとはしない。
彼らにとって、巫女とは願いを与えてくれるもので、彼らが何かを与えるものではないのだから。
「巫女様、ユリウス様がお見えでございます」
レイディアは彼女らを眺めるのを止め、兄を出迎えた。
「レイディア、迎えに来たよ。さあ、庭に行こう」
「はい、お兄様」
レイディアは兄の差し出す手をとり、寄り添った。
だけど兄だけは違う。
ユリウスだけは、レイディアが唯一慕い、愛する対象だった。
■ ■ ■
「ディーアちゃんの馬鹿ぁ!」
ソネットは叫ぶと同時に的に針を突き刺した。一月を経て、傷もほぼ快癒した。日常生活に支障をきたすことはなくなったので、今は現場に復帰するべく訓練中だった。
「陛下の馬鹿ー! っていうかエリカ何処行ったのよー!」
もう一針的に突き刺す。
どいつもこいつも、何故自分が動けない間に好き勝手動くのか。ギルベルトはともかく、レイディアまで動くとは思わなかった。これからどうなる。彼女の真意が分かるまで、こちらが下手に出るわけにはいかなくなった。なかなかどうして皆小さい穴を弄って大きく開くのが好きらしい。
的当ての後はさらに体術の練習をした後、ネイリアスが手ぬぐいを差し入れてきた。
「はい、それぐらいにしようか。お疲れ様」
「水」
「はいはい」
ソネットは水を一気飲みして息を整えた。
「ちょっと動かないだけで、すぐに身体が鈍るんだから嫌になるわ」
「そうだね、特に勘は鈍るね」
的の中央から僅かにずれた位置に刺さる数本の針を見る。
「でも、大分元に戻ってきたわ。これでようやく私も動ける」
「先に出たユンケにレイディア嬢を探すよう指示を送ったけど?」
「あの娘はノックターンあたりに行ったのよね。ディーアちゃんが向かう先としては薄いわ」
「…あの女がいなくなったって?」
二人は同時に入口を見た。
「ゼギオス…帰ってたの」
「俺がいない間に何がどうなったんだ…」
「そっちはあとよ。まずは報告なさい」
ゼギオスは舌打ちしたが、大人しく報告書をソネットに投げ渡した。
「…詳細はそっちに書いてある。祭の日、俺らを襲った刺客どもと連絡を取り合っていたのは、やはりラムールの従者だった」
祭の前から、王は既にこの男に注視していた。顔が気にくわないと言った王。彼の容貌は北方の特色が強く現れており、調べてみれば、彼の一族は代々アルフェッラと深い縁を結んでいた。
「マシューっていったっけ? 動機は?」
「主人を守る為さ。巫女の婚約者候補の序列第一と第二が既に死んでいるといえば分かるか?」
ネイリアスの目が険しくなった。
「…それは」
「どうやら、あの総督さんは自分以外を伴侶として認める気はないようだな」
巫女がいなくなったことで、巫女の婚約も事実上白紙に戻った。だが、正式に取り止めになったのではない。レイディアがアルフェッラに戻れば、再び婚約者候補は権利を主張し始めるだろう。だが、彼らがいないなら、主張しようがない。代わりの者を押すにしても、また内外で揉め事が起こる。
「他にも、上位十位までの殆どが事故や病死となっていた。もしくは、男としての機能が果たせなくなっているか」
それなのに、何故かラムールは何事もなく外交の仕事をこなしている。
「でも、従者が単独でアルフェッラに協力するとは思えないわ。今のノックターンは、バルデロと国交を結んでいるのよ。誰かの意向で…」
ラムールの兄であるノックターン王は、アルフェッラ寄りだった国を、強引に方向変換し、実力を重視し、軍事に力を入れて大陸の覇権争いに参加している。アルフェッラ崩壊後に王位を継承したからなのか、アルフェッラに対する忠誠心が薄く、一、二を争う親アルフェッラ色の強いノックターン人にしては珍しい変わり者と専ら評判だ。そんな王がバルデロを敵に回す真似をするとは思えない。
しかし、前王は違う。彼の父である前王は典型的なアルフェッラ崇拝者で、アルフェッラの言うことならば二つ返事で従うだろう。今は亡きその前王の意向が、マシューの行動に反映されているのなら話は分かる。
「いや、殆ど奴の独断だ。アルフェッラに拘る意思もあるんだろう。なにしろ親族はアルフェッラ出身のやつが多いから。それ以上に、主人大事の従者は、主人の命を守るために奴らと取引をしたんだろうな」
一番レイディアと親しかったラムールがユリウスに狙われないはずがない。しかし、彼を利用出来れば好都合なことがあった。
「王子…今は王弟か―は外交官。何処の国にでも行ける。その従者が、そこにいる誰と話していても怪しまれることはない」
バルデロとの戦争後、アルフェッラ国民の多くが流浪の身となった。巫女の加護を失い、住めない土地が出てきた為だ。元々アルフェッラは生き物には生きづらい北国。温かい毛布に包まれてぬくぬくしていた民は、いきなり毛布を剥ぎ取られて、今まで通り生きていけなくなった。特に隣国と隣接している街や村は治安が悪化し、荒廃は瞬く間に進んだ。
その混乱に紛れてアルフェッラの刺客が、来るべきバルデロとの対決に備えて他国に潜りこむことはさして難しくはないだろう。
「そして、その彼らと、マシューって従者が、堂々とお天道様の下で連絡をとりあっていた、と」
ネイリアスは両手を上げ首を振った。完敗だという様に。
「流石、レイディア嬢の兄君だ。アルフェッラの衰退を最小限に留めただけあるね。アルフェッラにそんな切れ者が隠れていたとは思わなかった。アルフェッラの中枢は皆腑抜けだとばっかり」
ユリウスは、レイディアが巫女であった当時は目立つ存在ではなかった。巫女の親族とはいえ、アルフェッラの政権は元老院を構成する一部の貴族が握っていた。若年だったユリウスはその指示の下で動いてた為、それ以上に活躍していた奴らの後ろに隠れていた。
「元老院さえ潰せば下は混乱。巫女も失ったアルフェッラの民を制するなんて赤子の手を捻るように簡単。そう思ってたけど、やっぱり簡単にはいかないわよね」
バルデロが派遣した執政官に従う振りを見せながら、こちらの目を盗み密かに準備を進めていたユリウス。バルデロとアルフェッラは距離が離れているからギルベルトが常に目を光らせていることは難しかった。その結果がこれだ。
「報告は以上だ。そっちの事態も説明しろよ」
「お兄ちゃんが来て、王がキレて、ディーアちゃんが怒って家出した、以上」
「ふざけるな」
「ふざけてないわよ。要約しただけ」
「…ふざけるなよ」
ソネットはゼギオスの異変に気付き、顔を彼に向けた。
「ゼギオス?」
「…あの女、許さない」
「待ちなさい、ゼギオス」
ネイリアスはそのまま背を向け部屋を出ようとしたゼギオスの肩を掴んだ。
「触るなっ!」
ゼギオスは乱暴にその手を振り払った。ネイリアスは手をぷらぷらさせて、手を冷やした。
「…何処に行く気だい?」
「あの女を探す」
「探す、ねえ。その顔じゃ、とても探すなんて穏便なことで済みそうにないんだけど」
「うるせぇ黙れ、俺に指図するな」
言った瞬間、ゼギオスの頬に赤い一筋の線が入った。
「…口には気をつけなさい。あんたの上司はこの私。ついでにそこのネリーもね」
新たに取り出した針を指の間からチラつかせるソネットの目には剣呑な光があった。
「指図? するわよ。するに決まってるわ。放っときゃすぐに暴れ出すあんたらの手綱を握ってなきゃいけないからね」
ゼギオスは舌打ちをしたが、それ以上反抗することはしなかった。
「俺はもう入りたての無鉄砲なガキじゃない。ちゃんと弁えてるつもりだ」
「じゃあ話しなさい。なにを焦っているの?」
「………あの女、やっぱり動きだした」
「やっぱり?」
「ゼギオスはレイディア嬢が出ていった理由を知っているのかい?」
兄がついに現れ、アルフェッラとの戦が避けらないものとなってしまった。それを食い止める為にレイディアは出ていった。もしくは無理に抱いた王に愛想を尽かして出ていった。そう思っていたが、違うのだろうか。
「あの女の目的? 死ぬつもりに決まってる」
「…はぁ?」
流石のソネットも素っ頓狂な声を上げた。
「待ってよ。いきなり話が飛躍してるわ。何でディーアちゃんが死ぬ必要があるのよ」
兄の許に戻りたくないからといって、ギルベルトと仲違いしたからといって、いきなり無責任に死を選ぶ彼女ではない。
「それに、もし死ぬ気があるなら、四年前だって大人しく王についてこなかった筈よ。アルフェッラが負けた時点で死を選んでいるでしょう」
アルフェッラやバルデロの確執云々で死ぬには時期を逸している。レイディアが死ぬ理由は何処にも無い。
「だがそれ以外に無いだろう。バルデロじゃ死ぬことは出来ないからな。ずっと機会を伺ってやがったんだっ」
鈴主に縛られた巫女は主の命令に逆らえない。自傷を禁じられているだけでなく、バルデロ内にいる限りレイディアはギルベルトに守られる。だが、国外には危険はそこここに転がっている。
「だからその根拠がないっていうの」
「笑ったんだあの女は!」
「…誰を?」
会話が成り立っていない。こんな様子のゼギオスは初めて見た。いつだって斜に構えて取り乱すことのない彼が、今は血走った目をソネットに向けていた。唇を戦慄かせ、自分でも制御しかねる感情の波に揉まれているような、余裕のない表情で。
「…笑ったんだ、あの時………クレアに腹を刺される、あの時」
「どのツラ下げてここに来たんだい?」
占媛は敵意を隠そうともせずに目の前に立つ人物を睨めつけた。
「俺だって来たくて来たわけじゃねえよ」
その人物――クレアは、鞘に収まってはいるものの短剣を手に持ち、いつでも抜刀出来る体勢で占媛と対峙していた。
占媛の周りには常時彼女の護衛を担う大柄の男が三人。いずれも“占札”の幹部だ。彼らもクレアが不審な行動をとればすぐさま武器を向けられるようクレアを威嚇していた。
「お前がディーアちゃんの“所有物”に収まらなければ、お前をのうのうと生かしてはおかないのに…本当に、腹立たしい」
占媛はクレアから顔をそらして溜息を吐いた。
「…で、何しにきたんだい? 態々私を苛立たせる為に来たんじゃないだろうね」
「レイディア様がいなくなった」
彼女はクレアに目を戻した。
「…どういうことかえ?」
「そのままの意味だ。レイディア様が失踪した」
「何故?」
「知らない。だから居場所を探る手がかりが欲しいから来た」
占媛は配下に手を振って武器を下げさせた。
「お前に手がかりを寄こすとでも?」
「あんた達が恩のあるレイディア様のことなら」
「…憎たらしい。だが、私はディーアちゃんの居場所なんて知る筈がない」
「あんたに占いをしてほしい」
クレアは占いなんて不確かで曖昧なものを信じてはいないが、占媛の実力は認めるところだ。勿論正確な居場所を期待してはいない。求めているのはそれを解く鍵。
「お前に協力する形になるのは気分が悪いが…」
占媛は脇に置いてある箱から札を取り出し、手早く札を切り敷き布の上に並べ始めた。
「…このところ…妙に胸騒ぎがしてねぇ、毎日占ってその不安を除こうとしたんだが、結果は同じだった」
占媛は試すような目をクレアに向けた。
「ディーアちゃんのことなら占ってやろう。でもね、ただではやらない。主人の行方の手掛かりと引き換えに何を差し出す」
クレアは鼻を鳴らした。
「あんたがさっき言ったじゃねえか。俺はレイディア様のものだと。俺のものはレイディア様のもの。レイディア様のものを勝手に誰かにはやれない」
「何も差し出さずに手がかりを手に入れようなんて、虫が良すぎる」
「あんただって俺から何かを欲しいとは思っていないだろう」
「命なら欲しいねぇ。その短剣で心の臓を抉り出してくれるのかえ?」
「上等じゃんか。レイディア様を見つける為なら、命を引き換えにする覚悟くらいある」
占媛は札を並べ終えた。
「随分、丸くなったものだ。“館”の狂犬も、ディーアちゃんの前ではまるで舌を出して尻尾を振る駄犬だ」
占媛の嘲笑にも、クレアは揺るがなかった。
「レイディア様は俺に“クレア”を背負わせてくれた。だから主人と認めたんだ」
占媛は札を開く手を休ませずクレアの話を聞いた。
「過保護に武器を取り上げるんじゃなく、“館”のように俺を利用するんじゃなくて、ちゃんと俺のことを、俺と一緒に考えてくれたんだ」
「…その覚悟、忘れんじゃないよ」
「御前」
前に身を乗り出し、抗議しようとした配下に手を振った。
「いいさ。今のこれはディーアちゃんの持ち物。恩人に不義理なことは出来んさね」
“占札”にとってクレアは仇敵だが、レイディアはそうではない。“館”と敵対していた当時、配下の命をレイディアに救われたのだから。
「…いつも占いの結果は決まっていた。“告知”と“隠者”、そして結果は“戦車”だった」
“告知”は新たな展開を予期する札であり、この場合、近い将来戦が始まることを示していた。そして“隠者”は、その未来を左右する鍵の位置にあった。
「“隠者”はディーアちゃんだね。そのままの意味で、ずっと隠れていた娘なんだから。…おや、ここにきて新しい札が出てきたね」
占媛は一枚の札を手に取り、クレアに見せた。
「“杯”の札」
「さかずき…?」
「親しい友人という意味もある。ディーアちゃんの行方を辿るなら、ディーアちゃんの友達を当たってみるといい」
「友達……」
「私の占いは以上だ。さあ、お行き。ディーアちゃんが見つかるまで、ここに来ることは許さないよ」
言われずとも、こんな殺気まみれのところに長居する自虐趣味はない。クレアはさっさと占媛の縄張り区域から出ていった。
「友達っていったら…シルビア様か?」
クレアは足早に城に戻る道筋を辿っていた。レイディアの友達候補を上げたが、やはり先頭に来るのはシルビアだ。ただ、彼女がどんなレイディアの手掛かりを持っているのか見当もつかない。もしかしたらレイディアから言付けを預かっているのかも。いや、それだと仲間に告げられている可能性がある。
何にせよ、城に戻って彼女に会わねば分からない。
「………」
考え事を終えると、クレアは周囲に目を向けてしまった。
「レイディア様……レイディア…さまぁ」
短剣が仕込まれている懐を握りしめた。大して動いてもいないのに、動機がする。
「僕はまだ…貴女の支えなしでは立つことが出来ません」
今も、無意識に考えるのは人を殺すこと。たとえその気がなくとも、染みついた癖はなかなか消えない。
あの男は殺しやすそうだ、あの女は隙があり過ぎる、あっちの男は懐に飛び込めば一瞬で息の根をとめられる…そんな風に考えてしまうのだ。
「………」
レイディアの許に来るまではクレアは人を殺す術しか学んでこなかった。今は彼女の命令で殺生は封じられているけれど、彼女の声が届かない今、クレアの精神の均衡は危うい。
普通の世界を知って初めて自分の異常さに気付き、クレアは慄いた。けれど、同じく人の世に出たばかりのレイディアと一緒なら、人の世に交じることが出来た。
「どうして、連れて行ってはくれなかったんです…」
そう。一緒なら。一緒ならクレアは平気だ。けれどクレアは一人。もし、レイディアに不要と思われ、置いていかれたとしたら……クレアは考えるだけでも発狂しそうになる。
「おっと」
いつの間にか後宮の門に辿り着いていた。そこの門番に正面からぶつかってしまった。しかし、今のクレアには気にする余裕はなく、そのままふらふらとシルビアの許に向かおうとした。
「誰かと思えば、クレアじゃないか」
名前を呼ばれ、反射的にクレアは顔を上げ、目を見張った。
「あ…」
ベル・ランドル
まさか…
「どうした、ぼんやりとして」
丁度クレアの目線が、彼の胸元にあたり、そこから覗く物に気付くやクレアはひったくった。
「ベル…さん。これ…」
それは橙色の髪飾りだった。祭より少し前、レイディアと街に出掛け、クレアがレイディアに買ったもの。
「それ? ああ……実はな、ちょっと前に俺の部屋の近くに落ちていたんだ。俺の同僚の、その、仲がいい下女か女官の誰かが落としていった物かと思って、持っていたんだ」
後宮の女達の恋愛はご法度だ。形骸化しつつあるとはいえ、大っぴらに恋人と会うことはできない。女の私物が兵の厩舎にあったら、あらぬ疑いをもたれ、罰せられることがある。ベルが口を開くのを躊躇うのはごく自然なことだった。
だが、そんなことはどうでもよかった。これはレイディアのものだ。レイディアが厩舎の方に行く筈がない。レイディアはずっと王の居室にいて、今はもう城にさえいないのだから。
クレアは顔を顰めた。長にずっと首根っこを掴まれて、どうすることも出来なかった無力感を思い出した。
クレアは気持ちを切り替えた。
…札の意味はこいつだったのか。
「すっかり忘れてた…」
「何がだ?」
クレアは首を振って何でもないと笑ってみせた。実際、偽りの笑みではなかった。レイディアから、クレアにだけ分かる伝言を受け取ったから。レイディアが、自分を捨てたわけじゃないと分かったから。
「忘れ物ですよ、レイディア様。…今、届けに参りますからね」
クレアは髪飾りを至宝のように大事に握りしめた。
「その持ち主を知ってるのか? 出来れば、こっそり返しておいてほしいんだが」
「お安いご用ですよ」
勿論、これから届けに行くつもりだ。
しかし、旅立つに当たって、クレアには一つの障壁があった。それは自分が子供だということ。自衛は問題ないが、いちいち絡まれるのは面倒だ。それでなくとも、子供の一人旅は、何かと不都合なのに。それに、旅には金もいる。金が尽きたらその街で日雇いで稼がねばならない。子供のクレアを雇うところなどないし、あったとしてもそんな職場は信用できない。泊まる宿だって、子供を一人で泊まらせるところなんてあるかどうか。野宿など論外だ。これから冬に向かうというのに。
「………」
クレアはベルを見た。厳つい容姿で初対面の者はたいていビビってくれる。都合のいいことにそれなりに腕に自信があって、かつレイディアに似て優しくて穏やかな大人の彼を。
完璧だ。
「ベルさん。お願いがあるんですけど」
「何だ?」
「この持ち主を知ってるんですけど、今街を離れているんです。その方、いつ帰ってくるか分かんないんですよね」
「そうか。じゃあ、帰って来た時にでも」
「あ、で、でも、これはその方がとても大事にしているもので、すぐに届けてあげたいんです」
そこまで言われ、ベルはクレアが何を頼もうとしているのか悟ったらしい。頭の方も鈍くはない。ますます好都合だ。クレアは自分の思いつきに満足した。
「そうか、クレアは優しいな。一人で子供が街の外を出るなんて危ないし、俺も一緒について行こう。二、三日待ってくれるか? 仕事の引き継ぎをしなければならないから」
今すぐ飛び出したいクレアは舌打ちしたくなったが、仕方ないと諦めた。仲間の蔭を連れていけない以上、ベルほど最適な者はいない。レイディアが王から離れたなら、その配下である蔭を旅の道連れに出来るわけがないから。
「はい。じゃあすぐに出られるように旅の準備をしておきますね」
クレアは落ちあう日と場所を決め、ベルと別れた。