第四十一話
バルデロ王都ヴォアネロで幅を利かせる裏組織『占札』の総主占媛は、長年使い込んだ札を等間隔に並べた。彼女はこの作業を、降臨祭でレイディアが舞ってから毎日繰り返し行っている。
八角形に並べられた札の意味を一枚一枚読み取っていく。痩せて皺が寄った指が結論を意味する位置の札をなぞった。
「………」
結果は今日も同じ。占媛は別の札を二枚、それぞれ手に取った。
「…“告知”と“隠者”」
占媛の目は、思案するように細められた。
「レイディアは何処!」
シルビアはギルベルトの執務机を力任せに叩いた。
「彼女を何処にやったの? 聞いてるの!?」
シルビアの激怒など知らぬ気にペンを走らせていたギルベルトだが、今の振動で微かに文字が歪み、仕方なく新しい紙を用意した。
「祭から何日経ったと思っているの? もう限界だわ。貴方がレイディアを隠してるは分かっているのよ。今すぐレイディアに会わせて」
再び机を叩かれ、ギルベルトは漸く勇ましく彼の仕事を邪魔しに来たシルビアに顔を向けた。入ってくるなりきゃんきゃんと喚きだした彼女を、彼はいやに穏やかに見上げた。
「何のことを言っているのかさっぱり分からんな」
やっと口を開いたかと思えば白を切られ、シルビアの怒りの温度は跳ね上がった。ギルベルトのゆっくりとした物言いもシルビアの気に大いに障った。
「今、レイディアはシェリファン殿下の侍女なのよ。彼に何の了承も無く殿下の傍を離れるなんて思えない。貴方が命令しない限りは」
シルビアはレイディアとギルベルトの従属関係は知らない。知らずとも、彼女がギルベルトに従っているのは分かっている。だが、シェリファンを大層可愛がっていることも知っている。
ギルベルトが糸を引いているのでなければ、何の報せもなく彼女がシェリファンの傍を離れるとは思えない。
「王といえど、人を不当に拘束していい訳ないでしょう」
ギルベルトは頬杖をついて、意識的に口の端を持ち上げた。
「何の言いがかりかは知らぬが、レイディアは俺のものだ。あれをどうしようと俺の勝手。妃殿がとやかく言う権利はない」
「彼女は私の友達よ! 彼女の行方に関して心配するに決まってるでしょうっ」
「たかが側妃の一人にすぎない者が出しゃばった真似をするな」
ギルベルトの冷えた声に、シルビアは一瞬怯んだが、一度ついた勢いは、止まらなかった。
「レイディアは貴方の玩具じゃないのよ!」
シルビアは言い足りないようだったが、ギルベルトはにこれ以上彼女と話す気はなかった。執務室の外でおろおろしている兵を呼び付けた。
「我が妃はお疲れの様だ。丁重に宮にお連れしろ」
「は、ははっ!」
衛兵は急いで敬礼して、即座にシルビアの両脇を挟んだ。
「失礼致します」
有無を言わさない衛兵二人に強制的に部屋から連れ出されそうになる。
「ちょっと放しなさい! 話はまだ済んでないのよ!」
引き摺られながらシルビアはギルベルトを睨む。しかし、ギルベルトはもはやシルビアに一瞥もくれずに政務に戻っていた。彼女の鼻先で扉が閉められる。
「…放しなさい。一人で歩けるわ」
衛兵を睨めつけ、シルビアは腕を振り払った。
必死で訴えても届かなかった。普段と変わりないようで、何処か違う王に、シルビアは不安を覚えた。外で待っていたシルビアの侍女が、狼狽して何事かとシルビアを問い詰める声に応じることもなく、扉を見つめ続けた。
…何があったの。
祭の日、神殿周辺で警備に当たっていた兵が死んだ。
シルビアに与えられた情報はそれだけだった。酒に酔った無頼漢と乱闘になった所為だと。
いつもなら他の妃と同じように何の疑問を持たなかっただろう。だが、その日からレイディアの姿が消え、ダイダスも自主謹慎として自宅に籠ってしまっては、何もなかったと納得出来る訳がなかった。
詳しい事情を知る術がないまま日は過ぎ、痺れを切らしたシルビアはついに罪に問われる恐れを厭わず、ギルベルトの執務室にまで押し掛けた。だが、それも失敗に終わり、シルビアは流石に肩を落とした。
だが諦めることは出来ない。シルビアは自ら行動しなければ気が済まないのだ。再び顔を上げたシルビアは、後宮へは戻らず、侍女を無視してシェリファンの許へ向かった。
「いらっしゃいませぇ」
ユンケは満面笑みで客を出迎えた。
「二名様ですね。今日は何にします?」
「苺のタルトと今日のお勧め茶にしようかな」
「畏まりました」
客人はちら、と店内に視線を走らせた。
「そういえば、最近おさげの女の子いないよね」
ユンケは二人連れ出来た常連に、困った顔をした。
「そうなんですよ。実は、試作品を食べてたら腹痛を起こしちゃいまして」
「えっ…大丈夫なの? 腐ってたとか、間違って変な物でも入れちゃった?」
「食べた物そのものはとっても美味しかったんですけど、食べ合わせが良くなかったみたいでぇ」
客は笑ったので、ユンケも笑った。
「よくあるよくある。揚げ物と西瓜とか」
「あれ、お客様もお腹を壊したクチだったりします?」
「まあね、おさげの娘みたいに大人しく寝てたわよ」
三人はどっと笑い、ユンケはきりのいいところで厨房の奥に引っ込んだ。
ユンケは厨房の当番に注文票を渡し、自分はソネットの住居のある二階へ上った。
硝子の割れる音がした。ユンケは気にせず戸を開けた。
「いつまで私を寝台に縛り付けておく気っ!」
ソネットは夜着を纏い、ほつれた髪、化粧気はなく、普段とは程遠い武装解除した彼女がそこにいた。
「ほらほら、そんなに叫ぶんじゃない。お腹の傷に響く」
部屋にはネイリアスもおり、頬に引っかき傷を作りながらもソネットを宥めていた。彼女はいつになく神経質になっている。無理もない。ソネットは奴らに出しぬかれ、生死の境を彷徨ったのだから。
「店主、お加減いかが?」
ソネットはユンケを睨んだ。
「誰が腹を壊したのよ!」
「あ、やっぱり聞こえてました?」
ソネットの異常聴覚はすぐ下の声くらい難なく聞きとる。
「でも、まさか敵と戦ってお腹をやられました、なんて言えないじゃないですか」
「もっとマシなこと言いなさいよ。風邪とか隣町まで配達に行ったとか」
「つまんないじゃないですか」
ソネットは手近にあった枕を投げた。ユンケは受け止めた。
「ユンケ、ソネットを逆撫でするんじゃない」
とばっちりは全てネイリアスに向くのだ。
「ほら、水」
ネイリアスはカップを差し出した。しかしソネットはカップを親の敵かのように見つめた。
「睡眠薬入りの水なんかいらないわよ」
「もう入ってないって」
彼女にしては珍しく根に持っている。余程悔しかったらしい。ネイリアスとて好き好んで薬を盛ったりしない。
「そもそも、あんた私を看ている暇があるなら、情報の一つも手に入れてきなさいよ」
「色々手は尽くしているよ。おれは隠密には向かないし、前線は若者に任せて裏方に回るさ」
「…状況はどうなってるの?」
「多分、捕まえるのは無理そうだね。奴らは神殿の人間を一人、あっちに抱きこんでいたし、各国の使者の中にも刺客を紛れ込ませていたみたいで、捕えることさえ簡単に出来ない」
それでも数人生け捕りにした敵をエリカに色々と彼らをとっちめさせたが大した情報は得られなかった。割に合わない結果にソネットは唸った。
「しかもエリカにケーキを三十個作る羽目になったし」
「何で三十個?」
「働いた分だって」
エリカは意図したことではないだろうが、彼女は奴らがここへ侵入するのを防いでいた。たった数人で音を上げる自分と、何十人の相手を一手に引き受けられるエリカ。おのれの無力さにソネットは唇を噛んだ。
「奴らが動くのは分かっていた。だから何が起きても対処できるように対策を立てたつもりだった」
「ソネット…」
「なのに…神殿に侵入を許し、私を前線から退け、部下を何人も失った」
神殿周囲に張らせていたソネットの部下を五人失った。蔭は少数精鋭部隊だ。王都に常駐させている数は百名に満たない。仕込む手間を考えれば、五人は痛手だった。
仕込んだのはソネットら幹部だ。彼らの厳しい鍛練を潜り抜けて正式に蔭となるのは一部だけ。その彼らを奴らは簡単に払いのけた。
そしてソネットまで、危うく彼らの剣の錆と消えるところだった。
「この…私がっ!」
屈辱に身体が燃え上がり、同時に走った鋭い痛みにソネットは脇腹を押えた。
ネイリアスは湿らせた布を彼女の額に当てた。顔色が悪い。傷の治りが遅いせいで危うく化膿しかけた。そこから発症して病にかかり、それで死ぬ可能性もあった。事実、治療が遅れればソネットはこうやって話してはいなかっただろう。ネイリアスは離れないのではなく、離れられないのだ。彼女は威勢よく叫んでいるが、いつ容体が悪化するか予断は許されない状態なのだ。
自分の不甲斐無さが憤りに変わり、らしくなく癇癪を起こす。それが余計に自分を苛立たせるがどうしようもない。ソネットがもう少し強ければ、レイディアに奴らを近づけさせることもなかった。
「ディーアちゃんは…まだ?」
「…うん。王はおれ達の言葉なんか聞きはしない」
ソネットは無意識に腕に爪を立てていた。気付いたネイリアスは彼女の腕を外した。ユンケから王がレイディアを城に連れ帰ったと聞いている。祭りの日から彼女を部屋から出さないことも。
「……こんなところで暢気に寝てる暇なんてないのに」
じっとしていれば気持ちばかりが急いてしまう。それに伴わぬ身体に焦れて挫けてしまう。ネイリアスはそれを承知していて付き合ってくれているのだ。
「焦っても仕方ありませんよ。 店主じゃないですか。焦りこそ最大の敵だって言ったの。大丈夫ですって。もうすぐゼオ兄も帰ってくるんでしょう? そうしたら、少しはマシになりますって」
「あんたは楽観視しすぎなのよ」
「悲観するよりマシですよ。頭を抱えれば左右が見えなくなる。目の前の、大変な現実しか見えなくなって、解決する術が無いように思えてくるんですから」
ソネットは意外そうに目を丸くした。
「ユンケに慰められる日が来るなんてね」
「こないだ観た舞台で、悲劇の騎士が言ってました」
「ああ…舞台ネタ」
諜報部隊の頭二人が動けない今、どうしても穴が開く。実戦部隊を何人か借りて任務に当たらせているが、やはり専門が違えば勝手が違う。ソネットの部下なら一言で済むことが、彼らには一から指示しなければならない。そして思う様に事態が進まないこともソネットを苛立たせる一因だ。
不幸中の幸いは、ゼギオスが無傷であることだ。彼は今、王都を離れて調査に当たっている。
「それに、私もそろそろ腕が治ってきたので、明日から動けますし」
ユンケは腕を滑らかに振って見せた。
「そうだね。頼むよ」
「任せて下さい」
店の看板娘は片目を瞑って笑ってみせた。
「御機嫌よう、シェリファン様」
シルビアは笑みを浮かべてシェリファンの部屋を訪れた。迎えたのはレイディアの代わりに付けられた新しい女官。彼女はまあまあよくやっていると言えるだろう。必要以上に王子らに関わらず、無口で、そつがない。年嵩の女官とも当たり障りなく付き合っているようだ。だが、レイディアと似ている性格の様で全く違う。彼女の穴を埋めるには至らなかった。
まさか彼女が蔭の一員だと知る由もないシルビアは、すぐに彼女の存在を忘れ、シェリファンの前に座った。
「ようこそ、シルビア妃」
「お勉強は捗っておりまして? こないだの教師をぎゃふんと言わせられました?」
「はい。貴女と…レイディアに教わりましたから」
シルビアは失敗したと思ったが、顔には出さなかった。
「それはよかった。あの教師、わたくしもいけ好かないと思っておりましたの」
シェリファンは小さく笑った。子供には不似合いな、控えめな笑みにシルビアは胸が痛んだ。
「…レイディアは何処にいるのだろう」
「殿下」
「すみません。でも、気になって」
「実はわたくし、先程王の許に行って参りましたの」
シェリファンはパッと顔をあげた。なんて怖い物知らずな。
「でも、ごめんなさい。彼女が今何処にどうしているのか聞きだすことは叶いませんでした」
「いえ、そのお気持ちだけで充分です」
しかし当のシルビアが納得していない。気落ちした様子で自分を責める。
「わたくしにもっと弁論の才があれば陛下に本音を吐かせることが出来るでしょうに…」
「………」
後ろに控えるリクウェルは微妙な顔をした。口の上手い深窓の姫も如何なものか。
「シルビア妃。わたしは、最初から…分かっていたのかもしれません」
だからレイディアが何も言わずに消えても、過剰にうろたえはしなかった。
祭の夜、貴賓席を立った王。
シェリファンは何処かへ去って行ったその背中を見送り、ついにその時が来たのかと心の何処で悟った。
初めて彼女と出会った日。飛び立つ白い鳩の中にあってなお白かったレイディアの肌。落ちつきのある夜色の空気。彼を守ってくれた体温の低い指。最初から分かっていた。彼女が普通の使用人ではないことくらい。
「…それに、レイディアは静かな性格ではあっても大人しく従順なだけの女性ではない。ああ見えて自分の思う様に動きます。彼女が心を決めたならば、自ら行動を始めるのではないでしょうか」
レイディアはうっすらと目を開けた。室内は薄暗かった。
ここ暫く、ギルベルト以外の顔を見ていない。彼付きの侍女とさえ顔を合わせない。現在レイディアの生活範囲はギルベルトの幾つか繋がっている私室内のみで、彼らが入ってこない限り会うことはないのだ。
あれから何日経ったのだろう。彼の余裕のない抱き方はレイディアから時間間隔を奪った。今が朝なのか夜なのかさえ分からない。カーテンで閉ざされた窓は、僅かな床の間隙から、微かな光しか齎さない。それを開ける気力も、今のレイディアにはなかった。
ここでの生活は、眠っているか、ぼんやりしているか、でなければギルベルトに抱かれているかのどれかだ。食事も、いつの間にか用意されている軽食を口にするくらいで、他にすることもなく、ただ流れゆく時間の中を漂い、寝台の上で過ごしている。
彼が部屋から出ることを禁じたからだけでなく、動けないほどに疲弊しているからだ。
彼が部屋に戻ってくる度にレイディアを求める。そして気が付くと彼はいない。いない時はおそらく昼間なのだろう。
人と会わないのに、部屋には埃が溜まらないところを見ると、人手が入っているのは確かだ。恐らく、ギルベルトに身を清められている間に、フォーリーが食事の用意なり掃除なりしてくれているのだと思う。その時は朦朧としているので、確かなことは分からないが。
レイディアの記憶が殆ど無い代わりに、彼の感触がくっきりと残っている。指の熱さ、息の匂い、汗の味、乱れた髪の指通りの悪さ。触れられていない今も、まるで絡み合っている時のように、彼に触れられた部分が疼く。
レイディアは、顔を横に向けて窓の方を見た。分厚いカーテンに遮られて見えない空を想像する。
「………」
静かだ。この世に生きているのは自分だけの様な。部屋の外には人がいるのだろうが、誰に会いたいとも思わない。今の姿を、見られたくない。ここのところ会話らしい会話をしていない癖に、声が枯れている理由も。
「……外に」
けれど、外に出たい。新鮮な空気に触れたい。靄がかった意識をすっきりさせてくれる、冬の香りがする風に当たりたい。
そして、考えなければ。これから起こること。今、ギルベルトが進めていることを。
大丈夫。まだ、間に合う。
だから
「…ギルベルト」
「…何だ」
久しぶりにレイディアの言葉を聞いた。ギルベルトはレイディアの肌から唇を離し、レイディアの頭を抱え、口付けた。
「ん……外に、出てもいいでしょうか?」
「なんだ急に」
「少し、散歩を」
ギルベルトは嗤った。
「今更、身体をほぐす必要があるのか?」
腹部を撫でられ、レイディアは身を捩った。彼には自覚はあるようだ。毎回彼女に無理な運動を強いていることを。そしてそれを譲歩する気はないらしい。
「…いけませんか?」
ギルベルトは一瞬考えるそぶりをしたが、承諾した。
「いいだろう」
その言葉を最後に、彼は身体を進ませた。
それに合わせてレイディアの身体が跳ねる。彼に触れられる部分が直に叫んでいるみたいに声の抑制が利かなくなる。彼に教えられたように反応してしまう。望むままに乱れるレイディアをギルベルトは更に壊そうと追及の手を止めない。
拒む気持ちと、身を委ねきってしまいたくなる衝動との鬩ぎ合いが、どうにか彼女を律していた。
けれど、それも、じきに終わる。
レイディアは、漆黒の瞳を、そっと閉じた。
翌日、レイディアはそっと柔らかい土を踏みしめた。
耳を擽る風の音が何故か懐かしく感じた。少し足元がふらついたが、何とか歩ける。
レイディアは空を見上げた。柔らかくなった陽光、淡い青の中で厚い雲がゆっくりと流れている。雲を追い越して鳥が二羽、仲良く壁の向こうへ消えていった。
「………」
天へと手を伸ばしかけたが、微かにリュートの音が聞こえ、手を戻した。目を向けると、赤く染まった葉の向こうから、その音は聞こえてくる。
引き寄せられるように踏み出したが、三歩も歩かない内に唄うような声の主が、その姿を現した。
「…王の秘宝を盗みに参りました」
黒紫髪の吟遊詩人が優雅に礼をした。これから美しい叙事詩を唄うかのように。
「盗まれて、下さいますか?」
レイディアは再び空を仰ぎ見た。綿の様な雲。指先を冷やす気温。優しい、歌声。
「…そうですね」
盗まれてみましょうか。