第四十話
「ああ、良い夜だ」
胡麻髭男は杯を高く掲げて勢いよく煽った。
「全くだ。これで土産話も出来た。娘達が喜ぶ」
痩身の男も彼に付き合って酒杯を干した。
彼らの酒席は自分らが所有する馬車の御者台。その少し高い位置からは座りながら巫女の舞を眺めることが出来た。新調する前の馬車では出来なかったことだ。昔はそれこそよく見ようと爪先立ちになって、首と爪先を痛めていた。だが今年は、巫女役の娘を小さくしか見れずとも、それでも舞の素晴らしさはよく分かった。毎年見る可愛らしい少女達の舞とはかけ離れた舞の荘厳さに、思わず零してしまった酒を二人は笑い合いながら拭き終えたところだった。
舞が終わって周りの騒ぎが戻ってくると同時に、彼らも二人きりの飲み会を再開した。露店で買った羊の唐揚げを摘みながら月を肴に呑んだ。
「土産といえばよ。女房から紅を買ってこいと言われてんだわ」
「ああ、そういえば俺の母ちゃんも簪がどうのとか言ってたな」
彼らは以前王都まで来た時、厄介な事件に巻き込まれた。その時は無事にことなきを得たが、その際の報酬として三金が支払われた。元々の雇い主ではなく、見ず知らずの若い女から。
彼女はにこやかに目を丸くした彼らに言った。知らない方が幸せなこともあると。その言葉は軽やかながらもずっしりと重かった。無力な彼らは大人しくその事件を忘れることにした。
何はともあれ、充分な金を手にした彼らは、家族に布や食糧を買い、農具を買い、馬車を新調した。冬の備えもばっちりだ。また、良いことは続くのか、彼らの身なりと馬車が幾分立派になると、取引先の対応の質が上がった。彼らは自分らの見た目も大事な信用に繋がることを学ぶ。最近では安定した収入のおかげで、今度は妻や娘達から土産をねだられるようになったのだ。
「でよ、何に使うんだと聞いたら、当然自分が使うに決まってると」
「ああ」
「俺は、言ったんだ。今更紅をさしたって大して変わんねぇと」
「お?」
「そうしたらよ、あいつ麺棒を俺に投げつけてきやがった」
二人は首を逸らして同時に笑った。胡麻髭男は頬をかいた。
「いや。後になってあれじゃ怒るのも無理はないと思ってな。何か見繕わんと」
「そうしろ。母ちゃんを怒らせれば男に未来はないんだぞ」
「お前も、精々簪を贈って機嫌とっとけよ」
「まあなぁ。何だって女は金に余裕が出来るとこうも色づくんだ」
「―よお、良い夜だな」
幸せな愚痴を零しながら肩を揺らしていると、彼らは声をかけられた。振り返ると、背中に荷物を背負った旅装の男がいた。
「ん? あんたとはどっかで会ったか?」
痩身の男は見覚えが無い様子だったが、胡麻髭の男はあっという顔をした。
「お、あんたは酒場の店主さんじゃないかい?」
すると痩身の男も思い出した。
「酒場の店主さんがそんな恰好でどうしたんだい?」
彼の装いは旅装。祭の為の晴れ着でもなければ仕事着でもない。
「ああ、実は店をちょいと休業してね」
酒場の親父は軽い調子で言ったが、二人は心配そうに身を乗り出した。店主の経営が上手くいってなかったのかと。しかし、彼は笑っていた。
「お前さん達に頼みがあるんだ」
男は紙と炭を取り出し、手早く簡単に彼らの顔を描いた。二人が感心していると、彼は言った。
「これでも絵描きの素養はあってね、暫く放浪しようかと。そこでだ。ちょっくら隣国までオレを送ってくれねぇか? この絵と酒が報酬。どうだい?」
情報屋兼酒場の親父は揚げ物を摘んだ。
「思ったよりも早かったな」
何度か剣を交えながらユリウスは零した。敵の陣中だというのに、その表情に焦りはない。単純にギルベルトの足止めに失敗した部下に失望しているような顔だった。二人は互いを制止したまま睨みあう。
「貴様が何か仕掛けてくるのは分かっていた」
「そうだろうね。それぐらい察することは出来るだろう」
ギルベルトの刃は両刃の剛剣。対するユリウスの片刃の細い剣が難なく受け止める。
「何しに来た」
「己のものを返してもらうのは当然のことだろう」
「レイディアは貴様のものではない」
「わたしのものさ。彼女が生まれた時から」
ギルベルトの瞳が剣呑に細められ、剣を弾き、大きく振るおうとしたギルベルトにユリウスは笑った。
「いいのかい? わたしの後ろにはレイディアがいる」
ギルベルトの動きが止まった。視線が自然と彼女に移る。彼女はぐったりと床に身を投げ出していた。あられもない乱れた彼女の衣に、彼らの間にあったことを言外に告げられ、ギルベルトの胸にユリウスに対する黒い憎悪が染みていくのを感じた。
「やはり貴様は四年前に殺しておくのであった」
「お前に殺される程、わたしはふ抜けではないよ」
彼らの殺気が渦巻く中、レイディアは漸く意識が戻ってきた。とはいえ思考は鈍ったまま、頭の中は靄がかかったようにぼんやりとしている。虚ろなまま衣を前で合わせ身を起こすと、すぐ傍に兄の背中があった。レイディアは反射的に身を起こし、兄の膝元に縋りついた。
「お兄様っ」
その有様は憔悴に萎れていた。それでも思慕に溢れた声だった。
「お兄様、もう許して…」
ギルベルトにも気付かず、彼女は掠れた声で紡ぎ出した。
「貴方を蔑ろにしたのではありません。私のお兄様。私の絶対である貴方をどうして無碍に出来ましょう。誰よりも愛してる貴方を…。けれど」
ユリウスに縋らなければ死んでしまうというように彼にしがみ付くレイディアに、ギルベルトは逆上した。
「そいつに触るな! 来い、レイディア!」
レイディアは、自覚するよりも早く彼の腕の中に飛び込んでいた。ギルベルトは彼女の衣で頭まで巻き付け、彼女を抱き上げた。切っ先をユリウスに向ける。
ユリウスは口を歪めて、憎々しげにギルベルトを睨め付けた。
「本当に忌々しい…。殺してやりたいよ、バルデロ王」
ユリウスは部下が壊した窓に身を寄せた。
「その子の身体はわたしの知らない癖が染みついていた。お前の癖だろう? …レイディアの鈴を奪って、その子の身体を良いようにしているのは分かっていたけれど、実際目にするとこんなにも腸が煮えくりかえるとは」
ユリウスは晒された妹の白い脚を見た。
「まあいい。帰ってきた後にゆっくり取り除けばいいことだ。わたしはお前の様にこそこそと裏口からその子を攫いはしないよ。正当な権利はこちらにある。今日はレイディアの晴れ舞台を見に来ただけだ。取り戻すなら正面から堂々と返してもらう」
レイディアの脚が強張った。顔をあげようとしたレイディアをギルベルトは肩に押さえつけた。
去り際、ユリウスはギルベルトを蔑んで嘲笑った。
「いくら身体を支配しようとも、お前がレイディアに愛されることはないよ。決してね」
とある宿屋の最上階、月明かり以外に光源のない暗い室内に、盗賊の一団を率いる二人の若者がいた。
一人は窓辺に腰かけ膝を立てて外を見ている。もう一人は壁に背を預け、窓辺の男と同じ窓の外を眺めていた。
「初めて見たが、これは期待以上だったな」
壁際の男が笑っている気配は、空気を通して窓辺の男に伝わってくる。
「全くよぉ、何がかんだ言って、ゼロだってちゃっかり投票してるじゃねえか」
「彼女が出るのなら話は別だ」
彼女に入れずに誰に入れる。断言した相方に壁際の男―ドゥオは笑った。
「いやしかし、意外とお嬢ちゃんの顔は広いんだな。直前に出馬したってのに、お嬢ちゃんに入った票の数はダントツだってよ」
「何処から仕入れてきた」
「ん? そりゃちょっと結果用紙を拝見したんだよ」
ゼロは溜息を吐き、膝頭に頭を預けた。
「どうせお前も彼女に入れたんだろ?」
「まぁ、そりゃな」
二人は同時に黙った。少ししてドゥオは口を開いた。
「で、お前はどうするんだ?」
「どうする、だって? そんなの決まってるだろう?」
大将軍ダイダスが警護にあたったその意味。大将軍が警護にあたるのは王と祭司長、そして正妃のみ。現時点で殆どの者は、気さくなダイダスがその祭好き性格の延長線で警護に名乗り出たと思っている。しかしいずれどんな鈍い者も知るだろう。彼は王直々に、責任を負う任務に命ぜられたことを。
だが、それが何だという。
二人は視線を交差させた。
「盗賊は、盗むからこそ盗賊だよ」
「そりゃそうだ。王の秘宝を狙わないのは大陸一の盗賊としての誇りが廃るね」
ゼロは腕の中のリュートを軽く爪弾いた。彼女の舞は詩人としての彼の創作意欲をいたく刺激してくれた。
彼の崇拝する彼の女に届けばいいと、彼は静かに唄いはじめた。
――巫女は何を望む
「王はどちらに行ったのであろう」
ラムールは首を巡らせてギルベルトの姿を探した。舞の観賞後、貴族達は王を交えての宴を開く予定だった。しかし宴の席に王の姿はなく、それでも宴は進みラムールは既にほろ酔い加減だった。
「ラムール様。そろそろ宴をお暇しましょう」
「マシュー?」
「まもなく冬が訪れます。早く祖国に帰り冬支度を始めねば」
宴だけではなく、彼はバルデロから出て行こうと言っている。しかし、ラムールはあと二日はここに滞在する予定だった。
「どうしたんだマシュー。今はそんなこと」
「殿下。わたしのことを信じて下さいますか」
マシューの様子はいつもと変わらぬようで、少し違った。腑に落ちないながらもラムールは首を縦に振った。
「勿論だ」
「ならばお早く。ラムール様は酒が強くは御座いませんし、バルデロ王もおられぬこの場に長居は無用。陛下も殿下のお帰りを待ちわびていらっしゃることでしょう」
「マシュー…?」
「それは困りますねぇ」
やけにせっつく彼に、重い腰を上げたラムールの前に何者かが近づいてきた。身なりの立派な男だった。この場にいてもなんら不思議ではない貴族の一人だろう。しかしラムールの記憶に彼と知り合った覚えがない。とはいえ、ラムールは毎日何十人と貴族達と出会って言葉を交わしている。その全員は覚えきれない。その中の一人だろうとあたりを付けた。
「何者だ」
ラムールが口を開く前にマシューが問い質した。いつになく厳しい彼は本当にいつもの彼らしくない。聞かれた男は腰の低い笑みを浮かべた。ラムールはその男をして蛇を連想させた。
「失礼しました。わたしめはゼオと申します。是非、栄えあるノックターンの王弟ラムール様と側近であられるマシュー殿とお話を致したく、無礼を承知でお声かけしました」
「レイディア様は」
クレアは神殿の医務室に姿を現した。下ろしたての服は所々破れたり解れたりしている。
「…お前のところにもきたようだね」
「…ああ」
クレアは身なりはぼろぼろでも目立った外傷は見当たらなかった。一番目立つのは頬の赤い線だ。
「殺したの?」
「いや。俺はレイディア様の命令がなきゃもう殺さない。奴らは突然俺から手を引いて逃げやがった」
強いねぇ。
殺さずとも奴らと渡り合えるクレアに苦笑し、消毒液とガーゼをクレアに投げた。
「レイディア嬢なら王が城に連れ帰ったよ」
巫女役は祭の間は神殿から出ない決まりだが、王は聞く耳をもたずにレイディアを連れて行ってしまった。仕方なくネイリアスはユンケに身変わりを命じた。後で祭司長に口裏を合わせるよう頼みに行かねば。
「…くそっ」
ソネットの青白い顔を見てクレアは毒づいた。クレアはソネットより早くレイディアの部屋まで戻っていた。そして奴らと遭遇し、刃を交えている内に、気が付けばクレアは部屋から遠ざけられていた。ソネットが出会ったのは、クレアが受け持った残りの奴らだった。
「大丈夫。レイディア嬢には怪我はない。…来たのは、彼女のお兄さんだから」
「兄?」
「そう。おれ達の天敵。漸く尻尾を出してくれた」
しかし、出したところで、もはやこちらが有利になることはなかった。向こうは準備が整ったからこそ姿を現したのだから。
レイディアが唯一冷静に対処出来ない相手。兄妹という絶対の絆が、レイディアを縛る。歪な兄妹だと分かるが、兄妹のいないネイリアスには、じゃあ正しい兄妹の形は何だと聞かれても返答に困るのだが。
「おれは娼館で育ったからな…。お前なら分かるかな?」
クレアは首を背けた。消毒だけしてガーゼも張らずにクレアは部屋を出て行ってしまった。
ネイリアスは溜息を吐き、ソネットに目を戻した。兄妹といえば、彼女が彼にとって一番兄妹という立場に近いかもしれない。
「…今、君に死なれたら困るんだよ。配下達の叱咤役や情報管理は代理出来ても、鷹爪と渡り合うには、おれでは力不足だからね」
ソネットの冷たい手を握りしめ、額に付けた。
「…目を覚ましておくれ、ベイリー」
ギルベルトはレイディアを抱き上げたまま真っ直ぐに自室へ戻った。彼の中からは今宵の宴も義務も全て消え去っていた。残ったのは怒りと狂おしいばかりの劣情だけ。
衣に包まれて苦しかったのだろうレイディアは、漸く解放された時、呼吸をするのに忙しく、自分が寝台の上にいることに気付いていない。
そんなレイディアをギルベルトはじっと見つめていた。かける最初の言葉が見つからない。彼自身、レイディア以上に心の中が乱され、冷静な態度を保つのにひどく難儀した。
「レイディア…」
レイディアははっとして彼を見上げた。同時に彼の寝室にいることにも気付き、忙しなくあたりを見渡した。
「あ…兄は」
この期に及んで兄の姿を追う彼女に、ギルベルトはいっそう苛立った。
「逃げた。シア達に追わせている」
「……そうですか」
「捕らえ次第、奴は殺す」
レイディアは顔を上げた。怒りとも動揺ともつかない光がその瞳に宿っていた。
「…それほどまでに大事か」
「当然でしょう。あの方は私のたった一人の兄なのですから」
「兄、か」
ギルベルトは嗤った。それにしてはやけに親密だった。
「お前は…あの男を愛しているのか?」
ギルベルトが寝台に腰かけると、レイディアの身体が揺れた。
「……」
「答えろ」
「…はい」
レイディアは彼が命じるままに答えた。ギルベルトの無表情は恐ろしい。表面が凪いでいる時ほど、彼の内側は煮えたぎっているから。
「男として?」
レイディアの耳をギルベルトは撫でた。熱い。指がうなじに届き、レイディアはぞくりとした。
「っいいえ」
レイディアは嘘を吐けないから、否といえば、真実そうなのだ。だが、ギルベルトの肩から力が抜けることはなかった。
「なのに…抱かれたのか?」
ギルベルトの問いは問いではなかった。ギルベルトはレイディアの手首を掴み、寝台に押し付けた。
「どうして…」
知っているの。レイディアは目を見張った。
「みなまで言わずとも分かる。奴は」
ギルベルトは言葉を途中で止めた。口に出して改めて突き付けられるのは耐え難かった。
「分かっているのか? その意味を」
「…私達アルフェッラの一族では近親婚は合法です」
レイディアの喉は震えていたが、その目に背徳の色はなかった。彼女にとっては当たり前のことだったから。たとえ、合意ではなくとも。
「兄です。たった一人の兄妹。かけがえのない唯一の兄」
レイディアはユリウスを恋しい男として慕っているのではない。だが、兄としてしか見ていようがいまいが、ギルベルトには大した違いはなかった。
彼女はユリウスを深く愛し、彼はレイディアを狂うほどに愛し、そして彼らは一線を越えた。それだけで充分だった。
「だから拒まなかったのか。求められるままに身体を開いたのか」
ギルベルトの力が強まる。ふつふつと、ギルベルトの腹の底から熱い物が湧き上がってきた。
「お前は、伴侶以外との触れ合いはしないと言っていた。奴が夫となるはずだったのか」
「…い、いえ」
「では、兄妹との間にその制約は例外なのか」
「いいえ。…しかし、私にとっては、兄は別格でした」
一番古い記憶でさえ兄の顔で占められている。彼女の思い出の殆どに彼はいた。ギルベルトと出会うまでは、ユリウスに抱きしめられ、口づけされ、爪の先までユリウスに愛されてレイディアは育ったのだ。十四までレイディアの世界の全ては彼だといっても過言ではないくらいにユリウスはレイディアの中を占めていた。
「けれど…少なくとも、身体を重ねるべき伴侶ではありませんでした」
レイディアとギルベルトは静かに言葉を交わした。けれど、彼の激情がいつ噴き出してもおかしくない張り詰めた空気を纏っていた。さらには、レイディアまでも、いつまで冷静に話せるか分からない状態にまで追い詰められていた。
先程、兄を前にした時に感じたのは、胸一杯に広がる恐怖、瞼を熱くする悲しみ。そして、抑えきれない歓喜だった。
そうだ、私は喜んだのだ。彼を憎みきることが出来ず、今でも愚かにも彼を慕い続けている。あの人を、死に追いやった張本人だというのに。
それでも愛する者であるのは変わらないのだ、兄は。レイディアの夫となる候補者達とは違うのだ。何故なら―
「私達“みこ”にとって、世継ぎを設ける為の行為は義務です。伴侶は次代の“みこ”を生みだす為の契約相手に過ぎない。大切にしますが、愛する対象ではない」
事も無げに言われ、ギルベルトの眉は寄った。レイディアは首を傾げた。何故納得してくれないのか。
レイディアが幼い頃から言われ続けてきたことは、レイディアだけでなく遍く国の王族にとっても当たり前のことだ。当然であり、普遍であり常識であるはずだ。ギルベルトも王だ。だから、この時のレイディアは彼が納得してくれると思った。
“みこ”は必ず複数の伴侶が宛がわれるので、レイディアは平穏を保つ為、彼らを平等に尊重することを言い含められてきた。
レイディアは何とかしっくりくる言葉を探した。兄への想いは伴侶に向けるものとは違うということを。たった一人の家族であることを彼に言い募った。レイディアが言葉を紡ぐ度に、ギルベルトの限界が近づいていることにも気付かず。
ギルベルトはユリウスの言葉の正しさを、レイディアに宣告されたように感じた。レイディアにとって伴侶は単なる契約相手。そして、レイディアの今の伴侶は自分だ。
〈-お前がレイディアに愛されることはないよ。決してね〉
それはつまり、レイディアの夫となることは彼女の愛を諦めるということを意味していた。彼女は言っていたではないか。ユリウスに、誰よりも愛しい貴方、と。
珍しいことではない。責任を負う王族にとって、愛する対象が必ずしも婚姻相手ではないことなど。
ギルベルトの瞳に黒い業火が燃え盛った。
「…俺はお前の全てを手にすることは不可能なのか」
レイディアはギルベルトの様子に気がついた。何故、兄への愛情が恋情ではないという説明をしているのに、そのような顔をされるのか。
レイディアはギルベルトを拒んだことはない。憎んだこともない。だからギルベルトとの間に世継をもうけることに何の異存もなかった。これまで彼が一線を踏み越えなかったのは彼の意思。レイディアはいつでも彼を受け入れる気でいた。
「どういう意味ですか? 貴方を夫として敬い、子を慈しみ育て、愛することを私は受け入れています」
レイディアにはそれが出来る。箱を閉じている限りは。
「貴方が望んだのではないですか」
ずっと彼に寄り添う伴侶。子を生む番。そうではなかったのか。
「貴方は私に妻になれといいました」
ギルベルトは目を閉じた。
「お前の義務感で与えられる慈愛などいらない。俺が欲しいのは、お前が自ら差し出す、心だ」
それは言葉で表現するならば恋着と呼ばれるものだ。ギルベルトは恋を経た愛が欲しかった。彼を求める飽くなき執着を、彼がいなければ立てないほどの依存を。男女の間にある、綺麗なだけではない生々しい欲望を。
レイディアは途方に暮れた。ギルベルトは確かに始めから全てを捧げることを欲していた。だからレイディアはそうしたはずだ。彼以外を伴侶とせず、彼以外の異性に目を向けず、従順に彼の懐に収まった。彼が王だから、それに相応しいように振る舞った。なのに彼は満足していない。何がいけなかったのか。
ギルベルトは理解しないレイディアに焦れた。ギルベルトが望む物は命じて差し出されるものではない。
そうではないのだ。
「お前は兄を男として愛してはいないといった。それは信じよう。だが、それならば、お前は誰を見ている?」
レイディアは目を見開いた。ギルベルトは気付いていたのだ。レイディアは彼の腕の外に目を向けていなくとも、レイディア自身の内側を見ていることに。
…それだけは、あげられない。
どうして、満足してくれないの。貴方に向けるものだとて、紛いものではないのに。
「お前は本当に分かっていないのか? 違うだろう。分かっていて、お前は目を背けている」
少しずつ、レイディアをこちらに引きこんできた。そして、レイディアは確かにギルベルトに寄り掛かり始めていた。けれど同時に、ギルベルトに側妃の許に渡ることを勧めてもいた。レイディアは嫉妬も怒りも、複雑な気持ちさえ抱いていなかったのだ。王たる者当たり前の義務を、ギルベルトに説いた。彼への想いが恋であるなら、レイディアが決して平気で出来ないはずのことを。
ギルベルトは当初、それをレイディアが世間知らずな所為で、男女の機微にも疎いのかと思っていた。それは間違いではなかったが、真実でもなかった。
レイディアは恋を知っている。レイディアを見続けていたからこそ、微かな差異に気付いた。その想いは、彼女の内側にいる誰かに向けられている。大切に仕舞われ、その者の存在は決して外に出てこなかったが…ギルベルトは、今日その名を知った。
ギルベルトがレイディアから望む物を受けとるには、その者からレイディアを奪わなければならない。恋と愛は別物。愛は全ての者に平等に配れる。恋は、ただ一人の者に捧げるものだからだ。
そして彼女は複数の者を同時に恋しく思うほど、器用ではなかった。
やめて…命じないで。箱が開いてしまう。ずっと、鍵をかけて隠していた箱が。彼が眠っていた、蓋が開く。
長い時間を共に歩む夫婦に、激しい感情はいらないのだ。だから、ギルベルトを夫として慈しもうとした。妻に恋人の役割を求められても、容易に振る舞えるものではない。
レイディアは閉じた箱を二度と開ける気はなかった。この命が尽きるまで、心の奥底に沈めて、誰にも見せず。彼が気付かなければ、望まれることもないと。
「エリックとは誰だ」
けれど、もう限界だった。
「………貴方には…関係ありません」
レイディアの拒絶に、ギルベルトは無理にレイディアと視線を合わせた。レイディアの目は真っ赤に塗れていた。
「…そっと、心の奥で想うくらい…彼を悼み続けることくらい、どうして許されないのでしょう」
ギルベルトに、彼への想いを曝け出すことも、忍ぶことも、悟られるような振る舞いもしたことはなかった。箱の蓋をそっと撫でるだけで、閉じた後は中を覗いたことさえなかった。レイディアから溢れる雫を、ギルベルトじっと見つめた。段々、彼女の目から激情が浮かびあがってくる。
兄がレイディアの恋慕の情を求めた時、彼女からエリックを奪った。
ギルベルトは、どうなのだろう。
エリックの想いを隠したのは何も自分の為だけではない。単なる契約相手だとしても、昔の想い人の存在は快いものではないだろうと思ったからだ。なのに彼は自ら暴くのか。
「貴方は、望むのですか? 彼への想いを?」
エリックはもういない。それでもその想いが彼の物であり続けるなら、どうやって奪うのか。まして、その心が、レイディアの中にあるのなら、それを取り出そうとする意味は、即ちレイディアの心の破棄を意味する。
レイディアは知らない。恋をする相手が必ずしも生涯でただ一人とは限らないことを。
「貴方が望むなら、どんなものでも差し出しましょう。でも、私のとうに失われた思い出まで、奪わないで…!」
レイディアの悲痛な叫びがギルベルトの胸を貫いた。
一つしか無い物を、同時に求められた場合、奪い合いが始まるか、でなければ彼女が潰れる。
自分で言った言葉が今彼に戻ってきた。そして奪う相手がいないなら、結果は後者に絞られる。
「私は貴方を夫として愛することは出来ます。それでは足りませんか? これから先、貴方以外に伴侶を迎えないと誓っても?」
彼が望めば最後。レイディアのエリックという男への想いは消えるが、彼女の心も消え、ギルベルトはレイディアの心を手にする機会は永遠に失われる。新たにギルベルトへ差し出される想いは、命令されて作られた紛い物の恋情。
彼女は顔を覆い、奪わないでと叫んでいる。蓋を開けるのは何人も許さないと。他の男を思って、彼女が泣く。
ギルベルトは押えがきかなくなった。
「―もういい」
ギルベルトはレイディアに引っ掛かっていた絹を剥ぎ取った。
「何を…」
レイディアの口を塞ぐ、内腿を撫でられ、レイディアは泡立った。ギルベルトの翠の瞳は凝っていた。
「お前は言ったな。俺を拒みはしないと」
ギルベルトの手が熱い。身体中が燃え盛っているようだ。今の彼は、嫉妬と悲しみに支配されていた。
「ならば、今すぐにでも俺を受け入れられるな?」
エリックという見ず知らずの男への悋気。ユリウスが彼の知らないレイディアを知っていることへの嫉妬。微かに残っていた理性が、止めろと諭したが、それを上回る激情がギルベルトの忍耐を焼き切った。
「いや…やめてっ」
「黙れ」
レイディアの舌が動かなくなった。ギルベルトはその隙にレイディアの口内に入り込み、舌を絡ませあった。
「ん…ん」
ギルベルトの指が舌がレイディアを押し上げて行く。レイディアは気持ちとは裏腹に女としての部分が擽られていく。
「ぁ…やっ」
舌が動かないから言葉にならない。ギルベルトの炎を分けられ、レイディアの身体にも火がついた。時間をかけて身体中に朱が散らされ、焦らされた。彼の愛撫は噛みつくようで、レイディアは痛みに呻いた。
いつの間にか彼も衣を脱いでおり、互いの素肌が合わさっていた。
赤い衣はレイディアの周囲で波打ち、レイディアの身体はギルベルトに触れられる度にその赤に近づいていく。
レイディアの赤は、椿の赤だ。
ギルベルトはその赤に酔い、凶暴な獅子が顔を覗いた。
彼の手が少しずつ下へ下がり、ついにそこに辿り着くと、レイディアは刺激に撥ねた。レイディアの足がギルベルトの肩にかけられ、レイディアは首を振った。懇願する様な目を向けられ、ギルベルトはささやかな満足感を覚える。
そうだ、俺だけに意識を向けていればいい。レイディアの身体はギルベルトの指に素直に反応する。時間をかけて仕込んだのは他でもない自分だ。
彼は彼女の腰を捕まえ、身体を前のめりにした。
レイディアは己の身体が、心と合致していないのに気付く。焦燥感に暴れる心を無視して、拒むことなく素直にギルベルトに委ね、彼を貪欲に求めている。
彼を兄と感じているのでもなく、まして恋人として見てはいないはずなのに、彼の腕に安心している。
彼は夫。彼は鈴主。次代に繋いでいく為の契約相手。この行為は子作りの為で、レイディアがどんな気持ちでいようとも関係無く彼を受け入れるべきだと頭では分かっていた。それが正しい彼への態度なのだと。
けれど、何故か今は彼に抱かれたくはなかった。彼への想いが何なのか分からないまま流されたくない。彼とすれ違ったまま繋がりたくはなかった。気持ちが彼に伝わっていないことが悲しかった。そして今のギルベルトにレイディアの声は届かない。
悦ぶ己が身体に嫌悪した。儘ならぬ身に、心が絶望に崩れていく。
どうして。
その疑問は問うまでもなかった。
そうだ、私は四年間、この腕の中で…
悟った瞬間、灼熱の炎が、レイディアの腹部を貫いた。