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鈴の音の子守唄  作者: トトコ
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第三十九話

エリカは人気の無い道を一人歩いていた。

二つ角を曲がった大通りではざわめきが聞こえる。エリカは先程までその中にいた。今手に持っている串焼きを買う為に。


エリカは何日か前―多分三日前―に、ネイリアスにたらふくご馳走を食べさせてもらった。そして満腹で良い気分になったエリカは担がれ、何処か仄暗い所に放り込まれた。

お昼寝に丁度いい暗さだ。だが、騒がしく男達の叫びや、バタバタと足音がしたかと思うと、いきなりエリカに向かって手を伸ばしてきた。騒音は気にしないエリカだが、気持ち良くお昼寝をしようとごろごろしていたところに、その手は不愉快だった。だから、その大きな手を捻り折った。

これで眠れるかと思いきや、手の数が増えた。

何が何やらのまま、エリカはその全てを振り払った。煩い。邪魔。お昼寝が出来ないよ。


エリカは不機嫌のままに振り払い続けていたら、いつの間にかあたりは静かになっていた。

もう手は伸びてこない。エリカは機嫌を直し、さあお昼寝をしようとしたら、お腹がすいていることに気付いた。

エリカはきょろきょろとして、部屋の奥に大きな箱があるのを見つけた。エリカは目を輝かせた。ソネットから、人はお金を黒くて冷たくて堅い箱の中に入れることが多いと聞いていた。だからきっとこの中にもお金が入ってる。エリカだってちゃんと食べ物を得るにはお金が必要なのは知っている。だからその箱を壊した。

金色が殆どだったけど、中にはちゃんと銀色と錆色のお金が入っていた。これでいい。金色を使うと何だか沢山返ってきて手が塞がってしまう。だからこれがいい。


一握り掴んで街に出た。あたりが騒がしい。まるでお祭りだ。お祭り。エリカの大好きな食べ物が沢山並ぶ日。五銅と二銀じゃ足りないかもしれない。エリカは口の中に唾を溜めて露店を物色した。

色々買って食べ歩いた後、眠くなったエリカはソネットの家に帰ろうと、お土産とは別に、帰りの道中用の串焼きを三本買った。

エリカはこの上なく幸せだった。

串の下の肉を歯で上に引っ張り、最後の塊を食べようと口を開けた瞬間、串が下半分を残して飛び、肉が地に落ちた。

「エリカのお肉……」

悲しそうに呟くエリカの背後に、音も無く近づく影があった。その影はエリカの頭上に剣を振り降ろした。


が、彼は前を向いたままの獲物に、腕を伸ばされ、顔を鷲掴まれた。


エリカは腕を大きく振り被ってその顔を地面に引き倒した。潰れた顔の傍に転がっていたお肉に息を吹きかけ、今度こそ頬張った。少しじゃりじゃりした。

最後の肉を惜しむように咀嚼する間も、エリカの周りには黒いものが沢山増え続けた。

「いーち。にー。さーん……」

数を数えながら、きちんと噛み終えたエリカは、ごくんと飲み込み、肉汁の付いた口を舐めた。

「…さんじゅう」

嬉しそうな呟きと同時に四方から一斉に影が飛びかかってきた。







息が出来ない。目を瞑れない。耳を塞げない。逃げられない。

目の前にいるのは、現在アルフェッラを事実上統治している、アルフェッラ執政官長ユリウス。レイディアと同じ髪と瞳をした、実の兄。

レイディアを強く抱きしめ、自分に凭れている兄の香りに眩暈にも似た酩酊感が襲う。レイディアの肩に、ユリウスの心臓の鼓動が伝う。

「レイディア…」

ユリウスは、存分に妹の柔らかさを堪能した後、ゆっくりとレイディアの身体を自分へ向かせた。

「ああ、レイディア。大きくなったね。もっとよく顔を見せておくれ」

顔を覆う髪を払われ、顔を上げさせられる。否応なく兄と目が合う。

「それに、ますます美しくなった。母上にそっくりだ」

母、という言葉にレイディアは瞳を揺らした。優しい言葉。穏やかな笑み。頬を撫でる指。何も変わらない。四年という月日など無かったかのように。生まれた時からずっと見てきたその顔を見るだけで、レイディアは泣きそうになった。そんなレイディアを兄は苦笑しながら頭を撫でてくれた。それがいっそうレイディアの涙腺を緩ませる。

いつもそうだ。兄の手は、レイディアをいつまで経っても子供なんじゃないかと思わせるのだ。一人では何も出来ない無力な…。

「おにいさま…」

「どうした? ああ、舞で疲れているんだね。舞の後はいつもぐったりしてしまうからね、レイディアは。素晴らしかったよ。兄として誇らしく思うよ」

木偶人形のように固まって動かなかった身体が、彼に触れられる部分から弛緩していく。

兄は変わった? それとも何も変わっていないのだろうか。分からない。彼が私に見せる面はいつだって穏やかなもの。違う面を見ても、それが以前からだったのか、レイディアが去った後から変化してしまったものなのか分からない。


胸の痛みがひどくなる。安楽と、絶望がい交ぜになり、レイディアを掻き乱した。耐えられす、近づいてくる兄の顔から目を背けた。避けられないと分かっていても。

レイディアが身を引いて出来たその隙間に、あの人の顔が滑り込んできた。

…耳鳴りがする。過去の音がわんわんと響く。耳を塞いでも、いっそうよく聞こえるようになるだけだった。


軋む音 湿った音 喘ぐ息 囁かれる残酷な睦言 そして流れる赤い水と透明な水


〈大丈夫。君を煩わせるものは全てわたしに任せてくれればいい。君を幸せにするのはわたしの役目だから〉


理性が引き千切られる。決死の懇願も封じられた。支配される恐怖と快楽に怯え、身を丸めても男の力には抗えない失望感。そんな彼女を愛しそうに抱く腕に猶も縋るしかない己に嫌悪した。

頭の中が白く黒く点滅する。やめて、止まって、箱が…蓋が…


〈――もうやめて〉


そしてユリウスは、焦点の合っていないレイディアの顔を元に戻し、優しく、彼女の上に覆い被さった。







「陛下」

声は主に声をかける。ギルベルトはシアの声など聞こえていないかのように前に進み続けた。

「陛下。あちらにはソネットらがおります。大将軍の部下達も…陛下っ」

「黙れ」

レイディアが舞台から消えると同時に、ギルベルトは即座に席を立った。引きとめる臣下達をあしらい、客人の相手をテオールを始めとする側近らに任せ、レイディアの許に向かった。去り際、シェリファン王子の何処か悟ったような顔だけは妙に頭に残った。


神殿前は人で溢れており、舞の直後ということもあって興奮の絶頂にあった。ただでさえいつにない興奮の渦中にあるというのに、その上彼が割り込めば場が混乱するのは必然。収集がつかなくなる。そして人目を避けようにも、ギルベルトがいた貴人席から降りると、多くの近衛兵や客人の従者達がうろついていた。

ギルベルトは王の立場を呪い、彼に最も近い近衛三名と声だけを護衛にどうにか人気のない神殿脇まで移動した。


祭のざわめきが遠のくと同時に、彼の前に立ち塞がる影が姿を現した。影から伝わるのは紛れもない殺気。即座にギルベルトの前に身を乗り出した近衛と影が同時に抜刀した。ダイダスに鍛え抜かれた彼らは突然の襲撃にもうろたえることはない。彼らは一瞬互いの顔を見合わせ、頷いた。

「…陛下、ここは我らが」

近衛は二人その場に残り、一人だけギルベルトについてきた。近衛二人が対処しきれなかった敵をその近衛が引き受けた。声も当然応戦した。弓を引き、ギルベルトの背後をとった凶手を仕留める。

「……く」

何度か挑発するも、彼らはこちらの誘いに乗ってこない。どうやら、ギルベルトの足止めが目的の様だ。彼らが踏み込んでこない故に深手を負わせられないのでいっこうに決着がつかない。

焦れたギルベルトは舌打ちをして、剣を一閃させた。返り血が式典用の衣装に飛ぶが、彼は目に留めもしなかった。気掛かりはただ一つ、レイディアだけだった。


胸騒ぎはしていた。この凶手らを見て、確信に変わった。レイディアの兄ユリウスが、とうとう来たのだと。

厳重な警備など、何の慰めにもならない。誰の護衛も心から安心することが出来ない。レイディアを手元に置いておく以外に、ギルベルトを安心させる術は無いのだ。

今頃奴は…レイディアの許に…


ギルベルトは怒りのままに叫んだ。

「――どけっ!」







ダイダスは酒瓶を片手に警備に戻った。口の中にはナッツの飴。今朝、綺麗な袋が部屋の前に置かれていたのだ。袋の口は白百合で飾られており、中にはナッツを絡めた飴が入っていた。ナッツは好きなので喜んで食べた。贈り主の名は分からないが、恐らく宿舎の軍に憧れる小姓の一人が贈ったのだろう。

万が一、ダイダスの地位を狙う者の贈り物だとしても、食糧を現地調達しなくてはならなくなった極限状態の戦場で、腹を下しながら食べていたダイダスにはたいていの毒は効かない。

果たして、その飴は毒入りでも、腐っているのでもなく、大変美味だったので、二つ三つと有り難く頂いた。


「いかんな、呑みすぎたか」

先程まで古い知り合いである祭司長と共にレイディアの舞いを見ていた。その後、警備に戻ると早速神殿に忍び込もうとした呂律の回っていない男を検挙して配下に引き渡した。その男から取り上げた酒が彼の手の中に残った。まだ封をきっていない瓶もあった。有り難く頂いた。どうせ今夜は徹夜で警備に当たるのだ。戦に踏み込む前の高揚感にも似た高ぶりを感じている時に酒を呑むと、いつもより酒の効果が長引き、活力を保たせることが出来るのだが、酒濃度は思いの外強かったのかもしれない。

ダイダスは調子はずれな鼻歌を歌いながら部下達がサボっていないか見回った。兵達はダイダスをからかいまじりの非難を浴びせながら報告をした。全く威厳の欠片も無い。しかし、ダイダスにとって配下とのこの距離は心地いい。立派な人間ではないことを自覚している自分に畏まられるのは居心地が悪い。


見回りを終え、神殿の傍まで戻ると、雑木林の方から微かに鉄の匂いが漂った。

「……ん?」

無意識に剣の鍔に手を添え、血の匂いの許を辿った。その源はすぐに見つかった。

「…おいっ! 大丈夫か!」

茂みの中に兵士が数人血塗れで倒れていた。一兵卒だが、れっきとしたダイダスの配下だ。急いで抱き起こしたが、彼らは既に息はなかった。

「くそっ…舞の最中か」

人の注意が舞に集中する時ならば、誰にも気付かれずに警備を突破できるだろう。しかもダイダスはほんの一時とはいえ、神殿から離れていた。侵入者にとって最も脅威となる筈のダイダスが。

あたりに人気はない。彼らを殺害した者はおそらく…。神殿への入り口に目をやり、ダイダスは顔を険しくした。


神殿は、神職にある男子以外の男性の出入りを禁止している。ダイダスら兵達も例外ではなく、警備範囲は神殿の周辺と、混乱しやすい舞台の観覧席が限界である。身を清めた神殿直属の兵もいるにはいるが、数が少なすぎる。しかも、その兵らは祭司達の護衛が主な仕事だ。神殿を守る任には付いていない。

つまり実質神殿にははっきり言って、吹けば飛ぶようなひ弱な男と、か弱い女子供しかいないことになる。…祭司長は別だが。

「おいおい…なんてことだ」

舞が終わった今、神殿奥には、この国の誰よりも最優先で守らねばならない少女がいる。

ダイダスは殉死した兵の胸の上に手を合わせてやり、神殿内に踏み込んだ。







「あ、いたいた、ホイップさぁん」

ネイリアスは忙しく動かしていた頭を声がした方へと固定した。手を振っているのはユンケ。ネイリアスは人混みを掻き分けて彼女に歩み寄った。

「ああ、良かった。行き違いになったかと思ったよ」

「そういうなら、ちゃんと中央広場で待ってて下さいよ」

今日のユンケはいつものツインテールにひと手間かけて毛先を捲いている。服装もいつもより飾りっ気が二割増しだ。何処から見ても流行に敏感な今時の娘だった。

「いや、そんな迷子の落ち合いみたいな…」

「だってホイップさん、間が悪いんですもん。念には念を入れないと」

ネイリアスは、祭の間は神殿から出られないレイディアの為に、ケーキや屋台の食べ物を用意したのだが、何といって彼は間が悪い。ばっちり警備兵に見つかって尋問されたりしたら面倒なので、ユンケがレイディアの準備の手伝いを抜けて迎えに来たのだ。

「ホイップさんはディーアちゃんの舞は見れました?」

「一応ね。でも、すごく遠くて、レイディア嬢は豆粒大でしか見れなかったよ」

「あー勿体無い」

ネイリアスとて残念でならない。こんな時でなければレイディアが舞うことはないだろうから。けれど、あの荒波を分け入って舞台に近づく度胸も体力もネイリアスには無かった。だから知り合いという特権を生かして控え室に入る優越感で我慢することにする。

「まあ、しょうがないですよね、凄い人だったから」

舞台が終わって人が再び動き出した今、真っ直ぐ歩けない程に道は人でごった返している。これだけの人数が観客席にいたのだ。貴族を合わせるとそれ以上。押しの弱いネイリアスに対抗出来るわけもない。

「いいなぁディーアちゃん。あれだけ人がいる前で舞うのは爽快だろうなぁ。私も一度でいいから、ああいう大きい舞台に立ってみたい」

「おれはあんな大人数を前にして平然としていられる自信は無いよ」

「そうですか? 皆自分に注目していると思うとゾクゾクしません? 私は太陽の真下。最も光を纏い周りを照らしているの、って」

ネイリアスは、舞台のヒロインのような台詞を高らかに読み上げるユンケを微笑ましげに見つめた。

「いいねぇ若いって」

「ホイップさん、オヤジ臭いですよ」

「どうせ、おれはもう若くないよ」

ユンケは腰に手を当ててネイリアスの鼻先に人差し指を突き付けた。

「だめですよ? そんなこと言っちゃ。人は自覚した瞬間から老いるんですから」

「良いこと言うね」

「当然です。女優は不老なんだから」


他愛のない会話をしていれば、すんなり神殿まで辿り着いた。神殿周辺は警備が厳重だ。ユンケが確保しておいた場所から難なくお邪魔した。

「こんなに簡単に入れてしまうのも不安になるね。警備に不備があるとしか思えない」

「神殿は自治権を持ってますからね。祭の為とはいえ、軍にうろちょろされるのは嫌なんでしょうね」

「祭司長は話の分かる人なんだけどね」

ユンケは肩を竦めた。

「神殿だって一枚岩じゃないんですもん」

「こちらとしては好都合だが、良からぬことを考える者にとっても、それは……同じだ」

「……それは、そうですけど」

二人は時折感じる人気を避けながら、神殿奥まで急ぐ。レイディアの部屋の扉が見えると、ネイリアスは叫んだ。


「――ソネットッ!!」


まさにソネットが何者かに脇腹を貫かれ、ゆっくりとくずおれるところだった。

「店主!」

叫びと同時にソネットに止めを刺そうとした凶刃が鞭で縛りつけられた。敵の剣を、ユンケの革製の鞭が押さえ付けたのだ。ビィン、と剣に絡み付いた鞭が張り、剣を奪った。


ネイリアスはその隙にソネットに駆け寄り、傷の具合を診る。ネイリアスは眉を顰めた。深い。ネイリアスは上着を脱いで傷口に当てた。

「ユンケ」

「はい」

呼びかけにユンケは頷いた。ソネットの救命はことを急ぐ。ネイリアスはソネットを慎重に抱き上げ、その場から逃げようとした。神殿には一般に開放された医務室がある。そこまで…

「邪魔するんじゃないよ」

ユンケが取りこぼした敵の一人がネイリアスに迫った。ネイリアスはケーキの箱を投げつけた。クリームで眼潰しされて怯んだ隙を狙ってネイリアスは敵の首に刃を当て、引いた。

一人を片づけても敵はまだ五人残っている。ユンケ一人では対処しきれないかもしれない。

「いいんです。行って」

ユンケはネイリアスの懸念を読み取り、彼を促した。一瞬考えたが、ネイリアスは頷いた。

「…死ぬんじゃないよ」

「死にませんよ。女優は永遠なんですから」

どんな表情をしているかはネイリアスからは見えなかったが、ユンケの声は、笑っていた。



ネイリアスが去り、ユンケと五人が対峙した。

「…あんた達は死刑囚。そして私は美人な処刑執行人てとこね。精々美しい執行人に悶えながら死ぬ様を見せて頂戴」

ぱしんと鞭をしならせ、彼らを威嚇した。今のユンケは嗜虐的な執行人。囚人の殺気に片目を瞑ってやり過ごす。

敵はユンケの隙を伺い、彼女は奴らの死角を狙った。ここはユンケらの陣営。硬直状態が長く続けば続くほどユンケには好都合だ。しかもここは廊下。大人数というハンデは有利に働かない。

ユンケがするべきことは時間を稼ぐこと。問題は、それだけの時間が自分に稼げるかどうか。

まあいい。負けなければいいのだ。どんな手を使っても。

ユンケは唇を舐め、悠々とした笑みを浮かべた。






ダイダスは神殿をひた走った。神殿にはやはりというか人気は少なかった。祭は神殿の者達にとって一番の働き時。彼らは収穫祭において重要な仕事を担うのだから、出払っているのは当然である。

ダイダスはまだ小さく口の中に残っていた飴を噛み砕いた。その仄かな甘みがダイダスの思考を冷静に保たせる。

油断をしていたわけではないが、神殿の周りには庶民から貴族まで大勢詰めかけている。だから良からぬことを考える者もおいそれと動けないだろうと、些か甘いことを考えていたのも事実だ。

ダイダスは忘れていたのだ。それは同時にダイダスをも動けなくさせることを。騒ぎを起こす者達の数が多ければ、それだけ警備は薄くなる。そして警戒の目が少なくなれば、それだけ動きやすくなる者達がいることを。

祭で気が緩んでいたというのは言い訳にならない。もし、彼女に何かあれば…ダイダスは自分が許せない。

奥に行くほど人気は完全に無くなった。そこは祭の騒ぎとは無縁の静けさを保っていた。まるで彼女のように、清涼な空気がそこには当たり前のように存在している。


やっとのことで彼女の控え室の近くまで辿り着くと、厳かな雰囲気に不相応な音が聞こえ、ダイダスの緊張は急速に高まった。

鞘から剣を抜き、勢いを付けたまま角を曲がる。まず目に映ったのは三つの黒い影と女。地面には影の仲間と思しき者が四つ転がっている。特に外傷が認められないもの、何故かクリームと血に塗れているもの、目を潰されたもの、そして水ぶくれだらけのもの。

これは一体…


「あぁっ! 兵士様、助け下さいませ!」

若い女がダイダスに気付くと、縋るように彼へと駆け寄ってきた。

「これは…」

「私、ディーアちゃんの付き人で…。部屋に入ろうとしたら、いきなりこいつらが…」

女はしおらしく口元に震える手を当て、鼻を啜った。目には涙が滲んで潤んでいる。彼女が彼らに堂々と対峙しているように見えたのは気のせいだったらしい。怯えきっている女が武器を振りまわすなんてとても想像がつかない。やはり酒など呑むんじゃなかった。先程の金属音はきっと彼女を脅す為に奴らが立てたに違いない。歳をとると酒に弱くなるというが本当の様だ。

ならば床に転がっている者達を倒したのは誰なのかが気にはなったが、今はそんなこと聞く余裕はない。


ダイダスは彼女を後ろに庇い、代わりに黒い影と向き合う。

「こやつらは、わたしが引き受けよう。君は人を呼んで来てくれ」

「はい」

女は即座に頷いた。それを確認した後、ダイダスは片足で床を強く踏みしめ、敵の懐に飛び込んだ。

ダイダスは彼らの刃の受け方だけを見て、彼らの力量を測った。いづれもバルデロの隊長以上の実力。ダイダスでも一度に三人を相手にするのは骨が折れそうだ。剣は一対多数には向いていない。ダイダスは手のひらに唾を吐き、拳も使えるように剣を片手に持ち替えた。



ユンケは頷いたものの、どうにか扉を塞ぐ彼らの隙を突いて部屋に入れないものか機会を伺った。ダイダスが来たのは幸運だ。これで奴らは退けられる。だが、レイディアの許にこれだけの人数が現れたのなら、王の所にもいるのではないだろうかと思い至った。

王がやられるなんてまず無いだろうが、もしそうなら確実に足止めを食らっているのだろう。そうでなければ勘の鋭い我らが主がここにいない理由に説明がつかない。


ならば王の方へ加勢しに行こうかと振り向けば、既にその必要はないと知った。







レイディアはこれまで、何の苦しみもない神殿の奥で生きてきた。一歩外に出れば、屍が山積みにされ、盗賊が跋扈し、子供が売られていることなど知りもせず。それに伴う憎しみや悲しみの行く末など何一つ知らずに。

あの人と出会ってからは、少しは聞き知ったけれど、遠い国の物語のようだった。辛い思いを味わったことが無かったから、何が辛いことなのか分からなかったのだ。

けれど、レイディアはついに知る。強制的に思い知らされた。

自由にならない雫を知った。幾人もが流してきた理由を知った。堪えようとすれば心が歪んでしまう。涙を流して、少しでも圧迫を取り除かねば崩れる己を、実感した。


「レイディア?」


はっとして、レイディアの視界に控え室が戻ってきた。肺が急いで空気を取り入れようと膨らんで苦しい。そして身体は熱いのに芯は冷え切っていた。

レイディアの周りに幾本もの帯が血の様に流れていた。衣装の下に重ね着していた肌着も、乱されて肩のあたりにどうにか引っかかっている状態だった。赤い衣装を床にして、ユリウスに片手だけで抑え込まれていた。

「美しいよ、レイディア」

ユリウスの手によって露出を極力抑えた衣装を保つ帯は解かれ、前が肌蹴られている。彼の指が簪を一本一本丁寧に引き抜き、髪を下ろしていく。深緑と赤色が絡まる様をユリウスは楽しんだ。

既に彼から刺激を受けていたレイディアの身体は赤みを帯び、息を切らしていた。それでもレイディアはじっとしていた。否、動けないのだ。レイディアが抵抗すれば、それだけ兄の力を強め、逆に彼女の足を開かせる隙を与えてしまうことを、以前の経験から学んでいだから。

「…舞は素晴らしかったけれど」

挿していた椿もとっくに取られてしまっていた。ユリウスはレイディアに口付けながら囁いた。

「舞台は君が舞うには小さすぎたね。君には相応しくなかった」

レイディアを落ちつかせるように頬を撫でる。兄としての手と、男としての舌が、同時に彼女を攻める。

「今まで待たせてすまなかったね。一緒に、帰ろう」

「お兄様………私は…」

滑稽なほどに、レイディアの声は震えていた。たった一言紡ぐだけだというのに、ひどく苦労した。

「私は…帰りません」

ユリウスは小さく溜息を吐き、聞き分けのない幼子にするように、レイディアの肩に手を置いた。

「いいかい? あれに関してはちゃんと話し合った筈だ。君を惑わせるものは何であれ罪悪なんだよ。罪人は速やかに罰するのがわたしの務めだ。分かるかい?」

「…彼は罪人などではありませんっ…彼は…私の」

「レイディア」

静かに名を呼ばれただけで、レイディアの身体は叱られたように身を縮こまらせた。

「困らせないで、レイディア。我儘なら国に帰った後にいくらでも聞いてあげる」

親指の腹で目の下を撫でられる。そして、彼の歯が、頬を食むように軽く触れた。

「おに…」

「お外で遊びたいなら、時々なら神殿の外に出してあげよう。小一時間くらいなら街を散策することも許可しよう。今のわたしには、それだけの権限があるからね」

「お兄様、聞いてくだ」

「もう、充分外の世界を楽しんだだろう? 遠足はもう終わりだ。帰っておいで」


レイディアの目が見開いた。帰る。あの、神殿に。全てが揃いながらも、何も無かった、神殿に?

再び過去の情景が襲いかかり、彼女は冷静さを失った。固定された身体で唯一自由な首だけが、狂ったように振り乱れた。

「いやっ…いやです。私は帰りません。帰りたくない」

レイディアの意識は飛びかけていた。それ故に、心の奥底の想いが覗く。兄の顔色を伺う余裕も無く。レイディアはうわ言の様に同じことを何度も繰り返した。段々と彼女の声が高くなっていく。

お兄様、どうして、許して、やめて、ひどい、悲しい、嘘だと言って、許せない、愛しい、貴方が、恨めしい。


「――私からエリックを奪った貴方が……っ!」


レイディアの叫びと、扉が乱暴に開かれる音は同時だった。


「…来たな」


放心したレイディアからユリウスは手を離し、後ろを振り向いた。


―刹那、凄まじい轟音が室内に鳴り響いた。





振り下ろされたギルベルトの剣と、迎え撃ったユリウスの剣が打ち合わさり、火花を散らした。




活動報告にて小話あります。

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