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鈴の音の子守唄  作者: トトコ
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第三十八話

声をかけられ、レイディアは目を開けた。

「綺麗よ、ディーアちゃん」

パフを持ったソネットが、レイディアの頬に押し付けながら言った。

レイディアは、鏡の前にいる巫女装束の少女が自分だと気付くのに一瞬かかった。

鏡で自分の顔をじっくり見たのは久しぶりだった。鏡は所持している。鏡は高価だというのに、無駄に大きい物をギルベルトに与えられたが、あまり使っていなかった。一介の使用人風情が持てる様な物ではないので、フォーリーの屋敷に置いてきた。


鏡の中でレイディアと目を合わせ、ソネットは化粧の出来具合いを確かめた。

「出来た。ほら、完璧。後はベールを被れば完成ね」

「…ありがとうございます」

レイディアは腕をそっと撫でる様な柔らかい絹の裾を持ち上げて髪や肌を触った。

「お忙しいようでしたのに、態々来て下さって」

「何言ってるの。可愛い妹の為なら大陸の端にいたって帰ってくるわよ」

ソネットは軽くレイディアの頬を突き、化粧箱を片づけ始めた。

そうとも。仕方なく衣装や装飾選びはシルビアとシェリファンに譲ってやったが、レイディアを綺麗に着飾らせるのはソネットと決まっている。


ソネットはレイディアを盗み見た。

目を隠すように伸ばされた前髪を少し切っただけで印象ががらりと変わった。癖の無い濃緑の髪がレイディアの輪郭を縁取り、腰まで艶やかに流れている。幾つもの美しい簪や髪飾りがレイディアの頭部で輝いているが、どれも彼女を引き立てる物でしかない。シェリファンが選んだという金糸の刺繍がなされた絹の衣装は、レイディアの白い肌によく映えた。

化粧などしなくても充分綺麗なレイディアだが、今のレイディアは普段よりずっと大人びて、とても美しかった。



レイディアは座ったまま、鏡を見つめたり、裾を持ち上げたりして自分の恰好を確認した。

ソネットの化粧の腕前は素晴らしいと思う。女の蔭の仕事は主に情報収集。その一環で潜入捜査は当たり前の任務だ。彼女ら曰く、女の武器は色気だそうだ。しかし、男を蕩かすと一言で言っても、その男の好みに合わせて化粧も変えなければならないらしいので、レイディアに似合う化粧を施すことなど朝飯前なのかもしれない。

それにしても、自分は赤い唇が様になる歳になったのだな、としみじみ思った。

もう、四年経つものね。

鏡に映る自分は、もはや十四の娘ではない。背も少し伸びたし、身体つきも当時に比べればずっと女らしくなった。とはいえ、中身も成長したかといえば、分からないという他無かった。ソネット達に教えられて、世間を見て自分なりに学んできたつもりだが、根本的な所では何も変わっていないから。


ふと、視線を感じ、振り返る。ソネットと目が合うと、ソネットは少し肩を強張らせたように見えた。

「…どうかしました?」

「…何でもないわ。王が今のディーアちゃんを見たら、きっと忍耐の限界を迎えるんじゃないかって思っただけ」

「…はぁ」

冗談めかした言葉にレイディアは曖昧に頷いた。よく分からない。レイディアは机に置いてある湯飲みを手に取った。

王とは三日前から会っていない。祭の二日前から巫女役の娘は潔斎を行う。祭司長の住居でもある神殿に赴き、誰にも会わず、禊の間で来年度の豊作や平和を祈るのだ。巫女役の娘に不埒な真似をする者もいるので、娘には常に監視役の女性が数名付く。レイディアにはユンケとクレアが付いた。そのユンケはレイディアの着替えが済んだ時点で退いたが、クレアは今も部屋の外で待機している。

「もうすぐ本番だけど、何か食べる? 軽い物ならすぐ持ってこれるけど」

「いいえ。飲み物だけで充分です」

レイディアは紅が取れないように湯飲みに口を付けた。

「緊張してる?」

「いえ、特には」

「流石ね。毎年選ばれた女の子達は、緊張してがちがちのまま本番に出ることも珍しくないのに」

とはいえ、レイディアにとっては、このくらい大したことではないのかもしれない。何せ彼女こそ本場なのだから。




「レイディア様。そろそろお時間です」

扉の向こうからクレアが時間を告げた。いよいよだ。ソネットはレイディアに薄絹のヴェールを被せ、神楽鈴と松の絵が描かれた扇を手渡した。

「ああ、そうそう」

ソネットは懐紙に包まれた椿を取り出し、髪飾りの隙間に挿した。

「贈り物ですって」

誰の、とは言わなくても分かる。レイディアは数拍、目を閉じた。

「……では、行って参ります」

レイディアはすっと立ち上がった。彼女は滑るように歩き、足に絡み付く裾を優雅に捌いた。その自然な動きは、明らかにその手の衣装に慣れた者の仕草だ。背筋が伸び、楚々としながらも誇り高い姿勢に、ソネットは自然と頭が下がった。

彼女が一歩歩くたびに心地良く立てる、宝飾のシャラシャラという音に期待が高まる。舞を舞えば、髪飾りは楽器のように、舞に合わせて奏でられるだろう。

目の前にいるのはディーアちゃんか、巫女姫様か。

ソネットは静かにレイディアを見送った。




ソネットは、控え室に一人になると、さっきまでレイディアが座っていた椅子にどさっと座り込んだ。天井を仰ぎ、手の甲で目を塞ぐ。

「ああもう。すっかり失念してた」

心に溜まっていたモノを吐きだす様に敢えて大きな声を出した。今までずっとレイディアを可愛い妹扱いをしていたが、それは幼い子供に対するものだった。

「そうよね、もう四年だものね…」

ソネットは開かれる扉の気配に気付き、目だけを動かして入室してきた者を見咎めた。

「ここは男子禁制よ。なに堂々と入ってきてんの」

音も無く入ってきたのは衛兵の身なりをしたゼギオスだった。禊の間を守る衛兵の目を盗んで忍び込むことくらい、この男には簡単なことだ。

「何でそんな辛気臭い顔してんの」

ゼギオスは何処か思い悩んだ顔をしていた。レイディアの晴れ姿を見たすぐ後で、そんな顔など見たくない。

「こんなトコで、暢気に着せ替え遊びしてる余裕なんてあるのか」

「平気よ。煩い奴らのアジトにエリカを放り投げてやったから」

ついでに『鷹爪』達とも取引したし。

ゼギオスは片眉を上げた。

「エリカに潜入捜査でもさせたのか?」

「エリカに潜入捜査っ?」

思わず声が裏返った。今後、あり得ないという意味の慣用句として使えるかもしれない。

「違うわ。文字通り、放り投げてきたの」

エリカは喧嘩は売らないし買わない。ただ目の前の障害物を退けることしかしない。だったら向こうから仕掛けさせればいいとソネットは考えた。いきなり己の縄張りに、何処の者とも知れない女が乱入してきたら、よっぽど用心深い奴で無い限り即座に排除しようとするだろう。

エリカに手を伸ばしたら、こっちのもんである。

「なんつぅことを」

ゼギオスはその組織に同情した。エリカ相手に三日もてば称讃モノだ。

「で? あんた何しに来たの。私もそろそろディーアちゃんの舞台を見に行きたいんだけど」

「…お前は、これでいいと思うか?」

ソネットはゼギオスを横目で見た。

「…それは、ディーアちゃんの心配をして言ってるの?」

「あの女の心配なんぞするか」

ゼギオスは吐き捨てた。だが、憤り以外の色も見えた。一瞬だけど。

「そろそろ潮時だっていうのは分かってたことでしょう」

レイディアの姿を頭に思い描く。いつまでもそのままではいられない。彼女が成長するように、周囲の状況も変わる。何事にも辛口な評価を下すソネットは、今後の展開を楽観視しているわけではない。けれど、彼女をこれ以上日陰者にするつもりも無かった。

昔の面影を残したまま、あどけなさを脱ぎ去ったレイディア。既に可愛らしいというよりも、美しいという形容が相応しい。

「このまま、すんなりことが運ぶわけがない」

「でしょうね」

獅子に愛でられて、大切に養育された小鳥。甘美な水を飲み、豊潤な実を食べ、温かい寝床で眠った雛鳥は、どれほど美しい声で唄うのだろうか。


先程、レイディアに振りむかれた時、背筋が泡立った。漆黒の瞳に射抜かれ、息が詰まったのだ。そっと腕を摩った。

女のソネットでも魅せられるその瞳。ギルベルトの自制心は何処まで通用するだろうか。

ソネットはゆっくりと息を吐いた。大人への階段を上りきるのも時間の問題。そうしたら、まもなく絶世の美貌と詩人に謳われるようになるのだろう。

「王は、貴女が舞う時、警護の責任者にダイダス大将軍を当てた。…その意味をどれだけの者が気付くかしら」

そう呟くソネットに、ゼギオスは眉を顰めた。

「…あの女は、何を考えているんだ…」

四年間も隠れ続けた彼女が、そう簡単に観念するだろうか。

しかし、その懸念は言葉として形になることはなく、喉に留まり、消えた。







「レイディア様。いよいよ本番ですね」

舞台裏。観客のざわめきが聞こえてくる。それに煽られて興奮したように頬を紅潮させたクレアは、レイディアを眩しげに見上げた。

「その、とてもお綺麗です」

もじもじとしてレイディアを褒める。人を称讃することに慣れていないのだろう、たどたどしい賛辞は、レイディアの口元を自然と綻ばせた。

「ありがとう。頑張ってくるわ。……」

言ったものの、レイディアはクレアから目を外さない。何か言いたげな目に、クレアは首を傾げる。

「どうかなさいました?」

レイディアは首を振った。

「……いいえ。行ってくるわね」

「はい。行ってらっしゃいませ」

レイディアは舞台へ続く階段に足をかけた。




レイディアは広い舞台を軽く見渡した。舞台は照明が落とされていて暗かったが、難なく中央まで歩く。暗くても音は聞こえる。レイディアに気付いた最前列の人々が小さく声を上げた。

舞台と観客席は一体なのに、舞手と観衆の間には絶対的な距離があった。昔からそれが不思議だった。彼らの声は聞こえても、彼らの目が一心にレイディアに向いていても、彼らの存在は何処か遠いのだ。


レイディアは膝立ちになり、舞い始める姿勢で静止した。後はレイディアが左手に持つ神楽鈴を一つ鳴らせば、照明が一斉に彼女を照らし、舞台が幕を開ける。


目を瞑り、心を凪ぐ風を聴く。神殿前の舞台は屋外だ。夜気の涼しい空気が直に伝わる。僅かに覗く首筋を、袖から伸びる指を、そよぐ風が撫で上げた。

公の場で舞うのは久しぶりだ。四年前は、祭の前にバルデロに来てしまったから、実に五年振りになる。それでも、小さな頃から親しんだ舞を、身体は覚えていた。

レイディアは息を吸い込んだ。舞う時に自我は邪魔だ。そうして空気に溶け込むように意識を内側に沈めていけば、段々、周囲の声が消えていった。


―さあ、行きましょうか。


レイディアは鈴を鳴らし、右手の扇を振り上げた。







ギルベルトは、舞台が良く見える高台の席に座り、次々来る各国の使者達の相手をしていた。伯爵位にあるという外交官、敏腕と名高い侯爵、中にはラムールのような王族もいる。貴族の令嬢達がこの場にいたら、絶好の婿候補が顔を並べている光景に黄色い声を上げたことだろう。


傍には友好関係にあるメネステの王太子シェリファンがいた。王子の後ろ盾を強調する為に近くで見物するのを許したのだ。客人らはシェリファンにも恭しくこうべを垂れ自国を売り込む。流石にギルベルトが傍にいるので、無遠慮な振る舞いをする者はいないが、後ろに控えているシェリファンの従者は、主に無礼を働く不届き者がいないかあたりに注意を払っていた。

何といっても、これから舞う祭の主役はシェリファンの侍女なのだ。シェリファンを褒めそやす要素は事欠かない。麗しい侍女をお持ちで羨ましいだの、流石は殿下、使用人にも最高の婦人を揃えておられるだの、今までそんな美女を隠して殿下もお人が悪い、云々。漏れ聞こえてくる世辞に、ギルベルトの機嫌は下降の一途を辿った。


レイディアは俺のものだと、今すぐ公言してやりたい。シェリファン王子には貸し出しているだけなのだと。彼女が王子を可愛がるから…。

「…くそっ」

後数日。後数日だ。後数日の辛抱だと言い聞かせて、酒杯を煽る。

そうだ。遠くない未来、レイディアは漸く名実共に俺の妻になる。ギルベルトには、この祭りの後はもう待つつもりはなかった。四年前に、とうに祭司長の前で誓っているのだ。神殿からの抵抗は心配ない。貴族連中も、彼女の正体を知れば文句は言うまい。問題は諸外国だが、今のバルデロは押しも押されもせぬ強国。対処を怠らなければ乗り切ることが出来るだろう。


だが…


ギルベルトは藍色の空を見上げた。星が瞬き、満月が雲一つ無い空で堂々と居座っている。何も問題は無いという様に。

ギルベルトはうなじを撫でた。ちりちりと疼く。漠然とした不安。微かな警鐘。晴れ渡った夜空とは裏腹に、ギルベルトの心に暗雲がたれ込む。

ソネットからの報告は無い。今のところ、客の中に不審な行動を起こす者もいない。それでも彼の心は晴れない。

暗雲の大元は分かっている。けれど尻尾を出さない。だが、レイディアがついに表舞台に現れた今、が何も仕掛けてこない筈がない。

これまでも、度々存在を匂わせ、レイディアに揺さぶりをかけてきてくれたのだ。

ギルベルトは酒杯を潰さんばかりに握りしめた。

忌々しい。彼女が感情を揺らすのは、自分の為でなくてはならないのに。


その時、チリンと鈴の音が鳴った。


前方が一気に明るくなり、舞が始まった。レイディアが扇を振り上げるのが見えた。彼女に飾られた赤い椿を認め、ギルベルトの胸がぎゅっと縮まった。

レイディア

周囲のざわめきが自然に小さくなり、やがて完全に消えた。静寂に包まれるその場を彼女が包み込み、支配した。髪を揺らす風も彼女に従い、レイディアが腕を振る度に裾を羽衣のようにたなびかせた。

レイディア

ギルベルトは胸元を押さえた。懐には彼女の半身である小さな鈴がある。彼女と俺を繋ぐ糸。布越しに伝わる鼓動は、果たして彼女に呼応する鈴なのか、ギルベルトの高鳴りなのか。

彼女の舞を初めて見たのは五年前。アルフェッラの祭に父王の名代として出席したのだ。この舞台よりもずっと大きく荘厳な舞台で、彼女は舞っていた。

ギルベルトは鈴ごと衣を握りしめた。舞いを舞わせたのは失敗だったかもしれない。舞う彼女はいつも以上に神がかり、薄いヴェール越しからしか見ることの出来ない、遠い存在になる。

不可侵の“みこ”。これほどの舞を舞えるのは彼らだけ。特にレイディアは歴代にも類を見ない舞手だという。気付く者は気付くだろう。彼女の正体に。


レイディア…そのヴェールを毟り取っても、お前は変わらず、俺を受け入れるのだろうか。




舞いが始まった途端、ラムールの胸は全力で走った後の様に激しく脈打った。

「…あれは」

ラムールの目は、舞台の上で舞う小さな少女に釘付けになった。何年経とうとも、彼の姫を、そして彼女の舞を忘れたりしない。

今年の巫女役はシェリファン王子の侍女だという。彼の侍女は彼女一人。つまり、あの時の少女だということだ。

彼女だ。彼女がそうだったんだ。王子の居住区で彼女を見つけた時、ラムールは彼女に既視感を感じた。顔は見えなくても、纏う空気に気を引かれた。あれは間違いではなかったのだ。

涙で滲んだ目を擦る。彼女の舞を一瞬でも見逃すものか。意気込むあまり、無意識に観覧席より前かがみになっていた。慌てて彼の肩を掴んだマシューに支えられなければ、高台から落ちていたかもしれない。彼は構わずただ一点だけを見つめた。


篳篥ひちりきに笙、龍笛で織り上げられる神楽の音に合わせて彼女が舞う。何十個もの鈴が一斉に鳴り、律動を生む。扇を回し、裾が風に翻り、宝飾が音を立てた。


彼女の舞に酔いしれ、ラムールは陶然となった。最適な賛辞が見つからない。美しい。壮麗。そして荘厳。けれどそのどれもが不十分だった。口にしてしまえば、舞いの価値を下げてしまう気がした。だから、言葉にしないことが一番相応しいのだ。

何故侍女に身をやつしていたのかなど問うまでも無いが、どうして今になって現れたのだろう。相応の理由で隠れていただろうに。だが、どのような事情であれ、本当のところ彼にはどうでも良かった。彼女が望んだにせよ、そうでないにせよ、もう一度会えたことにラムールは神に感謝した。


巫女姫様。わたしは、貴女を見失って以来、貴女を捜しました。

諦めかけていた時に見つけた貴女を、貴女と分からなくても惹かれました。やはり、わたしはどうしても恋に落ちてしまう定めのようです。わたしはそれが誇らしい。

だから、貴女が再び隠れても、わたしは捜すのでしょう。…きっと、何度でも。


舞いが仕舞い、彼女が舞台から降りて、ようやく周囲のざわめきが戻った後も、ラムールはマシューに連れ出されるまで、舞台を見つめ続け、微動だにしなかった。








舞いの観賞後、ソネットはレイディアの着替えを手伝う為に控え室に向かった。

自分が舞ったわけでもないのに身体が熱い。余韻がソネットの口を緩ませる。舞いは観客を飲みこみ、その場の時間さえも支配して咲き誇った。月さえレイディアの一挙手一投足を見逃すまいと目を見張って、レイディアの舞を見守っていた。

ここ久しく無かった興奮。舞いが終わって数秒、今までの静寂が嘘のように大歓声が轟いた。明日から彼女の舞は語り草になるだろう。熱狂した民衆の声が舞台裏まで聞こえる。彼女の作りだした空間は人を酔わせた。ソネットも例外ではなく、今夜は眠れそうにない。ネイリアスとユンケを交ぜて朝方まで飲み明かそう。レイディア用に果実水も忘れずに作らなくては。


しかし、控え室の扉の前に着くとそんな楽しい想像が消え去った。扉の前には人がいた。それも複数人。一瞬にして頭が冷え、警戒心に身を固くした。

誰? 舞に感動して押し掛けた町民だろうか。熱狂的な心酔者や、貴族、裕福な者などは迷惑を省みず、そういう行動を起こすことがままあった。特に今年の舞いは見事だったから、そういう輩がいてもなんら不思議ではない。けれど、そのどれでもないことを、彼女の激しくなる一方の動悸は断言していた。

声をかけようとしたが、背後に殺気を感じ、咄嗟に飛びのいた。

「何すんのよっ…!」

彼女の立っていた場所に短剣が突き刺さった。彼女は長針を数本、指の間から覗かせ、刃を床に突き立てた敵を針で沈める。一人を片づけると、目の前の敵と対峙した。


何なの、何なの。私は非戦闘員なのよ。一度に大人数の相手なんて出来ないんだから。体力は自慢できる程は無いのに。エリカと一緒にしないで。


張り詰めた糸を解す為にソネットは唇を舐めた。

「なあに、あんた達。お巫女さんに会いたいなら、順番待ちしなさいよ」

彼らは無言でソネットに襲いかかる。当然だが、彼女と話し合う気は毛頭無いらしい。

ソネットは彼らの凶刃を避け続けたが、次第に息が上がってきた。どうする。このままでは埒が明かない。一旦引いて仲間を呼ぶか。しかし、部屋の向こうのレイディアを置き去りにすることになる。

いや、そもそもどうしてこいつらがここにいるのか。蔭が数人控え室周辺で目を光らせている筈なのに。彼らは何処? ソネットの背に嫌な汗が滴った。

レイディアは無事だろうか。せめて彼女の安否だけでも知りたい。扉に気を取られたソネットの隙を突いて、敵の一人が彼女の懐に飛び込んだ。

「え…」

身を翻したが間に合わず、敵はソネットの腹に刃を突き立てた。熱い、と思ったのは一瞬。

ソネットは声も無く、崩れ落ちた。








部屋に戻ったレイディアは着替える前に休憩をとった。

部屋は静かだ。誰もいない。ソネットは何処に行ったのだろう。自分でお茶を淹れて一息吐き、椅子に凭れかかった。

舞いの出来はまずまずだった。四年も怠けていては最高点とは言い難いが、それほど無様ではなかっただろう。反省もそこそこに、レイディアは思考を止め、静かに目を瞑った。舞っていた時の集中力が切れた今、どっと疲れがレイディアの肩に圧し掛かっていた。

「……はぁ」

身体の力を抜いた途端、頭が熱に浮かされたようにぼんやりとしてきた。このまま眠ってしまいそうだが、髪も解かねばならないし、化粧も落として衣装も脱がなければ。

重い腰を上げて、衝立の内側にまわりのろのろと着替え始めた。



苦労して帯を一本解いたところで、部屋の扉が開かれる気配がした。

ソネットだろう。丁度いい。衣装を脱ぐのを手伝ってもらおう。

「ソネットさん。ちょっと着替えを手伝ってくれませんか?」

着替えの手を止めぬまま、ソネットに手伝いを頼む。しかし、ソネットからの答えはなかった。

「…ソネットさん?」

聞こえなかったのだろうか。

「ソネットさん、あの…着替えを」


それ以降の言葉は続かなかった。


振り向こうとしたレイディアは、突然大きな腕に後ろから抱きしめられた。その腕は温かくて、程良く引き締まった、紛れもない男のもの。しかし、ギルベルトのものではなかった。

言葉が出ない。動悸が激しくなり、息が荒くなる。手足も痺れたように動かない。

誰なのかという疑問は、レイディアの鼻を掠めた伽羅の香りで確信に至った。


どうして。まさか。あり得ない。どうしてどうしてどうしてどうして。


指がレイディアの頬を優しくなぞった。男の右手がレイディアの左肩を掴み、彼の左手は彼女の腰を掴んだ。身動きが取れないレイディアの首筋に男の唇が這い、耳まで辿り着くと耳朶を食んだ。びくりと身体が反応する。それでも喘ぐ口からは息しか出ない。

やめて。やめて。やめて。どうかお願い。その手で私に触れないで。


その声で、私を呼ばないで。


けれど、レイディアの望みは無情にも崩れ去った。

「会いたかったよ…レイディア」

レイディアは頭の中が真っ白になった。






会いたくなかった  会いたかった

触らないで  優しく抱きしめて

貴方は私を壊した  私は貴方を狂わせた

貴方は幸せを奪った  そして安寧を与えた


恨めしい……それでも愛しい




優しくて、優しくて、残酷な、私の――






お に  い   さ    ま


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