第二話 最高位の国王
あれから何人もの女官や、レイディアと同じ立場であるはずの奴隷まで部屋にやってきては命令や頼みごとと称して仕事を押しつけていった。
それら全てを終わらせられたのはだいぶ日が沈んだ頃だった。いかに仕事が早いレイディアとて普段の倍以上の仕事をこなした後はさすがに疲労感は否めなかった。
レイディアは一人、自室へ続く回廊を歩いていた。今夜は満月。月明かりだけでもこの暗い廊下を歩くには十分だった。
静まりかえった廊下にレイディアの足音のみが響く。
それもそうだろう。今頃は先程話題にあった王の凱旋を祝う宴の為に、後宮の女はレイディア以外、皆出払っているのだから。
このバルデロ国の王は大変な美丈夫で、しかも政治手腕は卓越、彼の時代になってからこの国は飛躍的に大きくなった。
今回だって彼は近隣の国との戦に出掛け、快勝して帰って来たのだ。
若く美しい名君。女達が放っておくわけがない。
今頃煌びやかな世界で彼女達は王の目に止まろうと互いのしのぎを削っていることだろう。
「…何が楽しいんだか」
若干の呆れも混ざった呟きは、冷たい回廊に吸い込まれていった。
自室の前に着いたレイディアは、自室に入るのを一瞬躊躇った。
しかしすぐに首を振った。…今夜はこんな所に来れる時間などあるはずない。そのはずだ。
そう思うのにドアノブを捻れない自分がいる。
レイディアは自分の勘とも言えぬ感覚を信用していた。
彼が…いるの?
しかし、いようがいまいが、いつまでもこうして突っ立ってもいられない。
覚悟を決めて、ドアノブに手をかけようとした時、
「いつまでそうしているつもりだ」
考え事をしていたために反応が遅れ、体勢を崩したレイディアは、そのまま開いた戸の先の人物の腕の中に飛び込む形ですっぽりと収まってしまった。
今更誰かと問うのも馬鹿らしいくらい、レイディアはこの腕を知っていた。
「…残業の根源」
小さな呟きだったが“彼”は聞き咎めた。
「何の事だ?」
「いいえ、こっちの話」
そっけなく返してレイディアは、昼間話題の中心人物だったこの国の王―――ギルベルト・ルゼ・バルデロの顔を見上げた。
ギルベルトの腕に腰を抱かれたまま部屋に連れ込まれたレイディアは、当然のごとく文句を言った。
「今は宴の最中では? 何故こんなとこにいるの」
ややうんざりしたように言うレイディアに、ギルベルトはどこ吹く風だ。
「ここは俺の城だ。何処にいようと咎められるいわれはない」
「…屁理屈」
「なんだ、やけに不機嫌だな。何かあったのか」
「別に。貴方の早い帰りのせいで後宮の花達は身を飾るのに手一杯になっただけです」
その一言で、ギルベルトはレイディアの不機嫌の原因を悟った。
「…ああ、道理で女どもはやたらきらきらしかったのか。短い時間でよくもと思ったが、なるほどお前に全て押しつけてたのか」
「誰のせいですか。予定通りなら皆普通にそれぞれの仕事をこなせたのに」
「俺が着飾れと言ったわけではないぞ。俺を責めるのは筋違いだ」
「貴方の気まぐれでとった行動が原因でしょうに」
「仕方ないだろう。家に帰りたくなったのだから。だからテオの奴に押し付けてきた」
「…彼にとってはいい迷惑でしたね。それとも…何かあったのですか」
「何がだ?」
「いえ…」
彼の気まぐれは今に始まった事ではないが、こうもいきなり―侵略し終えたとはいえ―その国の後処理を部下に放り投げてくるとは何事かがあったのかと思ったのだが。
ギルベルトは勘がいい。天性といってもいいほどだ。だからギルベルトの気まぐれな行動に裏を感じたのだ。
例えば、国を左右しかねない火種の気でも感じたとか。
「…貴方がこの王宮が好きなんて初めて知ったわ」
「この城自体に愛着があるわけではないさ」
「では、自分の囲う妃達と戯れたくなったのですか。お盛んな事で、世継ぎの心配はなさそうで喜ばしい事ですね」
嫌みを言うレイディアに、何処か不貞腐れたよな顔をした。
「…妃とではない」
小さな呟きはレイディアの耳に届かなかった。
「何か言いました?」
「いや。何でもない。それよりもレイディア、頼んでいたものは?」
途端、レイディアは仕事の顔になった。
「それならここに」
そう言って鍵付きの引き出しから取り出そうとする。が、
「相変わらず仕事が早いな」
「これくらい片手間で出来ますよ、それよりもいい加減離してください」
レイディアはギルベルトに拘束されたままだった。
「有能な片腕がいて俺は幸せ者だな」
「お褒めにあずかり光栄です。それはいいですからとっとと離してください。報告書が取れないわ」
レイディアの口調は何処までも淡々としたものだった。
「いいではないか、しばらく俺は戦に出ていて女っ気皆無だったんだぞ」
二人の体勢は最初にレイディアがギルベルトの腕に倒れこんできたままだった。あまつさえ抜け出そうとするレイディアの腰をいっそう引き寄せ、髪を弄びだすギルベルトにレイディアはそっけなく返す。
「好きで戦に出掛けるのですから自業自得です。それに女性を抱きたいなら喜んで腕に飛び込んでくれる妃達がいるでしょう。私は職務外です」
「相変わらずのようだ…」
そんなレイディアに苦笑を洩らす。
向こうに女がいない訳がない。彼の眼に映らなかっただけで。
すったもんだの末、どうしても離してくれそうにないので、レイディアは諦めて身をよじって引き出しから書類を取り出す。幸い、部屋自体が狭いので手を伸ばせばすぐに届く。
レイディアは分厚いそれを差し出し、暗に手を離せと主張した。
ギルベルトは髪を弄っていた手を離し、それを受け取る。…腰にまわした腕はそのままだ。
レイディアは無言で溜息をついた。
少しの間、紙を繰る音が部屋に響いた。
「…この件お前はどう思う?」
「ご自分でお決めになられては?」
「お前もいい加減頑固だな。いいから言ってみろ」
レイディアは溜息を吐き、数秒考える仕草をした。
「…よろしいんじゃありませんか? この件は向こう側にも牽制出来ますし」
「そうだな。いいだろう、この件お前の言うとおりにしよう。明日の議会にこれ持ってくぞ」
レイディアは目を細めた。
「私の言葉一つでそんな簡単に決めてもよろしいので? 臣下の中には反対している者もいらっしゃるでしょうに」
「かまわん。言ったであろう、お前の好きにしろと」
レイディアは何も答えなかった。
「…それよりも、宴に少しは顔を出したのでしょう。如何でした?」
急に話を変えたレイディアに一瞬目を眇めたが、問いに答えた。
「毎度毎度同じような催し物でつまらぬ」
「…今宵の宴には外からも楽団や芸人が集められたのに?」
「ん? ああ、そう言えば一人面白いやつがいたが、それだけだったな」
昨日の唄が頭に蘇った。
「それは、吟遊詩人ですか?」
「なんだ、知り合いか?」
「…昨日、市で唄っていました。城に呼ばれた、とも」
「ほう、それで興味を持ったと」
「…いえ」
バルデロをあからさまに非難するような唄を唄うとは思えなかったが、あの言葉を思い出して少し気になっただけだ。
ギルベルトは鼻を鳴らした。
「お前が他人に興味を持つのは珍しいな。お前と同郷だったからか、それとも男として惹かれたか…。そう言えば、なかなか見れる容貌をしておったな」
口調こそ軽かったが、その目に宿るものに気付いて、レイディアは意識してきっぱり否定した。
「そのようなこと、あり得ません」
その言葉に満足したように、ギルベルトはうっすらと笑みを浮かべて顔をレイディアに近づけた。
「お前は、俺のものだ。そうだろう?」
彼は、そう私の耳に囁いた。
彼がこの部屋に来るたび、彼に会うたび、こうして腕に閉じ込めては睦言のように囁く。
まるで、刷り込むかのように。鎖に掛けるように。…鳥籠に、閉じ込めるように。
私はその事に何も感じない。怒りも、悲しみも。
昼間の彼女達なら、この執着に歓喜でもするのだろうか。
―――でも、私は、違う。
何も感じぬ人形だから…。
鎖に繋がれた人形はいつも決まった言葉を紡ぐ。
「…私を、“貴方の腕の中”でしか生きられないようにしたのは貴方でしょうに」
―――何の感情も込めずに。レイディアは、そっと瞳を閉じた。
彼は王だ。即位して、間もなく次々と他国を蹂躙して傘下に収めてきた苛烈な王。
内政においては優れた政治手腕を発揮して、民や臣下から厚い支持をうける。
しかし、同時に、己に従わない者には容赦のない冷酷な手を下す王としても有名だった。
敵や裏切り者には、死ぬより苦しい目にあわせて破滅へと追いやる残忍さ。
裏切った同盟国の王が火だるまになったのはいつの事だったか。
レイディアに興味本位で近づいた男達が数日後、そろって城から姿を消した事もあった。
ギルベルトは何も言わなかったが、それを偶然ととれるほどレイディアの頭はおめでたくはない。
彼がその男らにどんな目にあわせたかは知らない。翌日、ギルベルトから無防備になるな、と言われただけだ。
結局、男達の件は実家の都合で暇乞いをした、として片づけられた。
ギルベルトはレイディアに近づく人間を許さない。彼女が彼以外を見るのも許さない。自分のものを他人が触れるのを異常なほど嫌う彼。子供っぽい一面と言えば可愛らしいが、それが国の頂点に立つ者だと思うと笑いごとではない。
その権力で、何をしでかすか分からない。
だから、彼女はなるべく、存在を主張しないよう振る舞う。誤って王の逆鱗に触れる者が現れないように。
だから、レイディアは誓う。
都合のいい手駒は、ギルベルトの側を離れないと。人形は決して裏切ることはないと。
彼は所有物である人形を独占したいだけだ。後宮の妃達に向けるような甘い感情ではない。
だから―――レイディアの頭や唇に降るそれも、髪に絡める無骨な指も、何もかもが壊れものを扱うように優しいのも、きっと…気のせい。