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鈴の音の子守唄  作者: トトコ
39/81

第三十六話

置いて行かれたナディアを、周囲の憶測の囁きが包み込んだ。


「そういえば、ピアスを盗んだ犯人って結局ナディア様なの?」

「そういうことみたいね。出来過ぎだと思ったのよ。いきなり持ち物を点検するとか言いだして、いくらもしないうちに見つかるなんて」


ひそひそ ひそひそ


「王に選ばれたって」

「とんだ勘違いね」

「注目されたかったのは分かるけど」


くすくす くすくす


「そういえば、あの女官、度々ナディア様に突っかかってたわよね」

「何度か見かけたわ」

「自分に従わないからって辞めさせようとするなんて」

「姑息ね」

証拠が無くともその場の流れは全てナディアへ移っていく。遠巻きにされ、ナディアの周囲には誰もいない。すると、潔白が証明された褐色の髪の女官が勝ち誇った目でナディアを見下した。

「貴女がシェリファン殿下から盗んだなんてね」

「………」

「まさかそこまでするとは思わなかった。そんな卑怯者が王のお傍にいたなんてぞっとするわ。貴女こそ、さっさと辞職して下町のゴミ溜めに住居を変えなさったら?」

耳障りな彼女の甲高い哄笑。

「でも、自分で仕込んでおいて、墓穴を掘るなんて、やっぱり悪いことは出来ないものね」

ナディアは拳を握りしめた。シェリファンのピアスを盗ったわけじゃない。拾ったのは偶然だ。城の者達の動向を知るのは義務だとして、シェリファン王子の居住区に行った際に拾ったのだ。

王子の居住区で拾ったからといって、王子やその使用人達の物とは限らない。王子の居住区には多くの客人が訪れる。時には従者のリクウェルを狙う女官や侍女も訪れるからだ。

捜して持ち主に返そうと思い、まずは殿下の私室へ行った。無人だったが、女主人を自負していたナディアは、無断で部屋に入り、宝石箱を開けた。そして、拾ったピアスの片方があるのを見て、殿下の物だと知った。

予定通り、きちんと返そうとしたナディアの耳に、誘惑が囁いた。


これを使って、自分を敵視する愚か者を排除出来ないか、と。


流石のナディアもそれはやってはいけないことだと思った。けれど、自分は正しいと信じていたナディアは、次第にピアスを拾ったことが、その思いつきの正しさを証明しているように思えてきた。


なのに…


何故、どうして? わたくしが何をしたというの? 何がいけなかったの? これまで真面目に仕事をこなして、贅沢もせず、王の侍女として忠実に仕えてきたのに。こんなに献身的に働く者なんていやしないじゃない。

この目の前でナディアを嗤う女官だって、見栄を張ってばかりで、貴人達の前でだけ有能振りを見せつけて、そんなんだからシェリファン王子に暇を出されたことに気付かない愚かな女のくせに。

周囲の女達もそうだ。ナディアがやったという証拠があるわけでもないのに、決め付けて、卑劣な犯罪者を見る様な目で見つめてくる。誰も彼も上辺ばかり。どの女も中身は一緒。わたくしはあんたたちとは違う…


そんな目で見ないで……っ!


「…い」

「は?」

「煩い煩い煩い!! わたくしが、わたくしがこれまでどれだけ苦労してきたと思ってるのっ? わたくしはきちんと仕事をしてきたのに、何故こんな仕打ちを受けなければならないの? ここを正しく治められるのはわたくしだけ。主として相応しいのはわたくしよっ! あんたたちは大人しくわたくしに従っていればいいの! 逆らうんじゃないわよ!」

周囲の空気が険悪になってもナディアに気にする余裕は無かった。これまで信じて、誇りに思ってきたものが一瞬にして塵となったのだ。なおも喚く女に女官は冷たく鼻であしらった。

「だけど、陛下は貴女を選んでなかったじゃない」

周囲も同調して失笑する。歴然とした事実を突き付けられ、ナディアは自分の足元が崩れていくのを感じた。

「ナディア様の独り相撲だったってわけ。確かめもせずに、お騒がせな人」

褐色の髪の女官は肩を竦めた。これまで見下していた女に馬鹿されるのは我慢ならない。

「違うわ! わたくしは本当に王のお役に…」

「側近のテオール様にも名前さえ覚てもらってなかったくせに?」

「それは…」


「静まりなさい」


形勢が逆転して、追い詰める女官と追い詰められていくナディアの声が響く中、終わりの見えない言い争いに終止符を打つ者がいた。

「ローゼ様…」

自然と人垣が割れ、後宮一の権力者の為に道を空けた。筆頭側妃はその道を悠然と歩き、彼女達に近づいてきた。

ローゼはナディアを見た。

「…これまで、良い夢を見れたでしょう?」

穏やかな、しかし感情の籠らない声にナディアは怯えた。

「違います! これは何かの間違いで」

「如何だったかしら? 妃さえも左右出来る立場にいた心地は」

「ローゼ様、お聞きください。わたくしは決してっ」

「王に選ばれたと誇示して、後宮を混乱させ、シェリファン殿下の持ち物を無断で拝借し、あまつさえ罪の無い女官の人生を台無しにしかけた」

ローゼは扇で口元を押さえ、溜息を吐いた。

「…どうやら、わたくし達はお前を買い被っていたようだわ。優秀な使用人を失うのは、城にとっても残念なことだけれど…しかたないわよね」

筆頭側妃であるローゼが扇をナディアに突き付け、最後通牒を告げた。

「罪を犯したお前は、もうこの城にいらないの」

ナディアは床にへたり込んだ。

「最後に教えてあげる。女主人というのはどういうものかを」

「ローゼ様、お待ちください。わたくしは…」

ローゼは縋ろうとするナディアに背を向け、駆けつけた兵に命令を下した。


「衛兵、この者を牢に引っ立てなさい」


その宣告はナディアを奈落の底に突き落とした。

「ローゼ様! お許しをっ! 牢なんて、ご冗談でしょう!? 今まできちんと仕事をこなしてわたくしに死ねとおっしゃるのですか!」

床に跪いて許しを請うナディアを、ローゼの命令に即座に反応した衛兵が乱暴に立ち上がらせる。

「さあ、来るんだ」

「ローゼ様!! わたくしに何かあれば家族が…」

「夏妃様に近づくでない! この無礼者!」

兵の手を振り払い、ローゼに駆け寄って御前に身を投げ出そうとしたナディアをダリアが突き飛ばした。兵が追って来てローゼから引き離す。

「ローゼ様! ローゼ様! 牢なんて! お考えなおし下さい! どのような罰でも受けますから、どうか牢だけは…」

「煩いっ、さっさと歩け!」

「ローゼ様!!」

ナディアは叫び続けたが、衛兵の力に敵う筈も無く、次第にその声は遠のいていった。




ナディアがいなくなると、その場はそれまでの沈黙が嘘のように弾け飛んだ。ナディアに対する罵倒、嘲り、そして僅かな同情がけたたましく女達の口から漏れる。ローゼはその身を外に置いて静かに眺めていた。

「ローゼ様」

ダリアが気遣わしい目でローゼを労わった。

「…あの女が偽物だとしても、本物の“影の女主人”がいることには変わりがないのよ」

「はい」

ローゼはずっと王の想い人を探っている。しかし全く見えてこない中で、唯一ナディアの存在が浮き出てきた。もしかしたら、と彼女の動向を気にしていたけれど、空振りに終わってしまった。しかし、振り出しに戻ったわけでもない。

「さっきの娘…」

テオールと去って行った背中を思い出す。

「あまり、見たことがないのだけど…」

とはいえ、何百人といる使用人の顔などローゼはいちいち覚えていない。ローゼが特別というわけでなく、上流の人間は、きちんと仕事がなされていれば、誰がその仕事をしていようが気にしないものだ。

「ほんの数か月前までローゼ様の宮に」

「わたくしの?」

ああ、周囲が騒がしい。思い上がった女なんてもうどうでもいいのに。ローゼは部屋の戻る為、踵を返した。

「はい。黙々と言いつけられた仕事をこなす、目立たない使用人だったと記憶しております」

「でも、王に呼ばれて行ったわ」

「今はシェリファン殿下の侍女をしているそうです。王は殿下を気にかけていらっしゃるのですし、そのことかもしれませんわ」

ダリアの言い分は納得できるものだ。けれど少し、気にかかった。

「…あの娘のこと、少し調べて頂戴」

「御意」







レイディアは王の執務室ではなく、王の庭に案内された。以前、シェリファンが誘拐された後、無意識に足を運んだ場所だ。

テオールは既にいない。一人、茂みの中に入ると静寂がレイディアを包んだ。何かに遠慮するように風はなく、葉の擦れる音さえしない。迷いのない足で小さな東屋まで辿り着いた。

「お…」

ギルベルトを呼ぼうとしたら、突然背後から腰を攫われた。

反射的に身を捩ったが、手の主はそれが気に入らなかったのか、少々手荒にレイディアを抱き上げた。

耳の後ろに熱い息がかかる。誰か確認するまでもない。髪をかき上げられ、首筋から耳にかけて舐められ、背筋がぞくりとした。

「んんっ…」

身体が正面を向いたと思ったら柱に背を押しつけられていた。口付けは性急なもので、足の間に膝を割り入れられ、身体を固定されたせいで、息が苦しくなっても彼の気が済むまで口付けを受け入れるしかなかった。

「…何故抵抗しない? お前は誰にでもこの行為を許すのか」

「……した、ら…怒るじゃないですか」

漸くギルベルトと目を合わせることが出来たレイディアは陶然としながら虚ろに答えた。なんだか苛立っているようだ。

「あの男は、お前の中ではどれほどを占めている?」

「あの男?」

「ノックターンの王子だ。お前の婚約者だったのだろう?」

「ああ…彼ですか」

ギルベルトの目には暗い炎が宿っている。レイディアは慎重に答えた。

「ただの国同士が決めた候補の一人だっただけです」

「候補の序列は第三位だったか」

「…古くから交流のあった国の王子だからです」

「アルフェッラに供物を捧げるだけ、恩恵を受けられる、だったか。確かにそれもあるだろう」

安心したのもつかの間、ギルベルトはレイディアを抱き上げ、ソファに押し倒した。

「だが、向こうはそれだけではなかったようだが?」

襟元から手を指し込まれ、そこからゆっくりと衣が滑り下ろされていく。固い手で膨らみを愛撫され、レイディアは身を縮こまらせた。

「つまりお前と直に言葉を交わせるほどに近い間柄だったということではないのか? お前にも、それなりに思い出があるだろう」

剥き出しになったそこに熱い舌が這う。誰もいない禁忌の庭とはいえ、ここは屋外。緑が見下ろす中で上半身が晒され、レイディアは羞恥に耐えられず、身を捩った。その様子にギルベルトは目を細めた。

「あの男は、お前に触れたことがあったか?」

「ありま…せん」

熱い息が少しずつ下に下がっていく。

「あの男以外の候補者には?」

「いま…せ」

「候補者は身体の相性は教えないのか? 候補者は多い。お前に合う者を選別するためだろう。惹かれる相手はいなかったのか?」

「…どうして、そんな…」

「お前の過去を踏み潰せぬこの忌々しさが分かるか?」

ギルベルトはレイディアの臍から唇を離し、耳元で囁いた。同時に骨が軋むほど強く抱きしめられる。

「お前を見るのは、俺だけでいい」

仕草は荒いのに、その言葉は弱かった。

「誰も、知らなくていい…誰も」

たとえギルベルトでも人の記憶からレイディアを消すことは叶わない。レイディアの記憶からギルベルト以外の人間を消し去ることも出来ない。

自分が知らない過去のレイディアを知っている者がいる。自分の知らないレイディア。人伝に聞いても何の意味も無い。

「…昔の私など、つまらぬ存在でしたよ」

レイディアはぽつりと零した。

「“みこ”は原則、伴侶との接触しか許されません」

それを証明するように、そっとギルベルトの赤銅色の髪に触れた。柔らかくて、質の良い髪は、レイディアの指の間をするりと滑り落ちた。

「……厳しい規律の中でしか、生きられませんでした」

公平を期すためといって候補とは同じだけ会い、言葉を交わす。義務だからと面会はしても、結局、伴侶を選ぶのはレイディアではない。形だけの逢瀬。顔を合わせてもベール越しで、当然二人きりになることも無い。色めいた気分になるわけもなかった。


レイディアはギルベルトに外に連れ出されるまで、その異常性に気付かなかった。いや、考えもしなかった。そして、その異常性を理解した今でも、異性との接触を出来るだけ避けている自分がいた。三つ子の魂百までとはよく言ったもので、友人のベルとでさえ、一定の距離を保っているくらいなのだ。

だから、今現在、レイディアの主であるギルベルト以上に、近い異性などいる筈がないのに。

「俺は…候補にすらなれぬ、小国の王族に過ぎなかった」

ギルベルトはレイディアに撫でられるままに目を閉じた。


バルデロは何処かと連合を組んでいるのでもなければ、強国の属国として甘んじているのでもない独立国だ。けれど、新興国故に諸外国への影響力は小さく、周囲の動向を常に警戒して自国の安全を図る、大陸中にひしめく小国の一つに過ぎなかった。

一方、大陸一の古い歴史を持ち、諸国とは一線を画する別格の神国アルフェッラ。領土こそ広くはないものの、どの国よりも平穏で豊かな国土を持っていた。

そして、それを維持してきたのは他ならぬ、万人に跪かれ、諸国の王よりも高みにいた神国の主“みこ”。


本来、身分が釣り合わないのは、ギルベルトの方なのだ。


ギルベルトは自嘲した。少しでもレイディアに手が伸ばされると途端に余裕を失くしてしまう。未だ完全にレイディアを手中に収めていないが故の不安だった。世に出るのはいい。だが、他人に触れられるのが我慢ならないのだ。そのまま、連れて行かれそうで。

「その冷たい神殿の中では、あの王子のような素直さは、新鮮だったのではないか?」

「…否定はしません」

今日実際に会って分かったのは噂に違わぬ正直な男だということ。今時珍しい王子だった。感情が隠すのが下手な彼は、だからこそギルベルトにとっては脅威だった。善人ほど、遠ざけるのが難しい。

ラムールの巫女を語るその表情に、親しげに話す二人の姿がまざまざと思い浮かんだ。レイディアに視線を投げかけられる王子を思い浮かべ、ギルベルトは嫉妬で狂いそうになった。

レイディアにはそれ以上の気持ちが無くとも、彼の方は、巫女がいなくなってしまった今も、彼女への想いが燻り続けているのは彼の目を見れば一目瞭然だった。


レイディアの目の先には、俺以外がいてはならない。いっそ、潰れてしまえば、少しは不安を拭えるだろうか…。


しかし、そんなギルベルトを宥めるようにレイディアの撫でる指が、毛繕いする様にギルベルトの髪を梳く。それだけで行き場のない狂気が鎮められていく。

ああ、やはりレイディアには敵わない。

ギルベルトは気持ち良さそうに、レイディアの胸に凭れかかった。





レイディアはソファに彼と横たわったままギルベルトを撫で続けた。言葉を交わすでもなく、静かな時を過ごした。

ギルベルトに言った言葉に嘘はない。しかし、候補の中ではラムールが一番親しかったのは確かだ。素直で誠実な彼はひたすらレイディアを見つめていた。そして五年ぶりに会った今も、あのひたむきな眼差しは変わっていなかった。昔、彼に言われた言葉を思い出す。


〈たとえ、貴女を見失っても、わたしは貴女を捜してしまうでしょう〉


真摯で、優しい王子。まさに物語の中の王子そのものだ。だからこそ、神殿に来るべきではなかった。優しさは弱さに繋がる。きっと、神殿にとって都合の良い傀儡になってしまうだろうから。だからレイディアはラムールを遠ざけようとしたのに。その言葉通りに、レイディアを見つけたラムール。何処までも真っ直ぐな人。


レイディアは自分の胸に顔を埋めてまどろむギルベルトを見下ろした。いつの間にかあたりは薄暗くなっていた。日中でも涼しい日が多くなった今の季節、ギルベルトの腕は温かかった。

ふと、彼の指に嵌る指輪が目に入った。

レイディアも彼の指輪と同じ物を持っている。密かに婚姻の契約を結んだ時に渡された物だ。契約時に身に付けて以来、ずっと机の引出に眠ったままだが。一見ただの純銀製の指輪。だが、指輪の内側に彫られた紋章は紛れもないバルデロ国のもの。王と王妃しか持つことは許されない由緒ある指輪だ。

「…っ」

考え事をしていると突然身体に電流が走った。いつの間にかギルベルトを撫でる手が止まっていたらしく、目を覚ましたギルベルトが戯れを再開したのだ。眼前にある彼女の剥き出しの胸を口に含み、強く吸いながら、指が彼女の背中から腰までをなぞった。

「やぁっ」

レイディアの身体が泡立ち、背中をのぞけらせた。そうすると自然ギルベルトの顔に胸を押しつける形となる。彼は軽く歯を立てた。

声を上げると同時にレイディアの身体が一瞬ピンと伸びた。ギルベルトは弛緩した彼女の身体を反転して組み敷いた。

「っふ…んん」

俺のものだと、うわ言のように呟くギルベルトは舌を絡ませ、愛撫を繰り返した。

涼しい気温はほてってゆく身体に心地良い。高ぶる感情は思考さえ奪う。けれど、頭の一部の冷静な部分が私に語りかけた。


彼の望み通り、このまま二人で穏やかに時を重ねていけると思っているのかと。


私は答える。


………私の箱を開けようとしなければ。









その日の深夜、一旦シェリファンの許に戻った後、レイディアは就寝する前に後宮の一室を訪れた。目的はただ一つ。今回レイディアをまんまと表舞台に引き摺り出した功労者に会う為。


「…これで満足ですか?」


豪奢な部屋、シルクのネグリジェを着て一人窓辺に佇む背中に語りかける。景色など見ていないことは分かっていたから、遠慮はしなかった。

窓辺の貴婦人はゆっくりと振り返った。真夜中の突然の訪問にも困惑した様子はない。変わらぬ優しげな笑みで、レイディアを歓迎した。

「概ねは」

美女は答える。穏やかな声音に、隠しきれない好奇心が見えた。

「どういうつもりか、お聞きかせ願えますか? ムーラン様」

王の側妃の一人、秋妃――ムーランは首を傾けた。

「どう、って?」

「ナディアさんを、あんな形で後宮から追い出してしまったことについて」

ムーランは窓から離れ、柔らかい長椅子に身を預けた。

「だって不愉快じゃない。思い上がった女が我が物顔で城中を練り歩くなんて」

「ムーランさ」

「わたくし、不愉快なことも嫌いなの。…まぁ、思い違いだったことを考えると、滑稽を通り過ぎて哀れに思えたけど」

「今回、彼女は行き過ぎた行為に及んでしまったけれど、彼女がこれまで真面目に仕えてきたことは事実です」

「あの女には独裁者の素質があった。ああいう女はね、支配欲が強いの。下積みの頃は良くても、上に立った途端に威張りだす。今日みたいに」

「………」

「なのに、貴女は注意どころか相手にもしてあげないんですもの」

「彼女がそう振るまっているだけなら、特に問題はないと判断しただけです」

「相手にするまでもないということ?」

「そうは言いません」

「貴女が彼女を少しでも気にしてあげれば良かったのに。あんまりにも可哀相だったから思わず、話題にしちゃったじゃない」

「態々…妃方の集うお茶会で?」

ムーランはクッションに肘を付き、レイディアを上目遣いで見た。

「手っ取り早いでしょう?」

あの場には、レイディアと親しいシルビアがいた。ムーランの言葉は速やかにレイディアに伝わる。

「妃方の目を彼女に向けることはなかったでしょうに。あれでは、ナディアさんの今後は…」

「知ったことではないわ。自業自得でしょ? わたくしは退屈している皆様に他愛ない話題を提供しただけなのだし」

「口にしたのが貴女だということが問題なのです」

妃の中で、最も敬意を受けるのはローゼだが、年長者であるムーランの発言が最も説得力を持つ。その彼女が、側妃達に披露した意味。

ローゼでさえ噂を気にしてしまったせいで、余計にナディアの影の女主人だという噂の信憑性が増し、今回の件が大事になってしまった一因でもあった。

「牢に入れられてしまっては、ナディアさんだけでなく、彼女の家族にまで累が及びます。王都から追い出されてしまうでしょう」

「主人を気取って鷹揚に振る舞っているだけで満足していれば、こんなことにはならなかったでしょうにね」

ムーランは取り合わなかった。

「牢に入れたのはローゼ様。わたくしじゃないわ。筆頭側妃である彼女の体面を保つためにも、勝手に振る舞う使用人を許すわけにはいかないものね」

ナディアを暴いたのはレイディア。ナディアに止めを刺したのはローゼだ。ムーランは…何もしていない。


けれど。


あの時、あの女官の解雇を留めるだけなら、なにもレイディアが出ていく必要はなかった。フォーリーの到着を待てば良かったのだ。その後で、速やかに女官の無実を晴らせば、それでことは済んだ。そうすれば、ナディアも牢に入れられることも無かったかもしれない。

それでも、レイディアは皆の前に出た。出ざるを得なかった。その理由―――


「ムーラン様…もし、私が出ていかなかったら、彼女をどうしてました?」


差し出された瓶を空けて、ワインをグラスに注ぎながら問いかけた。

「実際に起こらなかったことを考えるのは、時間の無駄だわ」

グラスの中のワインを回しながらムーランは微笑んだ。昼間と同じ笑みだった。


昼間、レイディアがナディアの前に出ていく前にムーランを捜した。彼女はすぐに見つかった。

ナディアの、すぐ後ろに。

ムーランもレイディアを見た。目が合うと、彼女は微笑んだ。思い浮かんだのは、メリネスの顔。

「ご丁寧に、退路まで塞いで…」

本当に追い詰められていたのは、あの女官ではなく、レイディアだった。あの時あの場にテオールが現れたのを見て、レイディアは己の敗北を悟った。


今のレイディアはシェリファンの侍女だ。テオールがレイディアに用があるなら、シェリファン王子を訪ねるはず。そして実際にテオールは王子を訪ねたらしい。しかし、そこで通りすがりの使用人からレイディアは後宮にいると聞いたと、彼は言った。

「親切な使用人がいるものね」

くすくすと笑われ、はぐらかされた。レイディアもこれ以上追及するつもりはなかった。証拠も無い上に、追及したところで、どうにかなるわけでもない。

何気なく噂を口にしたことも。あの場にムーランが赴いたことも。そして自分の使用人にテオールを案内させたことも、ムーランを追及する材料にはならない。彼女は何もしていないのは変わらないからだ。


ナディアが噂になったことや、その彼女があの女官に罪を着せようと目論んだこと、そして王がレイディアを呼びだし、その遣いにテオールがやってきたことはムーランが仕組んだことではない。

ただ、彼女はこれらの独立した事象を奇麗に繋げただけだ。レイディアを表に引き摺り出すお膳立てをしただけ。



「それで…貴女の望みは何ですか?」

ムーランが自発的に動く理由は限られている。レイディアは諦めてムーランに問うた。

すると、ムーランは目を輝かせた。うっとりと、ワインの赤色を眺めながら。

「そうね…舞いが見たいわ。とっても綺麗な舞いを」

あんな、勘違いの女の舞いではなくてね、と彼女は言った。

「…そう、ですか」

本当にムーランは容赦がない。巫女役の出馬を、何とか理由をつけて引くつもりだったレイディアの最後の抵抗まで防いでしまうなんて。

「言っておきますが、選ばれるとは限りませんよ」

「それに関しては心配していないわ」

「こんな回りくどいことをせずとも、私に直接言って頂ければよろしかったのに」

「それで大人しく聞く貴女なら、もとより興味なんか湧かないわ」

ムーランはレイディアに視線を寄こした。

「わたくしは楽しいことが好き。つまらないものは嫌い。愉快に暮らしたいし、不愉快なものは排除したい。奇麗なものは愛でて、汚いものはゴミ箱に捨てる。人として自然なことでしょう?」

「だから、捨てたのですか…?」

何を、とは言わなかった。ムーランも答えなかった。レイディアは強い眼差しをムーランに向けた。

「…お遊びも、程々になさいませ」

己の楽しみの為ならばムーランは努力を惜しまない。他人の人生を狂わせることに躊躇いなど無い。レイディア如きの諌めで反省するはずもないが、言わずにはおれなかった。

「ふふ、善処しましょう」

聡明で美しい麗人は、優しげに微笑んだ。






レイディアがいなくなった部屋で、ムーランは暫くの間グラスを弄びながら、彼女が出ていった扉を見ていた。

そして、とうとう抑えきれなくなったかのように、くすりと、小さく笑声が漏れた。

「……怒られちゃった」

ムーランはグラスを祝杯のように高く掲げ、寝酒を一気に呷った。












数日後。巫女の選抜の投票が行われた。そして選ばれたのはレイディア・フロークという、直前に出馬した少女。その報は街を駆け巡り、街はいよいよ目前に迫った祭に期待を膨らませた。


…入れ変わるように出馬を辞退した一人の女が、人知れず命を絶ったことを気に留める者は誰もいなかった。


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