第三十五話
それを聞いたのは、本当に偶然だった。
ある日、王に飲み物を運ぶために執務室へ行った時だ。扉をノックするする寸前、部屋から声が聞こえてきた。
「―――で、―――だ」
「では―――しょうか?」
漏れ聞こえてくるのはいづれも聞き知ったもの。王と、側近のテオールだ。一旦引き返そうと踵を返しかけると、王の声が耳に届いた。
「ああ。お前――には言っておこう。……を春妃に」
足が止まった。王は、今何と?
「彼女を…?」
「その為に多くの仕事を任せている」
「ですが―――では?―――が?」
「あれは―――だ。―――だろう」
「そうですね。……なら、他の妃方も―――」
盗み聞きなんてはしたない真似をしているという後ろめたさも忘れて、彼らの言葉に聞き入った。
彼らが出す名前はしっかりと聞き取れなかったけれど、最後にディアとつくのは聞こえた。彼女――ナディアは気持ちが高ぶるのが抑えられなかった。
ナディアがざっと思いつく侍女や女官の中に、名前の後ろにディアとつく女は自分しかいない。王に媚びるしか能の無い同僚の中にあって多く仕事を任されているのもナディアだ。王の言う女が自分以外に考えられなかった。
王の侍女は、後宮の女官から抜擢される。日中は王は政務の為に侍女達は暇を持て余す。
彼女達は王に侍ることが仕事であり、他の女官のように王城に滞在する客人の世話に当たったり、城を掃除したりしない。それゆえ、普通の女官並に仕事をしているナディアは同僚に軽んじられていた。自分が歴史の浅い男爵の出身だということ。貴族といえど裕福とは言えない財政状況だということが、彼女をより卑屈にさせた。
婿選びが目的で宮仕えしている大半の女官の例に漏れず、ナディアもまた良縁を望んでいた。しかし、それは決して不純な思いではない。家計のため、家族に良い暮らしをさせてやるためだった。女官見習いを経て、経験を積み、実力派の女官として漸く纏まった収入を得られるようになった。その直後に王の侍女の昇格。
夢みたいだった。でも、それは偶然ではなかったのだと、王の言葉で分かった。
「…王は分かって下さったのだわ」
そこまで符号が合致して自分でないなんてあり得ない。王と言葉を交わしたことは殆どないけれど、王は女に対しては妃であっても冷静な態度を崩さない。きっと密かにわたくしの働きぶりを見て、選んで下さったのだ。
ならば、王の無言の期待に応えねば。
ナディアは背筋を意識して伸ばし、優雅な笑みを浮かべ、しっかりと扉をノックした。
「陛下。お茶をお持ちいたしました」
三日後、ラムールの謁見の日がやってきた。といっても仰々しく謁見の間で面会するのではない。執務室の隣室にある客間で会うこととなった。
ラムールの為に時間を取ってくれた王に礼を述べ、互いに向き合いながらソファに身を預けた。
「貴公の噂はかねがね」
「え…噂ですか?」
「後を継いだ兄君を手伝って、外交官として各国をまわっているとか」
「いえ…まだ始めたばかりで、手伝うというほど手伝えてません。臣下に助けられてばかりで」
ギルベルトは恐縮するラムールを微かに笑った。
「臣下の言葉を受け入れるのも必要な器量だ」
ラムールから見る王から噂に聞く冷徹さは感じられなかった。寧ろ穏やかですらあった。残酷だという印象も受けない。
王はどのような方なのだろう。そう思って注意深く探ってみても、一向に見えてこない。王の人となりを掴まなければ、数多い客の一人として埋もれてしまう。外交の成功の第一歩としては相手に強い印象を与えることなのに。
やはり、まだまだ修行中の身には、バルデロの親善大使なんて過ぎた役割だったのかもしれないな。
朝から緊張の面持ちでいた彼を励ましたマシューの言葉を反芻する。
「気負うことはありませんぞ。これは条約の交渉でも、貿易の提携でもないのです。貴方の仕事はまず我が国の印象を良く持って頂くこと。殿下は素直な方ですから、下手に腹を探ったりするのではなく、御自分に好感を持っていただくのです。王とて人です。好ましい者には、やはりそうでない者と対応が違いましょう」
そうだ。ラムールの仕事はノックターンへの印象を高めること。国交についての話し合いはまだラムールには荷が重すぎる。
そもそも比較的気楽な立場の第三王子だった自分と、戦国の世にあって広く豊かな国を収める王と対等に肩を並べようと思う方が間違っている。しかし、心の片隅で、ギルベルト王に負けたくないと思っている自分がいた。
何と言ってもギルベルト王は彼の国を手中に収めた王だ。あのままだったなら訪れただろう未来をラムールから奪った張本人なのだ。彼の巫女を慕ったラムールには、どうしても目の前の王に複雑な思いを抱かずにはいられない。
とはいえ、決して憎い訳ではなかった。自分でも驚くことだが。
ラムールは巫女が亡くなったなんて信じていなかった。彼の姫を前にして、刃をその身に沈ませることなど出来るはずがないと。密かに語られている生存説を、彼も信じている者の一人だった。
静かな夜を纏う朗々たる巫女姫。実際に会った数は決して多くはなかったけれど、今でも彼女とのやりとりは忘れられない。
街で、彼の女を見つけ、夢中で追いかけたが、日を追うごとにあれは見間違いだったと思えてきた。マシューの言うとおり、彼女があんな堂々と街を歩いているなんて考えられない。生きているのであれば、彼女は誰も知らない静かな所に身を寄せていると考えるのが妥当だ。二度と会えないことには変わりない。彼の手の届かない人となってしまった。
生きているとしても、もう…二度と会えないのだ。
それは寂しいことだった。ぽっかりと胸に虚無が広がった。でも…三日前、そう、シェリファン王子を訪ねた時に、彼女と似た雰囲気を纏った少女と出会った。彼女以外に鳴ることがなかった胸が数年ぶりに音を立てたのだ。
未練を断ち切れない彼が、マシューや兄王から巫女のことは忘れろと説き伏せられてきたが、漸く、強制されることなく自分の心に終止符が打てそうだった。
「こちらの気候は貴国とは随分違うと聞くが」
「はい、すっかり慣れました。寧ろ、とても過ごしやすいくらいです」
「そうか。祭までまだ日がある。何か入り用の物があれば、出来るだけ配慮いたそう」
「かたじけなく存じます」
王との面会も、恙無く終えられそうだ。
謁見の時間が終わりに差し掛かった頃、ラムールは軽くなった心のままに口を開いた。
「そういえば、ここの使用人なのですが…」
「我が城の者が何か粗相でも?」
「いえいえ、皆良く気の付く者ばかりで、その上美しい…」
「これはこれは。堅実と名高い貴公の気に召す者がおりましたかな?」
女性には奥手がちな彼を軽く揶揄する王に気が付いた。ラムールが夜の相手としての打診をしてきたと思ったのだろう。
客人に付く女官には暗に夜伽の仕事も任される。付いた女官が気に入らなければ、代わりに気に入った者を呼ぶ。自国の客人の中に日毎夜伽の相手が変わる者がいた。ラムール自身、他国へ行った際に好みの女を打診されることもあった。
ラムールは、シェリファン殿下の侍女に――意図したことではないとはいえ――部屋に誘ったことを思い出し、赤面した。
「え、いいえっ…その、シェリファン王子の侍女殿のことで」
急に黙りこんだ王に気付かずラムールは続けた。
「実はこの間、王子とお会いしたのですが、そこで使用人の鏡というべき淑やかな侍女殿がいて」
「……ほう」
「聞けば元々はこの国の使用人だったところ、王子が態々侍女として召し上げたとか。そうなさったのも頷ける女性でした」
「…その侍女と言葉をかわされたのか?」
「ええ。ほんの二言三言でしたが」
彼女の顔こそはっきり見ることは叶わなかったが、城に宮仕えに来ている以上、相応に美しいのだろう。
「なるほど。しかし、生憎その者はシェリファン王子の侍女なのだろう。その者は王子のお気に入りであるのでな、夜伽には呼べぬ」
ラムールは照れたように笑った。
「いいえ、そんなつもりで言ったのではないのですよ。…彼女はわたしの懐かしい人に似ていたので」
ギルベルトは頬杖をついた指で頬を叩いた。
「そういえば、貴公は巫女の婚約者だったそうだな」
ラムールははっとした。
「ご存知でしたか」
「わたしがアルフェッラを制圧しなければ、貴公は巫女の伴侶となっていたのだったな」
ラムールは慌てて否定した。彼が王を非難したととられたら、ノックターンにも累が及ぶ。
「あ、そういうつもりだったのでは。…正直なところ、これで良かった気もするんです」
王の怪訝そうな顔に促され、ラムールは言葉を継いだ。
「国が滅んだことを肯定しているのでも、陛下のなされたことを糾弾しているのでもないと御理解いただきたい。…彼の姫にとって良かったと、そう思っているだけなのです」
「…巫女とは親しかったのだな」
「親しい、という程に互いを知り合ってはいなかったのですが、候補の中ではわたしが一番、歳が近かったこともあって気安い仲だったかもしれません」
僅かでもアルフェッラに関わった者として。直接巫女と言葉を交わせる位置にいた希少な者として、ラムールは確かに巫女に近いところにいた。
初めて会ったのは、彼女がまだ十にもならぬ頃。その時でも既に彼女は落ち着きのある、巫女に相応しい清楚さを備えていた。
「彼の姫が不幸だったというのではありません。ただ、あそこは檻でしたから」
「………」
ギルベルトの見守る中、思いが過去へと飛んでいるのか、ラムールは穏やかな面持ちだった。そして少し、寂しげだった。
「これから言うことは、わたし個人の言い分だとお思い下さい。巫女とは、一生神殿から出ないのが当たり前だと言ってしまえばそれまでですが…わたしは彼女には外へ羽ばたいてほしかった」
その日、レイディアは朝からクレアと街に出た。シェリファンが部屋を空ける午前中だけの外出だが、クレアは嬉しそうだ。
「見て下さい、レイディア様。串焼きがありますよ」
クレアが指差す露店からは良い匂いが漂っている。レイディアは串焼きを二本買って、一本をクレアに渡した。
「火傷に気をつけてね」
「平気です。猫舌のホイップじゃないんですし」
傍から見れば仲の良い姉妹に見える二人は、やはり仲良く街をそぞろ歩く。可愛らしいドレスより、食べ物や、武器屋の露店に興味を示すクレア。道端で芸をしている一座を通りすがりに眺めたりして時間を潰した。
そんななか、クレアが珍しく装飾売りの露店に近づいた。
「レイディア様はどういうのがお好きですか?」
「え?」
一瞬、何を言われているのか分からず、気の抜けた返答をしてしまった。
「指輪とか、首飾りとかです」
露店を指差す。店番の若い女がクレアに気付き、その可愛らしい容姿を見て、得心顔で笑った。
「いらっしゃい、お嬢ちゃん。何がいいかな?」
「えっと…」
クレアは問うようにレイディアを見上げた。どうやら、レイディアの為に露店に立ち寄ってくれたらしい。レイディアは心が温かくなった。
「買ってくれるの?」
クレアは頷いた。あんまり高いのは無理だけど、と指をいじりながら。
「お姉ちゃんのプレゼントかな? 偉いねぇ」
店の女が柔らかく笑う。姉の誕生日か何かで妹が贈り物をする、という構図が女の中に出来上がっているようだ。
レイディアは品を見た。蝶のペンダント、花型のビーズで編まれたブレスレットなど、年頃の娘が好む装飾が数多く並んでいた。レイディアは以前ギルベルトと街に出掛け、緑の腕輪を買ってもらったことを思い出して左手首を摩った。
侍女となってから装飾品を身に付けるようになった。緑の腕輪は今もレイディアの腕に収まっている。
「そうね…」
レイディアは品の一つを手に取った。橙色の輝石が連なった紐が五本、房のように垂れ下がっている髪飾りだった。上で紐を纏めている提灯の様な丸い珠が可愛らしい。決して凝った作りじゃないけれど、心がちゃんと籠った一品だった。揺らすと紐がぶつかりシャラシャラと軽やかに音を立てた。
「お姉ちゃん、どう? 可愛いでしょう? あたしの自信作」
「もしかして、この店の物、全部貴女が?」
露店の女が嬉しそうに頷いた。日に焼けた顔が眩しい。
「レイディア様、これがいいんですか?」
「ええ」
「じゃあこれください」
「毎度。四銅ね」
庶民が楽しむお洒落としては適切な値段だ。クレアは代金を払った。
また来てね、という女を声を背中で聞きながらクレアはレイディアに差し出した。
「どうぞ」
「ありがとう」
クレアの頭を撫でてやるとはにかんだ。
「もしかして、これの為に街に来たがったの?」
「…僕じゃ、女物のことなんて分からないですし、他のヤツに聞くのは嫌だったし」
いつものお礼がしたかったというクレア。レイディアは買ったばかりの髪飾りを髪に留めた。
「似合う?」
「はい」
「大切にするからね」
「はい」
ローゼは昼も近い頃に目を覚ました。
この季節は夜が長い。つい昨夜は彼女を訪ねてきた秋妃のマリアと長く話しこんでしまった。例の、“影の女主人” について。
「お目覚めでございますか」
侍女のダリアが寝室に入ってきた。ローゼはけだる気に起き上った。
「…ええ」
まだ少しぼんやりとする頭をなんとか覚醒させ、差し出された紅茶を口に含んだ。
「例の女は?」
「詳しいことはまだ。しかし、噂は確実に広まっております」
「そう」
昨夜のマリアはひどく不安げだった。噂に翻弄され、すっかり参ってしまっていた。良くも悪くも事なかれ主義の彼女は気が弱い。想定できない変化に怯え、今のこの均衡が崩れてしまうことを案じていた。
〈わたくしは今が幸せなんです。滅多に王に訪ねていただけなくても、それでも、ここでの暮らしを、失いたくないんです…〉
シルビアが後宮に来ると騒がれた時も、どうしようとおろおろしながらローゼを頼ってきた。それに関しては、結果的には丸く収まったから彼女の不安も解消されたのだが…。
今回の相手はなんと言っても王の侍女。フォーリー女官長と妃を別とすれば最も王に近い女だ。ムーランさえ茶会で話題に出すほど、信憑性のあるものらしい。
ローゼとて心穏やかではないが、冷静に現状把握する余裕はあった。
「…仮に、噂が本当だとするなら、彼女はいづれ正妃となるのでしょうか」
「馬鹿なこと言わないで。その可能性があると噂されているだけよ。大方、噂が誇張されて、正妃にまで話が及んだだけでしょう」
ローゼは言ったが、それが自分を納得させる為のように響いた。そのナディアという女は王の本命なのかしら…。身分はたいしたことはない。たかが男爵家だ。けれど、能力はそこそこあるという。
「本人がそのように振る舞い始めていることから、彼女を妃の様に扱いだす輩も出てきているようです」
「それは…厄介ね」
噂が嘘だとしても、それを貫けば真実となることもあるのだ。そうなる前に手を打ちたいが、彼女自身が明言しない限り、こちらから伺うことをしたくない。
「やはり、王に直接お訪ねしてみては?」
それが最善なのは重々承知だ。けれどローゼはそれが出来ないでいた。
「陛下がお話し下さると思う? 王は女に深入りしない。滅多に後宮を渡ってきても下さらないのに、聞く機会も無いじゃない」
否、それは言い訳だ。聞こうと思えば、執務室に押し掛けるなり、書面に認めるなりどうにでもやりようはある。
ローゼは怖いのだ。王の口から直接聞かされるのが。冷たい目で見降ろされるのが。
このわたくしが何かを恐れる日が来るなんて…。でも、もし本当に彼女が本命なら、わたくしはどうすればいいのだろう。
「ローゼ様、少しよろしいでしょうか?」
着替えている最中、女官が訪ねてきた。ローゼは目線だけを寄こして続きを促した。
「ナディア様が…」
ローゼは立ち上がった。
わたくしは正しい。ナディアはそう信じて疑っていない。王は無言でわたくしを試している。本当に女主人として相応しいか。だから、その様に振る舞った。そうしたら、いつしか噂が付いてきた。これまで日陰の身に甘んじてきたが、もう隠れることは無いのだと確信した。
それに伴って周囲の視線がだんだん変わってきた。媚びる視線が何とも心地よい。これまで誰にも気にかけられることのなかった自分が、遜る価値のある人間だと周りに認められた証だったから。
彼女のずっと押しつぶされてきた自尊心が一気に伸びあがった。自分は選ばれた人間なのだと、己を誇らしく思える様になった。
だから
「わたくしが何をしたというのです! 言いがかりもいいところだわ!」
「じゃあ、どうして貴女の部屋にこんな物があるのです?」
「知らないわよ!」
ナディアは褐色の髪の女官を前にして仁王立ちしていた。周囲に後宮の女達がこちらを伺っているのを視界の端で確認する。ナディアは声を大きくして言った。
「貴女はこの間シェリファン殿下の居住区域にいたわよね」
「それが、何よ」
「殿下はね、この間ピアスを失くされたそうなの。そうして調べてみたら、シェリファンのピアスが貴女の部屋で見つかった。どうしてかしら」
ナディアの手には虎目石のピアスが煌めいている。
「だからっ! わたくしはそんなピアス知らないわよ!」
「他の誰かが、貴女の部屋に置いたとでも?」
「わたくしがやったのでなければ、それ以外ないじゃない!」
ナディアは悲しげに首を振った。
「後宮に出入り出来る者は限られています。そんなことを言うなんて…そしてその者達は皆わたくし達の仲間。その彼女達を疑うということですよ」
「誰かがやったなら、疑うしかないじゃないっ」
「じゃあ、この間、何故シェリファン殿下のお部屋近くにいたの?」
「それは…そのピアスとは関係ないことよ。それに、あの時わたくし以外にも人がいたじゃない。貴女こそどうしてそこにいたのよ」
「わたくしはただの見回りよ。あの二人はわたくしと一緒に散歩に出たわ。でも貴女は、その後一人だったわよね」
「すぐに後宮に戻ったわよ。いい加減にしてちょうだい!」
ナディアは顔を真っ赤にして金切り声を上げる女官を見下ろした。
ああ、この女は駄目だ。ナディアはそう断じた。ナディアを不服従の目で見る。最近では誰もがナディアに道を譲る中で、この女だけがわたくしを見下した目をしてくる。目障りだった。わたくしは陛下に選ばれた人間なのに。
人の世は選ばれた者が率いていくものだ。選ばれた人間に従わない者は人の世に不適当だ。
わたくしが支配する後宮に相応しくない。
「分かった? わたくしがやったという証拠も無い癖に、勝手なこと言わないで!」
声につられて、だんだん人の数が多くなってきた。使用人の狭い居住区に妃の姿さえ見える。好都合だ。ここでナディアの存在を決定的なものに出来る。ナディアは優越の目で、優しい声で、女官を説得した。
「今なら、わたくしも口添えしてあげられるわ」
「何の話よ」
「貴女、お家が苦しいのですって?」
周囲がざわめく。女官の唇がわなわなと震えだす。
「何でそれを…」
「最近、貴女の父上が事業に失敗したとか。…こんなことをする前にわたくしに相談してくれれば、貴女が罪を犯すことは無かったのに」
「それは…でも、わたくしは殿下の物を盗んでなどいないわ。多少財が無くなったところで盗みをはたらくなんて、そんな畜生にも劣る真似するものですか!」
無罪を訴えても、今権勢を誇るナディアに問い詰められている彼女への疑いは晴れない。どころか周囲の目が猜疑の色を宿している。それでも猶、女官はこの孤立した中で、震える身体を叱咤しながらも必死に弁解していた。
「殿下の居住区には、人が少ない、忍び込むのは簡単よね」
ナディアはじわじわと女官を追い詰めていく。
「貴女は以前、殿下付きだった。何処に何かがあるのは承知していて当然よね」
「そんなの、わたくしだけじゃないわ」
「どうしても、認めないとおっしゃるの?」
「当たり前よ! わたくしは無実なんだから!」
「そう――素直に認め、悔い改めるならば、不問にしても良かったのに」
その言葉は周囲にも影響を与えた。まるで、女官の身の上を決める権限があるように聞こえたから。
「王の城で働く者として悪事を働き、それを改めない者に、この城にいる資格はありません。貴女を今日付けで解雇しなけばなりません」
昼時、レイディアはクレアと城へ帰ってくると、女官として城に潜っている蔭がレイディア達の前に現れた。
「お帰りなさいませ、レイディア様」
「ただ今戻りました。…何か?」
ただレイディアの帰りを迎える為に現れるわけはない。クレアも首を傾げている。
「レイディア様。今すぐ後宮にお出まし下さい」
クレアの目が険しくなる。
「後宮で問題が?」
「例の侍女、ナディアが女官の罪を糾弾して…後宮が混乱しています」
レイディアとクレアは顔を見合わせた。
蔭に連れられて問題の現場に行くと、既に大勢の者が集まっていた。
その中央に褐色の髪色をした女官がいた。大声で無罪を主張している。以前、レイディアに当てこすってきた女官三人の内の一人だ。あの時、その場を治めたナディアに対して反発心を燻らせていたことも思い出した。
次いで、目線を移してナディアを見つけた。クレアも同じ様に彼女を見た。そして、レイディアの気持ちを正しく代弁して言った。
「あ、ピアス」
女官は愕然とした。
「な…何言ってるの…? 解雇なんて。王付きとはいえ、侍女でしかない貴女にそんな権限は無い筈よ…」
「そうね。普通ならね」
「………」
「ねぇ、わたくしだって決して貴女を嫁げない身にしたいなんて思ってないわ。だから、せめて辞職という形をとらせてあげてもいいのよ」
後宮を辞めるというのは、この先まともな縁談は望めないことと同義だ。だから貴族だけではなく、平民の者でも辞めさせられることを一番恐れる。身内の中でも冷たい目で見られる。罪人の烙印を押されるも同然なのだ。
女官は真っ青な顔をして黙りこんでしまった。
「どういたします?」
クレアはレイディアに耳打ちした。想像以上にことが大きくなってしまっている。解雇は女官にとって死に等しい。このままではあの女官は辞職に追い込まれる。止めなくても、同僚達から締め出しをくらい、辛い状況に置かれるのは避けられなくなる。
しかし、レイディアからの返答は無い。クレアが見上げるとレイディアは何故か別の方向を見ていた。
「レイディア様…?」
やがて、レイディアは諦めたように目を閉じ、前に出て行った。
「――お待ち下さい」
ナディアが支配していた空間に、待ったがかかった。全ての目が一斉に声の主へと向いた。ナディアはレイディアに気付いた。
「あら貴女、殿下の。どうしたの? 今忙しいのだけど」
「そのピアス、我が主シェリファン殿下の物です。お返し頂きたく存じます」
「ああ、そうね。お返しするわ」
ナディアはレイディアに手渡す。
「それで、このピアスは何処に?」
「彼女の部屋にあったの。だから今彼女を取り調べていたところなの」
レイディアは褐色の髪の女官を一瞬だけ見て、すぐにナディアに向き直った。
「態々こんな公衆の面前で見せしめのようにしなくてもよろしいでしょうに」
「けれど、皆に分かるようにしなければ、周りに示しがつかないわ」
「それで、貴女が彼女の部屋で見つけられたのですか?」
「ええ、そうよ。貴女、殿下がピアスを失くしたと言っていたじゃない。だから女官達の部屋を点検したのよ」
「それはそれは、お手数かけまして申し訳ありません」
「礼には及ばないわ。ただ殿下の為にやったこと」
「…一つ、聞きたいのですけど」
ナディアは鷹揚に頷いた。
「どうして、ナディア様はこれが殿下の物だとご存知なのですか?」
「なんですって?」
ナディアは言葉に詰まった。レイディアは繰り返した。
「どうして、このピアスが殿下の物だとご存じなのですか?」
「それは……そうそう、以前、殿下がそれを付けているのを見たことがあったの。だからよ」
「おかしいですね」
「え?」
「これは殿下のお気に入りで、私的な時間を過ごされる時に身に付けられるピアスです。公の場に出られる時は、殿下はこのピアスをお付けにはなりません」
ナディアの顔から表情が消えた。周囲の空気も困惑したものになる。変わらず、淡々と響くのは、レイディアの声のみ。褐色の髪の女官が訳が分からないというようにレイディアを見つめていた。
「ナディア様。これが、どうしてシェリファン殿下の物とご存知なのですか?」
「だって、貴女、この間言っていたじゃない、探し物をしているって」
「ええ探し物をしているとは言いました。けれど、ピアスを失くしたなんて私、言っておりませんが?」
「…何が言いたいの? 貴女」
「これが殿下の物だと知ることが出来るのは、私達殿下の使用人と、このピアスを殿下の居住区で見つけた者だけだと言いたいだけです」
「………」
「どうして御存じなのです?」
レイディアの追及に、ナディアは答えない。
「それに、殿下の居住区で見つかったからといって、殿下の物とは限りませんよね。虎目石はそれほど高価なものでもありません。使用人でも手に入れられます。私達殿下付きの者の持ち物でもおかしくないんですが」
「そんなわけないじゃない!…だってちゃんと箱の中にっ…」
ナディアは口元を押さえた。褐色の髪の女官がナディアを見た。レイディアは静かな目をナディアに注いだ。
「殿下の宝石箱を確認なされたのですか? それで殿下の物と確信したと」
「それは…」
「どういう事よ? 貴女が殿下のピアスを盗んだのっ?」
「違っ…わたくしは」
「どのみち、こちらの女官の方がこのピアスを取るなんて無理ですね。殿下がピアスを失くされたのは四日前。彼女がいらしたのはもっと前。彼女であるはずがないんです」
ナディアと女官、そして周囲の反応など知らぬ気にレイディアは続けた。
「先程、貴女が彼女に仰っていましたね。貴女にお返ししましょう。ナディア様、どうしてあの時、あの場にいたのです? そして一人になった後、何をしていました?」
青かったナディアの顔色が、瞬く間に赤く変わった。
「わたくしを疑うというの?…このわたくしが殿下のピアスを盗ったと?」
「盗んだと言っていたのではありません。貴女がこのピアスを拾われたのではないかと聞いているだけです」
「でも彼女の部屋にあったじゃないっ」
「逆に聞きます。どうして三日も経ってから女官達の部屋を点検をなされたのですか?」
「それは、その…」
ナディアの言葉の歯切れが悪くなっていく。
「殿下が物を失くされたと聞いたから、使用人の持ち物を点検。それはいいでしょう。けれど、貴女は殿下が何を失くしたかまでは知り得ないはず。殿下の使用人に確認もせず、よくお分かりになりましたね? その上、こんなにあっさり彼女の部屋から見つけて下さるなんて」
「………」
「もし、本当に家が貧しいという理由でそちらの女官がピアスを持ち去ったというなら、とっくにご実家に送っている筈では?」
ナディアはぎらぎらとした目をレイディアに向けた。その様子は追い詰められた猫そのものだった。
「貴女、誰に何を言っているか分かってるの? 貴女の言い方はまるで、わたくしがピアスを拾って、彼女の部屋に潜ませたと言っているように聞こえるわ」
「事実を述べたまでです」
「どうして態々わたくしがそんなことをする必要があるというの? この女官には動機もあるわ。きっと罪悪感でずっと部屋に置いたままにしておいたのよっ」
「違うと言っているでしょう!」
「調べたのですか? 他人の事情を?」
ナディアは勢い余ったように叫んだ。
「だから何だというの!? わたくしが後宮の女達の事情を把握するのは当然でしょう。ここを管理しているのは、わたくしなのですから!」
高らかに宣言した声は集まっている者達に降り注がれた。あちこちからやっぱり、という声が上がる。褐色の髪の女官は気押されたように黙り込んだ。レイディアはナディアの目を見つめたまま何も言わない。ナディアは勝ち誇って笑った。
「わたくしは陛下に選ばれた女よっ。そのわたくしを疑うのは王を疑うも同じ。これ以上、言い掛りをつけるのなら、貴女も―――」
「何ごとだ」
その時、王の側近、テオールがその場に現れた。
「まあ、テオール様っ!」
「このような所に訪れるとは、お珍しい」
「テオール様」
女官達に間に動揺が走った。妃達も彼の突然の登場に驚きを隠せない様子だった。しかし、いづれも厳しく教育されてきた女官達は動揺しながらも一斉に跪いた。
「そう畏まることはない。王の命で人を呼びに来ただけだ。すぐ出て行く」
女官達は首を傾げ、隣り同士で顔を見合わせた。王が後宮の女を外に呼び出すというのは聞いたことがない。
側妃へ渡る時も直接王が足を運ぶ。使用人に至ってはよほどのことがなければ側に呼び寄せることはない。
「まぁ、誰をお呼びでしょうか」
唯一人、得心が言ったように誇らしげに問うたのはナディアだった。確信に満ちた声は周囲を巻き込んで、ナディアを呼びに来たと皆に知らしめる。
褐色の髪の女官が震えているのを跪きながら横目で見てほくそ笑んだ。顔を上げて、テオールが自分の名を呼び、優雅に立ち上がる。そう想像して、女官達、そして妃達も揃っている今、自分が中心にいるのだと決定づける優越感で笑みがこぼれるのを抑えられなかった。
「ああ、こちらにいたのか。捜したよ」
ほら、来た。さあ、テオール様。わたくしの名を呼びなさい。わたくしが正しいと示すのです。この王の寵愛を受けるべきわたくしの手を―――。
「レイディア殿」
ナディアは凍りついた。
…なんで…すって?
「……はい」
隣の女が静かに立ち上がった。
「王がお呼びだ」
どうして呼ばれるのがその女なの?
しかも、二人が言葉を交わしたのはそれだけだったが、彼らの間には既知の空気が流れていた。この少女にとってテオールは身近な存在で、恐縮する相手ではないということだ。
「…っテオール様!」
そのままその場を後にしそうになった二人の背中に、ナディアは思わず声を叩きつけた。
「何だ?」
テオールが振り返った。
「わ、わたくしを呼びに来たのではないのですかっ? わたくしは王に選ばれた…」
彼は怒りと困惑で顔を真っ赤にした彼女を不思議そうに見て、首を傾げた。何処かでみたことあるが…
「…失礼だが、そなたの名はなんといったか?」
その一言が決定打になった。
ナディアは顔は赤から白になった。そんな…テオールは王の口から直接わたくしの名前を聞いたのではなかったの。
「何を言っているのですか!? わたくしは…」
そして、唐突に気付た。テオールの隣にいる女の名は何といった……?
茫然と立ち尽くすしかないナディアの耳にひそひそ声が届く。
「ナディアさんは王の信任が厚くていらっしゃったのでは?」
「それなのに、側近であるテオール様がご存じないのはおかしいわよね」
「え、じゃあ王の信任って勘違いだったの?」
「あんなに自信満々に宣言してたのにね。うわ、恥ずかしい」
「くすくすっ、しぃー、聞こえちゃうわ」
小さな声がどうしてか、よく聞こえた。事情を知らないテオールは首を傾げた。
「よく分からないが、用があるのは彼女だけだが…。時間も押している。失礼する」
それきし、二人とも振り返らずにその場から去って行った。レイディアもナディアを一瞥してテオールに続いた。
彼女が溜息を吐き、微かに首を振ったことに気付いた者は誰もいなかった。