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鈴の音の子守唄  作者: トトコ
36/81

第三十三話

少し加筆修正しました。

「巫女役?」


翌日、ベルは休憩の時間にやってきたレイディアの話を聞いた。肩を揺らす彼を横目で見てレイディアは憮然とした。

「笑いごとじゃないのよ」

「すまんすまん。でも、それくらい引き受ければいいじゃないか。名乗りを挙げるだけだろう」

「万が一選ばれたら?」

「舞台で舞うのは嫌なのか?」

「派手なことは好きじゃないもの」

後宮隅にある門の番人であるベルは厳つい顔を緩ませた。いつもは寡黙な瞳が興味深げに煌めいている。

「だがなぁ…いい男と巡り合いたいというのは、女の子なら誰もが願うものじゃないのか? 毎年巫女役になろうと、あの手この手で男の人気を掻き集めたり、不正をしてでも巫女の座を手に入れようと画策する娘達が後を絶たない」

「…皆が皆そうだというわけじゃないわよ。その、舞の練習に割く時間だって惜しいし」

まさか既に婚姻を結んでいるとは言えないレイディアは言葉を濁した。

「忙しいのは分かるが、折角のチャンスをふいにするのは勿体無い気もするがなぁ」

巫女役に選ばれた娘は祭にかけて歌舞の練習に励まねばならない。巫女役の舞いは祭の目玉。舞いの出来が祭の成否を左右する。全く予行練習もなしに本番を迎えるなど論外だ。レイディアにとって、諸々の事情から、巫女役に名乗りを挙げるのでさえ煩わしい。

「今は出馬期間で、投票はだいたい二週間後。それから半月の練習時間とすると…確かに時間を割くのは難しいだろうな。でも、殿下ならそれくらいの時間はくれるんじゃないか?」

「…かもしれないわね」

寧ろ喜んで送り出してくれるだろう。そして練習にまでついて来そうだ。今や年相応に好奇心旺盛で腕白な少年に戻ったシェリファンを思い浮かべ、確信に似た思いを抱いた。その一方で、王子に対抗意識を燃やすクレアには拗ねられそうである。それにまだ二人で出かける約束を果たしていない。悶々と考えるレイディアに気付かず、ベルはふと思い出したことを口に上らせた。

「そういえば、他にも名乗りを挙げている女官がいたな。確か…ナディア様とかいったか」

レイディアは、意味無くいじっていたカップから顔を上げた。

「ナディア様…」

「知らないのか? 最近噂になってるじゃないか」

「王の侍女のお一人でいらっしゃるというのは知っているわ。その方が巫女役に?」

「なんでも、周りの信奉者に担ぎあげられたらしいぞ。彼女自身はもう二十も過ぎているし、と乗り気ではないそうだが」

「謙虚な方なのね」

「王の御信頼も厚いと専ら評判だ」

「そう」

レイディアはカップを盆に戻した。

「もう行くのか?」

「ええ。ちょっと安心したし」

街のあどけない美少女や、後宮で婿選びに余念がない美女を思い浮かべる。いづれも巫女役に不足のない者達。彼女達がいる限り自分の出る幕は無い。気が楽になったレイディアは軽い腰を持ち上げた。

「ベルの話を聞いてほっとしたわ。いつもありがとう」

「俺の方こそ、いつも美味い茶を女の子と飲んでいるっていうんで、実は仲間内から羨ましがられていてな。ちょっと鼻が高かったりするんだ」

レイディアは少し目を丸くした。

「そうなの? 私のお茶なんて大したことないのに」

「あいつらが羨ましがっているのは茶の味じゃなくて…いや、何でもない」

言いかけ、ベルは笑って誤魔化した。ひょんなことで始まった二人の憩いの時間は、ベルにとっても大事な時間だ。疚しいことなど何もない。レイディアとの時間に周囲のやっかみなど、どうでもいい。

「それじゃあね」

「ああ、また明日な」



茶器を片づけたレイディアは、シェリファンの部屋へ向かった。そろそろ彼も部屋に戻っているはずだ。最近の彼はバルデロ国内に留まらず、訪れる諸国の有力者との会談の席を積極的にこなしている。今日もベリーヤの使者との面会が予定に組み込まれていた筈だ。シェリファンは授業との両立に忙しい毎日を送っている。だが、その目は最初の頃よりいきいきとしていた。まだ幼いながらに一国を背負う者としての自覚が芽生えつつあるお蔭で、足場の不安定さが無い。良い傾向だ、と思う。このまま順調に成長していければ良いのだが――


「ちょっと、そこのお前」


レイディアは足を止めた。一つ間を置いて、目の前に仁王立ちしている者達と目を合わせた。

「私のことでしょうか」

「お前以外に誰がいるというの?」

「すぐに分かるでしょう。愚図ね」

レイディアを上下にじろじろ見てきた。品定めする眼差しを向けている女は三人。レイディアは彼女らを知っていた。シェリファンの世話役の前任者達だ。

「お前、名前は?」

恐らく既に知っているのだろうに名を問われた。名を聞くのは目上の者がすることだ。今のレイディアは彼女らと同等以上の地位にあるが、彼女らが認めていない証拠だった。

「レイディアといいます」

怯えもせず、ごく自然な態度のレイディアが気に入らないのか、彼女らは剣呑に目を細めた。

「…そう。では、レイディア。お前、何をどういうつもりなの?」

「…と、言いますと?」

「何をいい気になっているのかって聞いてるの」

「シェリファン殿下に取り立てて頂いて、さぞや鼻が高いでしょうね」

「何のことでしょう?」

「惚けるんじゃないわよ。わたくし達は知ってるのよ、あの方に同情を請い、特別待遇を受けていること」

「そのようなことは」

「だっておかしいじゃない。なんでわたくし達が不興を買うわけがあるの? わたくし達の仕事は完璧だったのに」

「どんな手を使ったかは知らないけど、幼い殿下を誑かすなんて身の程を知りなさい」

とんだ言いがかりだが、ここでレイディアが言葉を尽くして弁解しても、小指の先ほども彼女らに伝わらないのは目に見えている。彼女達はレイディアの弁解を聞きたいわけではないのだから。

黙ったままのレイディアを怯えたと勘違いした彼女達は、今度は猫なで声でレイディアに迫った。

「…ねぇ? わたくし達はただ心配しているだけなのよ。お前みたいに鼻に付く小ずるい者が王城にのさばっていたら、全体の風紀が乱れてしまうじゃない」

「まだ多感なお歳でいらっしゃる殿下のお傍にそんな者がいては一大事だわ」

「そうよ。足、怪我したんですって? なんて浅ましい。どうせ大したことないんでしょう? なのに侍女にまで格上げさせるなんて」

「今の状況が如何に分不相応かと思い知るのね。身の丈に合った心を持ち合わせていないお前を更生させなければ」

尤もらしいことを言っている彼女らの本音は、言うまでもなくメネステ王太子シェリファンに唯一気に入られたレイディアを引き摺り降ろしたい、というものだ。彼女らは自らの仕事に誇りを持っている。けれどもシェリファンに手酷く邪険にされ、その後すぐについた、レイディアがシェリファンの信頼を得た。その上、そのレイディアはつい最近まで格下の女奴隷だったのだ。後釜を奪われ、仕事の評判に傷を付けられた。彼女達はそれが納得できないのだ。その鬱憤は彼女らのいた席に座るレイディアに向くのは自然な成り行きではある。だから、いづれ来るとは思っていたから、彼女達に糾弾されるのは想定内だった。

「今ならまだ遅くはないわ。お前の意志で殿下のお傍を辞すというのなら…」

「私はフォーリー女官長より命を承り、殿下のお世話役を任されております。無責任に、この任を降りる訳には参りません」

きっぱりと答えたレイディアに彼女達の顔色が変わる。

「な…何を生意気なっ」

「所詮女奴隷じゃない! わたくし達のような貴族の家柄でもない癖に、王子に近づくんじゃないわよ! 身分を弁えなさいっ」

「それは女官長が決められること。貴女に私をどうこうする権利ありません」

「もともと、わたくし達は拝命したお役目だったのよ! なんであんたなの? 私達に過失は…」


「そこ、何をしているの?」


突然の第三者の声に、レイディアに詰め寄っていた女官達はぎくりと身を強張らせた。

「ナディア様っ」

その名にレイディアはそちらに顔を向けた。

「あ…その」

「これは…」

「女三人で寄ってたかって、何をしているのかしら?」

レイディアとの間に介入してきたナディアは亜麻色の髪を几帳面に纏め、草色の衣を纏う美しいひとだった。隙のない化粧を施した顔を動かして三人を順に見渡した。深い緑の瞳が問い質すような光を宿している。

「ち、違うんです! 私達はただ…ちょっとこの子とお話を」

「貴女達が優秀なのはわたくしもよく知ってるわ。同僚に辛くあたるなんて恥ずかしい真似、するわけないわよね」

「そ…そうですっ。そんな卑小な真似するものですか」

「熱心に話しこんでいたようだけど、何を話していたの? 是非わたくしもまぜてもらいたいわ」

「いいえ、ナディア様がお聞きなさるほどのものではございませんわ。ほんの些細なことですから」

「ええ、ちょっと意見が食い違っていただけですし。もうお話も終わりましたのよ」

自分達の面目が立ったことに安心した女官達は、ナディアに愛想の良い笑顔を見せた。

「それよりも、ナディア様とこんなところにいらっしゃるなんて」

「ええ、ちょっと陛下の遣いの帰りなの。ちょっと休憩がてら散歩をしていたのよ」

「まぁ、ナディア様は本当に王の信任厚い方ですのね。尊敬いたしますわ」

「御迷惑でなければ、ご一緒してもよろしいでしょうか?」

彼女達はナディアに対したまるで妃に対するように遜り始めた。

ナディアはその扱いをごく自然に受け止めて微笑んだ。

「ええ、構わないわ」

彼女らは連なって歩き出した。レイディアは頭を垂れて通り過ぎるのを待った。

「………なり上がりの癖にっ」

おや、と思い頭を上げると、一人だけ残った褐色の髪をした女官が、離れていく背中に憎々しげな目を投げかけていた。レイディアの視線に気付いた彼女は、気まずげに目を逸らした。

「…とにかく、職務を弁えて殿下にお仕えするように」

レイディアに厳しく言い渡すと、彼女もナディア達とは反対の方向に去っていった。


人の気配がしなくなったのを見計らってレイディアはポツリと呟いた。

「よく我慢しましたね」

すると、背後から音もなくクレアが現れた。その顔は不機嫌に歪められている。

「是非とも今夜、あの人達全員の寝台に蛙を仕込む許可が欲しいんですが」

「許可しかねます」

「ですよね」

クレアは掌に拳を打ちつけた。

「でも、蛙くらい可愛いものじゃないですか。ちょっとぬるぬるするだけですよ」

「大事に育てられてきた令嬢達には卒倒モノでしょう」

「枕の下に剥き出しのナイフを仕込むよりは安全ですし、枕が破ける心配もないじゃないですか」

「去年、実施しようとした計画よね、それ」

そしてレイディアが直前で気付いて止めた計画だ。クレアは肩を竦めた。

「それで、あの人がナディア様ですか」

クレアは首を巡らせ、ナディアが去って行った方向を見やった。

「実物は初めてですが、見たところ、なんてことのないただの侍女ですね。あの程度の美人、王城ここじゃ普通の部類ですし。レイディア様の足元にも及びません」

「いえ、容姿のことはどうでも良くて」

「あの方が“影の女主人”の正体と専ら噂されてるんですよね。昨日女官が噂しているのを聞きました。王の信任厚く、後宮の管理を任されているって」

クレアは昨日、シルビアと聞いた噂の内容をレイディアに話した。

「まるで、後宮の主ですね。気に入りません」

「ナディア様御自身がそうだと明言してはいないのでしょう?」

「…ですが、王の侍女だからって権限を与えられるわけじゃないでしょう? ちょっと周りの女より優越な立場ってだけで、そんな噂の対象になるなんてあり得ないと思いません? ムーラン様だって彼女がそれとなく振る舞ってるからかもしれないって」

「ムーラン様?」

「ええ。昨日側妃達のお茶会で話題に出したそうです。シルビア様から聞きました」

「…そう」

レイディアは一瞬考えるそぶりをしたが、すぐに顔を上げた。

「…ナディア様が有能なら、王は目をかけ、相応に優遇するわ。王は有能な方に男女の区別をつけないから」

「でも、ちょっと調べてみたんですが、彼女が実際にその特権を行使したことはないらしいんですよ」

「王が認められた方なら、権力を無闇に振りかざさない公正な方に決まってるわ。誰も聞いてこないから否定のしようがないだけで、勝手に広まった噂に、もしかしたら彼女は迷惑さえしているのかもしれないわ」

「…でも…」

クレアは納得しない。と、その時、廊下の向こうからレイディアを呼ぶ声がした。

「レイディアッ」

シェリファンが角から姿を現し、彼女のもとに駆け寄ってきた。

「殿下」

「どうしたんだ、こんな所に突っ立って?」

「先程まで同僚の方とお話していました」

「どんなお話?」

「仕事のことで、意見交換をしていました」

「仕事熱心なんだね」

シェリファンは好奇心旺盛だ。最近ではレイディアにあれこれと聞きたがる。知りたがり屋の彼に従者のリクウェルも手を焼き気味だった。

「…ものは言い様」

「何? クレア」

「いいえ、レイディア様」

だがレイディアはその傾向を歓迎していた。何でも知ろうとする姿勢は見聞を広め、広い視野を手に入れることが出来るからである。それは施政者として不可欠な能力だ。

「ところで、シェリファン様もどうしてこちらに?」

「そうだった。レイディアを迎えに来たんだ。こないだレイディアはセミュロンの実のお菓子が好きだって言ってただろう? だから、今日のおやつは“ミレイユ”のセミュロンゼリータルトパイにしてもらったんだ」

「まぁ、覚えていて下さったんですか」

「うん、楽しみだろう?」

それと同時に、シェリファンは彼に仕える者達を大事にする抱擁力も身につけ始めた。そして、特にレイディアを贔屓にするきらいがあった。だから、彼の前任者達がレイディアを彼の傍から引き離そうとしたと知れば、彼は怒る。怒りに任せて彼女らを罰しようとするかもしれない。それだけは避けたかった。優遇されている者は、常に周囲の羨望と嫉妬を買う。足の引っ張り合いが激しい王城では尚更。こんなもの序の口だ。いちいち罰してはキリが無い。

しかし、レイディアは憂慮はそれだけではなかった。シェリファンがレイディアを慕う姿を外に晒せば、レイディアは王子のお気に入りとして認識され、注目される。そうなれば、シェリファンに取り入りたい者達の、取りなしの頼み先のリストに載せられてしまう。レイディアがいくら目立たないよう振る舞っても、周囲が騒げば意味はなくなる。

「一緒に食べるだろう?」

「はい、喜んで」

「クレア、お茶」

「畏まりました」

「今度は美味く淹れろよ」

「…畏まりました」

背後で王子にこっそり舌を出すクレアに苦笑しながら、レイディアはシェリファンに手を引かれながら彼の部屋へ戻って行った。








その夜、王都の一際暗い路地裏に構える酒屋は、今宵もそこそこ賑わっていた。照明がカンテラのみの店内は薄暗い。けれど顔が判別しづらい暗さが、客達には都合がいい。客の多くは顔は知られていない方がいい身分の者達だから。

隅のテーブルに、二人の若者が腰かけていた。一人は黒紫の髪の男。旅装をしており、側の壁に立てかけてあるリュートから、旅の吟遊詩人と伺い知れる。もう一人は、ありきたりな茶色の髪の男。健康的に焼けた肌は彼をより精悍に見せるのに、その身に纏うボロボロの外套のせいで、何処から見ても浮浪者だった。そんなちぐはぐな二人組は、しかしごく自然に向かいあってグラスを空けていた。

ボロボロの外套の男が相棒に話しかける。

「なぁ、ゼロ。来月の祭なんだが…」

「その日は稼ぎ時だから暇じゃない」

「いやいや、お前に何かさせようってんじゃねぇよ」

グラスから顔を上げたゼロは片眉を上げ、続きを促した。

「祭の夜、街の娘が巫女役として歌舞を披露するだろ? その娘はこのヴォアネロの男の投票によって決められる」

「それで?」

「ここは王都だ。つまり、ここでは街一と言えば国一と言っていい。そんな選ばれた極上の女と近づきになりたくない男なんてこの世にいやしないだろ」

「つまり、その女性を頂こうと?」

「この街には、まだ恋人っていないんだよな」

「こないだの女はどうした」

「あれはつなぎだ」

ゼロは溜息を吐いた。ドゥオのドゥオによるドゥオの為のルールがまた出た。

組織内で通じるドゥオルール、“一街につき一恋人”。ドゥオの持論でいくと“恋人”の目の前に他の“恋人”がいなければそれは浮気にあたらないそうだ。それ故、ドゥオの行くところ全ての地に、現地妻ならぬ現地恋人がいる。

「でも、せっかくだから気に入った娘に選ばれてほしいじゃん?」

そう言って、ドゥオは外套のポケットから二枚の紙を取り出した。しかし、ゼロにはそれが何なのか分からなかった。

「…あーあーくしゃくしゃになってやんの」

「ちゃんと仕舞っとかないからだ。お前絶対一週間前の手巾もポケットの中に入れっぱなしだろ」

「そもそもそんなお上品なモン持たねえよ」

ドゥオは口を尖らせながらドゥオは紙を伸ばし伸ばしした。ゼロはグラスを脇に置き、一応読めるくらいには広げられた紙を覗きこんだ。

「…住民票」

「投票権があるのは、街に住民票のあるやつだけだ。だから作った」

こともなげに言うドゥオに頭痛を感じ、ゼロはこめかみを揉んだ。

「住民票の不正は縛り首だぞ」

「大丈夫。お前のも作ってやったから」

何が大丈夫なのか。

「……ガーナか」

「持つべきものは手先の器用な子分ってな」

ゼロは心に決めた。ヤツに会ったら言ってやる。今後一切ドゥオのお遊びに付き合うなと。

その心中を知らぬ気にドゥオは紙を得意げにかざした。ランタンに照らされて、住民票に記載されている名前がはっきりと読めた。二枚とも、聞き覚えのない名前だった。

「…新しい人生を始めるつもりなら僕らに構うことはない。心置きなく第二の人生を歩め」

「ここに書いてある名前の奴はちゃんと実在しているって。二人とも棺桶に片足突っ込んだジジイだがな」

「…ほほう」

「だぁいじょうぶだって。一月くらいバレやしないさ。祭の準備で上も下も浮足立ってる。死にかけた爺さんの住民票なんか誰も気にしやしない」

「そうじゃなくて…」

ゼロは口を開きかけ、口を閉じた。目だけを横に滑らせる。

傍の床がコツ、と鳴った。

ドゥオは手品のように紙を一瞬で仕舞い、陽気な笑みを浮かべた。

「よお、良い夜だな」

「ええ、良い夜ね」

答え、葡萄色のドレスを纏う女がドゥオ達のテーブルに手をついた。結い上げられた琥珀色の髪が揺れ、彼女のヒールがまた床を鳴らす。

「ここ、よろしいかしら?」

大きく襟ぐりの開いたドレスは場末の娼婦のもの。だが彼女の纏う姿は下品とは程遠く、あくまでも優雅だった。自分の魅せ方を知っている者特有の典雅さだ。同じ娼婦でも、彼女の場合は客を選ぶ高級娼婦だろう。

「ああ、もちろんだとも。こんな美女と呑めるなんて今夜はついてる」

ドゥオは腕を広げて歓迎した。女は滑るように腰かけた。

「何にする?」

「では、ジグルを一杯」

酒の名前を聞いてドゥオはニッと笑った。ドゥオ達も追加を頼む。

「へぇ、随分呑めるんだな、あんた」

「お客を取る商売だもの。呑めなきゃ仕事にならないわ」

「そりゃそうだな。どうやって男を酔わすのか拝見したいね」

すると女は誘うような目をドゥオに向けた。

「なんなら、今夜は特別に一晩中予定を空けてあげるわよ。こんな素敵な殿方二人のお相手なんて滅多に無い幸運だわ。貴方達は娼婦の間で、お金はいらないから奉仕したい相手と評判だもの」

「それは光栄ですね。僕らも貴女の様な極上の淑女とお近づきになれて鼻が高い」

ゼロは柔らかい笑みを湛えながら聞いた。


「それで、何のご用でしょうか? 王のからす殿?」


琥珀色の髪の女はにっこり笑った。妖艶な気配が掻き消える。

「さっすが“鷹爪”。話が早くて助かるわ」

「これまで貴女の下っ端ばかりを相手してきましたからね。ようやく姿を現してくれて嬉しい限りですよ」

「散々焦らされてきたんだ。いい加減待ちくたびれたぜ」

「あら、女に待たされるのは男の栄誉だわ。有り難く思いなさい」

ソネットは溌剌な彼女の本性を垣間見せた。

「そんで? 何の用だよ、烏さんよ」

「ソネットと呼んでちょうだい。今はそれが私の名前だから」

「今は、ねぇ」

ドゥオは含みのある笑みを見せた時、注文した酒がテーブルに置かれた。新しい杯が三つ。

「それじゃ、まずは、乾杯」

ソネットはグラスを目の高さまで持ち上げ、一気に煽った。ドゥオ達もそれに続く。

「お見事」

「ありがとう」

彼らは傍目から見れば和やかな笑みを交わした。

「さてと、本題に入りたいんだけど、まずは…」

ソネットは手をひらひらと振った。その手にある物を見てドゥオは顔を上げた。

「あっ」

咄嗟にポケットを押さえたドゥオにソネットはにっこり微笑んだ。

「これでも街の公安も私の仕事の内だから、没収します」

「…ちっ」

顔を顰めたドゥオに変わりゼロが前に乗り出した。ゼロは偽住民票などどうでもいい。

「貴女が来たということは、こちらの動きもだいたい掴まれてしまっているということでしょうか」

「さてね。ここへ来たのだってたまたまヤケ酒が呑みたくて立ち寄っただけかもしれないじゃない」

「態々そんな変装をして、僕達を試しておいて、たまたま? あり得ませんね。今の貴女は娼婦以外の何者にも見えません。僕も思わず貴女の魅力とりつかれてしまいそうでしたよ」

「お上手ね」

皮肉を流してソネットは笑った。

「でも、貴方達の為にめかし込んだなんて、自惚れないで」

「ここは、お行儀のいいお貴族様なんてまずいない。女性を凹凸の具合でしか評価できない下等な男しかいない世界だ。本当に娼婦まがいの事をさせられてしまいますよ」

「ご心配なく。心得てるわ。私が来たのはね、平和的話し合いをする為よ」

「平和的? この街から強制退去させる為にきたんじゃないのか?」

ドゥオは胡散臭げにソネットを睨んだ。これまで王から送られてきた奴らとの攻防の記憶が呼び起こされた。レイディアとの取引後、直接的に邪魔されることはなくなったが、未だに陰湿な妨害が入る。

「あら、本当よ。私、ここへは命令されてきたわけじゃないもの。ちょっと取引がしたくてね」

正直な所ソネットは今ヴォアネロで幅を利かす裏組織の相手に忙しい。それでも今夜、態々ここに来たのには理由があった。

わたしたちの中で一番平和主義なのはこの私。一番合理的に事を処理するのに長けているのもこの私。どう、信じてみる?」

ゼロとドゥオは顔を見合わせた。

「…信じたとして、オレ達に何の利益がある?」

「そうね。貴方が探してる“宝石”の情報をあげるわ」

途端、ドゥオの顔付きが変わった。

「お前…」

「貴方の情報なんて滅多に入手出来ないのに、ディーアちゃんったらお手柄ね」

「そうか…お嬢ちゃんか」

それで合点がいった。あの少女なら、ドゥオの目的を察していても不思議はない。

「いいだろう。その取引に応じようじゃねぇか」

「ドゥオ」

「ただの勘だがな。お前達は手を汚しながらも自分というものを持ってる。そういう奴等は、一度口にしたことは誇りにかけて守るものだからな」

「案外高い評価を頂き光栄ね」

「回りくどいことは無しだ。まずは聞こう。お前はオレ達に何を求める」

「大陸を自由に行き来する貴方の手下を使わせてほしいの。そしたら、貴方が喉から手が出るほど欲しい情報と、これ、返してあげてもいいわ」

先程没収した紙をひけらかす。

「おい、いいのかよ。公安を守るのが仕事なんだろ?」

「どうせ巫女選びの投票に使いたいだけなんでしょう? 態々実在の人間を使うなんて手が込んでるのね」

「よく実在の人間って分かったな」

「だってこの名前の人、私知ってるもの」

「…隙間風が吹く家の爺さんをかよ」

その意味を悟ってドゥオ達は呻いた。

「そして、今の時期、実在の人間を名乗って都合が良いことが一つある」

それが巫女を選ぶ出す投票だった。

「お祭りを楽しむ権利は、死刑囚にだってあるというのが私の持論よ。使用後、ちゃんと破棄すると約束してくれるなら、これを返すのは吝かではないわ」

「なるほど、話が通じるというのは間違いなさそうだ」

ドゥオの顔に陽気な笑みが戻った。





一刻後、ドゥオ達がいなくなったテーブルに、その店の主である男は片付ける為に近づいた。

「これから…ヴォアネロも騒々しくなるな」

従業員は雇っていないので店主自ら濡れ布巾でテーブルを擦る。彼らの会話は残念ながら全て聞き取ることは出来なかったが、それでも分かるものはあった。

「…やれやれ、そろそろこの店も仕舞い時かね」

帰り際、ソネットとかいう女は、帰り際、店主に目を向けてきたのを思い出した。

情報屋としての顔を持つ酒屋の男はその視線に心臓を鷲掴みにされる思いを味わった。あの女はいつまでも情報を垂れ流す邪魔な情報屋を野放しにしはしない。

「そうだな…次は画家になるのも良いかもしれない」

店主は若い頃、お尋ね者の写し絵を描いて生計を立てていた。その伝手で情報屋を始め、いつしかこっちが本業の様になっていたが、旅の者としておかしくない職業に画家はうってつけだ。無骨な指からは想像しにくいが、画家と名乗っても怪しまれないだけの腕を店主は持っている。今の時代に絵画の需要は期待出来ないが、幸い蓄えはある。暫く道楽として筆を持つ生活を送るのも悪くない。

早速、残りの客を捌いた後店仕舞いの準備を始めよう。上手くいけば祭の騒ぎの中に紛れこんで人知れず姿を晦ませられるかもしれない。

「おっと…最後に巫女役の舞を見て行こうか」

祝祭は店主も興味があった。特に今年は。何故か胸が騒ぐのだ。彼は長年の勘を信じていた。

三人分のグラスを片づけ終えた後、店に新たな客が現れた。取り敢えず、今は客の相手だ。

「いらっしゃい。何にしましょ?」








レイディアはシェリファンに就寝の挨拶を済ませ、部屋を出た。頼りない燭台の灯りしかない薄暗い廊下に、人影を見つける。壁に背を預けているそのシルエットは窓越しの月を見上げていた。

「ねぇ、貴女どういうつもりなんです?」

通り過ぎようとしたレイディアに、その影はその姿勢のまま、声をかけた。

「どう、とは?」

「どうして放置しておくのかと聞いているのです。自分の名を騙らせたまま、いつか本当に支配者の座を乗っ取られますよ」

レイディアは目だけを影――ゼギオスに寄こした。

「私は何かを支配した覚えはありませんが」

「言い方を変えましょう。貴女は王に城の女の管理を任されている。乱れの元になりかねないあの女を放置しておくのですか?」

「その通り。任されているだけです。管理しているだけの私に彼女の言論を抑制する権利はありません」

「クレアを誤魔化せても、俺は誤魔化されません。放任主義は結構ですが、程々にしないとしっぺ返しをくらいますよ」

「…ご忠告、確かに。用件はそれだけですか?」

壁から背中を離したゼギオスはレイディアに近づいた。月を背にしているせいで顔が判然としない。

「俺は時々、どういうわけか、あらゆる事象が一つに繋がっている錯覚に陥るんです。俗に言う運命ってやつですよ」

ロマンティックな言葉を吐くその口は、憎悪に歪んでいた。

「何か…とてつもなく大きな何かに好き勝手に転がされている。俺達蔭も、敵も、王も」

「ゼギオ」

「そしてその軸に貴女がいる、そんな気がしてしまうのですよ。…貴女が静観している時は、特に」

「私が静観しているのはいつものことじゃないですか」

「へぇ?」

「何にせよ、考え過ぎです。それに、彼女をそのままにしておくことに、深い意味なんてありません」

「どうだか」

ゼギオスは短く息を吐いた。

「愛し子は神の望むがままに、運命の歯車を回す為に地上ここにいるという説を聞いたことがありますが…」

全てを見抜かんとする眼差しに貫かれる。

「…エリカよりも、見えぬ敵よりも、俺は貴女が一番得体が知れない」

「ひどい言い草ですね」

「俺は、知らぬ内に誰かの都合のいいように使われるのが我慢ならないんですよ。………運命なんて、くそくらえだ」

ゼギオスはレイディアの髪に指を指し込み、前髪をかきあげた。

「貴女はその深い瞳には何を映しているのでしょうか。闇色の瞳は底が見えない」

レイディアは答えない。

「貴女にとって、地を這いずる民はさぞ憐れでしょう。見えぬ先に手を伸ばし彷徨わねばならない惨めな思いは、歯車を動かす雲上人には決して分からないのでしょうね」

「…愛し子だってただの人です」

「何ですって?」

「私は…私達・・だってただの人なんです。抗いようのない荒波に容赦なく呑まれ、流されるしかない無力な人間。出来るのは、手足をばたつかせることだけ」

「馬鹿な。愛し子は神に祝福された聖者でしょう。神は貴女を守る為に、貴女のいる国を守る。そう語られて、実際その通りではないですか」

「貴方がそうだと言うのならそうなのでしょう」

「………またはぐらかすのか」

手首を掴まれる。手荒に壁に追い込まれ、彼の腕に挟まれ、閉じ込められた。向き合えばギラつく目と合った。ゼギオスはレイディアに不審を抱いている。誰もがレイディアを信じる中で、彼だけは疑う目を向けてくる。それは、いつからだっただろうか。

「いつだってそうだ。アンタはいつだって本心を覆う。隠してることさえ普段は隠し通して」

「…貴方はまるで、夜にさざめく木々に怯える子供のようですね」

「何?」

「心配せずとも、誰かに迷惑をかける様なことは考えていません」

「…何かを考えていることは否定しないんだな」

「王曰く、私は本音は言いませんが、嘘も言わないらしいので」

「つまり、聞かれない限り答えないということか」

「聞かれてもいないことを、ペラペラ喋る訳もないでしょうに」

「そうかよ。じゃあ、聞こうじゃねぇか。何を考えている?」

その瞬間、レイディアの瞳に力が宿った。


「人が、絶えず前に進むことです」


ゼギオスは息が詰まった。

「な…にを」

「貴方と一緒ですよ。運命なんてくそくらえ。私もそう思う一人です」

「アンタの行動は運命に逆らう為だと言いたいのか?」

レイディアは微かに口端を上げた。口にすると酷く陳腐だ。見えない何かに挑む愚かさとでもいうのか。でも、結局そういうことだ。

「そうであればいい、というだけです」

レイディアは彼の檻から抜け出し、再び歩き始めた。ゼギオスはその背に縋るようになおも言葉を投げかけた。

「……なぁ、神って何なんだ。何がしたいんだ」

かつて、神に祝福されし愛し子と謳われた少女は振り返り、答えた。


「さあ知りません。会ったことありませんから」














部屋に戻ったレイディアは窓辺に近寄り、月明かりに照らされた椿の鉢を手に取った。

「……椿を見た時、貴方かと思いました」

そのままの姿で、朽ちることなく、ずっと傍に在る。半永久的に部屋に置いておけるように蜜蝋で固めた椿は、まるで貴方の化身のようで。

――傍に戻ってきてくれたかのかと。

あり得ないと分かっていても。あの時、取り繕う事を忘れるほどに…嬉しかった。


〈―――椿の花言葉をご存じですか?〉


握る手に力が籠った。会いたい。

「………エリック」




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