第三十二話
予感がする。
表舞台に引き摺り出される予感。
聞こえるの。
止まっていた歯車が動き出す音。
まだ、動きたくない。
王都に入ったラムールは馬から降りて早速街をあちこち見て回った。
串に刺さった肉を売る男の濁声や、野菜を売り着ける女の甲高い声。何処かで見せ物でもやっているのか、時折上がる歓声。それぞれが交じり合って見えない塊となって瞬く間にラムールを覆い包んだ。
国民の笑みは、国の安寧を示し、問屋に並ぶ良質な品々は、この国の繁栄を改めて思い知らせた。
ここのすぐ隣の国では、おいはぎと化した軍隊や、行商人の荷物を狙う盗賊が当たり前に道中を闊歩し、力の弱い民草は、彼らの標的とならない様に顔を俯け、極力目立たない様に振る舞っているというのに。バルデロも戦に明け暮れている国の一つなのだが、この落差はどうだ。
近々催される祭の影響もあるのだろうが、普段の活気もこれに劣らぬであろうと察するのに充分で、ラムールはバルデロを妬むでもなく、真摯に自国を省みた。
「ラムール様、そろそろお食事などなさいませんか」
馬の手綱を引く従者のマシューが香ばしい匂いに鼻をひくつかせながら主に提案した。
「ああ、もうそんな時間か。では、そうしよう」
いつの間にか昼時が過ぎてしまったようだ。マシューのさらに後ろに付き従う護衛達の空腹具合を見とったラムールは、笑顔で応じた。
「ここから少し行ったところには貴族も忍びで行きつける高級料理店があるそうですが」
「それもいいが、わたしは市井の食事にも興味があるんだ。ここらの料亭で食べてみたい」
「しかし、お口に合いますかどうか…」
「食事に貴賎はないだろう」
店を探すため、再び歩き出そうとした彼の足が止まった。
「あ…」
我が目を疑った。目に映ったものが信じられない。そのくせ、息が詰まり、心臓が早鐘を打った。
「まさか……そん、な」
占媛の部屋を出たレイディアは表通りに戻った。元来た道をなぞり歩きながら、溜息をついた。レイディアは困っていたのだ。傍目には全くいつも通りだが、困っているのだ。
どうしよう。という思いが頭の中をぐるぐる回っている。
溜息の原因は、先程の占媛との他愛の無い会話だった。
お喋りに興じていると、自然と今街を騒がせている祭のことも口に上る。レイディア達も例外ではなかった。
「今、表では随分盛りあがっているねぇ」
「ええ、数少ない娯楽ですから。皆明るい話には飢えているんですよ」
「ふふ、戦も見ようによっては最大の娯楽さね。態々闘技場なんかを作って一般に開いている酔狂な国もあるくらいだ」
占媛は、ついとレイディアに目を向けた。
「ときに、ディーアちゃん。巫女役なんかに興味はないかい?」
「はい?」
「巫女役さ。ディーアちゃんの周りでも相当騒がれてるんじゃないかい? お貴族のお嬢様達だって例外ではないはずさね。ディーアちゃんは巫女役になってみたいとは思わないのかい?」
来月に控えた収穫祭。この祭では、毎年街の娘を一人選び、神殿前で舞わせる慣例があった。
その理由はこの祭りの発祥地であるアルフェッラにあった。
アルフェッラでは、この祭りを専ら降臨祭と呼ぶ。愛し子である王族達が民衆の前に姿を現す貴重な祭りだった。そして当代の巫女が神殿前の舞台で舞を披露し、神の祝福を仰ぐのである。そして民は収穫物を神殿にささげ、次の年の豊作と平和な世を願い、神に祈るのである。その風習がいつしか大陸全土に広がり、降臨祭と呼ばれた祭が、収穫祭とも呼ばれるようになり、人々の間に馴染んでいったのだ。
しかし、ここで問題なのは、他国には愛し子がいないことだ。そこで、その代理として若い未婚の娘を巫女役として担ぎあげ、神殿前の広場に設えられる舞台で舞わせるという習わしが生まれた。舞うのは巫女、または神子であるから、本来ならば舞い手に男女は問わないのだが、今日では専ら女性が舞姫として選ばれる傾向にあった。
そして、この巫女役に選ばれることは若い娘の憧れだった。巫女役を演じることで、その慈愛と豊穣と神秘を我が身に授かれると云われているからだ。そしてその娘を娶ると代々まで栄えるというので、男は巫女役に選ばれた娘にこぞって求婚するようになる。だから幸せな結婚を望む少女達はどうにかして巫女役になりたがるのだ。この時期、少女達の間で火花が散る場面を見るのはさして珍しくはない。
その巫女役に、あろうことか占媛はレイディアを推してきたのだ。
「いえ、私は特には…」
ただ会話の延長線だ。そう思い、何処から見ても地味で目立たない自分が巫女役なんて、と軽く流したが、占媛は本気だった。
「巫女役は街の男共の投票で決められるのは知ってるかい?」
「…ええ」
レイディアとて仕組みくらいは知ってはいる。自分には関係無いと、あまり興味がなかったから決め方なんて気にしたことはなかったけれど。この四年の間にも祭は欠かさず開かれてきたが、いづれもレイディアは後宮に引っ込んでいた。
「ですから占媛様が推したところで、必ずしも私が巫女役になれるわけではないですよね」
「そうさね、それだけなら候補止まりだ。でも、名乗りを上げてくれれば票を入れられる」
何だか思わしくない方向に向かっている気がした。
「巫女役にこれまで何度推そうとしても、この時期は特に顔を見せに来てくれなくなるって何度若い衆から聞いたことやら」
「何の話ですか?」
占媛は笑うだけで答えない。
「とにかく、城も警備が厳しくなるから仕方ない面もあったが、今やディーアちゃんは王子様の侍女だ。堂々と街に出て行ける。いつも逃げられて不満な奴らもいるんだ。たまには相手してやんな」
「あの…もしもですが、選ばれた時、辞退とかは…」
「え、何だって?」
「…。いいえ、何でも」
レイディアは賢明にも口を閉ざした。
「………私が、巫女役って笑えない」
だが占媛の方に全く悪気が無いので、無下に断ることも出来ない。頑なに断れば訳を聞かれる。若い娘が巫女役を忌避する理由なんてそうあるものではない。
「どうしよう……あ」
回想から我に返ると、いつも贔屓にしている花屋に通りかかるところだった。レイディアは何となく気が向いて、祭の為の装飾が囁かに飾られている店の敷居を跨いだ。
戸を開けると、入口に付けられた小さな鐘が軽やかな音を立て、来客を告げる。
「いらっしゃ…おや、ディーアちゃんじゃないか」
先客の相手をしていた店員の女性が意外そうに瞬いた。
「こんにちは、マリーさん」
マリーは元々細い目を更に細めた。客の送り出すと、にこにこと近寄ってきた。
「よく来たね。今日はどうしたんだい?」
「ええと、部屋に飾るお花を一本買いに来たのと、マリーさんのお顔を見に。景気はどうですか?」
マリーは大口を開けて快活に笑った。
「嫌だよこの子ったら。こんなおばちゃんの顔見てどうするんだい? ま、お陰様で、今は特に祭のおかげで予約の対応に忙しい。このご時世に有り難いこったね」
と、再び入口の鐘が鳴った。
「母さぁん、配達おわっ……――あ」
入ってきた少年は、レイディアに気付いた途端、銅像の様に固まってしまった。
「こんにちは」
「あ、こ、こ、こんにちは」
「なんだい、おかしな子だね。さ、ディーアちゃん、こんなの放っといて何にするか決めな」
「あ!」
花を選ぼうとしたレイディアは、突然上がった声に驚いて彼を振り返った。
「いきなり大きな声出すんじゃないよ、バカ息子。全くいつまで経っても落ち着かないんだから」
「あの、花なら良いのがあるんだけどっ!」
母親の小言に気付かなかったのか、少年は勢い込んで言った。半ば叫んでいた。
「どんなお花なんですか?」
挙動不審な彼に、気にした風もなくレイディアはごく自然に対応した。彼はいつもこんな感じだ。
「ち、ちょっと、待ってて!」
バタバタと店の奥に走って行った。それを見送ったレイディアにマリーは笑った。
「ほんっとに、あの子ったら」
我が子をからかう忍び笑いには温かみが含まれていた。マリーはレイディアに花を薦めることを止め、まもなく戻ってきた息子に場を譲った。
「あの、レイディアさん。これなんですけど」
そう言って差し出されたのは一輪の花。小さな植木に花が一本植わっていた。けれどただの植木鉢ではなかった。
「これは…」
「この間、うちの庭で季節外れで咲いて、その、珍しかったから、枯れる前に摘み取って、蜜蝋で固めてみたんだ。観賞用にずっと置いておけるようにって」
そっと触れてみれば、なるほど、花のひんやりとした柔らかい手触りではなく固い蜜のそれ。レイディアはその花に釘付けになった。それはレイディアにとって馴染み深いもの。
椿。
「あの……前から手軽に花を飾れるように出来ないかなって思ってて。金持ちはともかく僕らみたいな庶民は花を世話してくれる人なんて雇えないでしょ? 忙しくて花の手入れなんかしてられないし、だから…」
自分でも何が言いたいのか分からなくなってきたのか語尾が萎んでいった。どんどん呟きが小さくなり、ついに聞き取れなくなった。
「ただの、売上のためで、王も、お好きな花だし、きっと売れるって思っただけで、別に貴女の為じゃ…」
「お幾らですか?」
「え?」
少年はもはや独り言に等しい呟きを止めて彼女を見た。しかしレイディアは掌の花に目を落としたままだった。レイディアは感嘆した。花の瑞々しさを損なわないように薄く丁寧に蜜蝋を塗ってある。どれほど丹精込めた作品なのかが伺える。
「是非これを下さい。お幾らですか?」
すると、何故か彼は途端に顔を赤くした。
「そ、そんなのいりません」
「そういう訳には」
「そ、そんなのただの試作品で、全然下手くそで売り物にならないだけで、貰ってくれるなら捨てる手間も省けます。別に贈り物ってわけじゃ…」
つまり、
「くれるんですか?」
「…そんなので良ければ、いくらでも」
レイディアは鉢をきゅっと握りしめた。
「――嬉しい、大事にしますね」
「良かったね」
「…………うん」
レイディアの紛れもない笑みを引き出したことに成功した少年は、母親に頭を軽く叩かれても反抗しなかった。
花を携えて店を出たレイディアは軽い足取りで城までの帰路を歩んでいた。思いがけない物を手に入れた。レイディアは小さな植木をそっと指で突いた。鼻を近づければ蜜の匂いではなく、ポプリを擦りつけたのか甘い香りがした。記憶にある椿の香りとは違うけれど、愛らしい香りをあの少年がまぶしている様が思い浮かび、小さく笑った。けれど、微笑ましさとは別に燻る感情もあった。
知らず、口元に笑みが刻まれていた。それはまさしく花の綻ぶような甘い――
「――――姫っ!」
刹那、誰かが呼ぶ声が雑踏を飛び越えてレイディアを突き抜けた。レイディアは反射的に声とは反対の方向へ足早に歩きだした。
「待って! 待って下さい! 貴女は…」
追いかけてくる。レイディアは敢えて最もひしめく人混みの中に身を投じた。
「――――姫っ!」
ラムールは自分が気付いた時には既に叫んでいた。それと同時に駆けだした。理性ではあり得ないと呆れているのに、本能が間違いないと太鼓判を押す。そんなせめぎ合いが焦りを生み、彼を釘付けにした背に追い縋った。
後ろで自分を引きとめる声がしたが、構わなかった。人混みに紛れそうな小さな背中を必死で目で追う。
「待って! 待って下さい! 貴女は…」
行きかう人の肩を押しのけ、人の塊をかきわけてもどんどん距離が引き離されていく。思うように前に進めない。
そして、目の前から背中が消えてしまっても暫く粘ったが、足の向ける方向を見失い、とうとう足を止めた。額に汗が浮かび息が上がっていた。けれど胸を押しつぶす喪失感が身体を冷え冷えとさせていた。
「ラムール様。どうなさったのです?」
やがて、マシューが追いついた。彼も肩で息をしながら主人の行動を不審に思った。
「…いたんだ」
「はい?」
「いたんだ。あの方がっ。巫女姫様がっ…!」
「なっ…」
マシューは目を見開いた。そして素早く周囲に目を走らせ、彼らの会話を誰も聞いていないことを確認すると、ラムールを壁際に導いた。
「ラムール様。滅多なことをおっしゃるものではありませんぞ。ここは…」
「だが、彼の女にそっくりだった」
「しかし、あの方は…」
死んだ、という言葉をラムールは最後まで聞かなかった。
「やはり、生きていたんだ。噂通りに…」
熱に浮かされた様に呟く彼は従者の方など見もしない。
「……殿下、お気持ちは分かりますが、彼の君はこの国の王に…」
「マシュー、王宮に行くぞ」
言うや踵を返した彼にマシューは唖然とし、素早く気を引き締めて主を引き止めた。
「お待ちください。まず先方に使者を送らなければ非礼にあたります」
「しかし…」
「当初の予定通り二、三日街を巡っても遅くはございますまい。焦っても良いことはありませんよ。貴方様の御言葉を疑う訳ではありませんが、彼の君が一人で堂々と天下の往来を歩いているとはとても思えません。まずは、きちんと確認をとらなければ」
そう言われてしまえば、ラムールは自信が持てなくなった。
「…そうだな。手掛かりが必要だ」
ラムールの肩の力が抜けたのを見届けて、マシューは漸く笑みを見せた。
「街から情報を得ることもできましょう。それには人の多いところ、例えば食堂などに行かれては?」
きっちり元の軌道に戻したマシューに、ラムールは敵わないな、と苦笑した。
レイディアはとある店の屋上から彼らのやりとりを見ていた。彼らの背中を見送った後、レイディアは僅かに身動ぎをして、自分を横抱きにしている者に降ろすよう促した。地に足をつけて、改めて自分を窮地から救った存在に向きあった。
「…助かりました、シア」
「…いいえ」
シア――声は静かに跪いた。
「私に付いていてくれた人はどうしました?」
レイディアが城を抜け出した時に側にいた蔭はシアではなかったはずだ。
「わたしに、レイディア様が街に出られたと報告をしてきたので、下がらせました」
「そうですか」
「早くお戻りを。王がご心配なさっておいでです」
レイディアは溜息をつきたくなった。常に王の側に控えているべきシアを寄こすとは。
占札はレイディアに危害は加えないと分かっていても、王達が彼らと控えめに言っても良好な関係を築いているとは言えない以上、レイディアが彼らの傍に行くのは不愉快らしい。
「あの人は少し大袈裟なのよ」
「いいえ。レイディア様の御足はまだ完全に治ってはいないのです。今動かれては治りが遅くなります。それでなくともレイディア様はいつ誰に狙われるか分からぬ御身故」
現に、まさに今追われたばかりだ。
「………」
間の悪い所にシアに駆けつけられてしまったものだ。追われたのは事実だが、今回は特に危険な事態ではなかった。ここらの地図は頭に入っている。彼らを捲いて城に戻るのはさして難しくない。
しかし、淡々とした口調の中の憂慮に気付き、レイディアはささやかな反抗を慎んだ。シアを困らせたいわけじゃない。
シアは跪いたまま続けた。
「して、レイディア様。先程の奴らにお心当たりは?」
レイディアはシアから目を逸らし、既に消え去った背中を見つめた。
「…あの人達は――」
「ちまちまと動くことが大好きな小鳥殿の漸くのお帰りか」
一旦自室に戻り、椿の植木鉢を窓辺に飾った後、レイディアは王の執務室に赴いた。そして開口一番に皮肉を言ってきたギルベルトに少し口を尖らせた。
「やるべき事をしたまでです」
「怪我が治るのも待てない程に急を要したものか?」
「寝台で寝てばかりも良くないといいます」
ギルベルトは足を組み替えた。
「俺の記憶が正しければ、お前が大人しくしていたのは事のあったその次の日だけではなかったか?」
レイディアが大人しく寝ていてくれたのは怪我をした日と、その翌日だけで、その次の日からはギルベルトの目を盗み、寝台から抜け出した。シェリファンの侍女だからとシェリファンの傍に行ってしまったのだ。怪我を負った身では満足に王子の世話は出来はしないが、元より身の周りの世話は女官の役目だ。侍女とは身近な話相手という意味合いが強い。シェリファン達もレイディアを気遣っていたようだからギルベルトも多目に見ていたが、今日はとうとう街に出掛けてしまった。
「全く、目を離すとすぐこれだ…」
確かに“占札”には早いうちに手を打つ必要があったのは事実だが…。
ギルべルトは呆れているようだったが、声が予想していたようにはレイディアに対して怒る様子はなかった。
「……」
レイディアは顔を逸らした。自分でもよく分かってなかった。
この四年間の間で慣れてしまった彼の寝室。今更慣れないからと寝苦しくなったりしない寝台。深く自分を受け止める柔らかな寝台はいつだってレイディアを優しい眠りに誘ってくれた。だから、大人しくしていろというギルベルトの言葉に甘えて、何日かは極上の広々とした寝台でのびのび過ごす筈だった。
なのに、気付けばレイディアは部屋を抜け出していた。レイディアは首を捻った。
ギルベルトは人差し指だけで、逸らされたレイディアの顔を正面に戻した。ギルベルトの含みのある笑みと目があった。
「一人でいるのが寂しかったか? ん?」
レイディアには予想外の言葉にはっとした。
ギルベルトの香りが染みついた部屋に、けれど彼のいない空間に一人取り残された状況。在るべきものが無い心許無さ、在るはずのものが無い空虚さがレイディアの心を圧迫し、その圧力がレイディアを部屋から追いやってしまった。その起因となる感情を寂しいというのだろうか。
「………」
それを意味する理由に、レイディアは蓋をした。
「…違います。狭い部屋に慣れた身ではあの十倍の広さは落ちつかないだけです」
顎に添えられた指を外す。しかし逆に手を掴まれる。掌に口付けられた。
「思えば、俺の部屋でお前を一人にしたことはなかったな」
掌に彼の息がかかる。くすぐったくて離そうとしたが、机越しにそのまま顔を引き寄せられた。
「…ん」
上唇を啄まれる。二度、三度。
「お前は嘘は吐かぬが、本当の事も滅多に言わない。そうだな?」
目が覚めて、貴方がいない。ただそれだけだ。
「ち、ちが……ん、んん」
レイディアはギルベルトと夜を共にするのは珍しくない。違うのは、今まで気にもしなかったことをレイディアが考えてしまったことだけだ。
「ふ……んぅ」
ギルベルトの舌が素直でないレイディアの舌を封じた。執務室に水音が撥ねる。二人の間にある書類が音を立てて床に散らばった。ギルベルトは書類に目もくれずレイディアの腰を引き寄せ、いっそう口づけを深くする。前のめりになったレイディアは爪先立ちになり、机に倒れこまないよう、片手で身体を支えるので精一杯だった。膝ががくがくと震える。
「は…ぁ」
長い時間唇を貪られ、レイディアは息が荒くなっていた。いつだって彼の口づけは長くて熱い。こちらが観念するまで執拗に絡め取ってくるのだ。
荒い息がギルベルトにかかる。それがまたギルベルトを興奮させていることに気付かない。
「今は祭の準備で皆浮足立っている。いつも以上に用心することに越したことはない。分かるな?」
子供に言い聞かせる様に言うギルベルトにレイディアは小さく頷いた。が、思い出したように顔をパッと上げた。
「あの、今は急を要する仕事はありませんか?」
「…何だ、いきなり?」
唐突な問いにギルベルトは面食らった。机を回り、ギルベルトの横に立ったレイディアは占媛に巫女役に推された話をした。
「私に引き受けられるはずがありません。けれど断るのも忍びないんです。ですから手が離せない仕事があればと」
「…なるほど」
仕事を理由に無難に逃れたいという彼女の言い分に納得はした。方便ではなく本当に仕事を以って断ろうとするところからして彼女の性分が伺える。
一方、レイディアは彼の平静さを訝しがった。
「私の過去を悟られる危険性があるのですよ。どうしてそんな冷静なんですか」
「そんなことはない」
何処となくあしらわれた様な気がしてレイディアはギルベルトに詰め寄った。
「真剣に考えて下さい」
「分かった分かった」
ギルベルトは笑いながらレイディアの背に腕を回し、レイディアを閉じ込めた。彼女はそれに気付かない。いや、意識していないのだろう。普段の距離感の所為か。
「だが、生憎今すぐ対処せねばならん仕事など無い。どうせ足が完全に治るまで大したことは出来んのだ。今度こそのんびりしていろ、いいな?」
再び唇を寄せられ、漸く彼の腕の中にいることに気付いた彼女は、念を押され、渋々彼の言い付けを受け入れた。
レイディアが執務室を辞した後、笑みを消したギルベルトは声に問うた。
「――それで? レイディアを追いかけてきたという者は何者だ?」
「ノックターン公国の王弟、彼女が巫女であった時の婚約者候補の一人だそうです」
ギルベルトのペンを握る指がぴくりと動いた。
「婚約者?」
「の、候補の一人だそうです」
声は繰り返した。
「婚約の序列は第三位。中々の有力候補だったそうで」
「婚約者…」
ギルベルトの手の中のペンが軋んだ。
あらゆる国々の頂点に立つアルフェッラに君臨する巫女だったレイディア。巫女にそういう存在がいたこと自体はおかしいことではない。アルフェッラでは男の愛し子である神子だけでなく、女である巫女も複数伴侶を持てるからだ。だが自分以外の男がレイディアの隣に立つ姿を想像したことが無かったギルベルトは、その存在を初めて意識して胸がざわめいた。ギルベルトの中では巫女とレイディアは全くの別物だったことに改めて気付く。
自分の妻の婚約者という存在を許容できるものか。
「…そうか。それで、そいつがレイディアを見つけたと」
「確信を持つまでには至ってはいないようでしたが、あの様子ではこちらに探りを入れてくるでしょう」
さもあらん。バルデロにはアルフェッラを滅ぼした後、巫女を幽閉したと噂が未だ絶えない。
「ノックターンとは最近国交を始めたばかりだが、祝祭には招待していたな」
だから彼の国の王子がここにいることに問題はないが、ギルベルトは入国の際の報せを受け取ったきり、ヴォアネロに着いたという報せを受けていない。つまり、国の使者という身分を隠して何事かをする可能性があるということだ。
「ああ…面白くなりそうじゃないか」
ギルベルトは凄絶に笑った。
「いっそ、本当にレイディアを祭りで舞わせるか」
「しかし、レイディア様の事が明るみになられれば――」
「構わん」
ギルベルトは一言で切った。どうせレイディアをずっと日陰の身にしておくつもりもなかった。切っ掛けが欲しかったところだ。
「……そういえば、お前は、あれの舞を見たことがあったな」
昔、アルフェッラの降臨祭に末席にて出席した際、ギルベルトは声を伴っていた。
「あれが舞うのは久しぶりだな。四年…いや五年になるか」
「ええ。あれはまさしく天上の舞でした」
声もレイディアの舞を思い出した。声は一抹の不安を覚えながらも、もう一度彼女の舞を見られるかと思うと、胸が高鳴るのを感じずにはいられなかった。
「………祭りの後は大変な騒ぎになるでしょうね」
色々な意味で。
レイディアが公に出れば気付く者は気付く。そして他国に知れ渡れば世界は騒然となるだろう。バルデロに遜るか、侵略しようと矛先を向けるかの違いはあれど、小競り合いが続く現在に今一度大きな嵐を吹き込むことになるのは間違いない。
「望むところだ」
レイディアに手を出そうとするなら、叩き潰すだけだ。
弱小国でしかなかった頃ならいざ知らず、今のバルデロは周囲の国々を圧倒する国力を誇っている。他国を侵略する一方で、信用するに足る有力国には誠意を見せて地盤を固めてきた。
誰が相手でも屈することはない。
自分以外の目にレイディアが映るのは不快だが、アルフェッラの様に、決して彼女の自由を奪うつもりはないのだ。
ギルベルトには、最早レイディアを隠す意志は無い。
隠れたがっているのは、レイディアだけだ。