第三十一話
「ここが、バルデロの王都、ヴォアネロ……」
旅装をした男は馬上から聳え立つ都の外壁を見上げた。
「アルフェッラを陥落せしめた王の……」
時折吹く風が気まぐれにフードの奥に隠れる顔を覗かせる。若く、年相応の顔が翳る。ひたむきな瞳がほんの刹那、哀しげに揺れた。
「ラムール様」
背後に控えていた従者らしき男が気遣わしげに声をかけてきた。
「ああマシュー、案ずるな。今だけだ」
分かっている、というように男――ラムールは頷いてみせる。
「なぁ、マシュー。見事なものだな。これほどの繁栄を僅かな年月で築きあげた王の力量は如何ばかりか。この防壁一つとってもそれが見て取れる」
明るい声は検閲待ちの者達で溢れかえる喧騒に呑まれそうだ。しかしマシューと呼ばれた壮年の男は正確に聞きとり、頷いた。
「真に。我が国の王がバルデロと国交を望まれるのも無理はないですな」
「四年前までは考えたこともなかった。………時代は変わる。それを思い知らされたよ」
と、こちらに走ってくる者に気付きラムールは口を閉ざす。
「入都許可が下りました。どうぞこちらへ、で…ラムール様」
「うむ、ご苦労」
貴人の顔つきになったラムールは、悠然と王都入りを果たした。
「平和だ…」
バルデロの老舗菓子店『ミレイユのお菓子工房』厨房の隅で、クリームを泡立てながらネイリアスは呟いた。
彼はよく言えば優しそう、悪く言えば影の薄い顔立ちをほんわりさせながら一人平穏な時間を楽しんでいた。
窓を仰げば突きぬけんばかりの晴天。店の表には幸せそうに語り合う恋人達。そして来月に迫った収穫祭。祝祭を控えた街の活気というのはどうしてああも心が躍るのか。特に祭の為にお菓子を選ぶ時のお客さんの楽しそうな顔はいつ見ても――
と、その時カシャーン、と表から陶器の割れる音が響いてきた。
「その女誰よっ!!」
「ち、違うんだ、リサ!」
次いで発せられた甲高い女性の声とうろたえる男の声。ちらりと覗いてみれば男の後ろにはもう一人、めかしこんだ女の子がいた。
「知らない女と『ミレイユ』に来ておいて何が違うのよ! この浮気者! さいってー!!!」
怒りと嫉妬と、そして裏切られて傷付いた心の為に顔を真っ赤にしたその女性は、男の頬を張り飛ばすと足音高く店を出て行った。
それを追おうとした男は、彼女とは別れるんじゃなかったの、と今度は浮気相手にも責められ、進退極まった男は口を開閉させていた。
「………」
お騒がせなお客さんがいなくなり、店内が静かになったのを見届けた後、作業を再開すると、まもなく厨房に店の店員達が次々と押し寄せてきた。
「ねぇーホイップさん、さっきのでお皿割れちゃったから後で買い出しついでに新しいの買ってきてくれません?」
ホイップと呼ばれた彼は買い物メモを受け取った。
「ホイップさぁん、ベリーとぉ、セミュロンとぉ、マイアのパイをそれぞれ一つずつ入りまぁす」
間を置かず別の従業員からの頼み事を受けてネイリアスは窯にパイの種を入れた。
「ホイップさん、収穫祭用のお菓子の予約三十件追加になりました。後で処理しておいて下さーい」
注文のパイの焼き上がり加減を確かめるべく、窯の中を覗きこんでいたネイリアスは、後ろ手に名簿表を受け取りベルトに押し込んだ。気を取り直して、クリームを作る作業に戻ろうとして振り返ったネイリアスは固まった。
「…甘ぇ」
「………」
「おい、ホイップ、これ甘すぎ。 あと、こないだ片付けたヤツの報告書はどうなってる? 早く提出しろよ」
何故か突然現れたゼギオスが作りかけのクリームに指を突っ込み、かつ身勝手な文句をつけてきた。
「暢気なのは顔だけに…て、ちょっ…うわ、お前何すんだ! 止めろって、ベタつく! 服に付くだろっ!」
無言で泡立て器を振り上げたネイリアスを止めようとゼギオスは彼の腕を掴み、まもなく本気交じりの取っ組み合いに展開した。
そんなやり取りを物影から見物する『ミレイユ』の娘衆の姿も、日常的で平穏な光景だった。
「うふふ…ふふ」
同時刻、シルビアは幸せいっぱいに陶然としていた。
つい一週間程前にシルビアは演奏会を催した。そこにシルビアの恋する相手であるダイダスが来てくれたのだ。そして、こっそり彼を追いかけ演奏の感想を聞いたら、彼は素晴らしかったと褒めてくれた。それだけでシルビアは天にも昇る気持ちになった。無骨でそっけない台詞でもシルビアにかかれば充分な殺し文句になるらしく、演奏会からこっち、シルビアは始終こんな調子だった。
なよなよした社交界の貴公子の幾万の賛美より、ダイダスの素っ気ない一言がこんなにも心ときめく。寧ろただの挨拶だけでも心臓が跳ね上がる不思議。
口元がにまにましてしまうのを止められない。
でも、と目元を翳らせた。今現在シルビアは王の側妃。公然とその喜びを表現する事が出来ない。それがいっそうシルビアの胸の内を焦がす。
思う存分この喜びを吐きだせる相手は限られており、その貴重な一人であるレイディアは隣国の王子様の侍女になってしまった。一時という話だったはずなのだが、王子に相当気に入られたらしく、気付けば正式な侍女に任命されていた。王子の懐きようを見てしまえば、彼からレイディアを奪う訳にはいかなくなり、シルビアは泣く泣く友人を送りだした。
しかしそれで引き下がる彼女ではなかった。侍女ならば、主人の許しがあればお茶の席に同席出来る。そこに目を付けたシルビアは、レイディアに王子と仲良くなりたいという名目で定期的な面会を打診してみた。その申し入れはレイディアを通じてシェリファンも承諾し、つい昨日、第一回王子達とのお茶会が実現されたばかりだった。
次回の日程も決まっているが、指折り数えるくらい待ち遠しい。素が出せる相手との対面を待ち侘び、シルビアは顰めていた顔を緩ませた。
「――――ま?」
次はどんなお話をしよう。レイディアは勿論、殿下も音楽の造詣が深くて有意義な時間を過ごすのもたのし…
「――シルビア様?」
シルビアははっとした。
ローゼ達の視線を目の当たりにして、自分が今何処にいるのか思い出して俄かに慌てた。
「どうかなさいましたか、シルビア様? 先程からなんだか上の空ですけど…」
とりあえずシルビアは取り繕う為に冷めたカップに口を付けた。
「あっ…いいえ、ちょっとぼんやりしてしまって…」
今は王城の最深部、後宮の一角にて側妃達とのんびり会話を楽しんでいる最中だった。
澄まして答えるも、すぐに口元が緩んで締まらない。しかし幸いにもローゼ達に気付いた様子はなく、シルビアの言葉を顔面通りに受け取った。
「シルビア様にしてはぼんやりなさっていると思ってましたが、こんな良い天気では眠たくもなりますよね」
とは冬妃キリエ。彼女は中央の繊細なお菓子が並ぶ皿に手を伸ばすのに忙しい。
「話題が退屈でしたかしら?」
ローゼは己が目の前にいるのに居眠りをされかけたのが少々面白くないようだ。
「いいえ、そんなことは。嫌だわ、わたくしったら恥ずかしい。この間の演奏会で奏でたメロディーがずっと頭から離れなくて」
頬を赤らめて謝罪する姿は、傍目では分からないが反省の色よりも艶を帯びている。
「それ分かりますわ。好きな音楽って、一度聴いてしまうとついつい口ずさんでしまうのよね」
ソラーナがぱっちりとした明るい黄緑色の瞳をシルビアに向けた。
「例えば本にしても、素敵な台詞があったりしますと、ずっと心に残ったりしません?」
「ソラーナ様は恋愛小説がお好きでしたわねぇ」
ムーランが話に乗る。
「ええ、お姫様を一途に慕う騎士のお話も良いですけど、庶民層での自由な恋物語なんかも好きですの。そういえば、シルビア様にこないだお貸ししたものは如何でした?」
「え?…ええ、とても面白かったですわ」
シルビアは若干引き攣ったが、ソラーナは嬉しげに語りだそうとした。と、ここでムーランは手にした扇をひと煽ぎした。
「…それにしても、随分後宮も和やかになりましたわね。ほんの数年前まではこんなふうに皆様とテーブルを囲うなんて思いもしませんでしたわ」
しみじみと呟くムーランに、シルビア以外の皆が同意の溜息を吐いた。代表としてローゼは目を細め微笑んだ。
「…そうね。いつからか、後宮はとても穏やかになったわ。メリネ…ス様が愚かな事をなさいましたが、それ以外は本当に…」
王が気に入らぬ者を容赦無く亡き者としていたのはつい数年前の事。かつて王の伽をする者は三桁に上っていたが、今では今ここにいる側妃だけしか残っていない。その凄惨さはシルビア以外の誰もが身を持って知っている。
だが、今の王が後宮の女に乱暴を働いたという話はここ暫く聞いていない。決して近づきやすくなったわけではなく、相変わらず側妃達に愛情の片鱗さえ見せてくれない王だが、少なくとも命の危険を感じることは無くなった。あの殺伐とした以前に比べるとこの穏やかさは比べるべくもない。
「…そういえば、わたくしもどなたかに本をお貸しするなんて、考えた事もありませんでしたわ」
その変化の境はおよそ四年前、王の剣が後宮に向かなくなってからだ。
何となく沈黙した空間に穏やかなムーランの声が投じられた。
「それについて、最近気になる噂があるのですが…」
「――“影の女主人”ですか?」
茶会を辞して部屋に一旦戻ったシルビアは、庭に散歩に出ると言い置き、外に出るふりをして回廊に出るという面倒な手順を踏んで一人になった。そして誰もいない筈の回廊で声をかけられても驚くでもなく、後ろを振り返った。
「ええ、そう。それにしても“影の女主人”なんて、ソラーナ様にお借りした小説にでも出てきそうな名前ね」
背後に立ったクレアは眉を顰めた。
「そんな噂どこから湧いて出てきたんでしょうか?」
クレアが言わんとしている言葉を察したシルビアは頷いた。
ムーランから齎された情報によると、ここ最近、後宮内で“妃から奴隷まで全ての後宮の住人を管理する影の女主人がいるらしい”と実しやかに囁かれているらしい。
「でも…噂の正体は、あの子じゃないと思うんだけど」
噂自体は真実だ。しかし、影で後宮を管理している当の彼女は決して表に出てこない。
「事情を知る人達が漏らすとも思えないし…」
実のところ、これ以前より“影の女主人”の噂はあった。しかし、それは飽くまで妖怪談に毛の生えた程度。間違っても彼女に行き着く類のものではない。また、城でも別口で王の影なる片腕がいると噂されて久しい。けれど、いつまでも噂の域を出ないのは彼女が完璧に隠れきっているからだ。今更彼女が悟られる様な失態を犯すとも思えない。
なのに、ここにきて、俄かにその噂が再熱した。内容もより具体的になっている。
どういうことなのか。
と、その時、回廊に並ぶ扉の一つから人の話し声が漏れ聞こえてきた。また誰かがサボっているのか、と思って近づくと、ふいに“女主人”という単語が耳に飛びこんできて、二人は思わず聞き耳を立てた。
「“影の女主人”?」
一人の女官が同僚に向かって聞き返した。
「ほら、前からそんな話がちらほら出てたじゃない」
「それって適当に作られた怖い話じゃなかった?」
「それとはまた違うみたいで。今度は結構信憑性があるのよ。なんでも王はその女主人とやらに後宮の管理を一任しているとか」
「え、妃様方も?」
「うん。妃の位も左右出来るんですって」
「何それ、あり得無くない?」
「本当なら、春妃並の権限じゃない。なぁんか嘘臭い。だってあの陛下よ? あの陛下が女性にそこまで信を置くなんて……」
「実は、そうなんじゃないかって噂されている方がいて…」
「なら手っ取り早くその人に本当か聞けばすぐに分かるじゃない」
「それが出来たら話は簡単なんだけど。おいそれと訊けないのよね」
「なに、名家の方?」
「王付きの侍女の御一人でいらっしゃるの」
「ああ、なら聞きづらいのも頷けるわ」
「でも、それなら確かに“影の女主人”の噂に信憑性があるわね。王に近しい方なら」
「でしょう? ナディア様とおっしゃるの」
「その人に気に入られれば妃の座も手が届くのかしら?」
輪の中の顔ぶれが一様に輝きだす。
「あ、逆にサボってるの見つけられたら給料天引きされるかもっ」
「もう見つかってるかもねぇ。 なんせ“影の”女主人なんだから。ほぉら、あんたの後ろにしのび……」
「やめてー、今月欲しいのがあるんだからっ」
楽しげな笑声が上がる。彼女達は仕事の手を休め、会話に集中しきっていた。
だから、その後ろに立った人物に気付かなかった。
「その話、本当?」
第三者の介入に、彼女達は一斉に飛び上がった。
「きゃあっ…シ、シルビア様!?」
仕事の手を止めていたところを見られた彼女達はわたわたと平伏した。
「いいのよ。で、その話、本当?」
手を振って平伏を解かせる。
「も、申し訳ございません」
「秋妃様がお気にするものではございません。どうぞお忘れ下さいませ」
「そう? 妃がどうのこうのって聞こえた気がするんだけど、気のせいかしら?」
シルビアの揶揄に女官達は言葉に窮した。シルビアは彼女達の様子を見て、面白がるどころかなんだが不愉快になってきて、追及を止める代わりに釘を刺すことにした。
「確たる証拠もなく言いふらすのは、栄あるバルデロの王城に仕える者として相応しいとは言えないわねぇ」
普段通りの口調だったが、そこには叱責の色が含まれており、彼女達はさらに縮こまった。
「でも、確かに放ってはおけない噂よね。わたくしとしても後宮を乱す元は速やかに取り除いておきたいわ。だから、知っている事を教えてもらえると嬉しいのだけど」
語気を和らげたシルビアを恐る恐る見上げた彼女達は互いに顔を見合わせ困惑した。しかし、やはり噂好きな彼女達だ、好奇心に負けた彼女達は矢継ぎ早しに噂の詳細を語りだした。
その一つ一つを聞いたシルビアは粗方聞き終わると、女官達を仕事に戻らせた。
「ありがとうございます、シルビア様」
再び姿を現したクレアにシルビアは笑った。
「ああいう手合いには慣れてるしね。周囲に流されて右に左にうろうろするのはいただけないけど」
「レイディア様に噂について報告しておきます。まぁあの方は既に知っておられるかもしれませんが」
「かもしれないわね。それより…ねぇクレア」
クレアは嫌な予感がしてびくりとした。
「…何でしょう?」
「今度のお祭りなんだけど、ダイダス様とどうにかして御一緒出来ないかしら? その事についてレイディアに相談出来ない?」
「いくらなんでも…無理ですよ。貴女は一応王の妃なんですよ?」
「そこなのよねぇ。全く不自由な身分だわ。一人になるにも色々小細工を弄しなきゃいけないくらいだし。でも降臨祭は恋人同士のイベントも兼ねてるんだもの。何とか出来ないかしら?」
「…想いを伝えるにしても時期尚早では?」
「分かってるわよ、そんなこと。でも街には下りられないとしても、せめて一目会えないかしら…」
「どうでしょう? 祭の日には警備もいっそう厳重になりますし。一人になることすら不可能かと。…警備といえば、知っていますか? この間」
「ああ、儘ならないわ! まともに会えないなんて! こんなに近くにいらっしゃるのに」
聞いちゃいなかった。クレアがさり気無く話題を変えようとした努力もさらりと流し、シルビアは熱の籠った溜息を吐いた。
「ねぇ、クレア。こっそりダイダス様の所へ行って髪の毛を貰って来てくれない?」
「………。…何に使うんですか?」
「そんなの決まってるわ。おまじないに使うのよ」
「…お呪い?」
「あら、よくやるのよ。例えば、こっそり好きな方の姓を自分の名に付けて口に出してみたり、遠目から眺めるだけで息も詰まる程の胸の高まりを感じたり。クレアも髪の毛を失敬しておまじないに使ったりしない?」
しない。
即座にそう思ったクレアだが、後宮での生活を経て、時に理屈が通用しなくなる女性の性を思い知っていた。ばっさり切っては面倒になると読み、クレアは言葉を濁した。
「…僕にはよく分かりませんが、その、本当にダイダス様の事がお好きなんですね」
「ええ、大好き」
そして先程の女官も顔負けの勢いでダイダスを語りだした。
――すげぇな、レイディア様は。いつもこんなのを相手にしているのか。
乙女の感性をいまいち理解出来ないクレアは敬愛する少女をますます尊敬した。
「それでね…」
「あー…あー…そ、そうだ! ダイダス様ってナッツ系のお菓子がお好きだそうですよ。直接お会いすることは出来ないかもしれませんが、贈り物を届けるくらいなら…」
「まぁ! 本当に? 嬉しいわ。やっぱりお祭りに合わせて飴がいいわよね。ガシューナッツに絡めて煎ったものをお贈りしようかしらっ?」
「………レイディア様、ありがとうございます」
既にシルビアの扱いを習得しているレイディアの入れ知恵のおかげで恋話責めから脱したクレアは安堵の溜息を吐いた。
その頃、レイディアは王都の街並みを一人歩いていた。
始めて目にした時には圧倒された人混みも、今では難なくすり抜けられる。
迷いの無い足取りが、ふいに横に逸れ、人の多い大通りからひっそりと静まった閑静な路地裏にまわった。
すぐ後ろには隣人の声が聞こえない程のざわめきが犇めく大通りだが、一歩日陰に入った途端、不思議とその喧騒も遠くなった。薄暗く、心なしか体感温度も下がるそこは、下層階級の住居区であり、つい十日前にシェリファンが人攫いに遭った場所であった。
レイディアは足を止めた。体格のいい男が三人、レイディアの前に立ちはだかった。
勲章であるかのような傷が走った厳つい顔の彼らはどう見ても裏社会の人間だ。彼らに見下ろされるレイディアは襲われているようにしか見えない。しかし、レイディア本人に焦る様子はなく、寧ろ親しげに話しかけた。
「こんにちは。今日は良いお天気ですね」
すると男達はゆっくりと膝をつき、頭三つ分低いレイディアを見上げる姿勢をとった。
「お待ち申し上げておりました」
うち一人がレイディアに告げる。レイディアは頷き、あたりを見渡す。
「この間は大変お騒がせしました。これはほんのお気持ちです。どうぞお受け取りください」
手に持つ大きな麻袋を掲げ、誰もいない筈の周囲に向かって大きな声を発した。
その瞬間、そこここの扉から子供達がわぁっと飛び出してきた。
「こんにちは、お姉ちゃん!」
「やったぁ! お菓子だ!」
「あっ、それあたしが取ろうとしたやつっ」
「柔らかくて甘ぁい」
あっという間にレイディアは子供達に囲まれた。笑い声に満ちた路地裏。先程の閑静な雰囲気は払拭され、子供達の手に納まる菓子の甘い香りが周囲を柔らかい空気に染める。
「焦らないの。ちゃんと人数分持ってきたから」
「お姉ちゃん、遊ぼうよ」
「また今度、時間が取れたらね」
「今日は何か用事?」
「ええ、ちょっとね。それより、ジルはもう人からお金を拝借したりしてない?」
「もっちろん! お菓子と約束したもん。カタギの人にはもう手は出してないよぉ」
子供の親達もちらほら出て来て遠目から子供達を見守っているのが見える。
ひとしきり子供達の相手をした後、わいわいと麻袋を取り囲む子供の群れを抜け、レイディアは待たせていた男達の元に戻る。
「お待たせしました」
「では、こちらに」
男達は住居区のさらに奥、住民達も滅多に近づかないそこにレイディアを導いた。下層区域ではごくごく一般的な家に足を踏み入れる。
ところが、室内に入った途端、外見からはおよそ想像もつかない、貴族の館も是くやという豪奢な調度品がレイディアを出迎えた。
「よう来たねぇ、ディーアちゃん」
通された広間の奥、降ろされた御簾越しから皺がれた声がかけられた。およそ会話をするには遠すぎる距離だがその声は良く響いた。レイディアは相手が見えないにも関わらず声の主と正確に目を合わせた。
「ご無沙汰しております、占媛様」
「そうさね、ここに来てくれたのは久しぶりかね…ああ、お前、御簾をお上げ」
指示を受け、レイディアを案内してきた男が御簾を捲き上げた。
そこから現れたのは一人の老女。抑えた色彩ながら上等の衣を纏い、きちんと髪を結いあげ、猫目石の飾りで留めている。ここが下層階級の住宅区域でなければ上流階級の寡婦で通る上品な出立ちだ。香炉から立ち上る煙が彼女を取り巻いていた。
「可愛い娘、よく顔を見せておくれ。さ、お傍にお寄り」
手招きされ、レイディアは素直に彼女の傍らに侍った。
「足は…もういいのかえ?」
占媛はちらりと視線をレイディアの足元に寄こした。レイディアは裾を軽く払って答えた。
「…ご存知でしたか」
「当然さね。ここは私の膝元だよ? あんなに騒いでくれて気付かない訳がない」
「それもそうですね。ええ、お陰様で、歩く分には問題無く回復しました」
「…その割には、まだ引き摺っているねぇ」
「このくらいは平気ですよ」
「過保護な主人に怒られやしないかい?」
レイディアは先日のシェリファンが人攫いに遭った件で足に怪我を負った。暫く落ち着かない様子だったシェリファンが漸く落ち着いたのを見計らって、休養という名目で休暇を貰い、それを利用して後始末を兼ねてここに来た。のだが…
「おやおや、その顔を見ると抜け出してきたのかい? それもそうかねぇ、あの御仁の許可を待ってたんじゃ一生待ったって無理だろうしね」
「…何のことです? 私は別に行動範囲を限定されたりはしていませんよ。何処に行こうが私の自由です。貴女の縄張りを荒らしてしまったから…だから」
「それでディーアちゃん自ら?」
面白そうに目を煌めかせる。占媛はくゆる煙に息を吹きかけた。
「そう、その通りさね。あれらは何なんだい? 余所から流れてきた六人衆にしても私らの方で始末するつもりだったんだ。それを横取りされ、あまつ好き勝手に暴れてくれた揚句、警邏まで踏み込んできた。不愉快ったらないよ」
心底不愉快そうに鼻を鳴らした。
「ディーアちゃんの知り合いらしかったから、あの時は様子を伺うだけに留めたけどね。だが、どういう事情なんだい? あれらは私らと同じ匂いがしたよ」
「私が今お仕えしている方の一大事に手を貸してくれた…知り合い、ですね」
彼らとの関係を言葉にするのは難しいため、少し躊躇った。
「ああ、メネステの王子様ね。知ってるよ。王子様を攫おうなんて身の程知らずな男共だったね。それで?」
占媛はバルデロの裏社会の組織の一つ、“愚者の占札”の頭だ。名前の通り占いを生業とする彼女らは“占札”とも呼ばれ、その組織は全裏社会の五分の一を占める巨大組織である。そして、先日、ドゥオが協力も申し出なかったならばレイディアが協力を仰ごうとした相手だ。
レイディアは一呼吸間を置いて口を開いた。
「彼らに手出しするのは一先ず保留にしては下さいませんか?」
「そうはいかない。あいつらはディーアちゃんの知り合いだろうけど、王の犬っころ共でもなく堅気でもない、私らのルールが適用出来る相手さね。ちゃんと落とし前つけなきゃ私らの沽券に関わる」
裏社会の人間は縄張り意識が強い。その彼らが政府の犬を殊更嫌うのは当然だ。
はっきり言って、リクウェルが真っ当に正規の兵を連れてシェリファンを助けに行っていたら間違いなく問題は拗れていた。警邏がここに踏み込み、さらにしらみつぶしに探るなんて真似は彼女達は絶対させなかっただろう。そしてその混乱に乗じてあの人攫いの男達はシェリファンを売り払ってしまったかもしれない。
今回丸く収まったのは彼らが動かないでいてくれたからこそだ。縄張りに許しもなく踏み込んだ者には制裁を。それが掟なのは知っているが、例外もある。
「彼らが“鷹爪”だと言っても?」
その名を聞いた占媛は、流石に虚をつかれて目を僅かに見開いた。傍に控えてきた男達も驚愕の眼差しをレイディアに向ける。
すぐに冷静さを取り戻した占媛は目を細め、確認する様に呟いた。
「“鷹爪”? あいつらがかい?」
「そうです。ですが、彼らがここに来たのは私に会いに来ただけです。手伝ってくれたのはただの成り行きで、彼らにここを荒らす意思はありません」
「……ここで“鷹爪”の名を聞くとは思わなかった。あんな大陸を梯子する奴らと接触を持つことになるなんてね。確かに奴らを突くのはよした方が良さそうだ」
占媛は手の甲を摩った。
「全く…老人の心臓を労わっておくれ。いつの間にディーアちゃんは神出鬼没で有名な奴らと知り合ったんだい?」
探る目を向けられ、レイディアはやんわりと受け流した。
「単なる偶然なんですけどね」
とある事件を堺に知り合ったが故に占媛を始め、“占札”の者達はレイディアには好意的だ。しかし味方かといえばそうでもなく、ただ敵ではないというだけで、借りをおいそれと作って良い相手ではない。蔭達とは犬猿もいいところなのだ。それは密かに護衛として付いてきただろう蔭がこの家の外に締め出されていることからもよく分かる。協力を仰ごうとしたのだって苦渋の選択でもあった。
「私は色々な事に巻き込まれやすく、面白い職種の方と知り合う機会が多いみたいですね。貴女達の時の様に」
「違いない」
占媛はそれ以上追及せず、笑ってレイディアの会話に乗ってくれた。占媛は皺がれた手でスカーフ越しにレイディアの頭を撫でてくれた。
孫を見る様な目で見つめられ、レイディアは知らず肩の力を抜いた。
「もういいよ。来月の祭も、馬鹿共に目を光らせることを放棄してやろうかと思ったけど、勘弁してあげようね」
「ありがとうございます」
それも、気掛かりの一つだったレイディアはほっとした。
「ふふ、それにしても大変さね。あの馬鹿六人が連れてきちまった人買い組織とごねだしたんだって?」
「………」
そうなのだ。シェリファンを攫った六人に対しては決着が着いた。シェリファンを狙うメネステ国王妃の手の者も同様に片付いた。しかし、話はそれで終わらず、今度は男達がシェリファンを売ろうと持ちかけた組織が動き出したのだ。
直接こちらに赴いた者は一緒に検挙されたが、組織はそれを怨み、水面下で蔭や警邏の兵達と大小の衝突が絶えない。最近のソネットなどは店をネイリアスに任せてあちこち飛び回っているくらいだ。
「あちらもそうとうあくどい事をしてる、そこそこ大きな組織だと聞く。私らとまで喧嘩するんじゃ、ディーアちゃんが可哀相だね」
飽くまで庇うのはレイディアのみの発言にレイディアは苦笑した。
「折角のお祭りですし、このご時世に明るい話題は貴重なんです。子供達の為にも、よろしくお願いします」
収穫祭は降臨祭とも呼ばれる、大陸中の国々で大々的に催される祭だ。その年の収穫物を供え、来年の豊作を祈る大事な祭事。若者達の間では恋愛の切っ掛けでもあるみたいだが、子供達が一番心躍らせる時期でもある。
「ディーアちゃんのお願いなら聞かない訳にはいかないじゃないか。安心おし、若い衆の監視はちゃあんとやってあげるからね」
レイディアの頭を再度撫でた。
「さ、つまらないお話はこれで仕舞いだ。折角久々に会えたんだ。少し、この老婆の話相手になっておくれ」
脇侍の男達が用意した焼き菓子をつまみながら、レイディアは暫し他愛もないおしゃべりを交わしたのだった。