第三十話
城に戻り、医務室で治療を受けている最中も、ずっとシェリファンはレイディアに付き添っていた。
普通、使用人に付き添う主などいない。けれど、シェリファンはまるで姉に対するみたいにレイディアを気遣った。
「痛むか、レイディア?」
「…大分楽になりましたよ」
「でも、赤黒くなってる……」
「少しすれば、勝手に治りますから」
過ぎる気遣いにレイディアは一つ一つ答えていく。話すだけで切れそうになる息を整えながら。
「女に庇われるとは…我ながら情けなく思う。……すまなかった」
「リクウェル様まで……」
気遣いは嬉しいが、彼らの労わりはレイディアを居た堪れなくさせた。扉付近に待機している先程の隊長が彼らのやり取りを奇妙な目で見ているだけに。
そんな中、レイディアに来客の旨が告げられた。
「具合はどうだい? レイディア殿」
「テオール様っ!」
王の側近という雲の上の人物の登場に、隊長は慌てて平伏した。
「第三軍のジェスト隊長か」
「は。此度の誘拐犯捕縛に及ばずながら拝命仕り死力を尽くし致しました」
見事な敬礼にテオールは鷹揚に頷く。
「任務御苦労。もう下がって良いぞ」
「は。しかし……」
隊長は一瞬レイディア達を振り返った。
「彼女はわたしの友人だ」
「え、彼女は……」
「余計な詮索は無用。この事は他言無用だ。いいな」
「…御意」
隊長は何も言えず、その場を辞した。
レイディアはそんなやりとりに特に反応もせず、医務官の包帯を巻く腕前を、何とはなしに眺めていた。
「レイディア殿」
手当てが済んだレイディアに近づく気配がして、レイディアは顔を上げた。
「ご心配おかけしました」
「うん、そうだね。君が矢を受けたと聞いて、思わず飛んで来てしまった」
テオールはいつも通りの真面目な顔で言った。けれどそこに微かな憂慮の色が見えて、シェリファンは咄嗟に弁解しようとした。
「彼女はわたしを庇って……」
テオールは、そこで初めてシェリファンに気付いたように彼に顔を向けた。
「シェリファン王子。殿下も、御無事で何よりです」
テオールは恭しく一礼した。
「しかし殿下。殿下の御身が御無事であったから良かったものの、今日の振る舞いは軽率に過ぎます」
シェリファンは唇を噛んで俯いた。
「分かってる。……わたしの考えなしの行動の所為でレイディアに怪我を負わせてしまった」
気落ちした様子に、それ以上責めはせず、テオールは目元を和らげた。
「彼女の事はわたしめにお任せ下さい。殿下も、このような事があった後では大変お疲れでしょう。今日はお部屋でゆっくりお休み下さい」
「……ああ」
シェリファンはレイディアを伺う様に見た。
レイディアが微かに頷くのを見届けて、シェリファンはリックを伴って自室に戻って行った。
シェリファンもいなくなり、医務官も隣室に引っ込んで二人きりになった後も、テオールは暫く無言でレイディアを見下ろした。
レイディアが何か言うのを期待する様な沈黙。だがレイディアは見られている気配に気付いても、しっかりと捲かれた包帯の肌触りを撫でて確かめるだけで、口を開く様子はなかった。
何重にも捲かれた綿の下にはじくじくと疼く傷がある。
「……君が怪我をするなんてらしくない。この間も言ったが、やはり体調が思わしくなかったのかい?」
痺れを切らしたようにテオールは口火を切った。
「下手をすれば致命傷を負った可能性もあった。射られた矢に塗ってあったという毒が猛毒だったら? 当たった位置が心臓だったら? 思慮深い君が誰にも告げず、一人で殿下を追って行ったと聞いて、耳を疑ったよ」
「リクウェル様がいらっしゃいました」
「君を守れる人という意味だ。彼は王子の従者であって君の護衛ではない」
「……冷静にものを考える余裕が欠落していた自覚はありますよ」
いつもなら、もっと上手くやれただろう。密かに蔭の誰かに告げ、誘拐犯の捕縛の手配を事前に行い、万全を整えてから王子を追う事など容易い。それが常のレイディアであったなら。そうだったなら、ドゥオ達の手を借りる必要も無かった。非効率すぎる今回の立ちまわりは、動いている最中でさえ分かっていた。分かっていて、押し通した。
「ならば、何故……」
「…ご心配おかけして申し訳ありませんでした」
テオールは目元をピクリと動かした。
「……それは、この前の事と、関係がある?」
今度はレイディアの包帯を撫でる指がピクリと動いた。
「ずっと考えてたんだ。この間、君がわたしに言った言葉の意味」
「…あの時は夕陽を眺めていて、少し感傷的になっていただけです。テオール様がお気になさる事では」
「聞いて」
テオールは話を打ち切ろうとするレイディアを遮った。
「君は言ったね。終わりが見えている始まりを、始める事は愚かだと思うか、と」
「…それは、」
「君は始めたのかい?」
「………」
沈黙に沈む彼女は、そのまま空気に溶けていきそうなほど儚げだった。
「わたしは君が何を始めて、どんな終わりを迎えたのかは知らないが…」
テオールはレイディアの隣に座った。レイディアは反射的に身を引いた。
「…もし君が、何度同じ過去に戻っても、同じ選択をするのなら、悩んだって答えは変わらないのだろう」
レイディアのスカーフの奥の瞳がはっと見開いた。
「体調を崩してしまう程に気に病み、後悔し続けても、どうしても始めずにはいられなかったなら、それが君にとって何よりも大切なものだったという事だ」
テオールは優しくレイディアの頭を撫でた。
「だから、賢明ではなかったとしても、少なくとも愚かな選択ではないと思う」
部屋に沈黙が落ちた。
「………そうかも、しれませんね」
耳を澄ませなければ聞き取れない程にか細く、小さな声がレイディアの口から発せられるのは、テオールが医務室を辞して、半刻経った頃。
ギルベルトは鮮やかに茂る深緑の中で眠るレイディアを見つけた。
ここはギルベルトの私的な庭だ。計算され尽くした人工的な美しい表の庭園とは違い、枝打ち程度の手入れしかなされておらず、造形美とは程遠い。小さいながらも精緻な彫刻が施された東屋が無ければ何処かの森に迷い込んだと思うかもしれない。
王の許可なく立ち入ることは何人も許されない禁域には、周囲の思惑と一切の関わりを断つ絶対領域であるために、足を踏み入れる事を許されている者は片手に満たない。
その数少ない一人であるレイディアが、庭園にあるささやかな東屋のソファで眠りこんでいた。
好き勝手に伸びる草木は東屋の柱や床に手を伸ばし、白亜の東屋を緑に染めていた。六角形の東屋は、柔らかい緑の檻の様だとギルベルトは思った。
頬を撫でる感触に気付き、レイディアはゆっくりと瞬きした。
「…風邪をひく」
目を開けると、逆さに映るギルベルトと目が合った。
「今は暖かい昼間ですので、大丈夫です」
「もう日没だ」
その声を聞きながら、開いた目をもう一度瞑り、再びゆっくりと開いて彼を視界に収める。その目はまだ眠そうにとろりとしている。
「珍しいな。お前がここに来るのは」
柔らかく両の頬を挟まれる。彼の指先が顎を擽った。
猫をごろごろ鳴かせるみたいに。はたまた小鳥の首を擦るように。甘やかすような愛撫にレイディアは自然と瞼が落ちた。
その唇に彼の暖かいものが落ちてくる。鼻先が彼の喉仏を掠める。
逆さの口付けだと、彼の舌の動きもいつもと違う。くぐもった水音。足りない空気の代わりに入ってくる彼の味。
「レイディア」
唇が離される。レイディアは目を開け、起きがけの目で彼を見上げた。
そんな彼女にギルベルトは殊更甘い声をかけた。
「おいで、レイディア」
レイディアを迎え入れるように腕が差し出される。
「……ずるい人」
レイディアを呼ぶ時はいつだって『来い』ではなく、『おいで』なのだ。
同じ命令でも、その言葉が殊更優しく紡がれる時、レイディアは自分の意志でギルベルトの傍に寄るよう仕向けられる。
彼の命令に逆らえなくとも、選択の余地を残したその言い方には強制力はないからだ。
ギルベルトはレイディアが彼を必要としている時に限って、そんな姿勢になる。
上半身だけ身を起こしたレイディアはそろそろと彼に手を伸ばしかけたが、躊躇った。しかし、手を引こうとしたレイディアをギルベルトは逃がさなかった。手を引き上げレイディアを抱き上げる。
そうして、さっきまでレイディアが横たわっていたソファに座った。ひじ掛けを背もたれにして足を伸ばした。
「意地悪が過ぎたな」
ソファは大きく、腰かけが深い。レイディアの体格なら充分に寝台としても使える。レイディアはギルベルトの心音を聞きながら、一月溜まった疲労が癒されていく気がした。彼が髪を梳いたり耳に鼻をこすりつけたりするのに任せてじっとしていた。
「愚かだな。ふらふらになる前にさっさと俺の所に来ればよいものを」
レイディアの青白い肌を撫で、そのまま髪をかきあげる。まとめられた深緑の髪が背中を流れる。
「……忙しい貴方を敢えて煩わせる程では…」
「俺に呼ばれるのを待っていたか?」
「………」
ギルベルトは普段、頻繁にレイディアを呼んでは戯れに触れるが、たまにレイディアを放置する時がある。まるで、レイディアの方から来るのを促すかのように。
「…ずるい人」
レイディアはもう一度呟いた。
不安定なレイディアを安定させられるのはギルベルトだけだ。どれだけ足掻いても、結局鈴主である彼に縋るしか道は無い。だからこそギルベルトは待つ。レイディアが彼に擦り寄ってくるのを。
そして今、半ば彼の思惑通りになっている。今のレイディアは彼に寄り掛からねばまともに歩けない。医務室からここまで来るのにしても相当の疲労を伴った。
でも……
「忘れないで下さい。私がどれほど貴方に擦り寄ろうと、それは私が貴方を愛したからではない」
出ない力を振り絞って彼の胸元から顔を上げた。
ギルベルトは彼から距離を取ろうと身を翻したレイディアの腹に腕を回し、背中を彼にもたれさせる。
ギルベルトは何も言わない。言ってくれない。
それに焦れて、貴方だって私を愛してるわけじゃないくせに、と言いそうになった。
言いかけ慌てて口を噤む。その言葉はまるで自分の方こそ彼の愛を求めている様に聞こえるからだ。
そんな事はあり得ない。レイディアの心に彼はいないのだから。
この身のみならず、心までギルベルトに支配される訳にはいかない。
彼の手を心地よいと感じても、彼に全てを委ねたいとは思ってはいけない。
愛撫に身体を火照らせても、会えない時間に身を焦がす日がやってきてはいけない。
待てどレイディアの言葉に答えない彼。宙ぶらりんになったレイディアの言葉は空中に消えた。
無かった事にされた。
「……怪我をしたそうだな」
ギルベルトの手が伸びる。
レイディアの頭がギルベルトの太腿の付け根に乗せられ、足首を掴まれる。膝を曲げられ、そこから包帯まで巻かれた足首までギルベルトの唇が滑った。
「っ……お止めくだ…」
太腿まで捲れた裾を抑える。ギルベルトのもう一方の手がレイディアの輪郭をなぞり、指先がレイディアの顎を押し上げる。ギルベルトの翠の瞳が思いの外近くにあった。
「これでは自力で歩けまい。誰に運ばれた?」
「………ここまでは自分で歩いてきました」
「答えろ。誰に触れる事を許した?」
恐らく蔭の誰かから聞いているだろうに、ギルベルトはレイディアの口から答えを求めた。
「……第三軍の、ジェスト隊長という方に」
ギルベルトの目が細まる。レイディアは彼の気を逸らす意味も兼ねて報告した。
「成り行きで、シェリファン王子の侍女となりました」
「出世したな」
「殿下の御温情です」
「そうか、命拾いをしたな」
「ええ」
「違う。その隊長の方だ」
ギルベルトの親指の腹がレイディアの唇を軽く叩く。
「お前に触れただけでなく、何らかの罰でも与えようものなら間違いなくそいつの首は飛んでいた」
「……彼は忠実に任務をこなそうとしただけです」
「俺の妻に手を出した」
「彼はそれを知りません」
「いづれ、知る」
尚も口を開こうとするレイディアを遮り、ギルベルトはレイディアの目を覆った。
「一月、まともに眠っていないのだろう? もう少し、眠るといい」
足が解放される。閉ざされた視界の中で彼だけがレイディアの感じる全てになった。再び彼にもたれる。
テオールに言われてレイディアは目が覚めた気分だった。
私はずっと恐れていたのだ。終わりを知って猶、始めたあの人が薄れてしまうのではないかと。
でも、その恐れさえ意味の無いものだった。私を蝕む哀しみこそが私の中にあるあの人の存在の大きさを示すものだったのだから。
私があの人を忘れる訳がない。自分がそれを理解している限りこの恐れは杞憂だ。
一方で、彼に慣れ過ぎてしまった自分もいる。
ゼロに頬を撫でられた時も、ジェスト隊長に抱きあげられた時も、レイディアは違和感を持った。
この手じゃないと。
自分が落ち付く手を探して辿りついた答えに愕然とした。
最初はそうじゃなかった。彼と過ごす内にいつの間にか彼の手は当たり前になっていた。その手じゃないと違和感を感じるほどに。
どうして…。
私は鈴を…そう、鈴を求めているだけ。鈴を肌身離さず持ってる彼に鈴の役割を代わりに担って貰ってるだけ。私は私の意志でここにいるのであって、彼にしがみ付いてる訳じゃない。心の一部を明け渡したのでもない。その気になればいつだって彼から離れられる。どれだけ彼の愛撫で安心を得られたとしても。
私は彼を利用しているだけなのだから。
彼はずるい人。
そして、私は、卑怯で最低な女だ。
己に身を任せ、うつらうつらとしているレイディアを眺める。
レイディアを眠りに誘うように一定の間隔で脇腹を叩き、時折耳裏や米神に触れるだけの口づけを繰り返す。
まもなく、完全に眠りに落ちた彼女を閉じ込め彼女の身体の前で手を組む。その表情は抑えきれない歓喜で彩られていた。
巫女にとって、鈴の存在は絶対だ。それは、母親の胎内よりずっと鈴と共にあるが為に、レイディアのよすがであり相方であったからだ。
ギルベルトはここに連れてくる際に彼女からその鈴を奪った。
鈴を奪われたレイディアは当初頻繁に不安定な状態に陥った。
レイディアは落ち着いた性格ではあるが、生まれてからずっと狭い神殿の中で生きてきた彼女は、まともに自国の街さえ知らずに育った。まして、遠い異国の、誰一人知人のいない未知の世界は、彼女をどれほど不安にさせたことか。
ずっと一緒だった鈴も無い状況は、命綱の無いまま朽ち果てた吊り橋を渡るような恐ろしいものだったに違いない。
そのレイディアに、鈴ではなく己を与えた。
鈴の音の代わりに彼の心音を聞かせ、硬質な鈴よりも彼の肌を感じさせ、体温を共有し、涼やかな音ではなく、彼女を呼ぶ低いギルベルトの声を、優しい愛撫と共に擦り込んだ。
そうすることで、レイディアの内にギルベルトの傍は心地良い、という連想を植え付けた。
それでも、それは飽くまで鈴を持つ彼の傍だからこそだ。これまでレイディアは彼を通して鈴に寄り掛かっていた。
その事実は歯噛みしたい程にもどかしく、苛立たせた。何度鈴を壊してやりたい衝動にかられたことか。
だが、それも今日までだ。
「シア」
ギルベルトはす、と手を出す。
シアが音も無く現れ、そっと掌の上に何かを置いた。
それは、小さな鈴だった。
ギルベルトは満足げに鈴を握りしめた。
四年間育て続けた果実が漸く実った事にギルベルトは頬の緩みを抑えきれない。
その彼に躊躇いがちにシアの声がかかる。
「…王よ、その、クレア達からレイディア様に弓を射た不届き者を地下に放り込んだと報告が」
「ああ、後で行く」
邪魔するな、と言わんばかりに適当に答えた。
シア下がった後も、ギルべルトの視線はレイディアに固定されたままだった。
ギルベルトはレイディアの髪を優しく梳いた。
「あと少し」
もはや彼女は鈴を求めているのではない。ギルベルトを求め始めている。彼女は無意識下では既にギルベルトに寄り掛かっているのだ。
レイディアが自主的にここに来たのも、その事実を裏付けていた。
ここはギルベルトの個人的な庭。居室と執務室と並んで彼の気配が濃厚な空間。
鈴ではなく、ギルベルトの気配を追ってここに辿りついたという事。
それに気付いた時、彼女はどう反応するのだろう。その瞬間が待ち遠しくてならない。
風切り羽を切るまでもない。
――早く、俺の下に堕ちておいで。
レイディアの穏やかな寝顔を見る瞳には、優しさ以外に、激しい情欲の炎が宿っていた。
彼らの様子を声はずっと離れた場所で見守っていた。
王は諸外国において、戦場の風に靡く赤銅色の髪を称して、『灼熱の獅子』とあだ名される事がある。
王を獅子とするならば、レイディアは小鳥。
王は眠れる獅子だ。平時は前足に顎を乗せ寝そべり、小鳥に寄り添っているだけで何の害も無い。しかし、一度小鳥が他の獣達から奪われそうになった途端、その爪を、その牙を、獰猛に剥き出して敵の血潮を噴き上げる。
傍にいる小鳥をその腹の下に隠して。血の匂いを嗅がせない様に。
小鳥が獅子に怯えないのは、その前足の爪が、己に向かって突き出されるなど考えもしないからだ。だから、丸い前足で身を手繰り寄せられても大人しくしている。
小鳥が獅子から離れないのは、その研がれた牙が自分を食い千切るなど思いもしないからだ。だから、牙の隙間から覗く舌で羽を舐められてもされるがままだ。
何処にでも行ける羽があるというのに、それさえ忘れ去っているかの様に、獅子について地べたを歩く小鳥。美しい鈴なりの囀りで、獅子を悦ばせる。
今の光景は、声には例えそのものに映った。
もう、手遅れかも知れませんね、レイディア様。貴女は王を利用しているつもりなんでしょうが、王はいつまでもそんな立場に甘んじている様な方ではない。
貴女は気付いているのでしょうか?
最初の一年目で、鈴の無い環境に慣れさせた。
次の二年目で、ギルべルトが傍にいる事に慣れさせた。
さらに三年目で、彼に触れられる事を覚えさせた。
そして、今年の四年目では……。
とうとう鈴の立場になり変わった王。それに気付かず、レイディアは寝返りを打ち、寝心地が良い体勢を求めてギルベルトに擦り寄る。
その仕草に、ギルベルトの笑みがますます深まった。あんなに嬉しそうな王は始めて見る。
彼に触れられ、彼の中で眠る事に何の違和感も感じなくなっているレイディア。
刷り込みなんて甘いものではない。
これはもう、調教の域ではないか―――。
「シルビア様、今日の演奏は素晴らしかったですわ」
「真に。何れの方も国でも屈指の名手ですな」
「マリア様のツィターも壮麗で…」
「ありがとうございます。毎日練習したかいがあったというものですわ」
シルビアを始めとする各々の楽師達が惜しみない賛辞に笑みで応える。
今日はシルビアが以前より計画していた演奏会の日。シルビア達の周囲は音楽をこよなく愛する貴族達で埋め付くされ、そこかしこで輪を作り音楽の評論会が催されていた。
シェリファンもその中に混ざって歓談していた。彼も幼いながらも高い音楽素養を積んだ身であるから、大人と対等に論じ合う姿が見受けられた。
「すっかり皆様と溶け込めたご様子で、本当によろしゅうございました」
「ああ、シルビア妃は本当に良いお人柄のようだ。招待客の面々を見ても接して気持ちのいい方ばかりだ」
「ええ。演目よりも、寧ろ招待なさる方々をどうするか苦心なさっていたようですし」
「それは…随分と殿下をお気遣い頂いたみたいだ」
「ええ。シルビア様はお優しい方ですから」
レイディアは頷いた。そして横に並ぶ彼を見上げる。
「リクウェル様。私に構わず殿下の許へおいでになられても構いませんよ? 私はここで大人しくしておりますので」
王子の様子を離れた場所でレイディアとリックは眺めていた。正式にシェリファンの侍女となったレイディアにはリックと同等の処遇が得られるが、今は足に怪我を理由に遠くに控えさせてもらっている。リックも付き合うことは無いのだが。
「ああ、いや、良いんだ。今日くらいは殿下も自由にしていらしたいだろうからね」
当初よりレイディアに対して幾分砕けた彼の表情は晴れやかだ。
「そうですね。元は好奇心旺盛で爛漫な方のようですからね」
「殿下はずっと御自分の立場を気に病んでいらしたから。ここに来てからずっと神経質になってたからどうなる事かと思ったけど、元に戻って良かった」
安堵に肩の力を抜く彼から目を離し、レイディアは顔を正面に戻した。
人々が集うその奥に、主催者であるシルビアが笑顔でシェリファンやムーランと何事かを話しているのが見える。その笑顔には嘘偽りは無いだろうが、時々ちらちらと出入り口を気にしているのに、レイディアは気付いた。
「ああ、だからシルビア様はこの演奏会を開かれたのね…」
歓談していても何処か集中しきれない様子にレイディアはつい苦笑を洩らした。そして、つい、と顎を会場の出入り口に向けた。
結論を言うと、ギルべルトはシルビアとの約束を果たした。
ダイダスは楽に興味は無くても身体を動かす事は何ら苦にならない。それは、例え警護という下っ端兵の仕事であろうとも、ダイダスは別段屈辱とも思わずにやれてしまう程だ。
そんなダイダスの性質を知りぬいているギルベルトは、警護として引っ張り出す事にした。勿論、ダイダスに直接命令する訳にはいかない。ダイダスが自主的にそう仕向ければ良い。
つまるところ…
「何故ここにいるのだ、大将軍殿?」
「なに、お前の仕事を手伝ってやろうってだけだ、セルリオ」
演奏会の警護の責任者に第二軍将軍セルリオが抜擢された。
彼はダイダスとは旧知で、なんだかんだとつるむ間柄であった。彼の所属する第二軍は、殆どが貴族で構成されており、妃や王女と言った貴婦人の警護も歴任している。それらの条件から言っても最適だった。
真面目なセルリオと荒波を渡ってきた叩き上げのダイダス。ダイダスの一等の友人として周囲に認識されている彼は、まさかそんな理由で警護に借り出されたなどとは夢にも思わない。
会場に、ダイダスの姿が現れたのを見て、シルビアが狂喜したのは言うまでもない。
飲み物を取ってくると言って、リックが離れた途端、すかさずクレアがやってきた。
「レイディア様。お怪我は大丈夫ですか? 寝てなくていいんですか?」
大事をとるよう言われて大人しく腰かけているレイディアは苦笑した。
「大丈夫よ。寝込むほどじゃないわ」
「……レイディア様に掠り傷でもつけられるのは我慢できません」
「掠り傷くらい、お仕事をしていたらいくらでも出来るわよ」
クレアを撫でる。膝をついたクレアは、レイディアの腰に腕を回し、腹に顔を埋める。
「人から故意に傷をつけられるのが嫌なんです」
クレアの顔は真剣そのものだった。
「僕が、昔貴女にしたように…」
「クレア」
クレアの口の動きが止まる。
「もうずっと前の話を掘り返す事は無いわ」
「…心配する事も許されませんか?」
クレアは悔しげに言った。
「僕がもっと王子に気を配っていれば、レイディア様御自らが街に出る必要も無かった」
「私が勝手にしたことよ」
「しかも、成り行きとはいえ侍女にされてしまわれたじゃないですか」
どうやらそれが一番気にくわないらしい。クレアの言いたい事は分かる。
侍女といえば主人の傍近くに仕える上級使用人。主人に目をかけられる具合でその立場は変動するが、女奴隷とは比べ物にならない程に高い位だ。
纏う衣装も数段上等な物になるし、ある程度の社会的地位が認められる。女奴隷としては異例の出世。恐らく誰もが光栄に思い、誇らしい一方で、裏方の下仕事だけしていればよかった今までの気楽な立場は一変する事を意味する。
それは、レイディアにとっては歓迎すべき事柄ではない。
それを危惧しての不機嫌だと分かっているレイディアはクレアを安心させるように少しだけ、笑った。
「何とかなるわ。殿下は私を徒に連れ回す方ではないし。少し立場が変わっただけで、今までと変わらないわ。それに、殿下は少しでも多く信用出来る者を傍に置きたいお気持ちもあるのでしょう」
「でも、それは王子の誤解じゃないですか」
メネステの王が、シェリファンをバルデロに送り込んだ本当の理由は―――。
「レイディア様が傍にいるって時点で破格の待遇じゃないですかっ」
長年望み続けて漸く儲けた待望の嫡男を可愛く思わない親はいない。だからこそギルベルトは最初からレイディアに、シェリファンをそれとなく見ているようにと言い置いていたのだ。直接シェリファン付きとなったのは彼の意図した事ではないだろうが、疎まれて送りこまれた王子にレイディアを近づけたりしない。
「寧ろすんごい大事にされてるのに、何をごちゃごちゃ考えてんだかって感じですよっ」
「自分の事は見えないものよ」
「しかも、レイディア様に毎夜お散歩に連れてってもらって!」
クレアの不平不満は止まらない。シェリファン付きとなってからというもの、レイディアは蔭日向となって常にシェリファンの傍にいた。クレアはレイディアをとられたように感じた。
俺だってそんな事してもらった事無いのに! である。
何とかメネステ王妃の手の者を片づけ、秘密裏に向こうにも釘を刺して一応の決着を着けたので、レイディアも王子から解放されるかと思いきや、お役御免どころか侍女に昇格である。まさに寝耳に水。クレアはますます王子に対抗意識を燃やした。
「どうしたら機嫌を直してもらえる?」
膝に突っ伏したまま拗ね続けるクレアを、レイディアは宥めにかかる。
「……レイディア様とお散歩したいです」
「じゃあ今度殿下と」
「二人で、街に出たいです」
「…足の怪我が治ったらね」
「ほんとですか?」
「ええ。一緒に市を回りましょうか」
クレアは暫し沈黙した後、ようよう頷いた。
レイディアはクレアを撫でながら今後について考えた。先程、自分で言った通り、このままでいられるとは思っていない。
バルデロの王城には常時、遠近問わず多くの国の要人達が出入りしている。女奴隷ならば彼らと直接関わる事は皆無だった。
けれど、侍女ともなれば事情が変わる。
シェリファンは交通の要所であるメネステ国の王太子だ。今後、彼の許に諸外国から王族ないしは大臣が入れ替わり立ち替わりするのは確実である。
シェリファンの侍女となったレイディアが彼らとの接触を完全に断つのは不可能。
その中で如何に振る舞うかが今後の課題だ。
けれど同時に何とかなるとも思っている。侍女だからと必ずしも目立つ存在になるとは限らないのだから。
故郷とも関わりを持つ国の使者がいないとも限らない。けれど、それも乗り切ってみせよう。
「…かくれんぼは、得意なんですよ…?」
覚えず、呟く。クレアが不思議そうに見上げてくるのを首を傾けてやり過ごす。
「あ、シルビア様がこっそりダイダス様を追っかけて行きましたよ」
「クレア、野暮なことはしないのよ?」
「はい、レイディア様」
でも、まだ暫くは、このままで。