第二十八話
夜が明けると同時に店仕舞いする花街。男達が敷居を跨いで店を後にする中で、未だ娼館の一室でドゥオは眠っていた。
昨夜の情事後から貪る惰眠ほど気持ちの良いモノは無い。
イイ女を隣に侍らせて、まどろみつつも女の身体に悪戯をしかける。
「あんっ…もぅだめぇ…」
鼻にかかった甘い声。良い感度で手を押し返す柔肌を飽くことなく刺激する。
「――頭ぁ、起きてくだせぇ。頭ぁ」
が、衝立の向こう、野太い野郎の声に、朝の淫らながらも甘い空間を吹き飛ばされた。
「あん…?」
「もう昼ですぜ。そろそろ起きやしょう」
ドゥオは舌打ちした。
「おい、オレの“されて不機嫌になる事”の上位に女との時間を邪魔されることってのがあるのを忘れたのか?」
彼の言葉通り、浮かぶ表情はとても機嫌が良いとは言えない代物だった。
「へぇ、すんません。けど、頭の命令を遂行するのがあっしの仕事なんで…」
「仕事…?」
「いつまで寝ているつもりだ。とっとと起きろ」
固い物で頭を殴られてドゥオの顔が枕に沈んだ。
「てめっ…ゼロ!」
跳びあがって振り返るとリュートの先端を構えた姿勢のゼロと目が合った。凶器は言わずもがなである。
突然男が二人も乱入してきた事に驚いた女は、脱ぎ散らかしたままの衣を手繰り寄せて半裸のまま部屋を出て行った。
「あー…行っちまったじゃねぇかよ」
「おはようございます。頭」
慇懃にお辞儀をする手下。今更だ。
「あー…オレはまだおはようの気分じゃねぇけどな。オレ基本夜行性だし」
まだ痛む頭を擦る。だが、まぁ目は覚めた。
「んで、何の報告だ? テルダムか? イーアか?」
「例のお嬢様が城を出られました」
その答えにドゥオの目が煌めいた。
「おっ、やっとか」
さっきまでの不機嫌は何処へやら。軽い足取りで娼館を後にした。
ギルベルトは日々変わることなく執務室で仕事をこなしていた。
メネステの王太子が来てからも、歓迎の宴を催したこと以外は別段何もせず、シェリファン付きにレイディアが選ばれた時も何も言わなかった。
彼は普段通りだった。
が、そんないつも通りの中にも、何かしら滲み出るものがあるのか、執務室に訪れる者達は皆、原因不明の震えに耐えながら用を済ませるや逃げるように退室していくというのがここ一月頻繁に見られる光景となっていた。
「王よ」
立つ音は紙を繰る音だけという静かな執務室に、声が戻ってきた。
ギルベルトはペンを走らせる手を休め、背もたれに身を預けた。
「シアか」
「は、長い期間御傍を離れてしまい、申し訳ございません」
「命じたのは俺だ。…で、その様子からすると結局逃がしたのか?」
声は一月前、レイディアを攫おうとした連中の後を今までずっと追っていた。奴らを捕獲し、情報を得て刑に処す為だが、奴らは綿密な脱出経路を組んでいたらしく、およそ二週間にも及ぶ追撃は奴らを見失うかたちで幕を下ろした。様々な方向に追手の手を伸ばしたが、ついに振り切られた。
声は己の失態を淀みなく答えた。けれどギルベルトに咎める色は無い。奴らを逃がした時点で期待はしていなかったのだろう。
「そうそう奴は尻尾を出しはしない」
シアも同感だ。二人はそれぞれ同一人物の姿を互いの脳裏に描いた。
「そう言えば、王はその者と面識がおありでしたか」
「ああ。殆ど言葉も交わしてはおらんが…」
ギルベルトは口を閉ざした。声も必要ない事はしゃべらない。自然、執務室に沈黙が落ちる。
「………」
しかし無為な沈黙ではない。互いにそれぞれ思考を巡らし解決の糸口を探っている為、沈黙はしても静寂は感じない。
ギルベルトには黒幕の見当はついている。が、証拠など無い。レイディアを攫った連中の内、捕虜にした奴らの情報は決め手に欠けるものだった。そもそもが彼らは大した情報など持たされない代わりの利く下っ端だ。ギルベルトが黒幕と目す者の懐は無傷だろう。
未だ親アルフェッラの国はいくらでもある。アルフェッラはもはや国ではなく、バルデロの飛び領地となっているが、未だ周辺諸国の影響力は無視できない程に大きい。
「…徹底的に叩きのめしておくんだったな」
禍根を残さない為にはそれが最善だったのは承知の上だ。だがレイディアとの約束がギルベルトを縛った。また、バルデロからアルフェッラまで距離が離れている事もあり、小まめな監視は不可能。勿論監視の者は派遣しているが、それでも殆どアルフェッラの内政は放置している状態だ。
アルフェッラと剣戟は交わしたものの、壊滅するまで痛めつけるには到らず、アルフェッラ内に巫女を取り戻し、国の再興を目論んでいてもおかしくない。寧ろその運動は起こるべくして起こるものだ。
アルフェッラは神国だった。巫女の加護に守られた美し国。その国の再興がなれば、その再興に手を貸した国は相応の利益が転がり込む。真実、巫女さえいれば即座にアルフェッラは再興する。巫女はそれだけの力を持つのだ。
だからレイディアは常に狙われている。アルフェッラでなくとも、巫女を欲しがらない国などこの世界には無いのだから。
いつだったか、かつて滅ぼした国の王が、死に間際ギルベルトに言い放った言葉が思い起こされた。
〈勝利を約束された戦でその通り大勝を収め、さぞや良い気分であろうなっ!〉
その王は死に絶える直前までギルベルトを睨み上げ罵倒し続けた。ギルベルトを、女に与えられた勝利に酔いしれるだけの小物だと。
さらにそいつは卑下た笑みで言った。金を生む女の具合は、極上に良かったのか、と。
そこでこと切れた王を見下ろし、これ以上苦痛を与えられなくなった点のみでその死を惜しんだ。
約束された勝利? そんなもの真実存在するとでも思っているのだろうか。
金を生む? 労せずして手に入れた金ほど信用ならないものだというのに、あの愚王は羨望さえした。
さらにあろうことか彼女を侮辱した。その国をいっそ草一本生えない焦土と化してやろうかと思ったが、生憎、当時は気分が極限まで下がっており、口を利くのも億劫だったから止めた。その後、その国はバルデロの属国の一つとなり、傀儡王の下、バルデロに毎月金や農作物を献上し、文字通り金の成る木と化したのは皮肉な話だ。
誰も考えないのだろうか? 巫女の加護が齎すものの意味。それは、決して良い事ばかりではない事を。ギルベルトと、他ならぬレイディア以外、誰もがその事に失念している気がしてならない。
懐の鈴を取り出す。懐に入れるだけで外部に聞こえなくなる程にチリチリと小さな音は、か細く弱々しい。ここずっと鈴はこんな調子だ。鈴の音の弱さに比例してギルベルトの機嫌も下降していく。
声も気付いたらしく、気遣わしげに王の様子を探る気配が伝わってくる。
「……あの、王よ。レイディア様は如何なさいました?」
声は今まで城を空けていたのでレイディアの変調を知らない。
ギルベルトに答える気配は無い。声もそれ以上詮索しようとはしない。ギルベルトがレイディアをそのままにしておくはずがないという安心感もある。だが…
「……シア、お前はレイディアの姓名の由来を知っているか?」
「…は」
勿論知っている。寧ろ訳を知らぬ者でも、彼女の姓を聞けばすぐにピンとくるくらい分かりやすい。が、唐突な問いに面食らって言葉を詰まらせた。
次の言葉を期待したが、ギルべルトはそれ以上声に話しかけるつもりはないようだった。長く骨ばった指で白い鈴の表面を優しく撫でている。小さく鳴る鈴の音が、彼女の啜り泣きの様に聞こえ、声の目元も仄かに暗くなる。
王は何を考えているのだろう…?
弱っているレイディアを放置しておくギルベルトではないと思うのだが…。
レイディアの姓名の由来。誰もが知ってる昔話に出てくる名。古代の覇王の傍に生涯寄り添った鳥だ。
と、そこまで考え、唐突に閃く。
王はまさか………
「フロークフォンドゥ」
エリカは呟いた。
「そう。ディーアちゃんの姓ね」
「なんで王様、鳥の名前なんてつけたの?」
エリカはパスタのフォークをくるくる回しながら聞いた。
「あんたでも『氷の王』の物語くらいは知ってるでしょう?」
「知ってるよ」
返事を返しながらも麺をつるつると啜りあげる。まるで蕎麦みたいに。
フロークフォンドゥは氷の城に閉じ込められた傲慢な王と共にいた小鳥。が、元々は氷の城が氷の城となる前からそこに棲んでいた鳥で、神が王を幽閉する氷の城とした時に逃げ遅れて、王と運命を共にする羽目になった悲運の鳥だとソネットは思う。
幽閉された王はその唯一の鳥を通して色々な事を学んでいく。これまでの己がどれほど愚かで傲慢で残酷で、人に憎まれる暗君だったかを思い知りながら。
そして、王は次第にその鳥を何よりも大事に思うようになった。
「当然と言えば当然よね。誰もが王を見捨てた中で、フロークフォンドゥだけが傍に残ってくれたんだもの」
閉じ込められた当初、王に追従していた臣下も一緒だった。けれど、彼らは王を見捨てて城から逃げ出そうとした。彼らは遜っても何の益ももたらしてくれなくなった王に見切りをつけた。佞臣だった。忠実で誠実な臣下と思っていた者達は甘い汁を啜る事しか頭にないただの木偶だった。それを知った王は何より自分自身に失望した。けれど、それさえフロークフォンドゥがいたおかげで立ち直る事が出来た。
「目が覚めた王は心を入れ替え、城から解放されたら、また零からやり直そうと決意した」
けれどその前に小鳥が死んでしまった。
氷の城は当然の如く寒い。温暖な気候に棲むべき鳥に、その厳寒は過酷すぎたのだ。王が出来るだけ服の裾の中に匿い温めていたが、その寒さは容赦なく小鳥の命を奪っていった。それに鳥の寿命は人間のそれよりもずっと短いのだ。王にとっての一日は、鳥にとっての数カ月。若さを失くした小鳥は呆気なく寒さに屈したのは無理からぬことだった。
王の慟哭を聞いた神様は王に問うた。小鳥を蘇らせたいか、と。
即座に頷いた王に、神様は条件を出した。
氷の城から出て、乱れに乱れた人の世を立て直し、平らかにせよ、と。
「知ってるよぉ。それが覇王なんだよね」
「そうよ。この大陸を支配出来たら小鳥を返してあげるよって言われて王様は頑張ったのね」
そして、並大抵ではない苦難の果てについに王は大陸を支配した。覇王となった彼の傍には一人の女性がいた。それが、かつて失った小鳥。人として生を受け、覇王が覇権を握るのを蔭日向となり助けたフロークフォンドゥ。
「王様って覇王になりたいの?」
「なりたくなきゃ、大陸中で繰り広げられてる戦火に参加したりしないんじゃない?」
氷の城だとか、小鳥が人として転生した件は御伽物らしく脚色されたものだろうが、実はこの物語は史実を基に創られている。遥か昔に実在した覇者とその妃の物語なのだ。フロークフォンドゥの名は今日では賢妃の代名詞ともなっている。
「ごちそうさまでした」
「はいはい、お粗末さま」
空になった皿をエリカの前から下げ、出来たてのスイーツを出してやる。
それに元気よくかぶりつく様子を眺めながら二人の事を思う。
王がレイディアにその名を付けた理由。それは、分かりやす過ぎるくらい分かるのだけど…。
「店主ぅ、お手紙です」
厨房裏から入ってきたツインテールの娘が、一片の紙を携えてソネットの許にやってきた。
「あら、誰からぁ?」
「ホイップさんからぁ」
可愛らしく結われた髪の房が揺れる。ソネットは手紙に視線を走らせる。
「………ふぅん」
ソネットはちらりとツインテールの娘に目をやる。娘はにっこりと笑って、再び厨房裏へと戻って行った。
「ねぇ、みっちゃん」
「何?」
「つまりさ、王様はディーアちゃんが大好きってことなんだね」
「ま、ムツカシー話を素っ飛ばせばそうなるわね」
レイディアとリクウェルは並んで街道を歩いていた。というよりもリックの方は王都に不案内な為、レイディアが歩を進める先に続いていた。
一方でレイディアの足取りに迷いは見えない。最初から目的地を定めているかのように分かれ道に差し掛かっても迷いなく一本の道を選び王都の裏道を行く。
半刻程歩いたところで少し拓けた場所に出た。家屋の立て付けを見るに下層と中層階級の者達が寄り集まって暮らす地区だろう。何処からか煮炊きの匂いが漂ってくる。生活臭が濃厚なそこは、貴族であるリックにはやはり馴染みのないものらしく、別世界に迷い込んだ面持ちだった。
地区の景気を表すかのように何処となく薄暗い。けれど決して不穏な感じがしないのは昼間だからだろうか。子供達の声が遠くで聞こえる。それとも、周囲の目線が何処となく柔らかいからだろうか。
「…どうかしたのか?」
レイディアを振り返る。こうして広場の様子を丹念に見渡せるのはレイディアがそこで立ち止ったからだ。休まず進んでいたのに突然止まってしまったのだ。
「殿下はここでどなたかに連れて行かれたみたいですね」
突然の誘拐宣告にリックは目を見開いた。
「何だってっ? 何でそんな事分かって…いや、それよりも、それならば今すぐにお救いせねば!…何をぼおっとしている!」
連れ去られたと言う割に彼女は動こうとしない。その様子に、彼女に対して新たな疑惑が芽生えた。
「お前…まさかその者達の仲間か! ここでわたしを足止めする魂胆かっ! そうはさせないからなっ! 言えっ殿下を何処へやった!」
憤りに熱くなる身体と裏腹に心の芯が急速に冷えていく。まさか…とリックに最悪の事態を想像した。
「ご安心ください。私は今貴方が想定しただろう方の手の者ではありませんから」
事も無げに投げられた言葉は、リックの疑いを余計に深めさせた。
「……お前、何を知っている」
女奴隷に過ぎない者が彼らの国事情を知り得る筈がない。
「…恐れながら、実は私は王子とお言葉を交わす機会を得た事がございます。殿下は皆まで仰りませんでしたが、御自身の祖国での複雑な立場を憂えておいででした」
「…しかし、いつ…」
言いかけ、はっと数日前の記憶が端に引っ掛かった。
「そう言えば、少し前、殿下が池のほとりに女がいたとかなんとか…」
レイディア達がシェリファンに挨拶しに参上した時、シェリファンが部屋を抜け出し、リックをも捲いて一人脱走した日。
「もしかして、その時の女か?」
あの日以降、王子の口からそれらしい話題も出なかったから、リックはすぐに忘れた。が、時折主が周囲に目を向けるようになったのには気付いていた。あれほど嫌がっていた貴人との面会も少しずつ応じるようになった。思い返してみれば、その変化はあの日を堺に起こった。
「内緒ですから、さあと答えるしかありません」
けれどレイディアははぐらかして答えない。奇妙な返しに当然リックは納得しない。
「はぐらかす気か」
「殿下を害する者ではないと知っておいていただければそれで結構です」
「それを信じるに値する根拠が無いではないか」
「それは困りました。今はこの通り、何も持っておりません。かといって、この拙い口弁では貴方を納得させる事も出来そうもありません」
両腕を出して見せながらの言葉はおどけていても、その態度は真摯なものだった。リックは不承不承、追及を緩めた。
それを見届けてからレイディアは周囲に視線を走らせる。ここは下層階級の住居地ではあるが、治安が悪いわけではない。けれど、たまに余所の地区から流れてくる無頼者がある。
シェリファンを連れ去った者達は複数。元の地区にいられなくなったか、新しいカモを捜しに来たかは知らないが、さて、彼らの狙いは…。
単純に身代金目当てなら救出は難しくない。けれど、もし『メネステの王子』を狙った犯行なら目的は王子の命そのものだ。衛兵を無闇に呼んでは事態が悪化する恐れがある。
とはいえ、二人では何も出来ない。レイディアは溜息をついた。…仕方ない。
「おい、何処へ行く」
ずっと立ち尽くしていた少女が再び歩を進め始めた。
「このあたりに知り合いの方がいらっしゃるので、協力を仰ぎます」
「衛兵を呼ぶべきではないのか?」
「いいえ、誘拐した人達を検挙する時には必要ですが、今は呼べません」
「だが、こうしている間にも殿下の身になにかあれば…」
「焦ってばかりでは事は解決に進みません。人手を募ってからでも遅くはないですから」
レイディアの言葉は明確だ。だが、聞かれたこと以外は話さない。それは話すのが面倒というより、口を開くことさえつらそうだった。だが、知り合ったばかりのリックには無愛想な女としか映らなかった。それでも、もうリックの中にレイディアを疑う心は芽生えなかった。それはきっと彼女の言葉が清涼で、毒の含まぬものだったからだ。リックは今までこんなに爽やかに入ってくる声は聞いた事が無かった。
その少女の足は細く薄暗い路地裏へと向かっている。
こんな薄暗い道沿いに存在する者が信頼に足る人物か甚だ疑問だが、レイディアの足を止めようとは思わなかった。
細い道に入る間際、レイディアとの間に僅かに距離が開いた。
その隙間に、突如黒い影が立ちはだかった。
「なっ……!」
リックはレイディアとを隔てた背中を見上げた。長身の男だった。ボロボロの外套は彼を尋常ならざる者だと知らしめていた。
一方、一瞬で身体を拘束されたレイディアも驚き、反射的に身体を捩らせようとした。
「よぉ、お嬢ちゃん」
自身を抱え込む男の声にレイディアの抵抗が止まる。
「貴方は……」
レイディアは自身を羽交い絞めにする黒い影を首を逸らして見上げた。
「随分な歓迎ですね……ドゥオ…さん」
「おっ、覚えていてくれたんだな」
黒い影――盗賊“鷹爪”の頭目、ドゥオはレイディアと目が合うや、陽気に笑った。
シェリファンは冷たい石床に横たわっていた。意識はある。
「………ぅ」
盗み見るように室内を見渡すと、廃墟だろうか、圧し折れた木材や何の用途に使うのか分からない器具の部品なんかが転がっていた。ここが長い事放置されていた空間だというのは世間知らずなシェリファンでも分かった。そしてその中央に男が六人。見るからに落ちぶれた者だと分かる。
今奴らはシェリファンに背を向けて何やら話し合っている。時折流れてくる言葉を拾い繋げていくと、シェリファンをどう扱うか、またその後身の振り方をどうするかという議題らしい。
「………」
身なりの良い子供が一人で庶民層に来るというのは、よからぬ事を企む者にとって極上の獲物。しかし、彼らは企みはしても計画を立てる、という思考回路で出来ていないようで、とりあえず攫ったけどどうすっべ? みたいな空気が彼らの間に流れていた。
「身ぐるみはがして売る」
「この坊主の家から身代金を要求する」
如何に効率よく大金を巻き上げるか話合う。誘拐の常套手段。なんの捻りも無い。しかし、シェリファンは初めての事態に心臓は鳴りっぱなしだ。
自分はこれからどうなるのか。不安は尽きない。縛られ猿轡を噛まされているという状況など想像した事すら無かった。猿轡の所為で何か言おうにも呻き声にしかならない。
「――下手に服を売ると足が付く。いっそ坊主ごと裏で売るか」
絶え間ない緊張で疲労が蓄積してきた頃、そんな言葉が耳に襲っきた。
売られる。
湧き上がる震えの正体は恐怖。シェリファンは咄嗟に父親の顔を思い浮かべた。けれどすぐに打ち消す。父こそわたしを売ったではないか。
シェリファンは誰にも言わずに外に出た。しゃにむに走って、ふと我に返った時、既に自分の現在地さえ分からず茫然とした。ここは誰もがシェリファンに頭を下げる王城ではない。囲いのある安全が保障された場所でない事をようやく認識した。
自分がここにいる事なんて誰も知らない。誰も……
――レイディア
その時、彼女の顔が鮮やかに閃いた。もしかしたら、彼女が気付いて捜しに来てくれるかもしれない。そして従者のリックも既に彼の不在に気付いているはず。
そんな微かな希望が芽生えた矢先、男達が立ち上がった。
「そんじゃ、ま…チンタラしてたら捜索の手が追ってくるかもしんねぇから、さっさと済ませようや」
シェリファンの方へ、絶望の足音が近づいてきた。
レイディアは極力動揺を抑えた声でドゥオに応じた。
「…こんな所でお会いするなんて偶然とは思えませんが?」
「だよなぁ。うん、会いに来た」
ドゥオは正直に白状する。
「折角会いに来て下さったというのに申し訳ありませんが、ただ今大変急ぎの用がありますので…」
「急ぎ?」
「ええ」
ドゥオの身体を押し返そうとしたら、余計に引き寄せられた。
「……何の真似ですか?」
「それってお嬢ちゃんが世話してやってる隣の国の王子様の事か?」
その言葉にはリックが反応した。
「王子を知っているのかっ。殿下は何処だ!」
ドゥオは今初めて彼の存在に気付いたというようにリックを振り返った。
「そんなもん知らねぇよ。今お嬢ちゃんが慌てる理由がそれしか考えられないってだけだ」
彼はレイディアの動向を調べるついでに城についても探った。そして今バルデロで注目されているのはメネステの王太子。どうやらドゥオはリックの事も承知しているらしい。
「お二人さんがこんなとこにいるって事は、その王子サマはお忍びで街に遊びに行っちまったか?」
「分かっているならば話は早いです。そういうことですので、私はこれで…」
「協力してやろうか?」
言葉を遮るように言われて、レイディアは目だけを彼に寄こした。
「貴方の御職業が慈善活動だとは知りませんでした」
「いんや。無償労働は趣味じゃねえな。奉仕精神なんぞ持ち合わせちゃいないんでな」
「でも私には、労働に値する対価を払うほどの財産は持ってませんよ」
正直なところ、彼の申し出は魅力的だった。ドゥオが気の良い男だというのも知っている。だが、それでも彼は盗賊だ。王子の救出に盗賊の手を借りるというのは如何なものか。かといって衛兵を動かすのも避けたい。
誘拐犯が金目当ての者だとしても、シェリファンの命を狙う輩は別にいるので、彼らに王太子が今無防備な状態であることを教えてしまう。
それは、絶対防がなくてはならない。
また、蔭の者を動かすのも躊躇われた。リックが傍にいるからだ。秘された部隊である蔭はおいそれと公の人間の為に動かせない。だから、第三の力を頼ろうとしたのだが、思いがけず一大組織“鷹爪”の頭領が協力を仄めかしてきた。彼らは統率のとれた組織で、その捜査網は信用出来る。けれど、それだけに彼らの目的がそこらの賊とは違ってその場限りの小利の筈はない。
「お嬢ちゃんから金巻き上げようとするほど、落ちぶれちゃいねぇよ」
ドゥオはレイディアの耳を覆う髪を脇に撫でつけ、露わになったそこに唇を付けた。
「俺らの周囲を嗅ぎまわってる王お抱えの黒い奴らを引かせてくれればいい」
「……盗賊稼業を黙認しろと?」
内緒話をするように告げられた対価。その囁きはリックには聞こえまい。だが微かに眉を寄せたレイディアを見て、あまり良くない話だというのは察したようだ。
「お前は何が目的だ。殿下の歓心を買ってもお前の利益になる様な事などないぞ」
「誰がそんな小せぇことするかよ。オレは窮屈なのは嫌いなだけだ。だからそれを取っ払ってほしいだけでね」
「生憎、私に彼らを動かす権限は、」
「無いとは言わせねぇぜ?」
「………」
ドゥオは畳みかける。
「王子様は隣国の王太子サマなんだって? 万一バルデロでその王子に何かありゃ国際問題だ。事が大きくなる前にさっさと事態を収束させたいんだろう?」
出来れば衛兵を呼びたくないレイディアの意思を的確についてきた。が、ただでは屈しないのがレイディアだ。
「随分優しいのですね、蒼い瞳の盗賊さん。陸上のいざこざを気になさるなんて」
黒い瞳が蒼色とぶつかる。レイディアの瞳を彼に隠す必要は無い。臆す事無くドゥオと対峙した。ドゥオは浮かべていた笑みに、僅かに警戒する色を加えた。
「…何を気にかけるかはオレの勝手だ」
「そうですね。貴方は単純な利益だけで動く方でもないですし」
レイディアの思わせぶりな言い方に、ドゥオは彼女の奥底まで見抜かんとばかりにレイディアを見つめる。
二人が近距離で見つめ合う。その二人の間に新たな風が吹き込んだ。
「こいつはええ格好しいヤツなだけですよ」
ドゥオが振り返る。レイディアはそちらを向く事は叶わなかったが、声に聞き覚えがあった。
「お久しぶりです、吟遊詩人さん」
「ええ、本当に。貴女に会えない日々は、水を与えられない花の如く萎れて味気ないものでした」
ゼロは柔和な笑みを見せながらリックの隣まで近寄ってきた。
その頃、クレアは宮中をうろうろしていた。レイディアがいないからだ。
上司の女官に、体調が思わしくなかった彼女を部屋に戻したと聞いて、様子を伺いにレイディアの部屋へ行ったのだが、そのレイディアがいなかった。
彼女の事だから、仕事を引き上げずに他の仕事を片付けている可能性も充分にあったので、この時点では特に不審には思わなかった。
だからレイディアが行きそうな場所を一つ一つ回った。けれど、何処にもいない。厨房にも、後宮にも、レイディアの友人であるベルの所にもだ。
流石に不安になったクレアは、一旦シェリファンの部屋の区画に戻った。そして主である王子もその従者もいない事を知った。
「…何かあったな?」
これらが全て関連性の無い事象ということはあるまい。クレアの様に王宮での身分を持ってる蔭達にも捜索の協力を呼びかけるべく踵を返した時、衛兵姿のゼギオスがこちらに歩いてくるのが見えた。
「ゼオ、丁度良かった。レイディア様知らないか?」
適当な部屋に連れ込み事情を話す。ゼギオスは普段は衛兵に交じって城の警備にあたっている。今はシェリファンの滞在区域を中心に巡っている筈なので、シェリファンらが何処かに行こうとしたならばすぐに分かる筈だ。
「あぁ、王子様なら城の外に出てったよ。レイディア様も、それを追って行った」
あっさり吐き出された言葉にクレアは唖然とした。
「なっ! なんで追わなかったんだ!」
「追う必要があるのか?」
「当たり前だ! レイディア様を一人にする気か!」
「王子の従者もいたぜ」
「あんなひょろい奴の腕なんて信用できるかっ」
ゼギオスは肩を竦めた。
「あのなぁ、何時でも何処でも護衛付きってのは監視されてるのと変わんないんだぜ。レイディア様は何でもかんでも面倒を見てやらなきゃ何も出来ない子供じゃないんだ」
「でも、レイディア様はいつ誰に攫われるか分からない身だ。常に護衛がいなきゃ安心できねぇだろうが」
ゼギオスが呆れたように溜息を吐く。
「…安心できないのはお前の気持ちだろうが。ま、お前の言い分も分からんでもないがな、王子の従者も一緒なんだ。俺はどっちみち動けない。下っ端の兵卒としてもついて行けないし、蔭としてもおいそれと動けないんだから」
「……それでもレイディア様の居所を見失う訳には…」
「ああ、それは心配ない。ちゃんと付いてった奴がいる」
「な、何だ…驚かせるなよ。いるんじゃねぇか」
その言葉にクレアの顔が安心に緩んだ。しかし、次の言葉に眦を吊り上げることになる。
「で、誰が付いてったんだ?」
「ホイップ」
「――一番不安な奴じゃねぇかよ!」
戦闘に関しては最弱を誇る名にクレアは愕然とし、慌てて衛兵を呼びに駆けだした。
「何者だ、こいつの仲間か」
新たな不審人物にリックは警戒する。思えばリックが完全に信用出来る者はこの場に一人もいない。リックの警戒心は必要以上に高まっていた。
「他人以上知り合い未満な関係なだけだよ」
そんな毛を逆立てた声に、吟遊詩人は人好きのする笑みで対応した。
「よう、遅かったじゃねぇか」
「お前みたいな体力馬鹿についていけるか。それよりさっさと彼女を放せ」
打って変わって冷え冷えとした声にドゥオは渋々レイディアを解放する。すかさず離れたレイディアはリックの傍に戻った。
「さて、さっきも言いましたが、安心して下さい。貴方方が警戒する様な下心はありませんから」
「それをどうやって信じろというのか」
リックの言は尤もだ。レイディアもドゥオ達もリックの旧知ではないだから。
「僕達は彼女に会いに来た旅の者です」
「この女と知り合いか?」
「この女などと…こんな可憐で清楚な女性にはあまりに不躾な言葉だね」
ゼロの唄う様な声音が少し不愉快気に染まる。リックは不思議そうに鼻を鳴らした。
「たかが女奴隷だ。何を気を遣う必要がある?」
しかもスカーフで深く頭を覆っている為顔の全貌も明らかではない。そんな彼女に対して清楚さはともかく、可憐さなど感じない。
「……ええ、まあそれはそうなのだけど」
ゼロは何とも言えない顔で言葉を濁した。
リックの反応は特別高慢なわけではない。女奴隷は平民階級の者が多い。城の中では一番下層にあたる。女奴隷達は貴族にとって同等の人ですらなく、既婚の貴婦人などは彼女達の前では不倫相手と憚ることなく睦み合いさえするのだ。
特にリックは王太子付きの従者。自身も高い爵位を持つ貴族だ。そんな彼にとってレイディアは対等に顔を合わせる価値も無い使用人ですらない。ただ、主たる王太子と懇意にしているらしいから隣で歩く事を容認しているだけで。
「……それはともかくとして、友人である彼女が困っているのを放っておくわけにはいかないと思うのは自然なことでしょう?」
「………」
ゼロの言葉は不思議と力がある。人の真に迫るというか、心に訴える響きを持っているのだ。それは魅せるのが仕事である詩人特有の説得力。大した論理でなくとも、そうなのかと人の感銘を受ける声。
それ故リックも心が動いたようだが、まだ完全に信用に到っていないようだ。
「用心深いのはいいことだが、ここは素直に人の善意を信じようぜ?」
「お前が一番信用ならないんだ!」
ゼロはドゥオとリクウェルを見比べて納得した。
リックの召し物は王子の付き人に相応しい装いであり、ドゥオと並ぶとまさに貴族と乞食。ドゥオの外套がボロボロ過ぎて、ともすれば浮浪者に見えるせいだ。中の服装はしっかりとした仕立てなのだが、ドゥオはこの外套を常に身に着けているので、ドゥオの印象はまず金に困窮した浮浪者、となってしまう。
確かにそんなヤツを信用しろったって、まず先入観が先だって信用出来ないのも仕方が無い。いつ裏切られるか分かったものでは無い、というのが本音だろう。
だが、ドゥオの正体は“鷹爪”頭目。そして“鷹爪”は貴人の為に動くことなどあり得ない孤高の組織。“鷹爪”の思想理念にはただの盗っ人には無い仁義が流れている。それはつまり、頭領であるドゥオの意志に他ならない。
〈オレは盗賊だが、悪党じゃないんでね〉
口癖にもなっているドゥオの理念が凝縮された一言。そしてこの事態は、女子供には手を出さないという彼の信念に反するものだ。例えドゥオ自身に関わりが無くとも、知ってしまった以上、見て見ぬふりは出来ず、さぞ不愉快に感じていることだろう。
ゼロはレイディアを盗み見た。彼女は彼ら達の言い合いを静観していた。彼女もゼロ達が盗賊という点では警戒してはいるものの、ドゥオ達の人格を疑ってはいないようだ。無償で働いてくれるとは思ってはいなくとも、いらぬ邪心は持たない者だと信じてくれている。
「リクウェル様。時間が惜しいのです」
その証拠に、彼らの言い合いが平行線を辿りそうになった時、レイディアはドゥオ達を擁護しだした。
「お前は口を出すな」
そう言って叱責しようとしたリックは、しかしレイディアの佇まいに思わず口を閉ざした。
決して威圧的ではない。ただ口を閉ざさせる何かがあった。
リックの顔を見つめたのは一瞬。レイディアは既にドゥオ達の方を見上げていた。
「――殿下を攫った方達をなるべく傷付けずに拘束できますか?」
「つまり、交渉に応じるってことか?」
レイディアは三拍分沈黙し、是、と答えた。
「ただし……公の機関である軍部は、私の知るところではありませんよ」
その言葉にドゥオはニッと笑った。
「充分だ」