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鈴の音の子守唄  作者: トトコ
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第二十七話

彼は思う。欲しい物を手に入れる為にはどうしたらいいのか。


五年前、彼は彼女を見つけた。けれど、その邂逅はとても邂逅とは言えなかった。

ただ遠かった。

彼女だけを見つめた彼とは裏腹に、彼女から見れば居並ぶ諸侯の内の一に過ぎなかった彼。

彼女は彼の名を知らないし、顔も見えない。

その距離が我慢ならなくて、その一年後、国から彼女を奪った。彼女からも鈴を奪って城に押し込めた。


どうしても欲しかった。だが、彼女の身柄を奪うだけではまだ足りない。

さらに考えた。完全に手中にするにはどうすればいいのか。


そうして一つの結論に至る。我武者羅に手を伸ばしても手に入らないならば、向こうから縋りついてくるように仕向ければ良い、と。








シルビアが演奏会を思いついて数日、その報せはシェリファンにももたらされた。

「演奏会?」

「はい。何でも、秋妃様の思し召しで、殿下と王城の者との交流も兼ねてだとか」

従者のリックが招待状を読み上げる。シェリファンは考え込むように首を捻った。

「城の者達とは嫌でも顔を合わせている。今更そんなことする必要があるのか?」

「殿下、王城にいる人間というだけでも砂漠の砂程もいますよ。殿下が普段会われているのは教師や一部の貴族、それに僅かな使用人で、今までお会いしてきた方の人数を足し合わせても百に満ちません」

演奏会には普段王城に参内しない顔ぶれも呼ばれるという。顔を広める絶好の機会だ。

「殿下は音楽がお好きだと御存知だったのかもしれませんね。シルビア妃はお優しくそりゃあもう優美な方と評判で、さらにさらに知る人ぞ知る楽の名手だそうですよ。是非ご参加なされませ」

リックの積極的な勧めにシェリファンも心が動いた。

「うん。そうだな、是非その日を楽しみにしていると伝えてくれ」

「おや殿下。いつになく素直ですね。どんな心境の変化です?」

これまで散々面会を求めてきた貴族連中を突っぱねてきた彼を揶揄しているのが分かるシェリファンは首を逸らした。

「ただ貴族達との付き合いも必要だと思ったまでだ…何だその顔」

「ああ、いえ、ほかならぬ殿下のお口からそのような言葉を聞くとは夢にも思いませんでしたので」

「……失礼な奴だな、お前」






「―――本当に?」

シルビアの顔がぱっと華やぐ。

「まあ、嬉しい。これから一層練習に身を入れて頑張らなきゃね」

シェリファンの快諾の返事を貰ったシルビアは上機嫌に言った。

「あら、来て貰えなければなおざりになさるおつもりでしたの?」

向かえの席にいるムーランがからかうように笑った。

「ま、いじわるですわ、ムーラン様。勿論精一杯奏でますとも」

下心はあれど、楽を軽んじる気はない。


演奏会を思いついて数日。シルビアは着々と準備を進めていた。楽の練習は勿論、他の妃達に声をかけたり、使用人の中にも楽の名手と評判の者を誘ったり、会場となる部屋も念入りに吟味している。

今は親しくなったムーランと打ち合わせを兼ねてお茶を飲んでいるところだった。演奏会の件を真っ先に快諾してくれて、何かと助言してくれている。招待する顔ぶれも、貴族の事情に通じた彼女の意見を求めながら進めている。後宮に来て日の浅いシルビアにとってありがたい限りだ。

「そういえば、ムーラン様は何か楽器を弾かれます?」

ムーランは演奏者の名簿には加わっていない。また、ムーランの評判はあまり聞かないから彼女のことは知らないことの方が多い。ここバルデロにおいて、令嬢の教養としての音楽は未だ確立されていない。しかし、音を奏でる事はとても好まれており、進んでオルガンや横笛フルートを覚える者も多かった。富裕層は引退した吟遊詩人や著名な作曲家を指南役として召喚することも珍しくない。

「わたくしは楽器はやりませんの。代わりに歌を少々」

「歌ですか。是非お聴きしたいです」

「それは容赦いただきたいわ。わたくしの歌は戯れ程度で、とても人前に出せるものではないの」

ムーランにしては珍しく困った風な様子に、シルビアは渋々引いた。

「…レイディアといい、自分の実力を出し惜しみする人ばかりだわ」

「レイディア?」

シルビアはあっと口を閉ざした。小声で呟いたつもりだったが、ムーランに聞こえてしまったようだ。

シルビアにとっては大切な友達だけど、後宮において彼女は一女奴隷に過ぎない。その彼女を対等に扱ってムーランに咎められるのを恐れた。

でも、きっと彼女はレイディアを知らないわ。

「…ええ。わたくしのお友達ですの。彼女も舞楽を嗜んでいて…」

二人で会うようになっても、あまりレイディアは自分の事を話さない。これは数少ない情報の一つだ。それに、レイディアの故郷では舞楽は必須教養であったらしい。

何処の誰とは言わず、ぽつぽつと語るだけに済ませた。シルビアは構わないが、彼女の日常に支障をきたすかもしれない。

そんなシルビアの心中を読み取ったのか、ムーランはそれ以上話を掘り下げる様な真似はしなかった。ただ、愛でるように微笑んでいるだけだった。






己の宮に帰ったムーランは自室に戻った。扉の前で後ろをついてくる侍女達を下がらせて自分だけ中に入った。

「レイディア」

そこにはかつて己の宮に仕えていた使用人がいた。

「突然押し掛けて申し訳ありません」

「構わないわ。…それで」

何の用? と訊ねようとしたムーランは微かに眉を寄せた。

「……ちゃんと寝てるの? 顔色が悪いわよ」

レイディアは暫く口を閉ざした。しかし、ムーランの顔を見て、堪忍したのか小さく答えた。

「…やはり、医師の家系である方は誤魔化せませんか」

「当たり前よ。いくら粉をはたいたって医師の目は騙されないわ」

ムーランはレイディアの顎を持ち上げ、顔を左右に逸らして素早く状態を診た。

「それに、まともに食べてないでしょう。久しぶりね、ここまでボロボロになった貴女を見るのは」

ムーランは見事な螺鈿細工の箱を棚から持ち出した。

「睡眠薬でも求めに来たんでしょうけど、駄目よ。今の貴女に必要なのは気休めの安定剤ではないもの」

「……平気です」

「そんな顔色でよくも言えるものだわ。医師を舐めないで」

真剣な顔はまさしく医師の顔。レイディアは身体の力を抜いた。

途端、目の前が反転する。

「どうしてこんなになるまで放っといたの…」

ソファに倒れ込んだ少女をほら、言わんこっちゃないと言うように見下ろす。

「…眠れないんです」

はぁ、と溜息が聞こえた。

「いつから?」

「…一月ほど前から少しずつ」

少しずつ、悪夢に浸食されて眠る事が怖くなった。

「よく今まで倒れなかったこと。休まなければいつかは限界を迎えるのよ」

「…眠っても、休まりませんから」

「……」

ムーランは数粒の丸薬が入った袋をレイディアの手に落とした。

「とにかく何処かでちゃんと休まなければいけないわ。落ちつける場所でゆっくりなさい」

何処か、という言葉にレイディアはこの国の王の顔を思い浮かべた。彼の許に私の鈴がある。

けれどすぐさま振り払う。自分から彼の傍に行くのは少し怖い。

彼の傍は安らげるだろう。けれどそれは引き換えだ。許すつもりのなかった領域まで踏み込まれる事と。


「そういえば、さっきまでどちらに?」

ムーランはあまり外出しない。だから訪ねた時、不在だったのは少し意外だった。

「お姫様の所よ。演奏会の相談にのっていたの」

「演奏会? いつの間にそんな話が?」

「あら、貴女は知らなかったの?」

「…ええ」

シェリファン付きの女奴隷はレイディアだけ。同じく彼付きの女官達は仕事中に噂話などしない年嵩の女官。クレアも噂好きとは程遠い。レイディアの情報源は一時的に断たれたといっていい。そんな場合でも、いつもなら何処かから情報は仕入れていたのだが…。

やはり今の自分は平常とは程遠いのかもしれない。

「ムーラン様もご参加なさるので?」

「わたくし? そう思う?」

「…四年前より、どれくらい腕が上がりました?」

「拍子くらいならとれるようにはなったわ」

「…そうですか」








夜、レイディアはシェリファンの部屋にほど近い庭園の椅子に座っていた。

寝台に寝そべっても眠れないのだ。眠れてもうなされるだけ。心を空っぽにして、夜風に撫でられてじっと闇にたゆたっていた方がずっと落ちつく。

静かな時間。夜はそれだけで静寂を生む。手を差し出すと一片の葉がそっと手のひらに流れてきた。

「レイディアッ」

静寂を打ち破る明るい声。整えられた道を歩いてくるシェリファンが見えた。

「シェリファン様」

「良かった。見つけられた」

初めて会った時と同じだと思いながらシェリファンに向き合う。

「レイディアは、一人でいる時か夜であれば見つけられるんだな」

そう言う彼は達成感の為か満足そうだ。

「お部屋でお待ちいただければ、こちらからお迎えにあがりますのに」

「気にするな。それで、今日は何処に連れてってくれる?」

「そうですね……今日は離れの方でも」


二人は並んで歩いた。夜は足音さえいつもと違って密やかで柔らかい。夜中の散歩など、誰かに見つかったら咎められるだろうが、不思議とレイディアは人のいる場所を器用に避けてシェリファンを導いた。

約束した夜から殆ど毎夜、二人は内緒の散歩を続けているが、今まで誰にも会ったことはなかった。

「今度演奏会が開かれるのを知っているか?」

「ええ…シルビア様が開くとか。殿下も演奏会に?」

「ああ、シルビア妃から是非にと。だが…シルビア妃は王の寵姫だと聞く。どのような姫か」

「心配には及びません。シルビア様はとても気さくな方です。全く気張る必要はありませよ」

「そうか」

「殿下は女性が苦手ですか?」

「苦手…というよりもどう接したら良いのか分からない」

故郷では彼の周囲に妙齢の女性は少なかったという。基本的に王侯貴族にとって、使用人とは対等の人間ではないので彼らを女や男だと性別で見ることはまず無いし、シェリファンには姉妹がいないことから、若い世代との交流が無くても不思議ではない。

「前任の者達に辛く当ったのはそのせいですか?」

「それは…」

殿下は少しムス、とした。

「それは違う。あの者達が気にくわなかっただけだ」

目を合わさずに一息に言った。

レイディアはそれ以上聞かず、さり気無く話題を変えてくれた。


シェリファンは色々な話をした。気に入らない教師の事、好きな物、そして、祖国の事。

レイディアはシェリファンを寝不足にするわけにはいかないと言うので、時間にして僅かな間ではあるが、他愛のない会話をしながらするこの散歩をシェリファンは殊の他気に入っている。

今日などはレイディアの訪れを待てず、己から捜しに出てしまったくらいだ。




初めてレイディアと散歩に出た時、シェリファンは感動した。

満天の星に黒い影となった木々。心地よい鈴虫の合唱。時折り微かにそよぐ風。

星なんて祖国でも見れたし、山間のこの国には風はいつでも吹いてる。鈴虫の唄を聴くのも初めてではない。

そう思っていた彼だが、室内で聴くのと外で肌で直接感じるのとでは全然違うことを初めて知った。


その夜から別段珍しい光景に出会えたわけではないが、彼は飽きなかった。寧ろ傍にいる彼女との時間がとても大切な気がして、一秒一秒が惜しい。

昼間の内は夜が来るのを待ち詫びる。でも、その日あった事をレイディアに報告するのも楽しみになってきた彼は、昼間の嫌な事でも頑張れるようになった。だから、演奏会の招待も、突っぱねたりしなかった。その日を楽しみに出来る程度には余裕が出てきたくらいだ。

まるで、レイディアに導かれるみたいに。


思いに耽っていると、彼は足を草に絡め取られてしまった。

あっ、と言う間もなく身体が傾く。痛みを覚悟して反射的に目を瞑った。


しかし、それ以上身体が倒れ無い事に気付いたシェリファンは目を開けて、彼を支える腕を見た。

「大丈夫ですか?」

やはりレイディアだった。

「う、うむ。大事ない」

「ここは敢えて人の手を加えていない区域なので、背が高い草がそこここに生えてます。ご注意するを忘れていました」

「いや…暗い所で余所見するのがいけなかった」

「面白いものでもありました?」

レイディアとシェリファンは自然に手を繋いだ。

途端、シェリファンはびくりとした。


彼女の手はぞくりとする程、冷たかった。


「冷たい…」

「ああ……すみません。ずっと夜風に当たっていたので身体が少々冷えてしまいました」

一旦シェリファンの手を放し、袖を掌まで伸ばし再びシェリファンと手を繋いだ。

布越しの手はもう冷たくは無かったが、彼女と一枚分距離が隔たった様にも感じた。吃驚するほど冷たい手だったが、不快ではなかったのに。

「ずっとか? 風邪をひくぞ」

「きちんと着込んでいるので大丈夫ですよ。それに、夜が好きなんです」

「そうなのか?」

確かにレイディアには夜が似合う。


夜を纏うアルフェッラの巫女みたいに…。

って、そんなわけは無いか。巫女は死んだのだから。

「着きましたよ」

はっとして前を見る。そこは小さな東屋だけがある拓けた場所。レイディアの言うように好きに草が生え茂っている。

「ここは王城に隅っこにあって、向こうには私用で使用人達が街に行く時などに使う門があります」

指し示す方には暗くてよく見えないが確かに門らしきものが見える。

「使用人も外に出るのか?」

「使用人とて人ですからね。たまには羽を伸ばして休む事も必要なんですよ」

「そうなのか」

使用人は主人が呼べば何時でも現れると思っていたから少し驚いた。

「レイディアも使うのか?」

「ええ。女奴隷は特に事前の許可がいりますが」

「ふぅん」


祖国での立場も、蛇だらけの社交界も、笑顔の裏にある思惑を探り合う会談も、今だけは全部忘れてレイディアに手を引かれていたい。昼も傍にいてほしいが、昼は他の者の目もある。互いに気安い態度はとれないだろう。

こんな日常がずっと続けばいい。シェリファンは初めて心を満たされるのを感じた。

満たされる事によって、緩みが生じてしまった。



だからこそ、それ・・は、シェリファンを大いに揺さぶった。









その会話を聞いてしまったのは、単なる偶然だった。


その日、何となく気が向いて部屋を出た。別に何か目的があったわけでもないし、最近気まぐれを起こすことがなくなったから、その時は本当に偶然だった。

城内も、近くをうろつくだけなら不自由のないくらいには覚えていたから深く考えずに出歩てしまった。

「…が、…………で…」

「……を………だわ」

ふらふらと歩いていると、一つ角の向こうから話し声が聞こえた。

女官達だろうか。シェリファンは煌びやかな女が苦手だ。折角の一人の時間を邪魔された気分になり、踵を返そうとした。


「メネステの王太子は、王に売られたいわば人質でしょう?」


シェリファンの足が止まる。


「そんなはっきり言うんじゃないわよ。何処で誰が聞いてるか分からないんだから」

「でも、メネステの現王妃は王太子の実母じゃないんでしょう? メネステの王は今の王妃に頭が上がらないって話だし」

「そりゃ、生ませる為だけに娶った王妃より大事なんじゃない? でも、その妃にも男子を産ませて前の王妃の子を我が国に人質として差し出せば、そりゃあ安泰よね」

「わぁ、メネステの王様頭いい~っ」

耳障りな嗤い声が沸く。

もしかしたら、彼女達の会話はシェリファンを貶めようとする気は無いのかもしれない。彼女達は『メネステの王太子』を嗤って楽しんでいるのであって、『シェリファン』ではないのだから。けれど、シェリファンはメネステの王太子だ。

王太子とはいえ、まだ八つ。柔らかい心は捩れて血が滲んだ。

その話が事実だから、尚更。

実母はシェリファンを生んだ後、産後の肥立ちが悪くそのまま亡くなった。当時、父のメネステ王は子供に恵まれないことから、妃の選定には身分より子供が出来るか否かが重要視され、母が選ばれた。母は期待に応えて役目を全うしたけれど、シェリファンを置いていってしまった。

母が亡くなって間もない頃から早速有力貴族達がこぞって我が娘を王に勧め始めた。そしてその中から現王妃が立ち、今や城を好き勝手に動かしている。

メネステは専制君主制でない為、王は貴族の言葉を無視出来ない。

実母の亡い後ろ盾に乏しい王太子。信用できる人間は出来よう筈が無かった。

それでも王妃に子の無い頃はまだ立場は安泰だった。

しかし……

「現に御懐妊されたって話じゃない?」

「あら、まだ男子とは決まってないわよ。王女かもしれないじゃない」

「でも、一人生めば、これから何人でも作れるじゃない」

「懐妊が分かった直後に殿下はこっちに寄せられたってこと? それって体の良い厄介払いじゃない」

そう、王妃は妊娠している。弟か妹か分からないが、確かに腹に命を宿している。

シェリファンの立場はついに危うくなった。

彼女達の言葉は全て真実なのだろう。


父は人質にわたしを差し出した。実の父に。


シェリファンも心の底で疑っていたからこそ、その言葉はより現実味を伴って彼の眼前に突き付けられた。

父王は決して彼を蔑ろにしてはいなかった。たった一人の息子でもある彼を、母を亡くした王子をそれなりに気遣ってくれた。

けれど、正妃の言葉を退けられるほど、王は強くない。

シェリファンが邪魔な王妃に迫られ、せめて我が国の安全の為にと彼を差し出したとしても、なんら不思議は無かった。


バルデロに来て、使用人は皆、不自由は無いか御入り用の物は無いかと甲斐甲斐しくしてくれた。優秀な使用人ばかりで、さりげない気遣いも申し分なくて、シェリファンが何か言う前に察してくれた。

けれど、芽生えた疑惑が彼の目を覆い、それが上っ面なだけに思えて、信じることが出来なかった。自分は所詮人質。誰もが心の中ではシェリファンを哀れみ、軽んじて、祖国に見捨てられた王子と嘲笑っているのではないかと。

卑屈になって、些細な事で周囲に当り散らし、人を拒絶した。


〈貴方を傷付けるものなど何もありません〉


レイディアの言葉が蘇る。

嘘だ。現にここにいる女達はわたしを嗤っているではないか。


〈…貴方は貴方のお役目を全うされる為にこの国へいらっしゃったのでしょう? ならば、お頑張り下さいませ〉


レイディアに対しては、不思議と最初から反発心など起こらなかった。シェリファンをシェリファンとして見てくれると、無意識に分かったからかもしれない。

でも、シェリファンの心は折れてしまいそうだった。

頑張ったけど、頑張って、それが自分に返ってくるとは限らないと気付いてしまったから、もう動けない。

シェリファンが祖国とこの国を繋ぐ橋になろうとしても、結局捨てられるなら……いっそ…

シェリファンの脳裏に過るは、つい先日のレイディアとの会話。


そうだ、あの門……


シェリファンは衝動的に走りだした。






レイディアは掃除の手を止めて顔を上げた。

「……殿下?」

「どうかしたの?」

年嵩の女官がレイディアの動きが止まったのを目敏く見つけた。

「いえ、何でも………」

言いかけ、立ち上がったレイディアは血の気が急速に引くのを感じて、床に膝をついた。

こんな時に立ちくらみ…

レイディアはまだらに黒い視界を閉ざし、地が揺れる感覚をやり過ごす。

「ちょっと、真っ青よ。もうここはいいから、少し早いけど休憩になさい」

「……はい」

上司にあたる彼女の言葉に甘え、そこから退出したレイディアはしかし、使用人用の控え室には行かず、ふらつく足でシェリファンの居室を目指した。



部屋に行くと、シェリファンの従者であるリクウェルが部屋から出てくるところだった。

「すみません」

「何だ女」

「殿下は御在室でしょうか?」

「お前、殿下付きか?」

「はい」

リックは目を細めた。こんな使用人いただろうか?

「…聞いてどうする」

「………いえ、いないならいいんです」

やはり、女奴隷の立場は弱い。深くまでは踏み込めない。だが、一瞬リックの顔に過ぎった表情を彼女は見逃さなかった。

彼は部屋にいない。それが分かれば充分だ。

レイディアは身を翻した。

「待て」

リックが呼び止める。

「何故、いないと分かった」

「………」

分かったのはリックの顔を見たからで、気になったのは説明のしようのない直感だ。

「……いえ、少し気になっただけです。急ぎますので、失礼します」

しかし、リックはさらに呼び止める。

「……殿下は確かに今室内におられない。お前何か知っているのか?」

問い詰める様な目を向けられる。勿論知る筈がない。ただ、予感がしただけだ。

歩きつつも押し問答を続けていると、向こうから話し声が聞こえてきた。声からして女。多分女官だろう。

彼らはやり過ごそうとして、立ち止った。

内容はシェリファンの内情を面白可笑しくあげつらったものだったからだ。

「………」

リクウェルの蒼白な顔に浮かぶのは怒りか、動揺か。

咎めようと出て行こうとする彼を止め、踵を返す。

「何故止める! 我が国の王子を侮辱したのだぞ!」

「彼女達は自分が悪い事を言っているという自覚はありません。咎めても出てくる言葉は上辺の謝罪です。そんなものを聞いても余計に不愉快になるだけでしょう」

リックは怒りの目を残したまま黙った。

「ですが、戯れだとしても許されるものではありません。この事は上に報告してきちんと処罰していただきますから」

「そうだな。…今は殿下を見つける方が先決だ」


最近のシェリファンには無闇に脱走しようとする気は無いはずだ。けれど、城に慣れたことから気まぐれに部屋から出た可能性がある。

そこで、偶然彼女達の例の会話を聞いてしまったとしたら…

レイディアはシェリファンの行きそうなところを頭の中に次々と候補を並べて行く。

シェリファンの居住区域の庭園。王城隅の池。使用人用の門が近くにある、離れ。

――まさか。

レイディアは方向転換して、先日辿ったばかりの道をなぞり歩いた。

「おい、何処へ行く。そっちは何もないところだ」

「殿下は外へ出られたかもしれません」

「外へ? そんなわけないだろう。どうやって出られるというのか」

リックは二人の散歩を知らないのだから無理もないが、思えばレイディアは使用人用の門の存在を教えてしまったのだ。直接外に出られる事も。

もしかしたらまだシェリファンは王城にいて、気まぐれに歩いているのかもしれない。それならば王城は警護が厳重だから、それほど心配する事もない。

だが、レイディアはその可能性を考えられなかった。



門に辿り着く。が、いる筈の見張りがいない。丁度交代時間だからだろうか。

加えて門に鍵がかかっていない。使用されない時は必ず施錠されているはずなのに。

「職務怠慢だわ…」

本日の当番の兵を厳罰に処さねば。勿論ダイダスあたりに報告でもして、だが。

けれど、それはシェリファンを見つけた後だ。鍵がかかっていないなら、シェリファンが出て行くのになんの障害も無かったことになる。

風が流れる。

そのまま出て行こうとすると、リックに止められた。

「こんな辺鄙な所まで一人で殿下が来られる訳がないだろう。お前の思い過ごしだ」

「…いいえ、殿下はここを御存じです。それに間違いなく殿下はこちらを通りました」

「何故分かる?」

「私は知りません。ただ、身なりの良い子供が向こうを走って行ったと聞いただけです」







迷いなく扉を開けて歩き出したレイディアの背を彼は茫然と見つめた。

「……誰に?」


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