第二十六話
無頼者が行きかう夜の街に男達はいた。
「なぁなぁ、いい加減機嫌直せよ」
ボロボロの外套を羽織った男は前を進む男に声をかけつつ付いていく。
「元々機嫌が悪いわけでもないのに、これ以上どう直せという?」
リュートを背負った彼は抑揚のない声で返す。
「だってオレの行きつけに出入り禁止とかどんな罰だよ。酷過ぎる。お前オレを殺す気?」
「いや、お前を殺そうとなんて思ってないさ」
「だろ? さすが親友、分かってくれたか」
「馬鹿は死んでも治らないだろう? 僕は無駄な事をしない主義でね」
「………」
鷹の刺青が施された顔をフードの中に隠し持つ彼は絶句した。
「お前の散財に、いい加減歯止めを利かせようと思っただけだ。それに、セフォー以外の出入りは禁止してないだろう」
「分かってねぇな、お前。馴染みの者に三年も訪れねぇと、冷たい目で『どちら様ですか?』とか言われちまうんだよ」
「所詮その程度だったというだけだ。早々に分かって良かったじゃないか。だいたい…」
吟遊詩人の彼は首だけ捻って鷹の男を振り返った。
「お前だって大して思い入れなんか無いだろう」
「んなことねぇって。皆平等に大事にしてる」
各地に“恋人”が散らばってるドゥオだ。セフォーの女もその内の一人に過ぎない。
「いいからもう付いてくるな。鬱陶しい」
「なんでぇ、つれねぇな。オレのお蔭で街に入れたんじゃねぇか」
「同時にお前の所為で正体がバレたんだ」
ここ、バルデロの首都、ヴォアネロの要注意人物に指定されている二人は、今や堂々と玄関から入れない。元々お尋ね者の彼らだが、王に直接顔が割れてしまったのだ。ドゥオのせいで。
「王城に入れなくなったお前を助けてやろうってんだ。そうつれなくするなって」
「彼女は、街に出る事もあるというが、いつ出てくるのか分からないことには会う事が出来ないな…」
「ああ、それにしてもお嬢ちゃんてあんなに細っこい割には結構いいカラダしてんだぜ。ちょっと味見…って…ちょっ冗談だよ!…やめろってっ」
固いリュートの先端で腹を突こうとしてきたゼロから逃れる。
「…やっぱりお前帰れ」
「冗談だって言ってんだろ! オレが戯れに触れるのは商売女だけだって」
暗い街角、無頼者がたむろするこの界隈でこんなやりとりをしていると、彼らを取り巻く人の気配を感じて二人はやり取りを中止した。
「ドゥオ」
「ん。六匹ってとこだな」
砂を擦る音。獲物を構える音。空気を通して伝わるにやける声。
「よぉ、兄ちゃん。楽しそうだな。俺達もまぜてくれよ」
「俺達金がなくてな。懐が寂しいんだよ。な?」
服を着崩している上汚いので浮浪者に見える。実際あまり変わらない暮らし振りだろう事は見てとれる。
「あ~…これから一杯引っかけに行こうと思ってたんだが、お前らも一緒に連れてくのは嫌だな」
コキコキと首を鳴らして肩を回す。彼なりの準備運動だ。
「連れてってもらおうなんてそんな図々しい事は言わねぇさ。ただ俺達にも良い思いが出来るようにちょっとばかし助けてほしいだけなんだ」
どっちが図々しいんだか分からないが、要は金を出せ、だ。
「ゼロはともかくオレって金持ってそうか?」
ボロボロの外套の裾をひらひらさせる。
「逆さに振ったら一銅くらいは出てくるんじゃないか?」
「え、オレの価値銅一枚?」
ちなみに彼らが束ねる“鷹爪”の金管理はゼロに忠実な会計係が一手に引き受けており、ドゥオは殆ど触らせて貰えない。貰えない筈なのに娼館に行くたびに金をばら撒かれるのは何故なのか。
「おいおい、俺達を無視しないでくれよ。すっげえ傷付くんだがなぁ」
「こりゃ、慰謝料払ってもらわんとなぁ」
好き勝手に言う男達をドゥオが一蹴する。
「悪いな。オレ達ぁ男に奉仕する趣味はねぇんだ」
片端だけ持ち上がる唇が如何にも好戦的に見せる。
男達の輪がじりじりと狭まる。しかしこんな小物に怯むほど彼らは可愛くない。
ゼロを見ると所在無げに立っていた。ともすると怯えているように見えなくもないが、リュートに伸びる手が見える。ドゥオは笑った。
「一運動した後の一杯も美味そうだな」
唇を軽く舐めて湿らせる。空を見れば月が薄雲に覆われて、地上に光が届かないくらいに淡い光だけが辛うじて存在を主張しているに過ぎない。
…良い夜だ。
あぶれ者にとって月のない夜ほど恵まれた天気は無い。闇に紛れて好きなだけ動ける。
男達が獲物を構えて跳びかかってくるのと同時にドゥオは地を蹴った。
しんと静まり返った真夜中、シェリファンは寝台から抜け起きた。
居室へ続く戸をそっと開け、誰もいない事を確かめてからその戸をすり抜ける。
部屋は真っ暗だが次第に夜目にも慣れて、だいたいの部屋の構造が見えるようになった。そもそもここは自分の部屋である。歩くに不自由しない。
最近のシェリファンは眠たくないとムズがらなくなったので、従者のリックは安心して自身も眠りについているはずだ。
廊下へ出る扉を僅かに開けて、左右を確認した。誰もいない。
「殿下」
廊下に足を差し出そうとした彼に声がかかった。
「うわあっ…っ…っ」
思わず叫びそうになり、慌てて口を覆う。
「どちらにいらっしゃるので? もうお休みのお時間ですが」
廊下に立つ影を見る。どぎまぎしていた彼の心臓が収まった。
そこにいたのはレイディアだった。
「レイディアッ」
「はい、殿下? ああ、そんな薄着では寒いですよ」
レイディアは何故か手に持っていた内掛けをシェリファンの肩に掛ける。
「それで、どちらにいらっしゃるのでしょう」
「…ど、何処でも良いだろう。何処に行こうがわたしの勝手だ」
「………殿下」
「お前を呼んだ覚えは無い。許しも無くわたしの前に出るなど無礼ではないか」
首を逸らしたまま言い放つ。
「だいたい、お前は今まで何処にいたのだ」
「実は私、つい先日から殿下付きの使用人となりましたので、ずっと殿下のお傍にいましたけど」
「嘘だ! そんな筈はない。だってずっと捜して…っ」
慌てて口を覆う。
「嘘ではございません。私は女奴隷。下女に過ぎませんので、おいそれと殿下の御前に参るわけには」
「では何故今はいるのだ」
レイディアの言葉を遮る様に言った。
「今宵の夜の番は私ですので。夜半、殿下の御用を承る為に」
「用など無い」
「そうですか」
彼女の遠ざかる足音がした。シェリファンは逸らしていた首を戻して慌てて言い直した。
「散歩に出たいっ」
レイディアの足音が止まる。沈黙が二人の間に落ちる。思案するような間だった。
「な…何だよ。駄目なのか」
彼女もリックの様に細々自分の行動に口出しするのかとがっかりしかけた彼の耳に、彼女の声が届いた。
「駄目…ではありませんが、どうしても今夜でなければいけませんか?」
「? どういう意味だ」
ただレイディアを引きとめる為に口走っただけだったので、別にどうしても、という訳ではない。
「シェリファン様」
「…なんだ」
「今宵は雲が月にかかっておりますれば…。今夜の外出はお勧めできません」
「…?」
シェリファンの首が斜めに傾く。月が何だというのだろう。レイディアは続ける。
「ですが、夜の散策は昼間とはまた違った趣きがあって、幻想的でさえあります。草も花も陽気に輝く昼間とは打って変わって、そっと頭を垂れて風に流れる様、月の淡い光に浮かび上がる姿は…」
シェリファンの知らない世界を語るレイディアの言葉は、まるでお伽噺のようだ。そして彼女自身、物語の住人のようで。
夜がそう見せるのだろうか。
「…見てみたい」
「ええ、是非。よろしければ……そうですね、明日の夜、こっそりお散歩致しませんか?」
願っても無いレイディアの言葉。
「い…いいのか?」
「殿下さえよろしければ」
シェリファンに異存は無い。
「では、今夜はもうお眠りなさいませ」
だが、シェリファンは明日が待ち遠しくて眠れそうにない。そんな気持ちが伝わったのだろう。
「ゆったりとくつろげるお飲み物をお持ちしましょう」
レイディアは微かに口唇を丸く歪ませた。
「何なんだよ! あのクソ王子!」
クレアは就業時刻を遠に過ぎた夜中、城を抜けだしてソネットの根城である『ミレイユ』のお菓子屋に来ていた。
「何って何がよ?」
ソネットは帳簿付けから目を離さずなおざりに聞いた。
「あのメネステの王子だよっ」
「あんたに言いたい放題っていう?」
「そうっ。茶が不味いだの服に糸屑が付いてるだの。着替えを手伝おうにも来るな寄るな触んじゃねぇって顔される。俺にどうしろってんだ」
「ふぅん。それより、今日のお菓子に文句言ってた?」
ソネットの関心はそこの一点に尽きる。
「…菓子には何も言わなかったけど、今日のお茶がぬるいって言われた」
ぶすっとした顔のクレアにソネットはさらりと言った。
「二年前のあんたも似たようなもんじゃない」
「俺はあいつよりもっとマシだった!」
「そうだったかしらね?」
と、ソネットは顔を顰めた。
「くっ…ヤバいわ。このままじゃ赤字になっちゃう」
ソネットは帳簿を睨んで、叫んだ。
「どうしてこんなに食費にお金が飛んでってんのよっ」
「どうしても何も…」
その時、エリカが暢気に部屋に入ってきた。
「ねぇみっちゃん。ジュース飲みたい」
「お黙りっ元凶」
そうだ。エリカはあの日以来ソネットの所で寝泊まりしている。エリカが王都にいるときはたいていソネットかレイディアの所にいる事が多い。
エリカが囚人達の尋問した翌日、存分にレイディアに甘えさせた後、ソネットはレイディアから引き離して我が家に置いたのだ。それは、約束であるお菓子十日分の為の他にもう一つ。
「ねぇみっちゃん、どうしてディーアちゃんのトコ行っちゃダメなの?」
「いつまでもあんたにかかずらっていられる程ディーアちゃんは暇じゃないのよ」
暇じゃ無いのはソネットも同じだが、レイディアに面倒を押しつけるのは何やら罪悪感を覚えるので、ソネットが引き受ける事にした。
放っとけばいつまでもレイディアの膝でごろごろしているエリカ。あれだけ甘えたくせにまだ足りないらしい。その不満は全て食事と睡眠にまわっているようで、エリカの食費は半端なくなっていた。
「エリ姉、いいじゃねぇか。たっぷりレイディア様に構ってもらったんだろ?」
「クーちゃん、いたんだ?」
「…いたよ」
ずっとな。
「クレアの面倒もディーアちゃんが見てんのよ。年長者のあんたが譲ったげなさい」
「俺はレイディア様に迷惑かけた覚えはねぇ!」
「そう? 昔ディーアちゃんに怪我させたくせに?」
クレアはぐっと詰まった。
「…昔の話だ」
「ガキが何言ってんのよ。まあ二年なんてあんたの歳からしてみたら、この大陸創世記くらいに古い昔かもしれないわね」
「ガキ扱いすんなっ」
「充分ガキでしょ。ま、昔の殺戮人形みたいな時よりかは大分マシになったけどね」
クレアは黙った。クレアの目が暗く淀んだ事に気付いたソネットが言い足した。
「…まだ、過去に出来てないのね。――そうね、たった二年だものね」
ソネットはひらひらと手を振った。
「もうお帰りなさい、クレア」
クレアを修羅という名の沼に沈むのを引き留めた、彼の聖女の下に。
シェリファンを寝かしつけたレイディアは、そっと寝室を出た。
同時にレイディアはお盆を縦に持ち上げた。同時にタスッという音がして、レイディアは音の方へ顔を向けた。
「ゼギオスさん」
「王子様が命を狙われてるのは間違いないようですね」
盆を裏返えして微かに眉を寄せた。一本の矢。
「毒塗りとは…気が利いてますね」
窓辺に寄り掛かっていた彼は軽い足取りで近づいてきた。レイディアは彼から目を離し、距離を取る。
「…彼らを追い払って下さってありがとうございます。後は私が…」
ゼギオスが背後に立つ気配を感じ、レイディアは言葉を止めた。
「…何でしょう?」
「俺は必要ないと? そうですね。貴女はその気になれば、出来ない事なんて無いんでしょうね」
レイディアの耳元に息を吹きかけるように囁き、彼の指が手の甲から二の腕までを順になぞり上げる。
「…離れて下さい」
「どうして? 貴女はどんな悪人にも手を差し伸べる巫女様でしょう」
「……貴方は私に救いを求めている訳ではないでしょうから」
レイディアは彼の指を掴み身体から引き離した。
「それに、買い被りです。私は万能とは程遠い」
どころか、自分の無力さに歯噛みするばかりだ。まず、レイディアは武芸はからっきし。触らせてももらえない。レイディアには、問答無用で突き付けられる凶刃に抵抗する術は無い。守られているだけの身は、時にもどかしくて苦しい。
「そうでしょうか? 血に狂うクレアを正気に引き戻したり、猪みたいなエリカをただの仔猫にしてしまえる貴女が?」
背中で結ばれている紐がシュルリと解けた。
「なのに、貴女は王に大人しく愛でられて…心地よさげに啼くだけ」
「…放して下さい」
前掛けが外され、パサリと床に落ちる。
「…っ」
掴んでいた手を逆に掴まれて身体をゼギオスの方に向けられた。
「俺も寝かしつけて下さい。どうにも身体が熱くて眠れないんです」
レイディアの両腕を背中で束ねて、身体を壁に押さえつけた。
空いた手で服の表面をなぞる。レイディアの頬、胸元、腹部へと下り、太ももを円を描くようにして撫でた。
まるで蛇に纏わり付かれている様な感覚だ。レイディアは顔を顰めた。
「殿下が隣で眠っていらっしゃるんです。お戯れはそこまでにして下さい」
「どうして?」
「殿下が起きてしまったらどう弁明なさるおつもりですか? そして何より私自身不愉快です」
「王に身体中舐められるのはいいのに、俺とは出来ないんですか」
嘲笑うゼギオス。レイディアの首筋に顔を埋めて囁く声の振動と熱が同時に、直に肌へ伝わる。
痛いくらいに首筋を吸われ、レイディアは必死で声を抑える。
「…っ痛」
「ねぇ、女性って皆そうなんですか? 男に、そうとは知らずに尽くさせる…」
レイディアの肩に顎の乗せ、耳を甘噛みする。
彼の唾液ですうすうする肩。ギルベルトの時には感じない不快感。
レイディアは心持ち首を傾けて、彼に頭突きを食らわせようとした。
「はい、そこまで」
声と共に差し出された白刃。ゼギオスは首筋の冷たい感触に不快そうな顔をして後ろをみやる。
「いたのか、ホイップ」
「いたよっ」
今までずっと。さっきも一緒に刺客を退治してたのに。
「…とりあえずレイディア嬢を離しなって」
「嫌だと言ったら?」
挑発する様な言い方に、ネイリアスは困ったように返す。
「ううん、そうだなぁ…ここは聞きわけよく引いてくれると嬉しいんだけど」
「相変わらず甘いな、ホイップ。頭までクリームにやられたかい?」
「クリームは嫌いじゃないけどね。何度も言うけどおれの名前はネイリアスだよ」
クリームと一緒。どこでも一緒は御免である。
「はっ…『ミレイユ』副店主殿に睨まれちゃ後々怖いしな」
ゼギオスの熱い手が解かれる。そしてそのままレイディアを一瞥もせずに窓から出て行った。
「…助かりました」
乱れた襟を正しながらネイリアスに礼を言った。
「うん、おれもごめんね? いつの間にかゼオがいなくなっててさ」
とっくに刃を仕舞ったネイリアスは気楽な態度だ。ゼギオスに刃を向けていた時に微かに感じた牽制するような冷えた気配は感じない。
「あいつはなぁ…しょうもなく捻くれてるからなぁ…」
「別に、気にしてませんので」
「うん、気にしないでいてほしいな。なるべく見張っとくし」
「はい。…そういえば、ネリーさん」
「うん?」
「ネリーさんは副店主だったんですよね」
すっかり忘れてました、というレイディアの言葉にネイリアスは少々凹んだ。
「威厳…ないのかなあ、おれ」
「………」
…彼の気を逸らしながら、レイディアの意識は別の所へ飛んでいた。
レイディアをバルデロに連れてきた張本人、王ギルベルト。
シアを始めとして有能な蔭を従えて、影で暗躍させる彼の本心は未だ分からない。
四年前、美しい花畑に踏み込んできた彼は、世界を統べるべく戦に明け暮れている。人は皆、ギルベルトをして野心家という。
それが真っ赤な嘘だということはレイディアが誰よりも知ってる。
ねぇ、ギルベルト。私を得て、得をすることなんか何もないのに。どうして、あの時、国と一緒に私を殺しはしなかったの?
そろそろ就寝しようかと思った矢先に突然訪ねてきたギルベルトを、ムーランは何も言わず部屋に招き入れた。
侍女達は心得たように静かに退室し、今部屋には二人きり。
ムーランは酒瓶とグラスを用意する為に一旦彼から離れる。
「随分御機嫌がよろしいようで」
「嫌みか」
ムーランは息だけで笑った。
「光栄に思われませ。女に恨まれるのは良い男の特権ですのよ」
「戯言を」
鼻であしらわれるも、ムーランは笑みを絶やさずグラスを二つ、テーブルに置いた。
「そういえば、貴方様の白百合が何か面白そうな事を考えているそうですわ」
「演奏会とやらか」
「あら、お耳の早い」
「…ここに来る前にあいつの宮に寄ってきた」
シルビアの部屋で二人きりになるなり彼女はいきなり切り出した。
「ダイダス様を護衛に回して下さい」
何の話だと聞くと、今度演奏会を開くという。そこにメネステの王太子も招くらしい。
「そんな要人をそんじょそこらの将軍なんぞに任せておけませんでしょう?」
エーデル公の件が片付き、シルビアとの仲を喧伝する必要が無くなった今、ギルベルトにシルビアを外に連れ出す意味は無くなり、シルビアにダイダスと会う機会がめっきり減ってしまった。だから、それを口実としてダイダスに会う機会が欲しいという。
「奴はあれでも第一軍の総大将だ。いくらメネステの王太子の警備とはいえ、ただの警備に大将軍を引っ張り出す事は普通はない」
第一軍は王の私兵という意味合いが他軍に比べてより近い。その中から精鋭は近衛として選ばれることもある、いわばエリート部署だからだ。
ほぼ平民出の集まりである第三軍。貴族の子弟で成り立つ第二軍。そして身分に関係なく完全実力主義を貫く第一軍。バルデロ国の軍の基本はこの三軍で構成される。その第一軍の頂点に立つダイダスを、たかが後宮で催される演奏会の警護につかせるなどまずあり得ない。
「そこらを見回る警備ではなく、国交のある国の大事な世継ぎの王子に直接付けるのです。国で最も強くて逞しくて優しくて素敵に無敵なダイダス様以上に護衛に最適な方はおりません」
「…お前の色眼鏡で見たダイダスはまるで御伽話の英雄だな」
「違います。英雄そのものです」
きっぱりと言い切る。ギルベルトを見る目は彼の口から了承の旨を聞くまでは梃子でも動かんと言わんばかりの目力である。
伝えなければいけない大事な用件があると言われて来て見れば…
「ダイダスを直接付けるわけにはいかない」
なんと言っても軍部の長の一人だ。護衛に付くとしたら王か、それに次ぐ位である春妃、あるいは祭事を司る祭司長くらいだ。
格下、とはいかないまでも、メネステの国力はバルデロのそれよりも劣る為、国としてはメネステを何処か軽んじている節がある。ダイダスを付けたりしたら、国にとって最重要人物とギルベルトが目していると周囲に知らしめるも同然。そのつもりも無いのに、いらぬ邪推を呼ぶ。
ただでさえ、水面下で囁かれる噂が広がっているというのに。
しかし、そんなこと知る由も無い後宮の白百合は不満そうに口を曲げた。
「護衛としてではなく客として呼べば良いではないか」
「ダイダス様は楽にあまり興味のないお方です。秋妃である私のお誘いは無碍に断れない。大人しくお席に座っているのは苦痛だというあの方には有難迷惑というものです」
その通りだ。流石ダイダス至上主義だ。正確にダイダスを理解している。
「尤もだな。だが、どういわれようとダイダスを護衛に付かせる事は出来ない」
シルビアが口を開こうとしたのをギルベルトは遮って続けた。
「だが、要はダイダスを演奏会の場に引っ張り出せばいいのだろう?」
ギルベルトはシルビアにそう約束をした。
「冷徹な王と恐れられる貴方様も、恋する乙女には型無しですのね」
一連の会話を聞いたムーランは肩で笑い続けた。
「本当に可愛いお嬢さん」
ムーランはギルベルトよりも歳が上。シルビアなど小娘同然。一途で一生懸命な彼女を心底可愛いと思う。
「よろしいんじゃありません? 大将軍様の奥方はもうずっと昔にお亡くなりになられているはず。後妻として迎え入れても何も問題はありませんわ」
ダイダスは若かりし頃から無骨な武人だったと聞く。なるほど、亡くなった奥方以外との浮名などついぞ聞かない。
「ああ、でもだからこそダイダス様を振り向かせるのは至難でしょうね」
ダイダスがシルビアの想いを受け入れたら下賜するつもりの王だが、色恋沙汰に興味の薄い彼が、孫ほどにも歳が違うシルビアを女として見る可能性は今のところ限りなく、低い。
恋より剣。逢瀬より戦の男。ギルベルトが少し血を抜けと思う程に彼は年老いた今でも戦に生きるまさに生粋の戦士。
その容姿でいくらでも良い縁談を結べるというのに、よりにも寄って枯れかけた歳の男を見初めたシルビア。
人の心とは理屈ではないのだと、改めて思い知らされる。
ムーランは、己がシルビアくらいの歳の時代を思い出した。彼女もその頃に後宮入りを果たした身だった。違うのは、希望一杯にやってきたシルビアとは対照的に、ムーランは彼女を恐れた父に後宮に押し込まれ、無為の人生を送らねばならない絶望と共にやってきたことか。
「ムーラン」
ふいに名を呼ばれムーランはゆっくりと顔を上げた。正直驚いている。彼に名を呼ばれる事は稀だ。
「お前は今、楽しいか?」
その意味を、ムーランは正確に読み取った。そして微笑む。
「ええ、とても」
ムーランはメリネスとほぼ同時に後宮入りをした。メリネスの家柄はムーランのそれとは比べ物にならぬほどに格式が高く、祝いの席でもメリネスが殆ど脚光を浴びていた。
父が狙ったのかどうかは知らないが、結果的にはムーランは最も目立たない存在となった。
それはいい。別に顕示欲など持っていない彼女にとって、上から降り注ぐ照明を浴びたがる女優の様に注目を集めたがる女達の欲求は理解しがたい。
ただ、そんな女しかいない後宮に来たムーランは、それでもその争いに加わらなければならない未来に、げんなりしただけだ。
「とても楽しいですわ。陛下」
〈お前の様な毒婦とは寝る気になれん〉
今でも昨日の様に覚えている。彼と初めて同衾した夜を。
「殿下。わたくしは暇なんです」
何しにここへ来た。
“五参式”が明け、ムーランの部屋に渡ってきたギルベルトの問いにそう答えた。
「ですから、退屈凌ぎの為に」
彼女の答えにギルベルトは大して興味無さそうに鼻を鳴らし、そのままムーランを抱いた。そして情事の熱が冷めやらぬ彼女から離れて彼はそう言い放ったのだ。
彼女は怒りの感情よりも、嬉しさがこみ上げた。己が本質を見抜かれた事が、何故か嬉しかった。
あれからもう十年近く経つ。あの初夜以降、二人は床を共にした事は無い。ムーランの許に王が渡って来ては酒を飲み交わし、月が頂上に差し掛かる頃に去っていくだけの日々が過ぎた。
ムーランはこの逢瀬が好きだった。ギルベルトは初めから、彼女を恐れはしなかったから。
「陛下、覚えていらっしゃいます? 五年前の事」
五年前、アルフェッラの祭典に出席して帰ってきたギルベルトとの酒の席での会話。
行ってくる前の彼とは何処か違うように見えて、ずっと心に仕舞っておいた気持ちを、つい口を滑らせてしまった。
「人は儚いものです。たった一匙の白い粉末で、四肢の自由を奪われ、苦しみ悶えて呆気なく人生の幕は閉じる」
ムーランはぽつりと漏らした。
「道理だな。毒は植物から作られるもの。そして植物は自然の嬰児。自然に抱かれてようやく生きていける人間が敵う訳が無い」
「そして、貴方様も」
「俺はお前如きの毒では死なん」
「…思い上がったこと。王族だとて人の子。過去に毒殺されてきた王族や貴族は山といます」
「そいつらは唯の人間だからだ」
「ご自分は人間ではないと?」
「人である王と母から生まれた俺も人だろうな」
「それならば、貴方様も毒で死ねますね」
「いや、死にはしない」
「ただの人の身でありながら、自然に勝るとお思いで?」
「自然の脅威に敵うなどと、そこまで自惚れてはおらん」
「では、何故死なぬと断言できるのですか」
言うだけならば、何とでも言える。
「凄まじい洪水にのみ込まれれば人はひとたまりも無い。地が鳴れば、大地が割れ足場を失う。俺とて例外ではない。それが、己の身に降りかかれば、な」
ムーランの眉が微かに寄った。
「つまり…天災は貴方の身には降りかからぬと」
「そうだ」
「それこそ思い上がりも甚だしいではありませんか。天災は遍く人に降りかかるもの。それを己だけが免れ得るなど、貴方は自然を従えている大神のおつもりですか」
「いや、俺は何者にも従わないし、従えもしない」
ギルベルトは造作なく言い放った。
「俺はいづれ世界を統べる。定めと称して武勇を誇る英雄とは違って、俺は俺の意志で、だ。見ているがいい。俺を罰することの出来る神などいない」
そして彼は父王から王位を譲り受けてすぐに、アルフェッラに発った。
それから程無く入るアルフェッラ陥落の報せ。バルデロの内外が揺れたあの日。
ギルベルトを称讃したり非難したりと誰もが騒がしく混乱する中で、ムーランだけが彼との会話を思い出していた。
そして、その混乱に紛れるようにして後宮に入ってきた静かな佇まいの少女。女奴隷という割には楚々としていた。そんな彼女が初めて勤めた宮はムーランの宮だった。
彼女も一目で私の背後にある血の川を感じ取った一人。
彼女が何者なのか。興味が無いわけではないが、知らないままでいる方が楽しそうだから、暴こうとは思わない。
ムーランは毎日が楽しい。
「陛下」
酒を呑む。ムーランにしてみたら彼に毒を盛って殺す事などさして難しくないだろう。そうすれば、昔の彼の言葉が間違いだったと証明され、ムーランはやっぱり人はつまらなくて儚いものだという持論を立証できる。
でも、ムーランはそうしない。出来ないのではなく、する気が全く起こらないからだ。
天災が彼を避けて通る。そんな大言壮語を信じているわけではないが、それでも何故か彼を手にかける気が起こらない。それが彼の言う天災が避けて通る事だというのなら、あるいは彼の言い分は正しいのかもしれない。
実際、攻めれば衰亡を憂き目に遭うと言われていたアルフェッラを落とした。
未だバルデロに滅亡の兆しは表れない。
アルフェッラの伝説が間違いだったのか、彼には通用しなかったのかはムーランには知りようがないが、彼の不思議な力を、ほんの少しなら信じてもいいかもしれないと思っている。
「そのグラスに、毒が入っていますわよ」
ギルベルトはちらりとムーランを一瞥した後、躊躇いも無くグラスを呑み干した。
「お前の毒では死なぬと何度言えば分かる」
ムーランはあどけない小娘のように笑った。
その笑みを視界の端に収めながらギルベルトはグラスを弄ぶ。
彼は死なない。死ぬわけにはいかない。
レイディアを本当の意味で、彼の前に跪かせるまで。
蒼天の下、美しく咲き誇る神殿奥の花畑。そこに忍び込んできたギルベルトに小さな少女は言った。
〈…私を妻に? お止めなさい。私のような女の為に人生をふいにするよりも、良き統治者として民を満ちたらしめる方がずっと有意義。もし、私を以って他の国々をも支配したいとお思いなら、悪い事は言いません。お帰りなさいな。それが、貴方の為です〉
たった一人でアルフェッラを守っていた希代の巫女は、未だ遠い。