第二十五話
寝台に腰かけ、窓を見上げる。
夜明けの瞬間。薄い麻のカーテンでは防ぎきれない明るい光。
その光から視線を逸らし、レイディアはすっと立ち上がった。
そして形ばかりに羽織っていた夜着を取り去り、仕事に部屋を出て行った。
「熱い」
声変わりする前の高く幼い少年の声。
その少年より幾らか歳が上と思しきお仕着せを着た少女の、ティーポットを持つ手がピクリと揺れた。
「……お茶が熱いのは当たり前です。淹れたてなんですから」
「わたしに口答えするのか?」
「………申し訳ありません」
「もう殿下ったら…今までお茶に拘ったりなんてしてなかったじゃないですか」
小さい子 (クレア)に肩入れする従者を一睨みしてシェリファンはカップに口をつけた。
「拘っているのではない。熱すぎて飲めぬと言っただけだ。それに茶の渋みが出過ぎて、喉越しもざらついてる」
午前も早いメネステ王太子の滞在室。今は給仕役のクレアと従者のリクウェル、部屋の主である王太子シェリファンの三名だけがいた。
クレア達が新しく王太子付きになってから早三日。王太子のあてこすりにクレアが反発する光景は既に見慣れたものとなりつつあった。始めこそクレアの不敬ともとれる反応に、女官らは肝を冷やしたが、意外な事に王太子はクレアを突きはしても、前任者達に施していた罰や癇癪を彼女に向けはしなかった。確かに少々気難しいところはあるものの、子供らしい気まぐれの域を出ない。女官達は拍子抜けの思いで王子を認識を改めた。
王子の噂はやはり大げさなものだったのだろう。それとも彼の怒りは前任の子達の手落ちが原因だったのか。
ともかく、殿下の癇癪の対象になる事は無いと分かり、密かに安堵した女官達は、早々に彼らのやり取りを受け入れ、遠巻きに微笑ましい彼らを見守っている。
「殿下、そろそろ教師が参る時間にございます」
「ん、分かった」
これから王子は勉強の為に部屋を開ける。クレアはほっとして、彼らに気付かれない様に肩を落とした。が、シェリファンはそんなクレアを見抜いたかのように釘を刺した。
「帰って来た時にはもう少し美味い茶を出すように」
「…畏まりました」
王子達がいなくなった部屋で一人クレアは盛大に舌打ちした。
「ああっ…くそっ」
悔しくて地団太を踏む。今まで仕えてきた貴人達にこんなネチネチ苛められた事のないクレアはどうしても納得がいかない。
「お茶がなんだってんだっ。腹に入れば皆同じだ!」
それでも命令は命令である。主人の希望に応えなければならない。今日の王子は何処ぞの貴族から昼餐に招かれているから次に王子が帰ってくるのは午後のお茶の時間。
見てろ、王子がぐうの音も出ないくらい美味い茶を出してやるからなっ!
拳を握りしめ、決意を新たに意気込む。と、そこでふと思い至った。
「そういや今日のおやつ、『ミレイユ』んとこに注文してたっけな」
持ってくるヤツ誰だっけ?
その日、彼は可愛らしく装飾された箱を手に王城に赴いていた。
彼の勤める『ミレイユのお菓子工房』というお菓子屋は、王城に住まう高貴な姫から城に勤める女官まで様々な女性陣から菓子を所望されてはお届けに伺う王室御用達の老舗だ。
この日もその為に城に来たわけだが、店を出て大分経つというのに彼は配達の仕事を完遂出来ないでいた。彼はまだ門の前で立ち往生している最中だった。
何故なら…
「怪しい奴! 城に何の用だ!」
「…いえね、だから何度も言ってるじゃないですか。おれは頼まれたお菓子を届けに来ただけですって…」
なんとも不名誉な事に不審人物と疑われて職務質問を受ける羽目になってしまったのだ。
「『ミレイユ』の店はわたしでも知っている。しかしお前の様な男があそこで働いているなど聞いたこともないぞ」
「…表には出ませんもので」
彼の容貌はさっぱりとした面持ちである。丸っこい輪郭に、少し乱れた薄茶の髪。閉じているのかいないのか分からない細い目に、垂れた眉。一日の大半を厨房で過ごすため、日に焼けておらず、一目で肉体労働者でないことが分かる。良く言えば優しげ、悪く言えば覇気が無い。
「彼女さんと『ミレイユ』に来た事ありません? あそこのクリームを仕立ててるの、おれなんですよ」
どちらかというと痩せ型。背もそこまで高くは無い。大衆に紛れたらまず見つからない、人の記憶に残らない典型的な『普通の人』な彼。三度会っても「初めまして」と言われた事は一度や二度じゃない。
要は影が薄い。
ちゃんと分かる様に店の制服を着込んで来たのに。それ以前に注文の品を目の前に提示してるのに、それでも何故か不審がられて中に通してもらえない。
…ああ、おれってついてない。
いつもそうだ。おれはいつも貧乏くじを引いてばっかりだ。店の娘が買ってきた土産を皆に配る時、だいたいおれだけ忘れられる。店仕舞いの時、まだ中にいるおれに気付かず倉庫の鍵を閉められる。…なんか思い出してて悲しくなった。
だいたい、いつもの門番はどうしたんだよ。新人だろお前? やる気に満ちた目は使命感に燃えていて、不審人物の素性を暴こうと無駄な努力をしている。ああ、ついてない。
「…ちゃんと証明証あるじゃないですか」
「では、本物から奪って装っていないという証拠は?」
埒があかない。おれにどうしろというんだ。
はぁ、とこの僅かな間で何十回吐いたか分からない溜息をもう一度吐き、しょうがないから出直そうかと思ったその時。
「もぉっ全然来ないと思ったら、こんな所にいたぁっ」
城の中から出てきたのはお仕着せを着た可愛らしい少女。
「こらこら近寄るんじゃない!」
衛兵は止めようとしたが、少女は気にせず彼に走り寄った。
「時間になっても来ないからどうしたのかと心配してたんだからねっ」
見れば少女の着ている服は女官見習いのそれ。将来後宮を動かす上級女官を約束された者。衛兵達の態度がやや軟化した。
「お前の知り合いか?」
門番の声に、彼に向いていた顔がそちらを向く。見習いだけあってかなりの美少女だった。衛兵の顔が条件反射で少し優しくなった。
「お勤めお疲れ様です。はい、この人は僕の知ってる人で、ちゃんと『ミレイユ』の店員さんですよ」
にっこりと笑い返して彼の服の裾を引く。
「もうっお茶の時間がきてるのに肝心のお菓子が届かなくて焦ってたんだよ。まさかと思って来てみれば…」
ちらりと恨めしげな顔を向けられ、ようやく衛兵は渋々矛を降ろした。
「…よかろう。通れ」
彼はあっさり解決したことに、安堵よりもやるせなさを感じた。
「ヤな予感がして来てみれば…。何であんたが来るんだ、ホイップ」
衛兵に聞こえないところまで離れた途端にクレアは面倒くさげに口を開いた。
「何でって……」
ひどい言い草だ。
「如何にも弱そうな外見してんのに不審人物と間違えられるってどんな不幸体質だよ。迎えに行くこっちの身にもなれってんだ」
クレアが不遜に鼻を鳴らす。
「…たまたまだよ、たまたま。いつもいる顔見知りの門番なら一発だったんだけど…今日はたまたまその人は非番だっただけで…」
「ついてないな。伊達に幸薄そうな顔をしていない」
…おれ、こいつよりずっと年上の筈なんだけど。…はぁ。
落ち込む彼に気にした風も無くクレアは腕を組んで時間を目測した。
「まぁなんとか間に合いそうだな。助かった。時間に遅れたらどんな嫌みが降ってくるか考えたくも無い」
「そんなに今の主人は気難しいのかい?」
クレアみたいに外面がいい奴はたいていの貴人に気に入られる。まだ幼いという事もあって可愛がりがいがあるのだろう。ところが、此度主人となった貴人は聞けばクレアと歳が近い。それならクレアの容姿は通用しないのかもしれない。
クレアは面白そうな顔をした彼を睨みつけながら今朝方のやり取りを思い出した。
ああ、ムカつく。
今朝のやり取りはまだマシな方だったとはいえ、元々忍耐力に欠けるクレアには王子の毎日の嫌がらせには辟易していた。
「…うるせぇ、ホイップ。こっちに口出しすんじゃねぇ。あんたは店でクリームを泡立ててりゃいいんだ」
不機嫌そうに噛みつくクレアに溜息を吐く。反抗期なのかな…。
「そんな言葉遣いだとレイディア嬢に怒られるよ?」
「黙れホイップ。レイディア様にこんな事言う訳ないだろ」
だろうね。拾ってくれたレイディアにクレアが慕うのは当然ではあるが、こうもつんけんされるとちょっと切ない。彼は基本的に子供が好きなのだ。
「さっきからホイップホイップって…。おれの名前は…」
言いかけた彼の口が止まった。それにつられて前を見たクレアも固まった。
彼らの進行方向の先に一人の使用人が立っていた。
「クレア、ネリーさんを困らせるんじゃありませんよ」
「あ…えと…その」
悪い言葉遣いを咎められて、クレアらしくなくうろたえる様を見て、王の秘鳥たる女性に帽子を取って挨拶した。
「どうも、レイディア嬢」
「お仕事お疲れ様、ネイリアスさん」
レイディアは僅かに腰を落とした。
「今日は苦労したみたいですね。いつもの門番の方はたまたま非番だったとか…」
「そうなんだ…にしても証明証見せても通してくれないのには困ったよ」
「その顔でお菓子屋なんて信じる方が難しいんだよ」
レイディアに窘められて不貞腐れるクレアの頭の上をレイディアの手が二回上下した。
「人の容姿をとやかく言うものじゃないのよ、クレア」
「…はいレイディア様」
素直な返事とは裏腹に、こちらに向ける視線が痛い。
お前の所為で怒られたじゃねぇかよ、みたいな顔で睨まれても困る。逆恨みもいいところだ。
「ついこの間秋妃様が攫われたばかりで皆過敏になっているんです。事を起こしたのは城と深くかかわるエーデル公でしたが、やはり後宮奥まで侵入を許してしまったので何人か責任とって降格処分や解雇処分を受けたみたいですから」
「まぁ男は特に警戒されるのは分かるけどね」
やれやれと首を回す。ただのお遣いに無駄な労力を使ってしまった。
「ま、いいや。はいこれ」
持っていた箱をクレアに渡す。今日のお菓子はメネステの王太子の為の物だ。
「このお菓子のクリームはネリーさんが?」
「そうだよ」
なら今日のお菓子も最高だ。ネイリアスの作るクリームは城中の女性を虜にしている。滑らかできめ細かく、しっとりと甘い最高のクリームだと。周りから“ホイップさん”と親しまれるほど、クリームを仕立てる事に関しては群を抜いて素晴らしい腕前である。そんな彼にはよく店の試作品のブレンド茶葉を貰ったりしている。
そうだ、茶葉と言えば…
「こないだ頂いた茶葉も、友人と美味しく頂かせてもらいました。いつもありがとうございます」
「あんな安物で良ければいつでも」
と、ここでネイリアスは少し口端を持ち上げた。
「はは、美味しく、か。あれから随分上達したようだね」
「…あの頃は、本当に何も出来なくて…」
レイディアは少々気恥ずかしげに俯いた。
そもそもネイリアスが茶葉のお裾分けをくれるようになった切っ掛けは宮仕えに必須のお茶淹れの練習の為だった。
バルデロに来たばかりの頃、これまでお茶を淹れた事が無かったレイディアは、最初の出来は酷いもので随分落ち込んだ時があった。その頃に知り合ったベルが練習に付き合ってくれて、以来ベルとの一服が日常となったのだ。
あの強面で苦いお茶を黙って飲む姿に、早く上達しようと努力したのはいい思い出だ。
「…レイディア様にもそんな頃があったんですね」
「そうね。…あの頃は本当に何も出来なかったわ」
無知で世間知らずで無力な自分。それは今もあまり変わっていないと思う。敢えて言えば使用人としての振る舞いが板に付いてきた事くらいか。
そう、こんなふうに次の仕事の段取りを無意識に考える癖がついてしまった。
「クレア、あと少ししたら殿下が帰ってらっしゃるから、そろそろお茶の準備をしなければね」
「それはそうなんですが……ねぇ、レイディア様」
見上げてくるクレアにレイディアは軽く首を傾けて続きを促す。
「……レイディア様はどうして王子の前に出られないんですか?」
クレアの顔は不満を全面に押し出している。レイディアに対しては珍しい。しかしクレアの不満も尤もだ。何せ王子の相手をクレア一人で引き受けているのだから。
レイディアはあの日以降シェリファンの前に現れていない。シェリファンの目に映らないところで下仕事に勤しんでいる。
「殿下とは…ちょっとかくれんぼをしているようなものなのよ」
「かくれんぼ?」
「ええ。この間殿下と内緒でお茶をして…」
三日前、挨拶に向かった時に殿下が部屋にいたのなら、レイディアは名前はおろか、存在さえ朧けな使用人としてひっそりと殿下の傍にいただろう。ところが、殿下が脱走という名の散歩に出掛け、それをレイディアが見つけた。
レイディアが他人の記憶に残らないくらい希薄な存在として在れるのは、相手が彼女を知らないことで成立する。一言二言交わしただけならばともかく、お茶を一緒に飲んだシェリファンはレイディアを知った。
「…見守るなら、あまり近すぎてもいけないから」
あの時、あの場に二人きりで出会ったレイディアは、彼にとって何処にいるのか分からない不思議な女として認識されているだろう。身分に囚われない一個の人間として。
だからレイディアは影に潜む事にした。彼の夢が覚めない様に。
しかし、クレアが反応したのは別の箇所だったようだ。
「王子はレイディア様のお茶を召しあがったんですか?」
「そうよ。それがどうかしたの?」
「……お茶に文句を言われる原因が分かった」
クレアは口の中で呟いた。
昔はともあれ、今のレイディアのお茶はとても美味しい。なんと言ってもギルベルトを育てた教養深いフォーリーと、お菓子と共に沢山の茶の種類を取り揃えている店の店主のソネット直伝だ。その点、細々したことが苦手なクレアは茶によって蒸す時間や最適温度を変えるなんて七面倒くさいことはしてられない。
渋いとか薄いとか甘すぎるとか今日の気分はこれじゃないとか散々言われてきたが、レイディアが基準となるとこれらの文句も分からないでもない。
「…どうしたの?」
「いいえ、何でもありません」
クレアは吹っ切れたように笑った。
そして午後、戻ってくる王子の為にクレアは仕入れたばかりの茶器で茶を淹れる事にした。ほんの少し手に力を込めただけで壊れそうな繊細なティーカップを温める。丸いガラスのポットの中で、お湯を紅く染めながら上下に揺れる茶葉を眺めるのはクレアは嫌いじゃない。
初っ端から手を煩わせてくれた王子だが、まぁ許してやらない事も無い。レイディアのお茶には敵わないから、多少の文句も許してやろう。寛大な心で水に流してやろうではないか。俺は年上だしな。うん。
そしてクレアが自信満々に淹れたお茶を王子は一口含んで、一言。
「ぬるすぎる」
「……」
このクソガキ。
クレアは危うくポットの取っ手を壊すところだった。
同時刻、昼食をとり気だるい温かさの中ソファで寛いでいる貴婦人が一人。
「……暇だわ」
シルビアである。
彼女を取り巻いていた煩わしくて下世話なエーデル公絡みの噂もようやく下火になり、代わりにとある近衛と侍官と女官の三角関係のもつれ話が持ち上がってシルビアの周囲は静けさを取り戻していた。いらぬ詮索をしてくる城の者達にはうんざりしたものだが、こうも静かすぎるのもだらけてしまっていけない。
ダイダス様に会いたい。レイディアとお茶したい。オーロラと買い物に行きたい。
周囲の侍女達には言えぬ欲求を心中で愚痴っても、思いは全て己の心に返ってきて消化不良を起こすだけ。午後のだるさと晴れぬ心と相まってシルビアの気分は地を這っている。
それもこれも、全部レイディアが隣国の王子の所に行ってしまったからだ。
一時とはいえ、シルビアは大いに不満だった。
レイディアからその旨を告げられた時、シルビアはゴネた。それはもう全力で。
彼女は後宮の下働きの身。女官と違って表へは出ず、後宮の宮に勤めるものだ。いくら我儘し放題と噂の王子の御世話役に適任の女官が見当たらないからといって、何故レイディアに皺寄せがくるのか。
シルビアは既にレイディアに仕事を押しつける、彼女が気に入らない女官達の存在を知っている。レイディアが大して気にしていないようだから渋々引いているが、シルビアにも累が及ぶとなると黙っていられない。
後宮を束ねるフォーリーの下、後宮で働く者達は皆使用人としての振る舞いを厳しく躾けられているが、やはり目上に対して遜るしか能の無い者もいるのだ。
筆頭側妃であるローゼは自分の庭が乱れるのは許せないのか、役立たずと断じた者は容赦なく解雇する。その姿勢には感心するものがあるが、それでもどうしたって要領よく手を抜いて失態を他に擦り付ける事が殊の他上手い狡猾な奴がいなくなるわけじゃない。
性悪女を王子に近づかせるわけにもいかないが、城の女は沢山いる。その中でも特に有能な者を付かせればいいのだ。子供をあしらうのに長けた者とか。
しかし結局はシルビアはレイディアを送りだした。そうせざるを得なかった。
だって…レイディアに迷惑かけたいわけじゃないし…。
シルビアの不満を聞いた後、レイディアは小さく呟いた。
「そうですか…」 と。少し顔を俯けて。
それ以上何も言わなくなった彼女に大いに慌てた。
その声音はいつも通り淡々としていて、少しも困った風には聞こえなかったが、自身こそがレイディアの手を煩わせている事実に気付かされた。
レイディアに俯かれると、自分がどうしようもない我儘娘みたいに思えてくるから不思議だ。困らせてるって思うだけで居た堪れなくなる。
普段、何を言っても簡単に叶えてくれる彼女だけに、彼女の逡巡は想像以上に衝撃を与えた。無意識の内に甘えていたのかもしれない。レイディアには何を言っても許されると思いあがっていた事を知る。
少々反省しつつも、咎められない程度にソファでごろごろしていると、主人の退屈を紛らわせようと侍女が話しかけてきた。
「秋妃様、詩集などお持ちいたしましょうか。それとも恋物語の方がよろしいでしょうか」
そんな気分ではない。そもそもシルビアは恋愛小説はあまり好きではない。向こうから来てくれるのを待ってるだけの受け身なヒロイン達が気にくわないから。
「いえ、それよりも後宮のお庭へお散歩に出かけませんか?お部屋の中ばかりでは気も詰まりましょう。そこでお茶でも――」
散歩? このだるい空気の中、腰を上げるのさえ億劫だというのに?
「それとも、音合わせは如何でしょう? シルビア様のハープはそれはそれは天にも届かんばかり音色という評判を伺っております」
究極に面倒くさい。
ところが、それに別の女官が食いついた。
「それはいい考えだわ。他の妃の皆様をお誘いして、ささやかな演奏会を開きましょうよ」
他の者達も口々に賛同を示す。
全く気乗りしないシルビアは、侍女のやる気を削ぐようで悪いと思いつつ、やんわりと否と告げようとしたが、ここでシルビアは思い留まった。
「…そうね。折角だから王城の皆様も御招待して聴いて頂きましょう」
皆の顔が一斉にシルビアに向いた。シルビアの同意にどの顔も嬉しそうな顔だった。ついでにさっきまでのシルビアと同様、気だるげな様子だった女官達の瞳も輝きだした。
「王城にいらっしゃるメネステの王太子殿下にも、わたくし達と打ち解けて頂く良い機会じゃない?」
シルビア笑顔に侍女達の気分は否応なく盛り上がる。
「素敵ですわ」
「きっと殿下も御喜びになります」
「わたくし、フォーリー様にお許し下さるか聞いてまいりますね」
こうして俄かに活気づいたシルビア達は団結して動き出した。
「レイディア殿」
日の落ちきる前の夕刻、庭に面した回廊で佇んでいたレイディアは自分の名に振り向いた。
「これはテオール様。お散歩ですか?」
夕刻なのにきっちりと服を着こんでいるテオールが近づいてくる。
「ああ、仕事の目処が立ったからちょっと息抜きに。レイディア殿もかい?」
「ええ。今日の仕事は終わりましたので、綺麗な夕陽を眺めに」
「そう。そう言えばメネステの王子付きになったんだってね」
今のレイディアはシェリファン付きという立場なので、王城を堂々と歩ける。今までも好きに王城に行き来していたが、常に人目を避けていなければならなかった。女奴隷は許可なく王城に行く事は許されておらず、宴の準備など相応の理由がいる。レイディアは許可どころか権利として持っているが、それは内密にされているレイディアの身分故であり、レイディアを知らない者が彼女を見咎めたら面倒だ。それがシェリファンの世話役となったことで、レイディアは格段に動きやすくなった。
「王太子の御様子はどう? 殿下がお怒りになって女官達を困らせたなど色々聞いているが……」
「そんな、殿下は無闇に周りにあたる方ではありません。きっと知らない場所に来たばかりで落ちつかなかっただけですよ」
「そうか。噂はいつも大げさだから信じたのではなかったんだが、君が付くと聞いて気になってね。慣れぬ場所で、心許せる者も少ない環境では、誰しも不快な気持ちにもなりやすいだろう」
八歳という多感な時期ならばなおさら、周りの空気の変化に敏感であったりする。アルフェッラに故郷を持つ彼はしみじみと呟いた。
「それにしても、王がメネステから留学生を受け入れると聞いた時は驚いたよ」
しかも王太子だ。大事な後継者に何かあった場合その責にバルデロが問われるのではないかと不安もあった。
「レイディア殿が傍に付く事になったと聞いて、正直安心したんだ」
「…勿体無いお言葉でございます」
テオールはふ、と眉を顰めた。
「…疲れているのかい?」
「一日働いた後なんですから、誰だって疲れますよ」
「いや、そうではなく…顔色が悪い」
テオールが少し屈んでレイディアの額に手を乗せた。
「…………」
「…熱は無いようだが、体調が良くないなら、ちゃんと休みなさい」
レイディアはさり気無く足引いてテオールの手から離れた。
「……気のせいですよ。私はこの通りぴんぴんしています」
「そうかな? 君は時々不眠不休で動き回る事があるから…」
前に歩き出そうとしたレイディアの足が止まる。
「君はたいていの事は器用にこなす割に、仕事配分の仕方が下手だ。どころかめちゃくちゃな時さえある」
「………」
「だから、君の『大丈夫』は中々信用ならない。君は休みすぎと思うくらい休んだ方が丁度いい」
「…テオール様には敵いませんね」
レイディアは振り返った。周りと同じ様に赤く染まって、表情は分からないが、苦笑しているように見えた。
「ねぇテオール様」
「ん?」
「……もし、最初から終わりがあると分かっている始まりを…それでも始めてしまうのは愚かだと思いますか?」
テオールの息が詰まった。
「それは……どういう意味だい?」
テオールがやっとの思いでそれだけ口にすると、レイディアは短く息を吐いた。
「いえ、変なことをお聞きしました。……忘れて下さい」
レイディアは踵を返して回廊の闇に紛れて消えていった。テオールの足は地に縫い付けられたかのように動けず、そのままレイディアを見送るしかなかった。
テオールは先程までレイディアのいた場所に立った。赤から藍色に染まりゆく庭を視界の端に収めながら、レイディアの立ち去り際の言葉を反芻していた。
「…終わりのある……始まり?」
その言葉はテオールの胸の中にいつまでも残っていた。