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鈴の音の子守唄  作者: トトコ
26/81

第二十四話

草を掻き分けて、がむしゃらに走った。


草の迷路の出口が見えた。安堵して一目散に明るい方へ飛び込む。薄暗かった視界が光に包まれて、一瞬だけ真っ白になった。


刹那、羽毛が彼を覆い尽くした。


何十羽もの鳥が一斉に羽ばたく羽音。パサパサと音がする度に舞う白。

彼はその光景に思わず見惚れた。


そして、その白い光の中から現れた女性を、彼は天女だと思った――――。







「お疲れ様、ベル」

「ああ、レイディアか。お疲れ」

シルビアの誘拐騒動から六日。エーデル公絡みのシルビアに対する憐みの念や、面白おかしく吹聴される根も葉もない噂も下火になって、関わりの薄いところから徐々に元の日常に戻りつつあった。

「今日は美味しいって評判のお茶をお裾分けしてもらったから、それを淹れてきたわ」

「悪いな、いつも」

「ベルとの一休みは私もいい息抜きになるから気にしないで。それに、一人で飲むのもつまらないし」

「シルビア妃がいらっしゃるだろう」

ベルが微かに眦を下げて笑った。ちょっと困った時の表情だ。

「レイディアの事をすっかり気に入っていらっしゃるじゃないか」

シルビアがエーデル公に攫われた事件からこっち、シルビアはレイディアといっそう仲良くなった。部屋で一緒にお茶をしたいとシルビアは言うが、侍女でもないレイディアが秋妃であるシルビアと席を共にするのは憚られるし、目立つのは嫌だというレイディアの願いを聞き届けて、たまに内緒で会う約束をした。

ベルはレイディアがシルビア共々攫われた事は知らない。けれどシルビアとの事を何故知っているのかというと、ベルはシルビアと会ったからだ。

「突然、シルビア妃がこんなとこにいらしたのには流石に驚いた」

約束はしたものの、シルビアは女奴隷であるレイディアと、取り巻きの侍女や女官に囲まれる彼女とでは思うように会えない現状に不満を持った。

レイディアが来れないなら、こっちから行くまで。シルビアはそう考え、それを実行したのだ。ダイダスに対しても同じ思考回路で後宮入りを果たすあたり、行動力があるのは分かっていたつもりだったが、まさか質素なお仕着せを身に纏い、後宮の末端であるこんなところにまで来るとは思わなかった。

「あんな綺麗でたおやかなお妃様があんなに元気いっぱいなのには驚いたが、俺はそっちの方が好感持てるよ。それに部屋でじっとしているのは気詰まりなんじゃないか? やっぱり後宮には日の浅いこともあって、色々気疲れもなさるのだろうし」

押し掛けている時点で猫を被る意味は無いと悟ったシルビアは早々に素の彼女をベルに晒した。ベルの実直な性格に触れて、偽りの自分で通すのは失礼と思ったのかもしれない。

「私には…ただお茶をお淹れして、お話を聞くことしかできないけど」

シルビアは後宮生活を満喫している。彼女の悩みはダイダスの件のみ。レイディアはただひたすら彼女の恋話に付き合っているだけだ。

「それで充分なんだよ、きっと。シルビア妃に限らず、お妃様方が求めているのは幾万の賛美ではなく、ありのままの心を聞いてくれる誰かなんじゃないかって思う」

俺の勝手な想像だけど、と言いベルはお茶を飲み干した。

「……」

ベルとレイディアの会話の意図に少々食違いはあるようだが、彼の言わんとする事は分かる。

ローゼにとってのダリアのように、信頼出来る侍女を持てればいいのかもしれないが、侍女と妃の仲が良好とは限らない。侍女は実家から連れてくる者だが、必ずしも輿入れする令嬢との仲が考慮されているわけではないのだから。

シルビアの場合、彼女に忠実であっても、素の自分でいられる使用人はどれだけいるだろう。これまでの振る舞いをいきなり変える事は難しい。

知ってる。シルビアがここまでレイディアに親しむ理由の一つに、気軽に言えない本音や恋の話の捌け口を求めいているからだということ。

レイディアは代わりだと思っている。シルビアの親友オーロラの。それで、少しでも気が休まればいいと。

「…そろそろ行くわ。これから城の方に行かなきゃだから。残りのお勤め頑張って」

空いたカップを持ち上げ裾の土を払う。

「ああ、ありがとう。レイディアも頑張れよ」

その声に手を振って答え、レイディアは後宮に戻って行った。





嵐は突然やってくる。


「近日、メネステから勉学の為に王太子が来る。メネステ王たっての願いで、王太子にバルデロうちで学問を習わせたいらしい」

エーデル公が王の妃に横恋慕した揚句にかどわかした罪で刑に処された翌々日、王はメネステという隣国へ出立し、五日ほどして国へ帰ってきた。今回は侵略ではない。れっきとした親善訪問である。向こうもこちらと同じ感想を持っているとは限らないが。


一日で踏破出来る程近い国といえど、王が国外へ出るにはそれなりの準備が必要だ。その準備はギルベルトがエーデル公と相対していた最中にも為されていたという事に他ならず、公の件は彼にとって片手間に過ぎなかったのだと伺えた。

尤も、ギルベルトにしたらあのような小物程度で一杯一杯にかかずらう訳が無い。手は抜かないが、全神経を集中させるほどでもなかったのだが。


それはともあれ、レイディアは何とやらの式典とかで招かれて帰ってきた王に呼ばれ、執務室に行ったら上記の言葉を聞いた。

「…留学、ですか」

確かに今のバルデロで学ぶ以上に知識を獲得できる国も無いだろう。他国を侵略しているバルデロだが、宗教や学問の弾圧は特に行っておらず、排他的で危険思想に行き着きやすいのでなければ寧ろ保護さえして、更なる研究を推進しているからだ。

「メネステの王太子といえば…まだお歳が八つ程と記憶していますが?」

メネステの王は長年子が授からず、三人も妃を変えてようやく一人息子を授かったというのはレイディアも知る有名な話だ。

そのようやく出来た大事な後継ぎを、外に出したいと思うものだろうか?

万が一何かあればメネステは後継者を失い、国が乱れる危険性がある。ましてや、王太子はまだ十にもならない方だというのに。よっぽど後継者の育成に力を入れている君主なのだろうか。

「さてな。あの王の考えている事など分かろうはずも無い」

ギルベルトは頬杖をついてレイディアを見上げた。

「メネステなどという中国ちゅうこくの事情など興味は無いが、あるいは…」

ギルベルトは一瞬探る眼を煌めかせた。しかしそれも一瞬の事ですぐに伏せられた。

「それで、この件で私に何を?」

「王太子の付き人は唯一人の従者を除いて誰もおらん」

「それで?」

「フォーリーに世話役の女官らの選別をさせるが、お前もそれとなく見ていてやれ。王太子の滞在する部屋は本城の一角をしつらえさせる」

「賓客の棟ではなく?」

「ああ。こちらの方が警備もしやすい」

レイディアはたいした疑問も持たず納得した。

「畏まりました。それで、殿下はいつ頃いらっしゃるんです?」

「四日後だ」




レイディアの退出後、ギルベルトは心なしか満足げに呟いた。

「これで、すぐにあれを呼べるな」







世話役や部屋割が決まり、期日通り、無事にメネステの王太子も到着して、万事が滞りなく進むかと思いきや、問題は起こった。

「あら…まぁ」

フォーリーは眉を少し下げて首を傾けた。

「…またなの?」

フォーリーに泣きついて報告しにきた女官は頭を縦に振った。

「…最初はそれほどでもなかったのですが…だんだんひどくなってしまわれて…もうわたくしどうすればいいのか」

しきりに鼻を啜るせいで鼻が赤く染まってしまっている女官の肩を叩く。

「これでもう三度目よ。貴女達には何か心当たりは無い?」

すると、心外だとばかりに目を見開き、涙を目一杯貯め込んだ目でフォーリーを見上げた。

「そんな! 女官長はわたくし達のせいだとおっしゃるのですかっ? わたくしは…わたくし達は殿下には、何不自由なく快適にお過ごし頂こうと精一杯お仕えしましたのにっ」

「貴女達の頑張りを疑う訳じゃないのよ? ただ、殿下は気難しいお方だと聞いてますから、何か些細な事が殿下のお気に障ったのではないかと思ってね」

それに女官はしばし考えた後、しゅんとなった。

「…分かりません」

いくら考えても自分の仕事は完璧だったとしか思えない。掃除も、給仕も、お着替えの支度も。そう自信を持って言える彼女は納得いかなかったが、ついに諦めたように溜息をついた。

「…申し訳ございません。わたくしでは力不足だったようです。このお役目は他の方に代えて下さい」

「そうね。物まで投げつけられた娘までいるようではね…。分かりました。こちらで何とかします。下がってよろしい」

ほっとしたように肩の力を抜いて、その女官はフォーリーの前を辞した。


その背を見送ると、フォーリーは改めてこの頭の痛い件について考えた。

「…どの娘もちゃんとした娘なのだけど」

先程の女官も豪語していたように、彼女達は実力派ぞろいだ。その彼女達が僅か数日で泣きついてくる。

国交のある国の貴人、それも王太子付きという重役。彼女達への評価が国の評価に直結する。それ故フォーリーの査定もいつもより厳しくした。それを潜り抜けてきた彼女達は気配りも細やかにこなせる筈。仕事面での粗相は考えづらい。


単に彼女達と相性が悪かったのだろうか?それとも女性が苦手なのか、極度の人間嫌いか。

「…困ったこと」

何にせよ、原因が分からないまま人を入れ替えても同じ事の繰り返しになる。次は原因が分かるまで持ちこたえられそうな肝っ玉のある女官達を選ぼうと決意する。






「ええ、はい。いいですよ」

業務を全うした後、フォーリーはレイディアを女官長室に呼んだ。躊躇いつつもメネステの王子のお世話を頼みたい、という願いにレイディアは二つ返事で承諾した。

フォーリーは目を丸くした。

「自分で頼んでおいて何ですが…よろしいのですか? その…殿下のお噂は…」

手のつけられない聞かん坊。そんな誹りをフォーリーは口にこそしなかったがレイディアには伝わった。

「ええ、噂は知ってます。ですが、今のところ特に緊急の用件があるわけでもありませんし、私は構いませんよ」

レイディアも王太子を注視しておくよう言われていた。遠くで眺めていたのが近くに変わるだけだ。何の問題も無い。

「そうですか。それならばお任せ致します。ですが…」

フォーリーは首を傾けて苦笑交じりに言った。

「シルビア様がゴネそうですね」

「…ずっとではないし、暫くお茶は我慢してもらうしかないですね」

傍目には分からなくても、レイディアとお茶する日はシルビアの笑顔が三割増しで美しくなるのを知っている。

思えばレイディアは同年代の友人が少ない。同僚とも彼女は一線を画している様に感じる。レイディアにとってもシルビアと親しくなるのは良い事かも知れない。

フォーリーは孫を見るような目でレイディアを見て、彼女を下がらせた。




翌日、新しく王太子付きを拝命されることとなった者達が揃った。

新しく配属されることとなった者は全部で四人。女官二人、女奴隷レイディア一人、そして女官見習いのクレアだ。昨夜のうちにレイディアから話を受けていたクレアは快諾し、共に王太子付きとなることになったのだ。

女官は二人とも年配の女性。長年城に勤めており、城の事情全てを知り尽くす猛者。レイディアも彼女らの顔と名前は知っていた。

なるほど、フォーリーは愛想は置いておいて、今度は仕事のそつの無さのみを条件に人選したらしい。仕える主人に深入りせず、無駄口を叩かず、適度に距離を置いて振る舞う事に長けた敏腕女官。結婚よりも仕事一筋で生きてきた貫禄がひしひしと伝わってくる。

一方、若年層のレイディアとクレアは二人の存在感に掻き消されそうである。


今回、レイディア達が殿下の御世話を任されたのだが、本来なら他国の貴人の世話役は最も人気が高く、奇麗どころの女官達がその座を巡って争うものだが、今回は例外的にどの女官も嫌がっている。だからこそ女奴隷でしかないレイディアも嫉妬の目を向けられることなく傍に付けるようになったのだ。


代表責任者である恰幅の良い女官が殿下の部屋の戸を叩いて入室の許可を請う。

しかし、数秒待っても返事はない。もう一度戸を叩いた。やはり返事は無い。

「殿下? 失礼いたしますよ?」

御気分でも悪いのかと心配になった女官は躊躇いがちに扉を開ける。


部屋は蛻の殻だった。


「で…殿下っ?!」

女官達の慌てる声を聞きながらレイディアは溜息をついた。


なるほど。これは少々手こずりそうだ。







もう、たくさんだ!

彼は憤りを駆ける体力にすり替えて、速度を落とす事無く闇雲に走った。

こんなところ、もはや一刻とていたくない!

啜りそうになる鼻を我慢して、顔が熱いのは怒りの所為だと言い訳して、出口を求めてひたすら走る。

が、警備の者に見つからないように敢えて草むらの方へ突っ込んでしまったものの、中々出口が見つからない。既に何処から来たのかも分からない状況だ。流石に焦りを覚えて明るい光を探して草を掻き分ける。

どれだけ進んだだろうか、ようやく薄明るい光が前方に見つけた。

彼はほっと安堵すると同時に光の方へ身を投げ出す。


――――――バサバサバサッ


「うわっ」

視界が白一色になった直後、彼は無数の羽音を聞いた。

目を細めて空を見上げると何十羽といる鳥が一斉に羽ばたいていた。

……鳩?

ふわりふわりと散る羽はまるで粉雪のように空を舞う。

なんで…こんな所に…

青い空から目を離し、正面へ戻す。



そこに一人の女が佇んでいた。







殿下の失踪。

その事実にも、流石と言おうか恰幅の良い女官は一瞬うろたえただけで、すぐに冷静さを取り戻した。

「手分けして探しましょう」

「衛兵達には…」

「いいえ、事を大きくしたくないわ。従者の方もいらっしゃらないし、鍛練場か図書館の方に行ってるだけかもしれないわ。お前達も下手に騒ぐんじゃないわよ」

「「はい」」

レイディア達は従順に答えた。女官達はレイディア達の返事に頷いて、素早く早足でその場を去って行った。

「では、レイディア様、僕はこっちを捜します」

「お願いね」



三人がそれぞれ別々の方向へ散って行き、レイディアは一人になると、ふいに窓辺に寄った。

「……」

窓ガラスから覗く晴天。壁越しでは感じないが、枝の揺れ具合で風がそよいでいるのが分かる。今日みたいな日には、外でお茶をしたらきっと気持ちいいだろう。

レイディアは窓に背を向け歩き出した。




レイディアは茶器を二人分用意して、王宮の隅にある池のほとりへとやってきた。

滅多に人の来ない静かな池。レイディアがたまに息抜きにやってくる場所の一つ。

選んだ茶葉は喉越しがすっとする爽やかなもの。沢山動いた後に飲むととてもすっきりする。

手早く準備しているといつの間にかレイディアの周囲に白い鳩達が集っていた。

「食いしん坊さん」

レイディアは前掛けのポケットから麻袋を取り出し、パンくずを地にばら撒いた。

勢いよく鳩が飛び付いた。レイディアの掌に乗っているパンくずにも鳩達は群がる。

くるると喉を鳴らす鳩がレイディアの周囲を埋め尽くし、冬でもないのに雪に埋もれたように真っ白になった。


突然、背後でガサガサと草が鳴った。ついばむ動きが止まった。音に敏感な鳥は夢中で餌に群がっていてもすぐさま反応する。


刹那、一斉に飛び立った。


それはレイディアの周りで風が巻き起こるほどに。雪が弾け飛ぶみたいに。

まっさらな羽がはらはらと舞う。綺麗な光景にレイディアの目がす、と細まった。

つい、と空中を舞う一片の羽を指でそっと挟む。弧を描く繊細な肌触りのそれにそっと唇を寄せた。

「……」

レイディアは突然飛び出してきた存在に目を向けた。草を鳴らした張本人。上等な仕立ては今は酷くよれていて、きちんと手入れされている筈の髪は沢山の葉で飾られている男の子。茫然とした表情で口を薄く開きながらレイディアの方を凝視していた。

「…迷われたのですか?」






「…迷われたのですか?」

そう問われて彼は我に返った。慌てて口を閉じ、草むらに未だ埋まっていた半身を引っこ抜く。

「まっ…迷ってなどいないっ。散歩していただけだ!」

が、言って後悔した。

これでは自分で迷子と肯定しているようではないか…っ。

「そうですね。こんな良いお天気の日に中で籠っているのはもったいのうございます。絶好の散歩日和ですもの」

しかし、女は彼の言葉を少しも疑っていないかのように同意した。

「そ…そうだな。ここは美しいから…散歩には打ってつけであるし…」

彼は自分の主張を正当化する為に言っただけだが、改めて周りを見渡すと、真実美しい景色が見渡せた。

「ええ。ここはとても落ち着きますでしょう?」

髪の毛を落とさない為だろう、頭部を覆うスカーフの所為で彼女の表情は分からない。分からないが、彼女の空気はとても穏やかだ。知らず、肩の力が抜けた。

「そなたも休憩中であったか。邪魔してすまなかった」

ここに来て初めて素直な態度を取った気がする。だが不思議と抵抗は無かった。先程の純白の瞬間が目に焼き付いているからだろうか?

「いいえ、もしよろしければ一緒に休憩致しません?」

丁度お茶が入ったところなんですよ。そう言って女は彼に付いた葉や土を払い落し、池のほとりのテーブルに誘った。





何故、わたしはこんな所で茶を啜っているのか。

それはきっと無様な姿を見られたバツの悪さで誘いを断れなかったからだ。そうだ。そうに違いない。それに、彼女が是非と言ったのだ。丁度喉も乾いていた。この茶はさっぱりしていて飲みやすかったから。だからわたしは仕方なく…。

「お菓子もどうぞ」

「………う…うむ」

香ばしい焼き菓子の匂いはぐるぐる考えているのを馬鹿らしく感じさせた。一口齧るとサクリという小気味いい音がした。

「…おいしい」

つい素直な感想を漏らしてしまい、慌てて顔を逸らす。

「わ………悪くはない」

「それはよかった。甘すぎないこのお菓子は甘い物が苦手な男性にも人気なんです」

他愛のない会話。それだけだ。

さやさやと草の擦れる音。頬を撫でる風。それだけだ。

社交界の様に流行に則った話題でもなく、扇でそよがれる香水臭い風でもなく。

何でもない時間。無為といってもいい、ただ流れるだけの時間。

それがこんなにも優しい。

今だけは、何もかも忘れていいのだと、茶のたゆたう湯気が教えてくれる。

何も言わずに注ぎ足してくれる目の前の女も。この城の者全てが敵と思ってたのに…。


「…は」

いつの間にか目の前にいた女がいない。慌てて首を巡らすと彼女はすぐ側の池の前に立っていた。

自分に何の断りもなく席を立った事に憮然とする一方で、見つけてほっとする自分がいる。


彼女はまるで、空気だ。そこにいるのに、常に見ていないとすぐに見失ってしまいそうな…。


「なにか?」

「な…何でもない」

彼女はそれ以上何も聞かなかった。躾の行き届いている使用人風の女に満足すると同時に、少しだけ残念に思った。自分は詮索される事を何よりも嫌っていた筈なのに。

「…名を」

「はい?」

池の鯉に菓子の切れ端を与えていた彼女が問い返す用意首を傾げた。

「名を。そなたの名を、聞いてやってもいい」

目下の者から名を聞くのは無礼にあたる。だから彼は自分から聞いてやった。服装から見て彼女は使用人の身分。今自分と言葉を交わしている事さえ奇跡に近い。

「レイディア・フロークと申します」

「フローク? ほぉ、あの有名な『氷の王』の鳥の名なのか。面白いな」

「…ええ」

彼女は微かに首を縦に傾けた。

自分の番が来て、彼は躊躇った。彼女は自分の正体を知らない。知ってしまったら今の時間が消えてしまうのではないか…。

「…シェリファン・メネステだ」

勢いをつけたらぶっきらぼうになってしまった。失敗した。

「メネステの王太子殿下でいらせられたのですね。殿下とも知らずにこのように粗末な席に誘ってしまってとんだ御無礼を…」

予想通り、急に畏まった態度に彼は思った以上に怯んだ。

「あ…」


「ですが、これで殿下も共犯です」


「な…に?」

おもわず出てしまった手が止まる。共犯?

「私がこんな所で一人サボっているのが知られたら叱られてしまいます。でも、唯一それを知ってらっしゃる殿下は御一緒にお茶をお飲みになりました。これではどなたかに告げ口は出来ませんよね」

人差し指を口にあてて内緒話をする様に声を潜める。悪戯の共犯者になれと言うらしい。

秘密の共有。

元より誰に言うつもりでもなかったが、シェリファンは可笑しくなって、つい笑ってしまった。

彼にも、王太子殿下らしからぬ恰好で彼女の前に出た失態もある。これでおあいこだ。

「それならば致し方あるまい。片棒を担いでやろうではないか」

シェリファンはバルデロに来て初めて笑みを浮かべた。


と、丁度その時、茂みの向こうからシェリファンの名を呼ぶ声が聞こえてきた。

シェリファンはしまった、という顔をした。

「従者を忘れていた」

無性に一人になりたくて、従者を振り切って無茶苦茶に走っている間にすっかり忘れてしまっていた。

「あぁ、それはいけません。従者の方はさぞ心配なさっておいででしょう。丁度いい頃合いですし、そろそろお城へ戻りましょう」

「戻る…」

そう言われて、シェリファンはさっき感じていた解放感が急に萎んでいくのが分かった。

「如何なさいました?」

戻りたくない。つい出そうになった言葉を呑みこむ。

我儘なのは分かっている。いつまでもここにいる訳にはいかないのも、国に帰るのも出来ない事など百も承知だ。けれど、今の自分にとって城に戻るのはハイエナの群れに自ら戻るのと等しい。やっと安全な場所まで逃げてきたのに己を貪ろうとする獣の中に戻りたくな…


「貴方を傷付けるものなど何もありません」


シェリファンははっとして顔を上げた。

レイディアは素知らぬ顔をして茶器を片づけている。幻聴だろうか?

「………」

シェリファンはじっと彼女を見つめる。空耳でない事を祈って。

片付けが終わるとレイディアはようよう口を開いた。


「…貴方は貴方のお役目を全うされる為にこの国へいらっしゃったのでしょう? ならば、お頑張り下さいませ」


「……っ」

心を見透かされた様な気がした。

そっと触れるレイディアの手は、まるで卵を温める親鳥のような温もりがあった。何者からも守ってくれる絶対の安全を享受する雛鳥にでもなれたような。

シェリファンが何か言おうと口を開こうとする前に、彼は背後から呼び止められた。

「殿下!」

シェリファンが振り向くと先程彼が通ったのと同じところから彼の従者がこちらに駆け寄ってくるところだった。

「殿下、こんなところにっ! 心配していたんですよ!」

「リック…」

従者の垢抜けない声。それが今は安堵と怒りの感情をそのまま表したようにいつもより甲高い。

「さぁ風も強うなって参りました。お部屋に戻りましょう」

「ま、待て」

シェリファンは振り返った。

「……え」

誰も、いなかった。

「どうしたんです?」

リックが怪訝そうにシェリファンと同じ方を見る。

「……さっきまで、ここに女がいなかったか?」

「女? いいえ、わたしが殿下を見つけた時には誰もおりませんでしたが?」

「そんな…」

テーブルを見る。何も無かった。カップ一つ見当たらない。

「さっきまで…確かに」

それとも彼女は己の見せる幻だとでもいうのか。あの純白の光景も夢だったと?

「その女とずっと今までいらしたのですか?」

その筈だ。けれど、彼女との僅かな時間はあまりに優しく穏やかで…。過ぎてみるとまるで現実味が無かった。

「おや殿下、口に何かついていますよ」

リックに口元を拭われる。先程口にした菓子のカスだった。

「もう、殿下。また摘み食いしましたね?」

従者の失礼な小言は聞いてなかった。菓子のカスを見てシェリファンの気分は浮上した。


夢じゃない。彼女はちゃんと現実の存在だ。彼女はここにいる。


「リック」

「はい?」

未だぶつぶつ言っていた従者は突然名を呼ばれ、気の抜けた返事をしてしまった。

「城へ戻るぞ」

「え?あ、は、はい」

突然表情の引き締まった主に驚きながら、リックは慌てて後を追った。




シェリファンは空を見上げた。

まだ日は高いが、あと数刻もしたら太陽が紅く染まり、すぐに夜の帳が降りるだろう。

祖国で見るのと同じ空だ。それだけで、彼は安心した。










「“鷹爪”が出たぞー!」


視界が暗闇に覆われる闇夜に響く警邏の声。

「いたか!」

「いや、こっちはいなかった」

「くそっ小賢しいっ! ウジ虫の様に何処でも湧く奴らめ!」

「いいかっ絶対に見つけるのだぞ。この屋敷から出してはならぬ!」

「はっ」

バタバタと数人が固まって走り去っていく音が次第に遠ざかる。




「…やれやれ。やっと行ったか。狼みたいにしつこい奴ら」

しんと静まり返った暗闇。そり立つ壁の上から飄々とした男の声が。

先程の男達が上を見上げても、月の無い今宵では、吸い込まれそうな闇しか見えないそこに、彼らはいた。

「なぁ、オレらウジ虫だってよ」

「それはお前限定で指すものだ」

それに答えたのは男よりずっと柔らかい声。唄うような声で辛辣な言葉を紡ぐ。

「オレの何処がウジ虫だって?」

「生息地を問わないその生命力が」

彼はリュートの弦の具合を確かめる手を休めず言い切った。

「へんっ褒め言葉として受け取っとくぜ」

「ウジ虫と同列に扱われて褒められたと思えるとは、お目出度い頭だな。いっそ感心する」

「うぐっ」

「頭ぁ! 頭ぁ!」

頭と呼ばれて、ボロボロの外套を纏う男が顔を向けると、指示を出しておいた手下が手をあげてぶんぶん振っていた。

「おぅ、ご苦労だったな」

「へぃ。指示通りあいつらは無事この屋敷を抜け出しました。後はあっしらだけです」

ビィン、と弦が鳴る。手下がそちらに目を向けると、調律し終えた彼はリュートを袋に仕舞い、立ち上がろうとしているところだった。

「…じゃあ、僕はこれで」

「どちらに…」

「僕は吟遊詩人だよ。何処にでも行く根なし草だ。この屋敷での目的は果たした。後はお前達の仕事だ。僕は次の旅に行く」

そっけない声でも彼のそれは唄うように柔らかい。

「お嬢ちゃんのとこさ」

ボロボロの外套の男が答える。吟遊詩人の彼の足が止まった。

「…お嬢ちゃん?」

手下の怪訝そうな顔に男はニッと笑った。

「そうだ。この優しい顔して女を食い散らかす冷徹仮面がご執心のお嬢ちゃんトコだ」

「……」

手下は賢明にも無言を貫いたが、その瞳に宿った好奇心は隠せなかった。

「…ドゥオ」

「おっと。なに、そんな怒るこたぁねぇじゃねぇか。オレは何処の誰とは言ってねぇんだぜ? お嬢ちゃんってだけで誰を思い浮かべたんだ?」

ん?と余裕たっぷりに絡んでくるドゥオをゼロは冷たい視線であしらう。

「ここからあそこまでそう遠くもないしな。馬車で行けば一日ってところか」

そんな視線をモノともせずにドゥオの演説は続く。

いつもやり込められてばかりの彼が、珍しくゼロをからかえるのが嬉しくてたまらないらしい。だがその光景に手下は面白いどころか憐みを覚えた。

何故って? 最後に笑うのは必ず副頭だからだ。

「ドゥオ」

ほらきた。

「セフォーの娼館に向こう三年出入り禁止にしておいたからな」

それは既に脅しではなく、決定事項。ドゥオは青ざめた。

「ちょっ…おまっえー! おま…っえーー!?」

お前と言いたいのか、えーと言いたいのか。ドゥオは口が回らなくなったように、ゼロを凝視しながら口をわなわなさせている。

「ちゃんとお前の指示通りに、この屋敷に潜入して出来得る限り情報を掴んでやったこの僕にこんな酷い仕打ちをするどっかの馬鹿頭に女性に触れる権利なんてあるわけないだろう」

「すんませんでした! 前言撤回するから、それだけは止めてくれ!」

「もう遅い。今頃、伝書鳩も向こうに辿り着いているはずだ。だいたいお前は一晩で娼館にばら撒く金が半端ないんだ。少しは自重しろ」

ゼロはドゥオに背を向けすたすた歩き出す。それを追ったドゥオを見送り、取り残された手下は溜息をついた。頭もいい加減懲りない。


しみじみとして彼は、はた、と気付いた。

「…っつか、ここに残ってんの、あっしだけ?」



それに慌てた彼は再び近づいてくる足音から逃れるため、彼もその場から姿を消した。

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