第二十三話
城の闇を抱える、じめじめとした地下牢。その一角にソネット達はいた。
「ねぇみっちゃん、ディーアちゃんは?」
配下達が囚人となった刺客達を牢に押し込んでいくなか、簡素な椅子にカタカタいわせながら座るエリカが口を開いた。
「とっくに王が部屋に連れ帰ったわよ」
「王様はここに来ないの?」
「来ないわよ。あの人にとって、こいつらを甚振るよりディーアちゃんを慰める方がずっと重要だから」
あの後、さっさと城に帰ったギルベルトは、そのままレイディアを抱いたまま自室に戻って行った。今頃二人は揃って寝台に沈んでいる頃だろう。
「ずるい」
「仕方ないわよ。これが私達の仕事だもの」
国家の闇を引き受ける蔭。裏部隊。その役目は公に出来ない拷問も受け持つ。
「エリカ、王からの命令よ。こいつらの持ってる情報根こそぎ聞きだしなさい」
「ん~」
「あと、好きにしていい、ですって」
エリカは首を傾げただけだったが、ソネットはとやかく言わなかった。
ソネットはエリカを残し、刺客達の収監された地下を出た。
カタン カタン
薄暗い地下牢に椅子が揺れる音だけが響く。ソネットが配下数名残して皆を引き連れて地下を去って行ったあとも、エリカがずっと座ったまま椅子を揺らしているのだ。
「…………」
エリカは虚空を見つめて囚人達に見向きもせずゆらゆらと揺れている。
一方、縛り付けられた男達は、今すぐにでも拷問が始まると思っていただけに、拷問どころか一言も声を発しない尋問官を拍子抜けの思いで眺めた。
一向にエリカは動かない。後ろに控えている配下の蔭も急かしたりはしない。
四半刻程経った頃だろうか、突然笑い声が漏れた。男達の眉がピクリと上がる。
「好きにしていいんだって…」
エリカは相変わらず虚空を眺めたまま呟いた。
「ふぅん…好きにしていいって事はホントに好きにしていいってことなんだよね?」
これは、背後の配下に向かって。
「は。エリカ様のお気に召すままにこの者達を捌けばよろしいかと」
エリカはその返答に不満の様だ。頬を膨らまして顔を背ける。
「…エリカ苛めっ子じゃないもん」
「は。申し訳ございません」
縛られた男達は訝しがった。何故この少女に気を張り詰めているのかと。エリカの脅威は男達は身を以て体験した。けれど、味方である彼らも、少女には一線を画して接しているように感じた。
こんな朴訥そうな少女に。
「…お前が俺達に何をしようが一切の情報は洩らさぬ」
囚人の一人が言葉を発した瞬間、その男は吹き飛んだ。
「エリカがしゃべってって言うまでしゃべらないで」
何が起こったのか男達は分からなかった。茫然とする男達の耳に届いた一言。それだけでゾクリと背筋が冷えて、男達は押し黙る。
「………」
「うん。良い子」
ピクリとも動かなくなったその男に向かって笑った。再び椅子を揺らし始める。四本足の椅子は後ろの二本の足で立って斜めに揺れる。
「………『皮剥ぎ』にしようかなぁ? 知ってる? 人の皮膚を薄く切り取るやつ。林檎の皮むきみたいに、ぺろりと」
そう言って何処からか取り出した林檎を回しながら皮を剥いていく。見かけによらず器用な手つき。男達には林檎の赤い皮の色が、次第に血の色に見えた。
螺旋を描いて床に流れる赤―――。
「全身綺麗な桃色になるんだ。身体中から血が染み出て、筋肉がぴくぴく動く様子もばっちり」
やがて、完全に白い中身が露わになった林檎を食べるでもなく傍の机に置いた。
「……」
男達は言葉を発しない。まだしゃべろと許可されていないからだ。いつの間にかこの場はエリカの支配下に置かれていた。エリカの言は絶対だと男達に思わせて。
屋敷で暴れていた時など可愛いものだ。鳴りそうになる奥歯を噛み締める。
「それとも『串刺し』の方がいいかなぁ? お尻の穴から杭を入れるやつ。ほら、お魚を焼く時串に刺すでしょ? あんな感じ。上手くやんないと綺麗に口から杭が出てこなくて、肩とか腹から突き出ちゃうんだよね」
こちらを向いて喋りながら無造作に後ろへナイフを放り投げる。
背後には配下がいるのに、躊躇いもなく。ナイフは林檎の中央に突き刺さった。
男達は床から這いあがってくる寒気に、次第に身が震えるのを止められなくなってきた。
「あと、腸を引きずり出すのもあるよ。脇腹を少し切ってそこから手を入れて腸を引きずり出すんだけど、その時は腸って長いし大変だからウインチに繋いでぐるぐる回して取り出すの。これは地味だね。血もあまり出ないし、気絶するほどじゃないんだ」
男達の蒼白な顔が暗い牢屋に浮かび上がる。万が一の為、口に仕込んでいた自害用の丸薬も、とっくに奪われていた。さらに、舌を噛み切れないように、身体が弛緩する薬も飲まされていた。
彼らに逃げ道は無い。
「そのくせ、中には痛がりさんもいて、地上まで響くぐらいみっともなく叫んでゴロゴロ転がる鬱陶しいのもいるんだよね。腸はウインチに繋がっているのに」
自分の腸に絡まる困った人もいるから好きじゃない、と。
その惨状がまざまざと脳裏に浮かび上がる。もしかしたらこの部屋でその恐怖が行われたのかもしれない。部屋の隅に鎮座している機器が目に映り、戦慄する。
「お兄さん達はどれがいい?」
このうちどれか選べと少女は言う。彼らとて例え死んでも口を割らないよう訓練された凶手。拷問に対する免疫はある。痛みに簡単に屈することはない。その彼らをここまで怯えさせる彼女は何者だ。
ましてや、彼女はまだ、彼らに何もしていないのに。
「エリカねぇ、これでも怒ってるんだよ?」
びくり。
決して荒げて言ったわけでもない。なのに、どうして男達の身体は強張るのか。目の前の虎に獲物として検分されているかのような錯覚を覚える。
「ディーアちゃんは膝枕してくんないし、王様に引き離されちゃうし…………いらいらしちゃう」
男達は身動ぎ出来ず、エリカと目を合わせない様にするのに精一杯だった。
「エリカね。ディーアちゃんに撫でてもらいたいの。お膝で寝かしてほしいの。なのにしてもらえなかった。お兄さん達がディーアちゃんを苛めたからだよ? ディーアちゃん泣いちゃったから、エリカ見てもらえなかったんだよ? エリカがちゃんと眠れるのは、ディーアちゃんの傍だけなのに」
悲しげな声。近づいてくる。エリカの足が俯いた視線に映る。
「こ…殺せ」
この緊張感に耐えきれなくなった一人が呟いた。
「殺せ殺せ殺せ!!! 貴様に何が分かる! 貴様らに情報など渡すものか! 凶悪な暴力で多くの国を蹂躙し弱者を屠る魔物以外の何者でもない貴様らに!」
狂った様に叫ぶ男をエリカはじっと眺めた。
「今までずっと平穏だったのだ! 我らが貴様らに何をした!? 我らはずっと穏やかに暮らしていただけだ! そんなに戦がしたいなら他国と勝手に潰し合うがいい!!」
「我らは神に選ばれし民だ! 戦など関係ない! 聖なる大地を穢した冒涜者めが!!」
「我らを世の戦乱に巻き込んだ憎き侵略者共! バルデロよ滅びよ!! 暴虐な支配者の屍を晒すがいい!!」
他の囚人達も箍が外れた様に喚き散らし始めた。エリカは始終無言のまま。配下達も身動ぎせずエリカの動向を見張っている。
もはや呪いの言葉しか響かない牢内にエリカはぽつりと呟いた。
「ディーアちゃんは、ずっと耐えてたんだね…」
生まれた時から、ずっと。こいつらの為に。
その言葉を聞き咎めた男達は血走った目をエリカに向けた。
「巫女様は我らが大事にお守りしてきたのだぞ! その我らが辛いことなど味わせるわけがあるか! 巫女様は我らといて幸せだったのだ! それを身勝手にも巫女の御身を連れ去り、あろうことか端女の仕事をさせ虐げるとは神への冒涜だ!! おお、いづれ貴様らの国は人住まぬ廃墟となるであろう!!」
「お優しい巫女様を誑かして有象無象の人に埋もれさせ不幸にしようというのか! 巫女様の幸せは人々を幸福にすること。我らの幸せが巫女様の幸せなのだ!!」
「巫女様は敬虔なる我らの為に存在するのだ!!」
「……」
配下達が次第に顔を険しくしていく中、エリカの表情は全く動かない。全て右から左に流している。ただ、次の一言で彼らの運命は決まった。
「巫女様は我らに恵みをもたらして下さらなければ、何の存在価値もないというのに!! 貴様らは巫女様の存在理由を奪うのか!!」
その瞬間、エリカの顔から一切の表情が抜け落ちた。なおも喚く男達は気付かない。己の末路を。
そこで初めて配下が動いた。部屋の隅にある器具の可動準備を始める。エリカはもはや何も言わなかった。ただ、無言で男達の内の一人をその器具のところに引き摺って行った。
「何をする! 触るな、離せっ」
「自分の事しか考えていない思いあがった人には、容赦しなくていいって、言われてるんです」
だから、容赦しない。エリカは苛めっ子じゃないが、聖人君子でもない。
突然の事態に、拷問の覚悟を決めそこねていた男達は予想以上にうろたえだした。
「簡単に死ねると思うな」
配下の一人の一言が、長い悪夢の始まりの合図だった。
刺客達を地下へ放り込み、後をエリカに任せたソネットは、城の厨房をこっそり拝借して作った蜂蜜ミルクを片手に城の一室へ向かった。
「オーロラ!」
「シルビア!」
ソネットが戸を開けた時、丁度二人が抱き合っているところだった。
「良かった…無事だったのね…」
「シルビアも、急にお嫁になるなんて驚いたわよ」
二人は互いの無事を確認した後、身体を離して笑いあった。傍にいたクレアが意外そうに目を丸めた。
「お知り合いだったんですか?」
二人は同時に頷いた。シルビアとオーロラは同郷で幼馴染だ。
シルビアの母の実家ノートレスタと、オーロラのロジェスティ家は昔から好敵手であった。互いに競い合う商売敵ではあるが決して険悪な間柄ではなく、シルビア達の母同士も幼い頃からの親友でもあった。
それが、当主であったオーロラの父の死を境に、ロジェスティ家に不穏な空気が漂い始めた。
「オーロラが婿取ったって聞いた時は吃驚したけど、嬉しかったのよ? これでロジェスティ家も安泰だって」
シルビアの母が貴族のポルチェット子爵と電撃結婚してもその付き合いは無くならず、生まれた娘達も同様に育った。シルビア以上にお転婆なオーロラは、年頃になっても結婚に興味を示さず、それがオーロラの父の悩みの種だったのを知っているから、尚の事、安心したものだ。
けれど、結婚式を挙げて、一月もしない内にロジェスティ家の当主が急死した。死因は原因不明の発作。最初は過労に因るものだと皆は思っていた。当主は真面目で人一倍責任感の強い人だったから、働き過ぎて身体を壊したのだろうと。
けれど、おかしな事はまだ続いた。後を継いだオーロラの夫がオーロラを監禁するようになったのだ。直接的なものではなく、オーロラが外に出られないように圧力をかけてきた。そして、オーロラの身の周りの世話の者達も、いつの間にか顔が変わっていた。夫が、昔から仕えてきてくれた者達を片っ端から勝手に解雇したと知ったのは、我慢が出来ずに問い詰めてようやく新しくなった世話係に口を割らせた時だ。
さらに気が付けば、使用人だけではなく、ロジェスティ傘下の商人達も、取引先の商家も、何もかも変っていた。オーロラが幼い頃から親しんできた人達が、僅かな間に全て消えていた。
「私は…態度が急変した夫が怖かった。最初は逆らったりしたけれど、そうしたら私の周りの人達が変わりに痛めつけられて。私さえ大人しくしていれば皆に類は及ばないと、どんどん委縮してしまって…」
今もあの時の恐怖が完全に払しょくされた訳ではない。オーロラは顔を覆った。彼女がかつての顔なじみ達と密かに連絡しようとしたのに気付いた時の夫の顔が忘れられない。
笑顔だった。そのくせ、その目は冷徹に見下して。あれは決して妻を見る目じゃなかった。
そして、その夜、オーロラの目の前で使用人達が鞭打ちや舌を切られたりした。その中には女の使用人もいて、数人の男達に犯されている者もいた。
泣き叫んで止めてと懇願しても、夫は笑顔のまま、顔を覆おうとするオーロラの手を掴み、彼女の顔を前に押し出して使用人達の無残な姿の一部始終を見せつけ、逆らう事の無意味さを思い知らせた。
彼女には何の危害は加えられなかったけれど、代わりに周りが傷付いていった。
「…怖くて怖くて…このままロジェスティを乗っ取られて、利用されて、そして私は一生閉じ込められるって思ってた」
最初の頃は泣き暮らしていたけれど、次第に泣く気力も湧かなくて、定期的に訪れる世話係の為すがままに着替えや食事をした。
今日が何日なのかも分からなくなった頃、一人の少女が忍び込んできた。クレアと名乗る少女。
〈初めまして。僕はクレア。貴女の脱走のお手伝いに来ました〉
オーロラは今でも覚えている。絶望の闇に生まれた一筋の光が己が心に輝いたのを。
でも当時は心が折れた状態だった。また酷い目に遭う事を恐れ、その時はクレアの手を突っぱねた。どころか、監視の目がクレアに気付く前にと、クレアを追い出した。
けれど、きびしい監視の目を盗んで何度もクレアは説得に訪れた。誰にも気づかれずにオーロラに会いに来られることに、だんだんオーロラの信頼を勝ち得た。
そして、オーロラが漸くクレアの申し出に頷くと、クレアは仲間を連れて来て、オーロラを部屋から連れ出したのだ。その後はクレアは大人に任せて早めに城に帰ってしまったが、クレアの根気強い説得がなければオーロラの脱走計画は実を結ばなかっただろう。
「クレアには、本当に感謝しきれないわね…」
「僕は単に命令で動いていただけですよ」
バツが悪そうに顔を背けるが、その頬が若干赤いのは隠しようがない。オーロラは優しげに微笑む。
クレアは実際詳しい事情など知らずに動いていた。シルビアの許に手紙を届けたり、オーロラを説得したり。二人が知り合いだという事も知らなかった。行けと言われたから行っただけだ。
「何にしても良かった。結婚してからずっと音信不通で、ずっと心配してたから」
まさか監禁されていたとは。冗談半分で夫と愛し合うのに忙しいのかと笑っていたが、とんでもなかった。
「実はその結婚…私は、反対してたの。だって興味も無かったし。夫が私を見る目は、最初から温かみの欠片も無かったから…」
優しい言葉、優しい仕草。色恋沙汰に関心は無かったとはいえ、オーロラも女だ。相手が自身に気があるか否かを察するくらいは出来る。そして彼はどれもが芝居じみていて、薄っぺらなものだった。
「オーロラ…」
「でも、腕は確かだった。それで、父が彼を気に入って…こんなことに…」
婿となった男は確かに有能だった。父は実力主義者だったから、あっという間に新参者だった彼を気に入り、ついには彼の望むままにオーロラとの縁談を進めてしまった。
その結果が、この悲劇だ。父を失ったオーロラは無念に俯く。
オーロラは父のお気に入りの男と結婚させられて、父を殺され、母と引き離され、自身は監禁された。
完全に彼の手の内となったロジェスティ家はエーデル公と結びついてしまった。
父に仕えていた誠実な者達も、背後にエーデル公を匂わせられ、抵抗できなくなった。抵抗した者は解雇され、ますます夫の息のかかった人間がオーロラを取り巻いていった。
それを察知した王側は、その牽制としてもう一方の大商家であるノートレスタに話を持ちかけたというわけだ。それがシルビアの後宮入り。彼らに直接手を下せば余計に事態が拗れる。だから外堀から埋めていく必要があった。それだけでは防げないことも承知していたので、それ相応の手札も用意して。
レイディアが関わったのはこのシルビアの件のみで、レイディアは裏にまわっていたからこのあたりの事情は疎かった。そのレイディアに従い、シルビアに文を届けていたクレアが、ついでにオーロラの説得も任されたという流れだ。
「全部エーデル公が叶うはずもない野心を抱いて、暴走した結果。寧ろ私のことで巻き込んでしまったのよ。…ごめんなさい」
「いいえ。我が家があの男に屈しなければこんなことには…私の方こそ止められなくてごめんなさいね」
ソネットは二人にカップを渡しながら始終無言で聞いていた。彼女らに皆まで言う必要は無い。彼女らに関係あるのはエーデル公の暴走だけだ。
その裏で動いた意図は知らなくていい。
「オーロラ嬢。疲れたでしょう?今夜はこのお部屋でお休みなさいな」
頃合いを見たソネットが優しく言った。
「ええ…でも」
不安そうにシルビアを見る。それに気付いたシルビアは笑った。
「じゃ、私もこの部屋で寝る。寝台は大きいし、問題無いわよね」
オーロラは表情を緩めた。
「シルビア嬢は一応妃なんだけど、ま、今夜くらいは良いでしょ。クレア、彼女達のお世話を頼むわね」
ソネットは水面下で巡らす思考の片鱗を見せず、明るい笑顔で彼女達に応えた。
エーデル公は確かに自尊心が強いばかりで、それに見合う実力が伴わない男ではある。しかし、全くの無能でもない。王を憎んでいるが、警戒心もまた強い。よっぽど成功の確信を持てなければ実行に移らない。
そのよっぽどの餌をちらつかせたのはロジェスティ家に婿入りした男なのは間違いない。ひいては、その男の主。
何を言ったか知らないが、エーデル公は結果として、担ぎあげられて騒ぎを起こした。
「これだから、おぼっちゃんはっ…。我儘放題に育ったやつは皆自分に従って当然って思考回路なのよね」
王の叔父であるエーデル公は顕示欲が強く、常々王に相応しいのは自分だと周りに言って憚らなかった。王とてそんなこと知っていたが、エーデル公自身は凡庸で、我儘で、血筋意外に取り柄のない男でしかなかったため放置しておいた。取り巻き達も似たり寄ったりだったから脅威とは言い難かった。
そもそも知謀のある人間は未来の無い人間に近づいたりしない。だから相手にするまでも無いと判断して放っといたのに、それを利用された。
前回のベリーヤの時も同じだった。喉に小骨が刺さった時の様な、些細な違和感。同じ違和感がソネットの胸中に広がる。
ベリーヤの王やエーデル公を唆したのは同一人物と決まってわけではないが、両人とも執政者としては三流でも、己の利害に敏感な宮廷人だ。それをこうもたやすく丸めこんで動かせる。それが可能なのは同じ穴の狢くらいだ。それもずっと上手で性質の悪い。
ソネットは王との会話を思い出した。彼は何の情報もない当時から、一連の騒動が同じ手の者だと察知していた。
〈…狙いは国か、俺か…それとも…〉
レイディアか。
ギルベルトの瞳に怒りの炎がちらついた。それがそのままソネットを射抜く。
〈あれは俺のものだぞ。…渡すものか〉
ソネットも同意した、。四年前、この国に来たばかりのレイディアを思う。またあの時の彼女に戻したくはない。彼女は何処にもやらない。
例え、それがレイディアの故郷だとしても。
目を覚ますと、目の前に精悍な顔があった。
「…。……。…―――」
道理で窮屈だと思った。
それが、万人が頭を垂れる王ギルべルトと共に寝ている事に関しての感想だった。
耳元でチュチュンと鳥の鳴き声がして、懸命に首を翻して後ろを見やると、首を捻ってこちらを見る鳥と目があった。
「今日もありがとう」
嘴を器用に使ってレイディアの耳を擦り、眠りから引き上げる作業をこの鳥はしてくれる。
毛先が黄色がかった白色の鳥は、実は朝が弱いレイディアには欠かせない相棒だった。
いつもなら指でちょっと鳥の首筋あたりを撫でてやるのだが、生憎今朝はギルベルトがレイディアに絡みついているので不可能だった。
ツンツンと嘴でレイディアの頬を不満げに突いたが、やがて諦めたのか、レイディアに背を向け、鳥は羽ばたいていった。
それを見届けた後、とりあえず起きようと、そっとギルベルトの腕から抜け出そうとした。
「ん…」
微かに呻き声を洩らしたギルベルトは、眠りから覚めないまま腕のぬくもりを取り戻そうと、無意識にレイディアの身体を引き戻して抱えなおした。
「ちょ……っあ」
しかもそのまま反転して、レイディアはギルベルトに覆い被られるかたちとなってしまった。
ますます起きれなくなったレイディアはどうしようか途方に暮れた。首筋にかかる彼の寝息が熱い。良く寝ているギルベルトを叩き起こすのも忍びないと思ったが、頬にかかる彼の赤銅色の髪がくすぐったくて身じろぎすると、ギルベルトがうっすらと目を開けた。
「………」
「………」
唇の距離が指一本分も無い至近距離で見つめあった後、ギルベルトはそのままレイディアの唇に自分のを乗せた。
「んぅ…」
寝起きの口付けは早々に酸欠を起こした。頭がくらくらして空気を求めるのに必死になっていると、いつの間にか身体に回されていた腕がレイディアの身体を弄る。
「ん…ん…ふっぅ」
当たり前のような口づけ。当たり前のような抱擁。それを当たり前の様に受け取っている自分がいた。
いつの間にこんなに慣れてしまったのだろうとレイディアは自問する。
最初の頃など、ギルベルトが近くにいるだけで落ちつかなかった。野生の獅子がこちらを凝視している時のような緊張感があった。
その爪は、レイディアの身体など容易く引き裂いてしまいそうで。その牙で、易々と肉を喰い千切られそうで。
それが、いつからか、その爪は決してレイディアに向かって伸ばされる事は無いと、その牙は決してレイディアに向かないと信じられるようになっていた。
昨夜もそうだった。不安定に揺れた自分を、その手で優しく撫でてくれた。あの時は意識が虚ろで、記憶も定かではなかったけれど、この身体はギルベルトを覚えていた。差し伸べられたその手が彼のものだと安心し、理解する前に本能が求めるまま飛びついていた。
ギルベルトの手がレイディアのへそあたりから盛りあがった胸元まで、揉み上げるように這い上がった。
「あっ…はぁ……やっ」
反射的にギルベルトの手から逃れようとするも、依然としてギルベルトにのしかかられた状態では僅かな身動ぎが精々だった。
レイディアはギルベルトの手から伝わってくる波に小首を傾げた。
「何を…怒っておられるのですか?」
唇が離れた隙に言葉を紡ぐ。レイディアの身体の上にあるギルベルトの手が止まった。
「お前が聞くのか」
「原因が分かりませんので」
「…はっ」
ギルベルトは吐き捨てるように哂い、のしかかったまま、レイディアの髪を掻き上げ、両手で彼女の頭を挟んだ。レイディアがギルベルトから目を逸らせないように。
「あの女を正妃に相応しいなどと、これまでよくも好き勝手言ってくれたものだな」
その一言でレイディアは理解した。
「私の言葉など戯言と聞き流してくれてもよろしかったのに」
「お前の言葉にはいつだって本音が交じっているのにか?」
「だとしても……別段、不都合は無い筈です」
決めるのはギルベルトだ。レイディアは自分の言葉が彼を左右するとは思っていない。
ギルベルトは凄絶に笑った。それを至近距離で見せられるレイディアは身を引きたくなった。
「あるさ。俺の妻はお前だろうに」
“五参式”の初日。
シルビアとの晩餐は滞りなく進んだ。食後の甘味を食し、茶を一杯含んだ後は互いの寝室へ引っ込むだけとなった頃、ギルベルトは口を開いた。
「…最初に言っておく。お前を正妃として迎える気は毛頭無い」
晩餐の席について彼が初めて口にした台詞がそれだった。今は気を利かせた給仕の者も退出し、二人きりとなったこの部屋に、ギルベルトの声は無情に響いた。
彼の冷たい視線を受け止め、シルビアは頷いた。
「…ええ。承知しておりましてよ。かくいうわたくしも、別に正妃の座を望んでここに参った訳ではございませんので」
「ほぅ。では何故ここに来た」
「それを陛下がお訊きになりますか?」
「それだけではないだろう。お前はお前なりに目的があったからこそ、ここに来ることを承諾した筈だ」
「どうしてそうお思いになられるのでしょう? エーデル公の手から逃れたいが為だけでは不十分とでもおっしゃるの?」
「そうだ。お前は普段上手く取り繕っているようだが、俺を舐めるな。その態度が本来のお前とはとても思えん。何故周りに偽った己を見せるのか。何か下心があると考えるのが普通だろう」
その言葉を吟味するようにシルビアは数拍、黙った。
「…ふ、ふふ。流石はバルデロを束ねる英邁なる王。レイディアの言葉は正しかったようね」
弾けるように笑い出したシルビアをギルベルトは冷めた目で眺めた。
「目的は何だ」
「ご心配なく。私は本当に正妃など望んでおりません。おっしゃる通りに慈善活動で来たのでもありませんが」
シルビアはひとしきり笑った後、呼吸一つ分間を開け、先程の笑みを完全に消してギルベルトを見つめた。
「取引しませんか?」
「何を狙っているのか定かではない者とかわす取引なんぞ論外だ」
「貴方は私を利用するおつもりでしょう?」
シルビアは笑みを作った。けれど、先程の笑みとは比べ物にならない程に、薄っぺらで儀礼的なものだった。
「何をどうするつもりなのかは存じませんが、ただ利用されるだけでは面白くないので」
「お前はお前で俺を利用しようというのか」
「その通りです」
王に対して悪びれ無く答えた。それを不敬と思うどころかかえって興味が湧いた彼は、その目的を聞いてみる気になった。シルビアは待ってましたと言わんばかりに瞳を輝かせて宣言した。
「私の恋の応援をしていただきたいのです」
いかな鋭い王でも、この時ばかりは流石に呆気にとられた。恋?
「…お前は仮にも俺の妃としてきたのだぞ。その俺に不貞の援助をしろと?」
「どうせ貴方は私を利用する為だけにここにお呼びになったのでしょう。利用される事は、本当は不愉快極まりませんが、それは良しとしましょう。問題は、利用する為に呼んだ女と伽の関係になる必要があるか否かです」
シルビアに僅かも情を持っていないなら、無理に身体の関係になる必要はないだろうと彼女は言う。しかし、少なくとも一度は王と褥を共にしなければ正式に妃として認められない。
「そんなもの、私達で口裏でも合わせればなんとでもなる事です。レイディアにも言いました。そして彼女は王に直談判すれば聞いてくれるかもしれないと言ってくれましたわ」
確かに王は習慣や慣わしなどというものに縛られた考えは持ってはいない。ギルベルトとて好いてもいない女を抱くのはもう飽きた。というよりもその対象はもう何年も前に一人に絞られてしまっているので、シルビアの豊かな胸や細い腰を見てもなんら食指は湧かない。
どれほど極上の料理を並べられても、飢えてないなら食べる気になるわけもない。
「…俺にどうしろと?」
シルビアは美しい笑みを煌めかせた。
「私をダイダス様の許へ連れていって下さいませ」
「なんだと?」
「ですから、私をダイダス様のところに連れていってほしいと言いました」
「……お前の想い人とやらはダイダスか」
ギルベルトには、あんな剣術馬鹿の何処がいいのか分からなかった。シルビアとダイダスの年の差は一回りも違う。ダイダスとエーデル公は同年代なのだ。しかし、シルビアの瞳は真剣だった。
「王の言う通り、私は妃。好きに後宮の外を歩けない。なのにダイダス様は軍の宿舎のほうに詰めていたり、王宮の軍部の執務室でお仕事なさっていたりで全く会う機会がございません。これでは何の為にここに来たのか分からないわ。だから王にはその会う手伝いをしてほしいのです。王ならば何処へでも気兼ねなく行けるでしょう? だから、その際に私も同行させてほしいんです。後は私がダイダス様を落とすだけですので。ご心配なく」
もし、王の権限でダイダスに己を伴侶とするよう命じろ、と言われたら恐らく王はその願いを突っぱねただろう。
だが、シルビアは会う手引きをしてくれれば後は己がやると言ってきた。
「…面白い」
他人の色恋沙汰には興味は無いが、相手が朴念仁のダイダス。そしてそれを狙うは王都にまで聞こえた名高い美姫。その組み合わせがもし実現したら、と考えたら愉快だった。ダイダスがシルビアに絆されたなら、その時はシルビアを下賜してやればいい。今までダイダスには散々レイディアとの事で茶化されてきたのだ。今度は彼がダイダスを高みの見物する番だ。
だから。
「いいだろう。奴の行動範囲はだいたい心得ている。軍の訓練にはダイダスは必ず来る。その時でいいなら連れて行こう。後はお前の好きにするがいい」
妃は単身では中々自由に動けない。けれど王の許可があるなら何処へだって行ける。女人禁制の訓練所でも。
「充分ですわ」
シルビアは本物の笑みを見せた。
こうして、ギルベルトとシルビアの仲睦まじげな光景が出来上がったというわけだ。
「お前は知っていた筈だ。あの女と事前に文のやり取りをしていたのだからな」
実現する筈の無い事だとしても、レイディアの口から出るのは不愉快極まりない。少しからかわれた気分だ。
「私とてダイダス様とは存じていませんでした。ただ、少々お歳を召した方がお好みだと知っていただけで」
文の中でダイダスの名は一切出てこなかったものの、書かれたいた特徴を鑑みればダイダスに行き着いたが、確信も無かったので言わなかっただけだ。どうせシルビアは王に直談判するのだ。その時に知っても遅くはない。
それに、ダイダスと美姫との恋愛というこれほど合わない組み合わせは王の関心を引くかもしれないと。
「ですから、お気に召すと言ったでしょう?」
彼女に、というより、彼女のその目的に。
その通りにまんまと興味を引かれたギルベルトは渋面を作った。
レイディアとて、シルビアを正妃にしようなどとは本気で考えていた訳ではない。ただ、本当にそうなっても問題は無いと言っただけだ。彼女は聡い女性だから。
「四年前、俺はお前を春妃にした」
「正式なものではありません。貴方の子を産んではいないのですから。ですから本当なら今の私には春妃になる資格はありません。公にもなって無い今、私との契約を破棄したところで何の障壁も…」
「では、産むか?」
レイディアの声が詰まった。
「俺の子を、産むか?」
ギルベルトはレイディアの下腹部を撫でた。そっと。それだけなのに、レイディアはゾクリと淡肌が立った。
「確かに正妃になるには王の子を生む条件がいる。ならば産めばいいだけだ。お前ももう十八。身体は充分立派な女だ。お前の腹に種を植え付ける事など容易い。今すぐにでもな」
「それは、命令でしょうか?」
己を抱え込む腕に触れる。ギルベルトは祖父に似たのかもしれない。先々王も好いた女が身籠るや即座に春妃につけた。だが、ギルベルトはその上をいく。レイディアはまだ身籠るどころか、ギルベルトと身体を繋げたことすらないのだから。
「…それが命令ならば従いましょう。契約に従って」
この事を知っているのはギルベルトと、レイディア。そして神殿奥から滅多に出てこない祭司長のみ。非公式もいいとこだ。レイディアがバルデロに来てその足でその契約を結んだ。眠たそうな祭司長を叩き起こして。普段何事にも動じない祭司長の驚いた顔を見たのはあの時きりだ。
〈二つ目は、お前が俺の妻になることだ〉
風に花弁が舞う花畑。柔らかな香りを切り払うようにその声はレイディアに叩きつけられた。彼のものとなる代わりに国の民に手を出さない事を。
レイディアに、拒否権など無いのに、何故聞くのか、とレイディアは言外に問う。
「……………」
レイディアとギルベルトの瞳が、互いに固定されたまま暫く経った。
「…いいだろう。今はまだ、お前の好きにすればいい」
ギルベルトの腕の届く範囲での自由。少し手を伸ばして待っている。人や動物と戯れ、歌い踊り、やがて遊び疲れたレイディアがギルベルトの腕の中に帰ってくるのを。
女奴隷として働くのは彼女が望んだこと。レイディアがギルベルトの腕に帰って来た時、その自由は終わりを告げる。
レイディアの髪に口づけを落とす。張り詰めた会話の終了の合図を受け、ようやく身体が解放された。一晩温まった身体が外の冷気に晒されて、ほんの一瞬、ギルべルトの腕が惜しいような変な気分を味わった。
ギルベルトが寝室から出ていき、それと入れ変わる様にして女官長のフォーリーが入ってきた。
「お目覚めでございますか」
「…ええ」
つい先程まで与えられていた刺激が身体を疼かせるが、まぁ目は覚めた。
「ではお着替えを…」
「いえ、その前に………――?」
レイディアは自分の身体の違和感に気付いた。
先程のせいで身体に朱色が散ってしまってはいるが、身体がさっぱりしている。
レイディアは昨夜、正体が無くなってしまい、身体を清めていないはず。だから着替えの前に湯あみをしようと思ったのだが…。
「どうしました?」
「女官長…。私をお風呂に入れて下さったのは貴女ですよね?」
期待を込めて。けれどフォーリーはあっさり否定する。
「いえ、わたくしは。陛下がレイディア様をお離し下さいませんでしたので」
何やら含みのある笑みだ。
「……」
彼と湯に浸かるのは初めてでもない。今更、うろたえるのはおかしいのかもしれない。ただ、記憶がないから心許無いだけで…。
「如何なさいます?お湯を用意致しましょうか?」
「…。…。…着替えをください」
レイディアは微笑ましそうに自分を眺めるフォーリーの顔を見れず、ただ手を出した。
衣服に袖を通す中、レイディアは口を開いた。
「シルビア様のご様子は?」
「ええ、御無事ですよ。お怪我もなくお元気です。今朝、目が覚めるや否や貴女に会いたいとおっしゃられていました」
「そうですか。クレアがちゃんと守ってくれたのね。良かった」
「ええ。秋妃様は気丈な方です。昨日のメリネス様の毒薬騒動もございますのに…」
毒薬。レイディアの指先が僅かに強張った。
フォーリーはそれに気付かず言葉を続ける。
「メリネス様は一命を取り留めましたが、神経を侵す類の毒だったのか、身体の一部が麻痺してしまったようで…腕や、お言葉も不自由になってしまわれました」
「…メリネス様の処遇は?」
「まだ決まっておられません。しかし、あのような騒ぎを起こしてしまわれたのですもの。恐らく辺境の地に生涯幽閉か、死を賜わることとなりそうです」
「…そう」
妥当なところだ。別段意外にも思わずレイディアは頷く。
メリネスの身分を考慮すれば幽閉の線が濃いだろう。しかし、メリネスの実家も、いくら古くからの名門といえど、一族の者が王の膝元で毒事件を起こしたとなればこれ以降衰退していくのは必至だ。彼女は生涯一族の面汚しと罵られて生きていくことを思えば、死刑を免れたとしても、それが幸か不幸か分からない。
レイディアは事の真相に心当たりがあるだけに、尚更メリネスが憐れに思える。フォーリーが聞こえないくらいに呟く。
「……本当に貴女は―――」
「――恐ろしい方ですね…………ムーラン様」
レイディアの視線の向こう、優雅にグラスを傾けるムーランがいた。
「あら、何のことかしら?」
「此度のメリネス様の件ですよ」
「ああ、メリネス様におかれましてはお労しく存じますわ」
レイディアの目が心持ち強くなる。
「貴女は薬に詳しい。貴女のご実家は代々薬師の一族ですからね。メリネス様に毒を渡し、彼女自身にも盛ったのは貴女でしょう?」
ムーランは眉を下げて、さも心外そうに反論した。
「ひどいわ。何故そんな残酷なことを、わたくしがしなければならないの?」
「貴女は以前からそうでした。後宮で誰かを殺そうと目論んだ方を、狙われた方共々葬ってきましたね」
四年前からいるに過ぎないレイディアだが、過去の情報が無いわけではない。
「動機がないわ。証拠もないのに無礼ですよ」
「そうですね。貴女にはその方達を手にかける動機なんてありません」
同じ男を巡って争う恋敵という理由では、後宮の女全てに当てはまる。
ムーランはグラスを回した。
「そうでしょう?わたくしには彼女達を殺める理由はないのよ」
「ですが、今回はさしずめ、いい加減目障りだった、というところでしょうか」
メリネスにシルビアに盛る為の毒を渡したのも、おそらくこのムーラン。
「証拠は何もございません。貴女がメリネス様の声を奪ってしまいましたから」
ムーランは誰にも殺意は持っていない。必要ないからだ。ムーランは殺意もなく人を手にかける。一族が、彼女を恐れて後宮に押し込めようとするくらいに。彼女は毒に狂ってる。
「メリネス様のお口が麻痺してしまったことを言っているのかしら? わたくしが、いつ、毒を盛る機会があったというの?」
「そうですね。例えば、お茶会でメリネス様がクッキーを出し、皆に配られた時、とか」
メリネスはお菓子の皿を手ずから配っていた。手の触れるその一瞬。ムーランなら、その一瞬で事足りる。
「そんなこと出来たら既に神業の域じゃなくて? 一貴族の娘でしかないわたくしにそんな事不可能だわ」
「――だからこそ恐ろしいと言ったのです」
毒を扱う事に対してではない。呼吸をする様に、ごく自然にやってのけるその鮮やかさにだ。蔭でもない、真実一貴族の令嬢でしかない彼女の天性の才能。訓練された訳でもないのに、始めから人の殺し方を知っている。
初めてムーランと相見えた時、レイディアは気付いてしまった。柔らかな笑みの奥のにある血の匂いに。
「…それでも貴女は御自分を律することが出来る方。だから、自身に制約をかけた。誰かに殺意を持った人間のみを対象にするという」
ムーランは人を殺す事に長けてはいるが、殺人に快感を見出している殺人鬼ではない。だからこそ一族の者も排除こそしなかった。何もしなくても許される後宮に押し込めたのだ。
ムーランは微笑んだ。
「それともう一つ。陛下が疎んじた女、というのも対象者よ」
慈愛に満ちた笑みだった。
王は既に妃達への関心を失っている。元々女に優しい男ではないから気付いている者は少ない。けれど、一歩引いた形で王を見ているムーランにはよく見える。
妃の実家が王の利になるならまだいいのだが、既に実力の伴わない、王にとって取るに足らない存在でしかなくなったのなら…。
「先の見えている家なんて、後々面倒な事にしかならなくてよ」
メリネスの実家は古い名門だが、ローゼの家とは違い、あまり権勢が振るわなくなっていた。一族の中にも目ぼしい人材も育っておらず、遅かれ早かれ衰退するのは目に見えていた。けれど、古参の血族ほどかつての栄光にしがみ付く傾向が強い。何とかして盛返そうとして、結果、国を乱すかもしれない。
だからこそ、家柄以外に取り柄の無いメリネスを、今のうちに摘み取っておこうと思った。
「ねぇ? 誰かを殺そうと思ったなら、自分も殺されたって仕方ないと思わない?」
メリネスが穏やかで物分かりが良く、シルビアを歓迎できるような性格であったなら、ムーランは放っておいただろう。大人しく日陰の身に甘んじてくれるようであれば。
でもそうでなかった。メリネスは自尊心ばかりが高いだけの、家の権力に縋るしか能の無い典型的な愚かな令嬢。今まではローゼというメリネスも認める貴婦人がいたから、二番手でも何とか耐えられたから大した騒ぎも起こさず生きてこれただけの女だ。
「それにね、わたくしシルビア様を気に入っているの。あの猫っ被りなところが微笑ましくって。だからシルビア様の毒は遅効性にしたわ。どうせ貴女が阻むと思っていたし、万が一でも、貴女なら充分に対処出来るでしょう?」
ムーランはグラスに残っていたワインを飲み干した。
「だとしても、本当に死んでも構わないとも思ってましたでしょう?」
殺す気がないなら、偽の薬なり死に至らない物を用意すればいいだけの話だ。
ムーランは微笑を浮かべたまま答えなかった。
レイディアはムーランの部屋から辞したあと、シルビアの許に向かった。
「レイディア!」
シルビアは満面の笑みを湛えてレイディアに飛びついてきた。
「おはようございます。ご無事で何よりです」
「レイディアも。引き離されちゃったから心配だったのよ」
シルビアの頬に赤みの差した顔色を見て肩の力を抜いた。
ムーランは、彼女の言う通りシルビアを殺す気は無かったのだろう。ただ、メリネスが殺意を持っていたから、それに応えただけだ。
ムーランは自主的には動かない。彼女にそこまでのやる気は無い。一応釘も刺した。暫くは後宮で問題は起こらないだろう。だから、彼女は知らなくていい。
「…レイディア?」
シルビアがレイディアの顔を覗き込んだ。咄嗟に目の伏せて首を振った。
「いえ、何でもありません」
予感がする。うねりが忍び寄る。レイディアの抵抗など何の効果もない程に大きな何か。
「やっぱり昨日の今日だものね。疲れたでしょう? なのに呼び出したりしてごめんなさい」
「私は唯の使用人ですから、そのようにお気遣い下さらなくてもよろしいですよ。シルビア様の方がお辛かったでしょう」
「私は平気。親友とも再会出来たし。ダイダス様とお話しできたし。寧ろ嬉しい事の方が大きかったわ」
満面の笑顔。彼女の親友。ロジェスティ家の一人娘。
「そう言えば彼の家は再興の為にかつて仕えていた商人や使用人達を捜したりするのに、ノートレスタ家が一肌脱ぐそうですね」
「そうなの! 父がやる気でね。やっぱりライバルがいないと張り合いがないって。オーロラが女当主となって頑張るみたいよ」
彼女の夫である男は結局捕まらなかったらしい。離婚は夫の承認が必要だ。しかし、王の口添えもあって今回は特別に許可が下りるらしい。友人の幸せを願い、新しい未来に向かって希望に満ち溢れたシルビアは、本当に白百合の様に清らかだ。
「そうですか。なら彼女達はもう心配ありませんね」
「ええ。本当に嬉しいわ! 暫くは立て直しに忙しくなるけど、また前みたいに会えるのよ。そうだっレイディアにも紹介したいわ」
ロジェスティの屋敷。商人風の男。巨万の利益の為にエーデル公やロジェスティを利用したと彼女達は思っている。けれど、正体はそんな可愛いものではない。
「ええ。今回は私はオーロラ嬢にお会いできませんでしたが、機会があれば是非」
レイディアを掴む手。寄せる唇。私はその手を振る払えるだろうか…。
〈御兄上様がお待ち兼ねでございますよ〉
レイディアはそっと、目を閉じた。
「ゼギオス」
椅子に座りパラパラと本を捲っていた面長の男は顔を上げた。
「なんだ」
「なんだじゃないわよ。あんたどういうつもり?」
ソネットは厳しい目をしてゼオ――ゼギオスを睨んだ。
「どうもこうも、何の話だ。俺は命令通り動いただけだが」
「何で奴らの邪魔しなかったのか聞いてんのよ」
切りこむ様な視線にゼギオスはゆるりと笑う。
「俺はずっとエーデル公の傍にいたんだ。奴らが何をしているか分かるはず無いだろう?」
ソネットは人差し指をゼギオスの顎に添え、持ち上げた。
「白々しい。屋敷のゴロツキを集めたのはあんたの癖に」
「奴らに集めろと言われたから適当に集めただけだ。別にいいだろう? どうせ社会のゴミだ。お前だって奴らを一網打尽に出来て手間が省けただろう」
「善良な一般人二人組は?」
「…ああ、あの髭とガリか。そいつらは特別に頼まれたんだ。巫女の傍に置いておく為の、善良で非力で、万一の事があっても揉み消すのに何の苦労も無い平凡な一般人を、ってね」
「…何故?」
「聞くまでもない。あちらさんは巫女が俺達バルデロ側に洗脳されてると思い込んでる。だから巫女に自分達はひどい事をする人間だと思われてるはずだってね。だから人質が欲しかったのさ。巫女が逃げたらこの人間が害するぞ、ってね。巫女はお優しいから見知らぬ人間であっても見捨てられない。だから善良で、傍に置いても変な野心を持ちそうにない人間が欲しいって言われた」
「外道が」
「全くだ」
「いいえ、あんたの事よ」
「俺? 単に奴らの言う指示に従ったまでだ。下手に断ると疑われかねなかったもんでね」
「あんたなら上手く立ちまわれたでしょう」
レイディアが正気を失って、結局男達のいる意味は無くなったと言ってもそんなのは結果論だ。言い訳にもならない。
「あいつらの策が上手く嵌ってたら、ディーアちゃんはあいつらの狙い通り、全く抵抗も出来ずに国外に連れ去られていたわ!」
「どうせ王が奪還するだろうに」
「あんたふざけてんの? 未然に防がなきゃいかんに決まってんでしょう? 危険な目に遭ってる時点で大問題だわ」
ゼギオスは嗤った。
「…あんた、何考えてんの? 私達を裏切る気?」
「いいや」
ゼギオスは笑みを作ったまま立ち上がり、ソネットを見下ろした。
「俺は蔭の立場を気に入ってるんでね。ここから出ていく気はないし、裏切る気も毛頭ないよ」
「じゃあ、ディーアちゃんを害して、どういうつもり?」
ゼギオスの脳裏に深緑の髪が流れる。あの少女を想うだけで自然とその声音は睦言の様に甘くなった。
「俺は、あの女が大嫌いなだけだよ」
こんばんは、トトコです。
今回はすごく長くなってしまって申し訳ありません。
感想評価して下さった方ありがとうございます。いつも画面の前でニマニマしながら読ませていただいております。
活動報告のほうにホワイトデー用に小話も載せてありますので、よろしければそちらもどうぞ。