第二十二話
封じた記憶がある。決して開けてはいけない禁断の箱。
私は人形。何も感じない人形。そうでなければいけないのだ。決して開かないように。
大丈夫。ずっとそうしてきた。置物になるのは慣れている。温和に、柔らかく、無機質な笑みを浮かべるのには…。
そのはずなのに、心臓の音は治まるどころかますます酷くなっていった。まるで全身が心臓になったかのようにドクンドクンと全身が脈打つ。心臓が痛い程に跳ねる。息が絶え絶えになる。呼吸が上手く出来ない。空気を求めてレイディアは喘ぐ。
「ひぅっ…く…ぅ……」
とにかく苦しくて身を捩る。己を庇うように両腕を身体に回した。
レイディアは目を瞑って自分に言い聞かせる。
大丈夫、私は人形。何も感じない。私は人形。私は人形。私は……―――――
―――本当に?
身体がびくりと竦む。頭に直接響くはあの方の声。
――人形に心臓なんてあるのか?じゃあ、このうるさく主張する音は、何だい?
「――――ひっ……」
鈴、鈴。鈴は何処?私を静めて。箱が、開いてしまう前に。
閃きそうになる彼の人の笑みを振り払う。レイディアは鈴を求めて濁流の中を足掻いた。レイディアを安らかにしてくれる、己が半身の鈴を。
クレアは道を急いでいた。
クレア達が連れて行かれた場所はエーデル公の都にある屋敷の一つ。そこもこちらであらかじめ抑えていた場所だったので、現在位置を把握するのは容易かった。
クレアは街の地図を頭の中に思い浮かべる。ここから、ロジェスティ家の所有する屋敷で一番近い所を素早く算出する。
その結果に従って最短距離を弾き出し、狭い路地や屋根の上を伝って候補地に向かう。
目的地まであと僅か、というところで進行方向に一人の老婆がいた。履物が壊れてしまったのか、もはや履けそうもない片方の靴を手に、立ち往生している。
急いでいたクレアはそのままやり過ごそうとした。
その老婆の周りに通行人はいた。しかし、彼らが老婆に手を差し伸べる気配はない。みすぼらしい服装の老いた人間に情けをかけて何の利益にもならないから。
…クレアはそれでもレイディアが最優先と、なるべくそちらを見ない様に追い越そうとした。
〈――――では、一日一善を宿題に出しましょう。そうすれば否応なく周りを見渡すことになるでしょう? 困っている人をそのままにせず、助けてあげましょうね。それに、良い行いには、良い事が返ってくるのよ〉
レイディアの声がクレアの脳内に響いた。知り合った始めの頃、クレアがレイディアに拾われた際に言われた言葉だった。
「…………………………」
ついにクレアの足が止まった。
「…ちっくしょ」
身を翻して困り切った顔でおろおろしている老婆に近づく。
「お婆さん? どうしたんですか?」
苛立ちを抑えて、努めて可愛らしく話しかけた。
「靴の底が破けてしまってねぇ…これじゃあもう歩けないから困ってたんだよ」
近くで見てみると、やっぱり靴は汚れてボロボロだった。長い事履き潰された靴はとうとう老婆の重みに耐えきれず底がぱっくりと破けてしまったようだ。
見るからに足腰の悪そうな老婆が裸足で歩くのは危険だ。尖った石や枝なんかも落ちている道に、恐らく目も悪くしているこの老婆が歩いたら、その結果は火を見るより明らかである。
「お婆さん、お家は何処ですか? 良ければ送りますよ?」
幼少とはいえクレアは武術の心得がある、人一人担いで平坦な地を歩くくらいどうという事は無い。
「ああ、ありがとうね…でも、お嬢ちゃんじゃわたしを担ぐのは…」
お婆さんはその親切な言葉に嬉しそうに笑いながらも、クレアの体格を見て、躊躇いを示した。
「大丈夫です! 僕これでも力持ちなんですよ?」
さっさとしやがれ、とは言わなかったが。クレアは老婆を送って行こうと老婆を背負おうとした。
「あの、良ければ俺が担ごうか?」
振り向けば勇気を出したかのようにクレアに声をかけた青年がいた。
「あの、そのこれでも男だし…」
「あ…わ、私も。お婆さん、足怪我してるでしょ?手当しなきゃ」
それを契機に通行人が集まってきた。どうやら小さい子が老婆を助けようとしたのを見て、老婆が気になっていたものの、声をかける勇気の無かった者達が、クレアに後押しされる形で集まったらしい。
…こんな所で感動劇を繰り広げている場合じゃねぇってのに…。
顔を顰めるのを抑えているうちにもどんどん周囲に人が集まってくる。そしてあっという間に老婆に手厚い対応がとられた。何処から湧いたのか靴屋が新しい布履きを持って老婆に提供していた。
クレアは笑みを絶やさなかった自分を褒めてやりたかった。後でレイディア様に頭撫でてもらおうと決心する。
「あの…このお婆さんを任せてもよろしいですか? 実は僕…先を急いでいたんですが…」
「おや、そうだったのかい?」
「はい…。でも困ってる人を放っておけなくて…」
目を伏せて、顔を俯けるクレアに青年は優しく頭を撫でた。
「君はとてもいい子だね。大丈夫だよ。お婆さんは僕達で責任もってお世話するからね」
青年の目に少女の笑みが煌めいた。青年は、急ぎの用があるのに、でも老人を放っておけない板挟み状態になっていた心優しい女の子が安心するように見えた。
内心、してやったりという思いのクレアだったが、知らぬが仏、だ。
クレアは意気揚々と再び道を急いだ。
「もー! キリが無い!」
ソネットはボコボコ出てくる凶手達に、いい加減うんざりしていた。流石のエリカも、専門に訓練された凶手が何人も相手では瞬殺とはいかない。
「邪魔だなぁ」
とはいえ、着実に敵を減らしていった。エリカは素手、それに対し向こうはぎらつく鋭利な武器。丸腰のエリカが彼らに対して優勢なのは、味方ながらになんだか騙された気分だ。
「みっちゃんも手伝ってよぉ」
「私、非戦闘員だから」
あっさり却下した。エリカを最前線に戦う配下の蔭達とは対照的に、ソネットは後方で観戦している。
「うそつきはいけないんだぁ」
「二・三人くらいならね。でもこいつら結構腕立つし、私が加わったことろで大して助太刀になんないでしょ?」
今のところ、流れ矢を打ち落とすくらいでソネットは動く気はない。向かってくる敵は配下に打ちとらせている。
ソネットは諜報部隊だ。それなりに武器は扱えるよう仕込まれているがエリカ達実戦部隊と違って本業ではない。彼女らと比べてソネットの実力はたかが知れている。
暫く膠着状態が続いたが、戦闘の輪の外から眺めていたソネットは、徐々に敵が後退しているのに気がついた。
エリカ達が押しているのか?いや、違う。自ら撤退し始めている。本気で殺しにかかってくる割に、深くまで踏みこんでこないのはその為だ。
それに気付いたソネットはある可能性に行き着いた。
これも、時間稼ぎだとしたら…?では何の為の?それは、当然…
「…っお前達!」
配下に向かって叫んだ。
「こいつらはエリカに任せてディーアちゃんを捜しなさい! こいつらは唯の足止めよ!」
こいつらは二重に足止めを仕掛けてきた。命令に即座に反応した配下。しかし、それを読んだかのように敵方もそれに合わせて行く手を阻む。
「…チッ」
ソネットは裾から長針を取り出し、敵に向かって投げつけた。
「…さっさと行きなさい」
一瞬で仕留めた敵を踏みつけて、“ミレイユ”の顔で、配下に再度命じた。
何がどうなっているんだ…。
痩身の男は、一般的な、しかし平民にとっては豪奢な馬車の中でがたがた震えていた。
あの部屋で、目覚めた少女が叫んだ。吃驚した。しかし、その後の事態にはもっと驚愕した。
屋敷の主、つまり商人風の男が手下を引き連れて部屋に踏み込んできた。
「貴様ら! 何をしている!」
鬼の形相とはまさにこの事で、一瞬で委縮した彼らは訳も分からず許しを請うた。必死の弁明あってか、男達が少女に悪さした訳ではないと悟った彼は、寝台で蹲る少女に手を差し伸べた。
「申し訳ございません。やはりこのような下賤の者と同じ部屋では息も詰まりましょうね。さ、馬車の準備も整いました。窮屈な思いをさせてしまいますが、全ては貴女様の為。どうか、ご理解ください」
部外者の男達から見ても、優しく語りかける男に嘘は無い。けれど、少女は明らかに何かに怯えている。その原因は、こいつらに繋がっているように思えてならない。
「おい」
商人風の男は手下に顎をしゃくった。手下は無言で叩頭し、男達の片割れ、痩身の男の腕を掴んだ。
「お…おい。何すんだよ」
痩身の男の抗議は当然無視された。
「お前のような者を同乗させるのは遺憾しがたいが…彼女は我らだけでは従ってくれぬだろう…この方のお傍にあれるのを有り難く思え」
別に一緒に行きたいなど男達は一言も言っていない。男達が何を言ったところで彼らが聞き入れる事は無いだろうが…。
商人風の男が差し伸べた手に目もくれず、蹲ったままの少女をこれまた優しげに抱き上げた。少女は、びくりと身体を震わせて身を捩ろうとしたが、男がそれを許さなかった。
「大丈夫ですよ。我々は貴女様を傷付ける者ではありません。どうぞ、お心安らかになさってください」
優しい。優しいのに…。傍から見れば従順な従僕が主を慰めている様なのに、少女が怯えているせいか、彼のやっている事はまるで人攫いだ。
男達の抵抗も虚しく、痩身の男は、相棒の胡麻髭の男と引き離されて馬車に放り込まれた。
何がどうなっているんだ…。
胡麻髭の男は、豪奢な部屋に一人取り残されて、心細い思いを味わっていた。
部屋の中はしんとしている。先程の騒動の後ではその静けさは一層身に沁みる。
相棒と引き離された事もその一因だが、何より先の見えない事態に足が一歩も踏み出せない。
どれくらい時間が経ったのだろうか。胡麻髭の男は笑う膝を立てて、重たげに身を立たせた。
「あいつを、取り戻さねぇと…」
これまでの人生では無縁だったきな臭い事件。訳の分からないまま流されてきたが、流石に相棒を見捨てる事は出来ない。長年一緒に仕事してきた相棒。こんな時助けてやれなくて、何が仲間だ。
男は意を決し、大きな観音扉を開いた。
少しだけ開いた扉から鼻先だけ出して外を伺おうとした。
途端、鼻先を掠めて人が飛んでいくのを目の当たりにして、男は腰を抜かした。
敵を全て片し終え、ソネットはパンパンと手を叩いた。ついでに服の誇りも払う。
「みっちゃん」
エリカの声。振り向かなくても分かる。それは嬉しそうな顔をしているのだろう。
「やっぱりお菓子、十日分にして?」
ご褒美を期待する様な声。顔の半分だけ振り返り、目線を斜め上にして、山の上に立つエリカを見上げた。
「エリカ頑張ったでしょ?」
「…考えとくわ」
身体を弛緩させ、折り重なって山と為しているそれは、全て人。
「やた」
にっこり笑う。褒められた子供みたいに。無垢に。
山から洩れる呻き声。誰も死んではいない事が分かる。エリカにしちゃ妙に手こずっているようだったのは、最初からお菓子を十日分にしてもらう為だったのだと気付く。
「…本当に、恐ろしい子」
ソネットははぁ、と溜息をついた。
「みっちゃんに言われたくない」
エリカが頬を膨らます。この人山はエリカ一人がこさえたものではないのに、と。
「私の長針は元々殺生能力は低いものだから。力に訴えるあんたとは違うの」
エリカの抗議を流し、ソネットは考えに没頭した。
何はともあれ、こうして情報源は確保した。後はレイディアを見つけられれば万事解決なのだが…。
「ミレイユ様」
丁度その時、配下が戻ってきた。同時にあまり良い報告ではないのを悟る。
「レイディア様はどちらにもいらっしゃいませんでした。しかし…」
配下の報告にソネットは首を傾げた。
ソネットは報告に従ってその部屋に行ってみると、一人の男が配下によって拘束されていた。
「この男?」
「はい。この部屋に、この男のみがいました」
「ふぅん…」
腰を抜かしている目の前の胡麻髭の男はどう見ても平民だ。身なりと部屋の調度品が釣り合わない。どうしてこんな所に、と思うが、ソネットの情報網に一つだけ、引っかかる情報があった。
恐らくこの男は…
「ディーアちゃんは…?」
考え事をしていたソネットの背後でエリカが呟いた。
「ディーアちゃんは…?」
同じ問いを繰り返した。配下は咄嗟にエリカと距離をとった。
「お前は…あの時の…」
その声に胡麻髭の男は気付いた。王都に向かう途中で出会った不思議な女だと。
「ディーアちゃん、何処行ったの…?」
エリカは俯いて問いだけを繰り返した。ソネットは次のエリカの行動を察知し、エリカに待ったをかけた。
「お待ち! そいつは唯の一般人よ!」
「ひっ…」
胡麻髭の男の首の皮一枚のところでエリカの手が止まった。
「…ディーアちゃんは?」
「あらかた、さっきあんたが倒した奴らの仲間が、この人の仲間と一緒にディーアちゃんも連れてったってトコでしょ」
冴えない顔した男二人が臨時の仕事を探しているという情報。それを聞いたソネットは、その時はさして気に留めなかったが、まさかこんな所で役に立つとは。エリカの爪が離れた箇所から血が一筋垂れる。しかしそれにも気に留めず、ソネットの言葉に男は目を見開いた。
「相棒を知ってるのか!? だったらお願いだ! あいつを助けてくれ! 俺の仕事仲間なんだ! ここの屋敷の主に連れて行かれた!」
「…可愛い女の子も一緒じゃなかった?」
「あんた方が探してる女の子かは知らねぇが、深緑の髪をした女の子なら、やつらと一緒に…!」
その言葉を聞くや、エリカは窓から飛び出していった。
「こらっエリカ!」
もはやソネットの言葉を聞かずに、エリカはレイディアを追って消えた。
「もう…あの猪娘」
「え…いや、なんであんたら冷静なんだ…ここ五階の筈なんだが?」
「貴方が気にすることじゃないわ。あの子はこれくらい平気よ」
潰しても死なないから、というソネットの言葉に胡麻髭の男は口を引き攣らせた。
クレアはもうじき目的地に着く、という所で馬車とすれ違った。
「…ん?」
少し裕福な者なら手に入る程度のごく一般的な馬車だ。田舎では珍しいが、王都ではゴロゴロ転がっている。
普段なら気にも留めないその馬車が、クレアはどうにも気になった。立ち止って振り返る。
「…」
単純に、目的地の方面から走ってきた、というだけだろうか?しかし、あの一帯は、裕福層の住居区で、あんな馬車腐るほどある。
にも拘らず、どんどん遠ざかり、ついには角に消えた馬車に対してどうして焦りを覚えるのか。
追いかけて間違っていたら、その分レイディアが危険に晒される危険性が増す。クレアはこういう時瞬時に即断する事が出来ない。幼さゆえか、経験不足ゆえか、いづれにしてもクレアは前にも後ろにも進めず暫し立ち往生した。
数秒経ち、とりあえず屋敷の方へ行こうとしたクレアは、屋敷の方面から何かが近づいてくる気配を察知した。
振り返ると、エリカだった。
「…え? エリ姉? 何でこんなとこに…」
レイディアの部屋で寝てたんじゃなかったのか。しかし、エリカの方はクレアに気付いてもいないようで、一目散に街道を突っ走る。
あっという間にクレアを抜いていく。エリカがあんな風になるのはエリカが執着する数少ない大切なモノに対してだけだ。今の場合、レイディアである可能性が高い。
「…ま、待てよ! エリ姉!」
クレアは、エリカを追いかけた。
馬車は速度を落とす事無くもはや月の覗き始めた王都を併走していた。向かうは王都の出口、関門。
このまま行けばいくらもせずに王都から出られる。閉門間際にすり抜けられれば、追手はそう簡単に追って来られまい。手下達からほっと安堵する気配が伝わってきたが、商人風の男は気を抜かなかった。彼の主から言い含められた言葉からすれば、勝負は、これからだからだ。
――――来る。
彼は馬車を減速させた。手下がその意図を察する前に、馬車の車輪のすぐ傍に矢が放たれた。そのまま走っていれば矢は確実に車輪を破壊していただろう絶妙な位置。
手下が騒然とする中、商人風の男は唇を舐めた。
ザリ、と砂を踏む音。微かな音の筈のそれは妙にその場に響いた。
「…来たか。バルデロ王」
「―――俺の小鳥を返してもらおうか」
背後に矢を番えた漆黒の配下を従えたこの国の王が、彼らの前に立ちはだかっていた。
馬車に揺られているレイディアは、今の状況が分からない程に憔悴していた。身体の疲労だけでなく、精神も限界まで擦り減っていた。
夢の残像がいつまでも消えてくれない。忘れたい記憶がいつまでも追いかけてレイディアを離さない。レイディアは為す術も無く馬車に乗せられ、王都を走る。
それでも、気絶だけは避けたいと、必死で意識を保っていたけれど、それも時間の問題だった。
もうダメだと、意識を手放しかけた時、待ちかねていた音が聞こえた。
―――リン
その一音でレイディアは救われる。
ああ、あの人が…来てくれたんだ…。レイディアは目と閉じた。
「この方は元より我々の大事な方。貴様が力にものをいわせて奪っておいて何という傲慢な」
「あれを物言わぬ人形に仕立て上げて神殿奥に閉じ込めていた輩がとやかく言える事か」
ギルベルトの周囲を殺意に満ちた黒い集団が取り囲んでいく。今にも破裂しそうな緊張の中、ギルベルトは自室にいる時と何ら変わらぬ態度で悠然と構えていた。
「あれ、だと?あの方は神の愛し子であるぞ! お前の所有物ではない!」
「そんなに神を崇めたいなら、綺麗な石でも壇上に置いて好きなだけ拝んでいるがいい」
嘲笑う様な台詞に、ついに彼らの我慢の糸が切れた。
足を踏み出してギルベルトに切りかかる敵を声は正確に射抜く。
「怯むな! 相手はたかが二人! 勝機はこちらにある! 一斉にかかれ!」
円を描いてギルベルトらを取り巻いていた敵が一斉に輪を縮めた。
声は矢を捨てて刃の付いた円盤の様な物を取り出し、それを振り投げた。
「グァ!」「ギャア!」
円盤が通り過ぎるそばからそこかしこに血飛沫があがる。綺麗に彼らを一周した後、円盤は正確に声の手に戻った。
「王よ。この者達はわたしが…」
「ああ」
ギルベルトは当然というように頷き、レイディアのいる馬車へと歩き出す。
商人風の男と側近の者達が武器を構える。
ギルベルトも腰に佩いた剣を鞘から取り出し、鈍色の刃に月を映した。
王の剣が一閃する。正確に馬の脚を狙ったそれは、馬車の機能を失わせ、彼らの逃げ道を塞いだ。
「ここから、生きて出られると思うな」
死の宣告。慈悲の欠片も無いその瞳は、命乞いなど無駄な事だと悟るには充分。
しかし、彼らは元より命乞いなどする気は無い。
彼らも幼き頃より武芸を叩きこまれた精鋭。油断なく王を見定め、王に切りかからんとした。
「ディーアちゃん!」
彼らの雄叫びを遮る様に、場違いに明るい女の声と供に、唯でさえぐらついていた馬車が横倒れになりそうになった。
「…あの馬鹿」
ギルベルトは手にある剣を馬車が傾いた側に向かって勢いよく投げつけた。馬車は剣に押し返されるかたちで転倒を免れる。
中にはレイディアがいるのだ。馬車が倒れて怪我でもしたらどうする。
後で仕置き決定だな、と一人ごちる。
一方、屋敷での際にもエリカの猛威を食らった男達は任務の失敗を悟った。これ以上踏み込めばエリカと目前に迫る王によって潰される。
商人風の男が笛を取り出し勢いよく吹いた。その音を合図に声と戦っていた黒い集団は一斉に身を引いて闇夜に消え、彼らもそれに続いた。その連携は流石に手練れというだけある。
「追え」
ギルベルトの一言で声は彼らを追って消えた。
その馬車を見つけた時、エリカは大喜びで飛び付いた。周囲など全く眼中にない。
エリカはようやっと見つけた探し物に駆け寄った。
「見ぃつけたっ」
えへへ、と嬉しそうに馬車に体当たりして鍵のかかった戸を抉じ開ける。
「な、誰だ! って…あれ…お…お前ぇ…」
胡麻髭男と同様、エリカと面識のある男は一瞬驚愕の後、首を傾げた。エリカに痩身の男が目に入るわけも無く、その目はひたすら求めていた姿を映す。
「ディーアちゃん」
簡素な寝台に眠るレイディアに抱きつく。
しかし、いつまで経ってもレイディアの背中を撫でてくれる感覚が一向に訪れない。
「…ディーアちゃん?」
流石に不思議に思ったエリカは、顔を上げてレイディアを見下ろす。
エリカが大声を出して、あまつさえ飛び付いたのにも関わらず、レイディアは全くエリカの存在に気付いていなかった。身体を丸めて自身を抱きしめて、嵐が去るのを待っているかのようにじっとしている。
「ディーアちゃん?」
ゆさゆさと揺する。
「ディーアちゃん? エリカだよ? こっち見て? お膝、枕して? ねぇ…」
エリカの声音は段々哀しげに小さくなっていった。しかし、どうあってもレイディアは自分を見てくれない。
人に対する機微というものが欠落しているエリカにも、レイディアに対してだけは、何かがあった、くらいには察することが出来た。
エリカの中に再度もやもやしたものが湧きあがってくる。それが噴き出されようとした時、エリカは問答無用でレイディアと引き離された。
シアに奴らを追わせた後、ギルベルトはすぐさま馬車に駆け寄った。
質素な馬車の中、即席であつらえられたと分かる寝台の上に探し求めていた姿があった。
「レイディア」
傍にいた障害物が邪魔だった。
「どけ」
「ふみゅ」
ギルベルトはエリカの頭をわし掴むと外に放り投げた。
そして、ギルベルトはレイディアを抱き上げようとして、視界の隅に男を見つける。
「お前は何だ?」
馬車に揺られるままに体勢を崩して眼を回していた男を睨めつける。ギルベルトは単に視線を寄こしたつもりなのだが、密着が余儀なくされる狭い馬車の中にレイディアと同乗していたという事実は、自然とギルベルトの視線を厳しいものにさせた。
「へ…いや俺らは…あ、いや、今は一人だけど…お、俺…」
「奴らの仲間か?」
田舎者である痩身の男が、ギルベルトをこの国の王だとは分かる訳がないが、人を見下ろす立場の者特有の空気とでもいうのか、その威圧感が痩身の男を畏まらせる。
「と…とんでもねぇです!お、俺は唯の荷運びの男で…やつらに雇われただけのしがない田舎者でさぁ!」
「あぁ、いい。お前の素姓に興味は無い」
「は…はぁ」
「お前はこれに触れたか?」
「は…はぁ?」
意図的に触れた訳ではないが、先程馬車が揺れた時、手が彼女に当たった気がする。が、何となく触れたとは言えない雰囲気だ。
「触れたのか?」
答えない彼に焦れたのかギルベルトの眉が寄る。はっとして男は必死で否定した。
「触れてねぇです! 雇い主にも触れるなと言われておりやしたんで! はい! 雇い主は抱き上げなすってましたけども…」
余計な事を言った。
「抱き上げた?」
男のした事ではないのに、どうして自分が責められるのだ。理不尽に感じながらも善良で小心者の彼はおろおろと弁明した。
「あ…で、でも毛布越しでしたし! 直には触れてなかったかも…」
ところがギルベルトはもはや聞いてはいなかった。あのリーダー格の男は捕まえ次第、抹殺を決意する。
「あ…あの…それで、俺はどうすりゃいいんでしょぅ…?」
急に黙りこんだ彼に恐る恐る声をかける。早くこの状況から解放されたい一心での決死の覚悟だ。語尾が萎んでいるのはご愛嬌である。
「出てけ」
「はぃ?」
「お前の処遇はソネットにでも聞け。今は馬車から出ろ」
「は…はいっ」
ソネットって誰だ、と思いつつも逆らってはいけないという本能が命じるまま馬車を転がり出た。
「いひゃい…」
「いくらエリ姉でも王には敵わないよ…」
やっと追いついたクレアは、尻を撫でるエリカを見降ろした。
「エリカが見つけたんだよっ」
不満そうに呟く。しかし何度レイディアに近づこうとしてもギルベルトは片手間でエリカをいなす。
クレアはそんなギルベルトを苦々しい思いで見つめた。クレアが為し得ない事をこの王は容易くやってのける。クレアの心配など無用と言わんばかりに、レイディアを守る。クレアはレイディアを抱きしめる事さえ出来ないのに、王はその大きな胸でレイディアを包むのだ。
「なぁに不貞腐れてんの」
やっとのことでクレア達に追いついたソネットがクレアの頭をぽんと叩いた。
「不貞腐れてなんてねぇよ」
「そういう態度を世間では不貞腐れてるって言うのよ」
ソネットは弟分であるクレアに苦笑を漏らした。
「あ…あの…」
顔を上げると所在無げにガリガリの男が立っていた。いや、いるのは知っていたが、あえて話しかけなかっただけだ。
「あら、なぁに?」
ソネットの警戒心を抱かせない笑みに男は少し安堵した様に言葉を続けた。
「ソネットってのはどちらさんのことか聞きたいんだが…馬車にいる御仁に俺の事はソネットに聞けって言われて」
「……あーあーはいはい」
ようするに巻き添え食った一般人の処遇はソネットに押し付けられたわけだ。
「私がソネットよ。貴方の相棒にも、貴方の事を頼まれてるわ」
それを聞いた男の顔に精気が戻った。
「あ、あいつは無事なんだな!?」
「ええ。後でちゃんと会わせてあげるわ」
「よ、良かった…あいつは大事な相棒なんだよ…ホントに、良かった…」
安心のあまりへたり込む。しかし、ソネットの方は安心なんてしてられない。
「クレア。ディーアちゃんを攫ったアホウは?」
男に聞こえない様に小声で訊く。
「俺が着いた頃にはもういなかったぜ」
クレアは悔しそうに呟いた。
「…シアがいないわね」
常に王の傍にあるシア。きっと王の命で奴らを追ったのだろうと当りをつける。ソネットは連れてきた配下を割いて、シアに協力する為、敵の追跡を命じた。
「お前達はオーロラ嬢を城まで連れて行きなさい」
残った配下にも命令を与えた。屋敷付近で待機させていたが結局無駄になってしまった。夜は冷える。お詫びも込めて彼女に温かい蜂蜜入りの牛乳を淹れてあげよう。
「さて、私達はとりあえずエリカのご機嫌とりかしらね?」
未だギルベルトに駄々を捏ねるエリカを振り返った。
「どうした? レイディア…」
ギルベルトは小さな声で問う。
すると、レイディアはギルベルトの腕を伝って彼の首に齧りついてきた。ギルベルトは反射的にその背に手をまわして身体を支えた。
耳元で繰り返される呼吸が不規則だった。苦しそうに喘ぐ彼女は明らかに尋常な状態ではない。
奴らは彼女に何をした。
「レイディア」
湧き立つ怒りを抑えてギルベルトは今度はそっと呼びかけた。
「……やだ…い…いや…や…め」
レイディアはギルベルトに気付かない。ただ止めてと懇願している。誰かに。
呼びかけても返ってくるのは繋がらない言葉の羅列。悲痛な泣き声。
レイディアは年齢の割には小柄だ。ギルベルトの腕の中にすっぽりと収まる。ギルベルトを壁にして、周囲の景色を遮断することなど容易い。けれど、今レイディアが見ているのは過去の情景。記憶の中の景色。レイディアの心の中のものまでギルベルトに閉ざす事は不可能だ。
普段は決して彼女の方から近づいてこない。けれど、今は自らギルベルトに触れて縋りついている。水に溺れた者ががむしゃらに近くの物を掴もうとするように、恐らくレイディアはギルベルトに縋っていることなど分かっていない。
己の腕の中にいるのに、レイディアは自分に気付かない。
レイディアをここまで揺らがせる存在に嫉妬した。たとえ負の感情によってであっても、彼女の心を占めるのはいつだって自分でなければ気が済まない。
レイディアの不安定な体勢を抱えなおす。それが功を奏したのかレイディアからは呻く声が止んだ。けれど未だ収まらぬ小刻みの震えは、まるで水を恐れ、身を縮めて飼い主から離れようとしない子犬の様だ。
「大丈夫だ。お前を害する者などここにはいない」
軽く背を擦る。少しずつ彼女の震えが治まっていくのが分かった。息はまだ荒く、時折しゃくり上げる音はするが、それもじき収まるだろう。
彼女は他の男に対しては、どんな状態であってもこのように縋ったりはしない。レイディアが今みたいに崩れかけた時、宥められるのはギルベルトだけだ。
だが…
「……どうすればお前は俺を俺として見てくれる」
複雑な思いが交差する。ギルベルトにだけ縋りついてくれるのは、この上ない優越感に満たされる。しかし同時に、その理由がギルベルトが鈴主であるからだという事実が、しこりとして残る。他の男にレイディアが縋りつくのを想像するだけで耐え難い苦痛だ。だから、今まではそれでも構わなかった。レイディアがこの胸の中にいてくれれば、ギルベルトは安心出来た。
けれど、それでも人というものは欲が出てくる。ギルベルトに、それ以上を求める思いが生まれ始めていた。
急にレイディアの顔が見たくなり、頬を両手で包み、自分の方へ向かせた。
白いはずの肌は痛々しく真っ赤になっていた。目はまだ虚ろで、ギルベルトの方を見上げさせても、彼を見てはいなかった。
「俺を見ろ」
ちゅ、とわざと音を立てて頬を伝う雫を啜る。少し塩気のある水はギルベルトの中で甘露に変わる。レイディアに気付いて貰いたくて。正気に戻る事を期待して。こめかみに、瞼に、鼻にと、順に軽く口づけ、耳朶を甘噛みする。
「う…ん」
未だ正気のもどらないレイディアだが、その甘い刺激に徐々に反応していった。
レイディアは無意識にギルベルトの口づけや肌を這う手の強さでギルベルトの意図を知る。ギルベルトが四年かけて慣らして刷り込んだ。ギルベルトが与える刺激に素直に反応するように。
宥める時は、軽く背や脇腹を撫で、髪を梳き、触れるだけの口づけを。親が子に施すのと何ら変わらない優しいものを。
けれど、本当は知っている。ギルベルトがこんな事をしなくても、彼の懐にある鈴を返せば、レイディアはあっという間に平静を取り戻す事を。
「…だが、お前に鈴を返すわけにはいかない」
鈴は、契約の証。レイディアを何があっても自分のものだと確信が持てない彼にとって、鈴は彼女が傍にいるという保証。
何を想い、何を恐れているのか。何を嘆き、何を憂えているのか。
レイディアの奥底にある哀しみ。ギルベルトが知るのを許されていない心の奥の閉じられた箱。未だ見せぬベールの向こう。それが明るみで出た時、レイディアを失うかもしれないとギルベルトは恐れているから。
「レイディア、俺はここにいる。お前の目の前に。お前が見るべきはこの、俺だ」
俺だけを見ていろ。
レイディアがバルデロに来た当初、何度もレイディアにぶつけた言葉。
その度にレイディアを困らせた。そんな顔をさせたいわけではないのに、ギルベルトもどうすればいいのか分からなかった。実際問題、常にギルベルトの傍に置いておくことは出来ない。城にいる人間がレイディアの傍にいるのは当然だ。仕事上、常に一人でいられる訳がない。そんなことは分かっている。けれど、自分がレイディアの傍にいる事がままならないのに、唯の使用人がレイディアの傍にいられるという特権を持つ事を理不尽に感じた。王故の不自由さに苛立ちが募った。初めて感じる感情が何なのか分からず、ただ募るばかりの怒りをレイディアに向けた。
他の事など考えるなと、他の男に視線を向けるなと。癇癪を起した子供と変わらなかった昔。何度も困らせて、呆れられて。そうやって一つ一つ、レイディアとこの四年間学んできたはずだった。
なのに、昔と何ら変わっていない自分に呆れる。けれど、結局それがギルベルトの本音ということだ。
ギルベルトは下から掬う様にレイディア顎を持ち上げ、彼女に唇を寄せた。
宥めるような口づけに、目に見えてレイディアの身体が落ちついていく。
さして時間もかからず、レイディアは安らかな眠りについた。
「眠りました?」
頃合いを見たソネットが王の背後に立った。
「ああ」
「可哀相に。目を真っ赤に腫らして…。それで、屋敷の方で捕えた奴らは如何致しましょ?」
「エリカに任せておけ」
「…制限は?」
「好きにしろ」
ソネット――ミレイユは、蠱惑的に微笑んだ。
「御意に。陛下」
どうもこんばんは。トトコです。
なんと評価が二千を超えました。本当にありがとうございます。彼らを応援して下さる方の声が作者の執筆の力となっております。今後ともよろしくお願いいたします。
ということで、ささやかなお礼に再び二話連続で更新したいと思います。楽しみにしていて下さると嬉しいです。暇つぶしに活動報告にある鈴唄の裏メモ(気を付けていますが、ネタバレの危険あり)もよろしければご覧ください。たまに書いてたりするんで。
今、小説家になろう様の方でR指定について厳しい目を向けられていらっしゃるようですが、今のところ直接的な描写は書いていないつもりなので、作者はこのまま執筆します。そもそもR15とR18の境界線っていつも曖昧なんですよね…。18R指定を設けられている小説の中には、激しい描写の小説もあれば、R15で充分では?と感じる小説もあります。個人の判断に依るものなので、とても難しいですよね。
もしかしたら、鈴唄もR18並だと感じられる方もいらっしゃるかもしれないですしね。でも、物話の進行上、どうしてもそういう描写が必要だし…。ううん、難しいです。