第二十話
オーロラは与えられた部屋の隅で詩集を読んでいた。
既にここに来て数日経つが、今のところ特に何事も無く、静かに過ごせている。毎日美味しいお菓子とご飯を食べさせてもらってるし、衣類だって、新品同様の物を着せてもらってる。しかし、何不自由なく過ごすこの時間も、ほんの数週間前まで耐えてきた生活を霞ませる事は無かった。今読んでいるのだって、あのソネットとかいう明るい女性が、退屈しないようにと渡してくれたのだが、心から楽しんで読む事は出来ない。やはり暇つぶしの域を出ない。
ソネットさんの言ではもうすぐ、ということなのだけれど。
焦れるばかりのオーロラに、困った子どもを宥めるような顔をして言われたのを思い出す。
お世話をしてくれる彼女に申し訳ないと思いつつも、それもしょうがないとも思う。何故ならこれは我が家の一大事。父より任された家の存続の危機なのだ。焦るなと言うのが無理な話だ。
やっぱりもう一度聞きに行こう、と立ち上がりかけたオーロラの部屋の扉が叩かれる音がした。
「はい」
「失礼するわ」
扉の隙間から姿を現したのは、やはりというかソネットだった。
「丁度良かった。いまそちらに…――――」
「オーロラ嬢。今から私についてきてもらえますか?」
その口調は、いつものような陽気さはなりを潜めて、真剣みを帯びた。
ついに、その時が来たのかしら…?
「…何かございました?」
「ええ。貴女の御夫君が動き出しました」
予想通りだったので驚きはしなかったが、時が来たのだという確信が、緊張に全身を強張らせた。
そんな様子を和らげるように、ソネットはわざと明るい声を出した。
「そんな心配する事ないわよ。私達がちゃぁんと守ったげるし。浮気者のダンナの尻を引っ叩きに行かなくちゃね」
片目を瞑って見せるソネットにオーロラは気丈に笑みを返した。緊張こそ解けはしなかったが、その気遣いが嬉しかったから。
その頃、クレアは歯噛みしたい気分で暗欝としていた。実際出来る状況だったら実行していたことだろう。舌を噛み切るくらいには。
「ちょっと離しなさい! 触らないでっ無礼者っ」
シルビアは憤然として目の前の男達を睨め付ける。しかし、身体を縛られている状態では、男達にはさして効果は無かった。
「噂なんて当てになんねぇもんなんだな」
「だな。てっきり怯えて潤んだ目を向けてくれるかと思った」
余裕綽々と言った風にシルビアを突く。シルビアの眼光が一層鋭く、冷たくなっていく。
「おーおー勇ましいこって。お姫様なんてこんな大勢の男に囲まれた事なんてないんだろ?」
「あったとしてもお上品なお貴族の坊ちゃんばっかりだもんなぁ」
「違ぇねェ」
ぎゃははと大口開けて笑いあう商人風の男達。身なりはまともでも、その顔から滲み出るその卑下さは隠しようも無い。
「……」
クレアはその様子をシルビアの影から見つめていた。クレアは動けなかった。縄を抜けて男達を血の海に沈めるのは簡単だが、出来なかった。
まだ、動いてはいけない…。
いくら命令でも、明らかに自分より実力が劣る者の嘲笑いを、黙って聞くのは相当に苦痛だった。幼少のクレアには、そこまで感情制御が出来ない。
縛られて捕らわれるのは計画通りだから良しとしよう。しかし、クレアは許されない失敗を侵していた。だからこそ、尚更男共の哄笑が癇に障る。無理にでも耐えねばならない。クレアは男達から目を離した。
……レイディア様はご無事だろうか。
クレアの方こそ泣きたい気持ちでレイディアの無事を願った。どうしてあの時、何が何でもレイディアを遠ざけなかったのだろう。つい先程の昼頃の事を思い返してクレアは項垂れた。
「どういうことか説明してもらえるかしら?」
人払いが済んだ自室でシルビアはクレアに迫った。
「メリネスが食べたクッキーには………毒なんて無かったはずよ!」
そう。メリネスが取った皿は確かにシルビアのものではあった。しかし、毒入りは最初にシルビアが手に取った物のみで、あとは普通のクッキーだったはずだ。でなければそのクッキーをメリネスが口にするはずはない。あの時は、とっさにあんな風に取り繕ってしまったが、シルビアとて詳しい説明がほしい立場なのだ。
お茶会があの後続けられる訳も無く、うやむやのままお開きになり、シルビアも部屋に戻ったが、その瞬間、我慢の糸が切れた。
「だって……ちゃんと…省いておいたんだから」
その毒入りのクッキーは鼠騒動が起こった瞬間にシルビアが地に捨てて割った。ミュールのヒールでぐりぐりと粉末にしてやった。そしてそれを何食わぬ顔でぺっぺと足で払ったのだ。全ては裾を引き摺るスカートの中で行われた事。後日メリネスには相応の礼を返すにしても、今この場では、後は何事も無かったかのようにメリネスに微笑みかけ、お茶会を辞すだけだった。
「何者かが、メリネス様に毒を盛っていた、ということでしょうね」
「レイディア」
お盆を掲げて扉から入ってきたレイディアを振り返る。
「メリネスも狙われていたって事?」
「ええ。そもそもクッキーに混入していた毒にしても遅効性のものでしたから」
いくら箱入りのお嬢様であろうと、自分で持ってきたお菓子を食べた人間が突然倒れたら、真っ先に自分が疑われる事ぐらい分かる。だから一日か半日、間を置いて効果が表れる毒を用意していたはず。蔭の一人に毒のサンプルを持ち出させて成分を調べてもらったのだから確かだ。
「だから、メリネス様はクッキーの毒に倒れたのではなく、丁度食べた時に前もって盛られていた毒の効果が表れ、倒れられたのでしょう」
「そんなの、一体誰が……」
後宮って本当に恐ろしい所、と頽れるように椅子に座りこんだシルビアにお茶を差し出す。途端、シルビアはカップをわし掴んで優雅さの欠片も無く飲み干した。
「とにかくっ、これで当分私を狙う人はいなくなったわね」
お茶会でだいたいの側妃達を手玉に取れた。さすがにローゼは一筋縄にはいかなかったが、結果オーライで後宮の一員としてシルビアを認めさせることに成功したのだ。
毒は怖かったが暫くは小康状態が続くはず、と期待に顔を輝かせるシルビアに、しかしレイディアは浮かない顔だった。
「……ええ。そうであれば、良いのですが…」
ちらり、とクレアを流し見る。クレアは慌てて、さり気無く下を向いた。
か、勘付かれてる…?
レイディアの視線を感じ、問われても素知らぬ振りをしようと心の準備をする。
しかし、レイディアはクレアを問い詰めたりはせず、クレアからも視線を外した。
「ともかく、今夜は王との初めての夜なのですから、晩餐までのこの時間にお気持ちを宥めて下さい。毒を盛られそうになって、平静ではいられないのも致し方ありませんが…」
「…そうね。分かってるわ。怖い目にあったにもかかわらず、気丈に振る舞う健気なお嬢様を給仕達に見せつけなきゃね」
レイディアは目元を緩ませた。演じるも何も、シルビアは元々気丈な女性であろうに。
「ねぇ、折角だから晩餐の着替えまでおしゃべりしましょうよ。レイディアは今日の夕方は非番なんでしょ?煩い侍女達も私を慮って暫くここには来ないだろうし。いいでしょ?」
レイディアは快く頷いたが、それにぎょっとしたのはクレアだ。
「あのっレイディア様」
「どうしたの?」
「シルビア様のおしゃべりは僕が致しますっ レイディア様はどうぞお部屋にっ」
「あらなぁぜ? 心配しなくてもクレアも一緒に交ぜてあげるわよ」
違う! シルビアに反論しそうになったが、そうしたらレイディアを追い払う理由を問われる。クレアはこんな時、気の利く言葉が浮かばない自分を詰った。
「その……エリ姉が、待ってるでしょう?早く行ってあげないと」
「大丈夫よ。さっき遅めの昼食を届けに行ったばかりだから。少しくらいなら大丈夫」
万事休す。ご飯を食べたのならエリカはすぐに眠ってしまうだろう。レイディアの言う通り、数刻は目覚めない。仕方なく、日の明るいうちなら大丈夫だろうと、クレアは自分を納得させて身を引いた。
今思えば、何が何でもこの時に、レイディアを部屋に戻しておくべきだったのだ。
他愛ない会話をレイディア達は飽きもせず続けた。お互いウマも合うのだろう。好きな料理やお菓子、後宮での可笑しな逸話。シルビアの故郷のこと、などなど、よく話題に尽きないものだと感心するくらいレイディア達はしゃべった。尤も、八割はシルビアが話し手だったが。クレアも会話に加わってはいたが、会話に入りきる事はしなかった。
そして、ついに恐れていた事態がやってくる。
「あら、もう外が暗いわ。そんなに時間が経っちゃったのね」
シルビアが何気なく目をやった窓の空を見て驚いた様に首を傾げた。
「名残惜しいけど、いい加減侍女達が支度に来ちゃう頃だし、もう終わりにしましょう」
「長い事居座ってしまってすみません」
「ううん。いいのいいの、私も楽しかったし」
クレアはほっとした。ようやくレイディアが自室に引っ込んでくれる。
その一瞬の緩みが、対応に後れを取った。
お茶の片づけをしようとレイディアが立ち上がると、突如テラスのガラス戸が乱暴に開かれた。
鮮やかな夕陽を背に黒い男達が大勢押し寄せてきた。
「なっ何なの? 誰よ貴方達!」
男達は無言でシルビア達を囲んだ。抜き身の剣が彼女達に向けられる。
「ちょっと離しなさいよ!」
シルビアの抗議を無視してシルビアを拘束する。そして当然レイディア達の方にも累が及んだ。
リーダー格らしき男が部下に向かって顎をしゃくってレイディア達に向かわせる。
「っ痛」
レイディアは腕を背中に捻じり上げられて声を漏らした。
クレアは反射的にレイディアの腕を掴んでいる男に向かって突進した。しまった、と思ったが、既に遅しで男は横向きに弾き飛んだ。こんな幼少の子供に大の男が突き飛ばされるということに男達がもっと敏感に反応していたら、クレアは今頃殺されていたかもしれない。しかし、男達は油断してたせいでよろけただけだと判断しただけで、クレアを縛り上げた。
スカート内の武器を取り出そうという欲求を、なんとか押し堪えて拘束されるに任せた。
想定外だが、レイディアも一緒にクレア達と連れて行かれるなら何とか守れる。こんな縄、クレアにとっては拘束される内にもならない。レイディアに手を出そうとした奴の指を切り落としてやればいい。そう思ったのだが、部屋から連れ出されてクレアはシルビアと一緒に押し込まれたのだが、レイディアだけ、別の馬車に連れ込まれた。
「レイディア様っ!」
クレアは叫んだ。レイディアは戸が閉まる間際、クレアの方に目を向けたが、その目から何も伺う事は出来なかった。
クレアは計画に狂いが生じたのを今更になって自覚した。
シルビアが攫われる様に仕向けるために、五参式の間、王はシルビアを頻繁に傍に呼び寄せた。しかし、シルビアの宮に移ったレイディアが、それに巻き込まれてはたまらない。だから王も、レイディアを呼ばなかったし、エリカを押しつけて極力シルビアの部屋に来させない様にもした。
なのに、最後になってシルビアがレイディアを引きとめたせいで、レイディアはシルビアの傍にいる事になってしまった。
シルビアはこの計画を知らない。元々シルビアは今回の件の為に後宮入りを、レイディアからの打診で承諾したのだが、王はレイディアが予定していた以上にシルビアを利用しようとした。レイディアには知らせていない。シルビアを囮とするには危険だからだ。レイディアがシルビアを利用することに反対するのは目に見えていた。だから知らせなかった。王も蔭達も、シルビアが害されるのを望んでいる訳ではないから、護衛としてクレアをレイディアの代わりにつけた。しかし、囮の計画を取り止めにするつもりも無かった。
レイディアはおそらく気付いていたのかもしれない。今回の標的と、その狙いはレイディアも知るところではあるのだから。遠ざけられたことで、何かしら感じる事はあっても不思議ではなかった。けれど、レイディアは必要以上に口を出しはしない。知らされない、という事は、関わるな、と言われている事だと認知しているから。
だから、クレアを疑わしげに見はしたが、クレアが何も言おうとしないのを見て、問い質す代わりに、シルビアの傍に居座ったのだとしたら。
レイディアは口出ししないだけで、大人しく引っ込んでいるだけの女性でもないのだ。あれが、無言の抵抗だったのかもしれない。だとしたら、クレアの失態は最初から決まっていた事になる。言わない事でレイディアを危機に晒したが、言ったら言ったでやはり、レイディアは何らかの策を試みただろうから。
「くそ…」
思い返したことで、遣り切れない憤りがぶり返し、クレアは今すぐ縄を抜けてレイディアを追いかけたい衝動にかられたが、シルビアの護衛という任務のせいでそれもまかりならなかった。
後で王にどんな罰が下されてもいい。レイディア様がご無事で救助されるならどんな拷問も甘んじて受けよう。
「おいおい、そんな怯えなくてもいいだろ。何も取って食おうってわけじゃねぇんだぜ?」
「寧ろこれからイイ思いさせてやるんだからよぉ感謝してほしいくれぇだぜ」
「縄をかけられて喜ぶ趣味はありませんわ」
シルビアは皮肉気に吐き捨てる。
「もうすぐお大尽様がやってきなさる。たんと可愛がってもらえよなぁ」
と、男がにやにや笑っているところに部屋の戸がノックもなしに開かれた。
「来なすった」
男共は入ってきた御仁を振り返り、シルビア達をもう一度見ると、御仁を出迎える為に一礼した。
「このような汚い場所に自らお越し下さり…」
「そんなのはいい。言っておいたものは何処だ」
「は、こちらに」
男達は真ん中を開けて、シルビアと入ってきた者との隔たりを無くした。
「おお、まさしく。待ちかねたぞ」
男はシルビアと目が合うや、満足そうに目を細め、腕を広げた。
対して、シルビアは見下したような目をして、彼に応じた。
「これは、どういうことでしょうか? ……エーデル公?」
シルビアと共にレイディアも連れて行かれた、と報告が上がった時、室内の気温が一気に下がった。声は報告のために王の御前に参じるはめになった配下を気の毒に眺めながら、腕を摩った。
「レイディア様は、その時、た、たまたまシルビア妃の傍にいた模様にございます」
「クレアは何をしていた。エリカは」
「クレアはシルビア妃についている由。エリカ、様は…現在行方が知れまっ…が!」
王は報告を上げてきた蔭の肩を抉った。
「…何の為にレイディアを離していたと思う。役立たずどもが」
「…お…お許しを」
ギルベルトは冷え冷えとして言った。
「いいか、レイディアに掠り傷一つでも負わせてみろ。お前らの身は生きたまま地中に埋まると思え」
「は、ははっ」
抉られた肩の血を抑えながら蔭は跪いた。
「王よ」
静かになった室内の王にシアは声をかけた。
王の怒りは尤もだと思う。シルビアの部屋の周りには蔭が数人控えていたのだ。シルビアが浚われた際、報告係と追跡班に分かれる為に。計画の成功には、シルビアが攫われる必要があった。だから、レイディアが拘束されてしまった時、無闇に出て行って庇う訳にはいかなかった。外に連れ出された時に救うつもりが、レイディアだけ離され、追いかけた蔭がついていくのに精一杯だった程の速度で走り去ってしまったのだ。役立たずとも言いたくなる。
攫った者には明らかにレイディアを狙う意思があった。しかし、今回の発端者エーデル公の意思ではあるまい。奴はシルビアにだけ固執している。
つまり、エーデル公の影で、他の目的を持って動いている奴がまだいるということだ。
そしてその何者かは、レイディアが連れて行かれた方にいるのだろう。
「エリカはレイディア様を追ったのかもしれません。ミレイユも、既にそちらに向かっていると…」
「だから何だ」
「王、しかし…」
「奴の元へはテオに向かわせている。俺がこちらに出向いても問題あるまい」
レイディアに傷があれば、とはいったが、レイディアが他の男に触れられたと想像するだけでも、腸が煮えくりかえる。レイディアを連れ去ったという事はレイディアに触れ担ぎあげでもしたのだろう。誰がその役割を担ったのかは知らないが、そいつを剣山の上に突き落としてやりたいと凍てつく思考の中で思った。
「これ以上お前と問答する気はない」
「…御意」
ギルベルトの声音から、これ以上王をここに留めておくのは無理そうだと悟り、声は身を引いた。
馬上の人となったギルベルトはレイディアを思って群青の空を眺めた。
「…何故、レイディアには自由になる足があるのか」
そんなものが無ければ、ギルベルトはずっと安心してられるだろうに。
レイディアが一人で動けなくなれば、ギルベルトの助けなしに生きられなくなれば、レイディアをギルベルトの傍に常に置いておける理由が出来る。
レイディアはその素性故に常に狙われている。どれほど情報を遮断しようとも防ぎきる事は不可能だ。だからこそ常にギルベルトの目の届く範囲にしてほしい。レイディアの、何の憂いの無い、穏やかな日常をギルベルトの手で与えてやりたい。
そこに、足は特に必要ない。
狂気じみた考えは、いつ頃からギルベルトの中の奥底に芽生えたのか。初めてレイディアを知った時から密かに燻っていたのかもしれない。
「お前が、俺を動かす」
優しくするのも、残虐になるのも、全てはレイディアの一存にかかっている。その危うさを、ギルベルトは自覚している。
今のところ、ギルベルトはどうにか正気の岸に立っている。
けれど、それがいつまで保つのか、ギルベルト自身でさえ確信は無かった。
「ミレイユ様」
配下の一人が偵察から戻ってきた。
「ご苦労さま。それで?」
「は。家屋の様子は静かなものでして、殆ど人の気配が致しませんでした」
ソネットは眉を顰めた。
「どういうこと? 仲間がたった数人という訳ではないはずよ」
「そうなのですが…」
「まあいいわ。これから行って調べればいい話だし」
ソネットは少し離れた場所で佇んでいるオーロラに呼び掛けた。
「私達はこれから潜入するから、安全だという合図があるまで外で待機していてちょうだい」
「え…では、私も」
「いいえ、貴女の役目は最後の最後。でもとっても重要な役目だから」
万が一を考えて我慢してちょうだい。と笑った。
「……本当に人気が無いわね」
廃れて潰れた店でもあるまいし。そこそこ立派な造りの建物にそぐわないその静けさ。正面から見上げていたソネットは、配下の気配を感じて目線を水平に戻した。
「ミレイユ様、少々よろしいですか?」
裏に回っていた配下がソネットを呼んだ。
ついていくと開け放たれたままの裏口が見えた。そして、その下には男が倒れている。
「…死んでるわね」
首を、雑巾絞りした様に捻じられて事切れている男を見下ろす。俯けに身体が倒れているのに、顔は空を見上げていた。ソネットは男の白濁して凝った目を不快そうに睥睨した。
「これは…エリカ、ね」
男の太い首をこうも煉り飴みたいにたやすく首を捻じり回せる者はそうはいないだろう。男に目立った外傷はない。首が三周していなければ、単に気絶していると勘違いしてしまいそうだ。この、如何にも邪魔だから退かしただけ、とでもいうように息の根だけを止めて、適当に放置するのだ。エリカは。
「人気が無いのも、エリカが暴れてるからかもしれないわね」
何処行ったんだと思っていたが、お気に入りを奪われて、エリカが黙っているはずが無いのだ。
「…屋敷に生き残っている数はどれくらいかしらね」
せめて二・三人は残しておいてほしいんだけど、と物騒な事を切実に願いながら、ソネットは開け放たれた戸口から配下を連れて突入した。
レイディアは一人、木造の廊下を彷徨い歩いていた。
侵入者に連れ去られ、何故かレイディアのみ引き離されてここに連れてこられたのだが、自分を連れてきた男達は後にした部屋で暢気にいびきをかいていることだろう。
レイディアとて、いつ何時狙われるか分からない身である。当然、その対処法は嗜んでる。
「……ここは裕福な商家の家、といったところ?」
今回レイディアが使ったのは眠り玉。ちなみに蔭の者のお手製である。玉状になった粉の塊を下に勢いよく叩きつける事で粉末が飛び散り、山犬も数秒で眠らせる強い催眠効果を発揮する代物だ。
効果は半日程だが、今の状況では充分な時間稼ぎになる。
レイディアは、物理面においては自分の無力さを重々承知している。だから出来る限り、守られる立場に徹するが、いざという時、何も出来ないというのはまずい。彼らが駆け付けるまでの時間稼ぎくらい出来ないようでは、とっくの昔にレイディアは他国にでも売られているだろう。
今は、今回の犯人達の素性、ないしは関与した者達の目録でも見つけられないか、と目下捜索中である。
そういう訳で、レイディアは廊下をひたすら前進しているのだが、ここまで一人も出会っていない。
クレアやエリカじゃあるまいし、片っ端から敵を薙ぎ倒していくなんて、とてもじゃないが無理なので出会しても困るのだが、あまりに会わなさすぎるのも、それはそれで不安を煽る。レイディアを連れてきた数人の男達だけという訳でもあるまい。たまたま留守にしているのだろうか?
出口を求めて廊下を壁伝いに歩いていくと、他の戸とは造りの違う戸に行きついた。
「……」
主人格の部屋だろうか。扉の向こうに人の気配がする。エーデル公とは別の首謀犯か、とレイディアはある種の確信をもった。戸を叩くのに一瞬、躊躇する。あと少し待てば蔭の誰かが駆けつけてくれるかもしれない。でも…どういう訳か、レイディアは今すぐ戸を叩かねばならない気がした。意を決し、控えめに戸を叩く。
「―――どうぞ?」
男性の声。レイディアは、恐る恐る戸を開けた。
室内は壁際の本棚と、部屋の中央に接客用のソファとテーブル、その奥に執務机、といったごく普通の執務室だった。ギルベルトの執務室も、これよりずっと豪奢なだけで基本的な造りは一緒だ。そのソファから、たった今立ち上がったかのように佇んでいるのは一人の男性。まだ若そうだ。レイディアよりは年上だろうが、三十には達していないだろう。
男はレイディアと一定の距離を保ち、優雅な仕草で一礼した。
「こちらからお迎えにあがりましたものを。態々貴女様から足をお運びくださり恐縮の限りにございます」
「……どなた?」
「貴女様の忠実な僕にございます」
レイディアは胡散臭げに男を見た。僕と言われて、そうかと警戒心が溶けるわけも無い。寧ろ倍増する。
「どなたの手の者かと聞いているのです」
「慈悲深い神の御使いなる方にございますれば」
レイディアは一瞬要領を得ずに首を傾げかけたが、はっと気付いて目を見張った。
神の御使い。幾度も聞いてきた言葉だ。
そう……ほんの四年前まで、日常的に耳にしていた。
いつの間にかレイディアの目の前まで迫っていた男は、動揺したレイディアの隙を逃さず、レイディアの手を優しく取った。
「貴女様から会いに来て下さったのは、この上ない喜びではありますが、申し訳ございません。まだ準備が完璧に整っておりませんので、もう暫くお待ちいただけますでしょうか?」
レイディアの指先に軽く唇を押しあてる。
「っ何を…」
レイディアが言葉を紡ぐ前に男は彼女の耳に口元を近づけ、囁いた。
「“――――――――”」
音が意味のある言葉として、レイディアの頭に認識されると、レイディアの目が見開かれた。
血が逆流する。視界が真っ暗に。目を手で覆うも一向に目眩は止まない。
そして、抉じ開けられそうになる閉じた箱。耳に蘇る、あの方の声。
「―――――――――っっ」
開かないで、禁断の箱。私には中で蠢く記憶と対峙する覚悟はまだ無いの。
今はまだ、開けては駄目。なのに、貴方は箱を抉じ開け、私をそちらに向けさせようとする。
身も心も貴方でいっぱいにして、また、私を閉じ込めようとするのですか。
レイディアは膝から力が抜け、崩れる様にして倒れた。