第十九話
加筆修正しました。
これはある種の通過儀礼というものであろう。
盛大な宴から一夜明けたその午後に、後宮の筆頭側妃を自負しているローゼが、新しく後宮入りしたシルビアを、改めて歓迎するという名目でお茶会を開くというので、ダリアという名の侍女を遣わしてきた。
「これから後宮での暮らしを共にするのですから、お互いに親睦を深める為にも、後宮の女達だけでささやかな歓迎会を開こうと思っております。お花を愛で、お茶を頂きながら、穏やかな一時を過ごしていただこうと、ローゼ様の思し召しにございます」
背筋の伸びたローゼ付きの侍女は、きちりと礼をしたあと、事務的に述べた。
侍女の無表情を何ら気にかける事無く、シルビアは無邪気な笑みを浮かべて喜びを示した。
「まあ、一の寵妃たるローゼ様直々に、その様なお気遣い頂けるとは、このシルビア、感激で言葉もございませんわ」
白百合の如く清楚で美しい彼女に僅かに侍女は怯んだように見えたが、さすがローゼ付きといえようか、すぐに持ち直した。
「開かれるのは五参式の最終日の正午より、夏妃様の宮の庭園にて、お茶の席をご用意して一同心より、お待ちして申し上げております」
ローゼ付きの侍女が退出した後、それまで隅で控えてきた侍女や女官達がシルビアに詰め寄った。
「シルビア様! これは心して赴かねばなりません」
「この挑戦状、受けて立たねば!」
「そうですわ。誰よりも美しく着飾って、他の側妃様方に侮られる事の無いように」
早速衣装の打ち合わせや髪形の相談が始まった使用人達の様子を始終にこにこと眺めてるシルビア。それを、同じように隅っこで眺めていたクレアはそっと退出した。
「お茶会?」
「はい。ローゼ妃主催のお茶会が五参式最終日に催されるそうです」
お茶会の話をクレア経由で聞いたレイディアは、特に気にした風も無く頷いた。
「ローゼ妃は無闇に嫌がらせなどはなさらない方だから、彼女自身には気を配らなくてもよさそうだけど…」
自分の権勢を存分に発揮して、その気位の高さで無言の圧力を与えはするかもしれないが、ローゼは陰湿な性質ではないので、姑息な、シルビアを故意に貶める様な罠を張ったりはしないだろう。
寧ろ…
「問題はその他の側妃達ですね」
クレアも同じ事を考えていたらしく、言葉を濁したレイディアに同意した。
「特に気になる動きをしている方は、まだ見られないけれど、この五日間の間にシルビア様に接触したり、さして用も無いのに、この宮をうろつく、他の宮の使用人達に目を配っておきましょう」
レイディアの予想は概ね当たっていた。ローゼ以外の側妃の手のものが、このわずかな日数の間に何度も。
阻止するのは大して難しくはなかいが、その数は半端なく、それに対処する方にしてみれば快いわけはない。
ローゼ妃に続く様に、歓迎の言葉を伝えに他の宮の侍女達も、各々シルビアの宮を訪ねてきた。しかし、妃自らではなく、侍女に出向かせるのは、格上の地位である夏妃のローゼ妃やメリネス妃はともかく、同位のはずのマリア達や冬妃のキリエにしてみれば、新米の側妃は例え秋妃だとしても、先に入っている自分達の方が敬われるべきだという矜持の表れなのかもしれない。侍女の態度も慇懃ではあったが、主人の意向を体現したように極めて儀礼的なものであった。
その中で唯一側妃自ら訪れた者がいた。ムーランである。
彼女は、ローゼ妃より二日遅れてシルビアの宮に祝いの言葉を言いに訪れた。
ムーランは新興貴族の出で、父の野心の為に送られてきた美女である。父の願い叶って側妃として召されはしたが、本人の元来の穏やかな性格の為か、我こそは、と争う他の妃の様には、王に秋波を送ったりはしていない。そのお蔭で王の関心を引く事も無かったが、怒りを買う事も無く、王の粛清から逃れ得た秋妃と専ら言われている。それに、ムーランの手と思われる嫌がらせの類は今のところ来てはいなかった。
その容姿は後宮にあっても些かの引けも取らない極上の美女ではあるが、そういう経緯の為、あまり目立つ印象の女性ではなかった。
「おはようございます。シルビア様」
来訪の旨を伝えられ、シルビアの部屋に通された女性は、柔和な笑みを向けてシルビアに挨拶をした。
「おはようございます。今日も良いお天気ですわね」
シルビアも至って友好的に挨拶を返し、席を勧める。
「この度はお輿入れ真におめでとうございます。これから共に後宮に暮らす者同士、仲良くして下さいませ」
「こちらこそ、至らぬ身ではございますが、何卒、ご指導、ご教鞭の程、よろしくお願いいたします」
「何かと細かい決まりなどのある後宮ではありますが、シルビア様には何不自由なくお過ごし頂ければ幸いですわ」
「お優しいお心遣い、痛み入ります」
「ローゼ様がお開きになるお茶会、わたくしも楽しみにしておりますのよ。ローゼ様の御宮はそれは素晴らしい色とりどりの薔薇が植わっていまして…」
シルビアとムーランの対面は穏やかに過ぎていき、四半刻程して、ムーランは退出していった。
そうして、シルビアはエーデル公や他の来客の相手をしたり、王に呼ばれたりして忙しい日々を過ごし、ついに、お茶会当日を迎えた。
自分の庭に植わっている自慢の花を愛でようと、他の側妃も交えての茶会である。
その日、側妃達は華美過ぎない装いながらも、自分の魅力を最大限引き出す衣装に武装して現れた。とりわけ、主催者であるローゼは、庭で咲いていたと思われる薔薇を身に付け、誰よりもこのお茶会の席に似つかわしい装いだった。言外に、この場の主は自分である、と言い放っているのは誰の目で見ても一目瞭然で、それと同時に、その威圧は特にシルビアに向けられていた事も承知の上であった。
お決まりの挨拶を述べ、お茶会が始まった。
何事も無く始まったが、少しして、シルビアは何処かうかない顔をしていた。お茶会の主催者であるローゼは、そんな茶会に相応しくない表情の彼女気付き、頃合いを見て近づいた。
「王を虜になさるほどの方には、この席は退屈だったかしら」
「いえ、その様な事は決して…。ただ、皆様の様な素晴しい方達の中に加われてこれ以上の誉れはないと光栄に思いつつも、気押されてしまいまして…」
はっとしたように顔を上げ、言葉を紡ぐ彼女に、気を良くしたローゼは殊更優しく言葉をかけた。
「まぁ、シルビア様はとても謙虚であられるのね。貴女もとても美しいのに」
儚げに俯くシルビアに、隣にいたソラーナが会話に加わった。
「わたくしもシルビア様の魅力にあやかりたいものだわ。どのように王の御心を捕えたのです?是非ご教授願いたいわ」
そんな彼女に、相変わらずか弱げな仕草をしたシルビアがその風情を崩さずに言った。
「特別な事などは…。あの方はきっと情熱的な方なのですよね。今朝からわたくしとても疲れてしまいました。それもあって、少しぼんやりしてしまったのかもしれません。お恥ずかしい…。ソラーナ様もあの方をお相手する時はきっともっと大変でしょうに…」
ソラーナは凍りついた。
まだ、“五参式”は終わっていない。それはつまり、まだ王と床を共にしていないという事だ。なのに、今の台詞は、もしや、と思わせるモノを孕んでいた。密かに王とシルビアの動向を調べさせて安心してはいたが、その一言に自信を失くした。
王が側妃達に相手をさせる時、情事が終わればさっさと帰ってしまうなどとは言えず、それに聞き耳を立てていたマリア達は無理矢理に微笑んで相槌を打った。
「え、ええ…も、もちろんよ。陛下はとても厚い情をかけて下さいますものね。そういう事なら仕方ないわ」
「それに、まだシルビア様はここに来られたばかり。王はここに馴染めているかご心配なさっているのでしょう」
また暫くして冬妃のキリエが、シルビアの身に付けている宝石が褒められているのをきっかけに、身を乗り出してきた。
「まぁ、本当に美しいお品ですのね。どちらの商家からお取り寄せに?」
「これは、母の実家からですわ。母が失礼があってはならぬと、輿入れの際に遠方から取り寄せた物です」
「そういえば、お母上のご実家は商家ですってね。商人の間では、何でも、商売と恋の駆け引きは同じ土俵だとか言われているとか。それでかしら、由緒ある子爵家であるお父上を蕩かしたお母上の様に、王を蕩かす事など、お手のものと言うわけかしら?」
「キリエ様…お口が過ぎますわよ」
傍にいたムーランが微かに眉を顰めてたしなめたが、シルビアは気にせず、嫌みが通じてないかのように、楚々とした笑みのまま、言い放った。
「まぁ、殿方の御心を掴む術にかけては貴女様の足元にも及びませんわ。わたくし、不器用なんですの。好きになってしまったら、その人しか目に映らなくなってしまうのです。それに、何人もの殿方の御心を掴み、虜になさるキリエ様の魅力には、わたくしなど、とてもとても…」
何も考えずにこの言葉を聞くと、ごく普通のキリエへの称讃でしかない。しかし、キリエが、輿入れ前、数多の男達と親しくしていたというのは一部では有名な話である。しかし、それは本当にごくごく一部で、地方の貴族であるシルビアが知る由も無いはずの事情であった。
しかし、この台詞を言われたキリエは、まさか、という疑念を拭いきれず、余裕に溢れた笑みを一瞬で引き攣らせ、口元をひくつかせた。不思議そうにこちらを見やるムーランの視線もそれに拍車をかけた。
「………そ、そんな事はございませんわ。シルビア様の方がよほどお美しくて…そう、先日の宴の際には、殿方の視線を一身に集めていらしたではございませんか…」
輿入れ前とはいえ、男達と浮名を流すのは未婚の女性にとってはあまり褒められた事ではない。バルデロはそれほど厳しくはないとはいえ、やはり女性の貞操観念は重要視されており、声高に言える事ではなかった。ある国などは未婚女性の密通が明らかになると、父親に殺されてしまう場合さえあるという。
態々調べたとも思えないが、もし、シルビアが本当に知っていて、なおかつ暴露してしまったら、後宮から追い出されかねない。
一番格下のキリエが、いきなり出てきて秋妃に納まったシルビアに対して面白く思うはずはなく、嬉々として扱き下ろそうとしたのが一変して、シルビアを賛美し始めた。
さらにまた少しして、話の流れ上、実家のある地方に関しての話題になった。
「わたくしのところは、暖かい気候に恵まれておりまして、多くの花の栽培をしておりますわ。例えば、夏になりますと、グラジオラスやクレマチスが赤や白に色づいて咲き誇って、それはもう素晴しい景色になりますの」
シルビアが自分の領地に咲く花を話し、素直に感心していたソラーナやキリエ達の脇から毀れる様な笑みが漏れた。
「シルビア様のご実家は大層自然溢れる田舎…ほほほ失礼、長閑な緑豊かな土地なのですね。王都の様な何かと騒がしい土地には馴染むのに苦労いたしましょう?」
メリネスが微かに嘲笑の気配含んだ労わりの言葉を、シルビアは純粋に労わられたのと変わらない態度で迎え撃った。
「その様な事は…皆様がこうして良くしてくださっているので、さほど不安は感じずにおれますわ。それに陛下が今度共に城下の街を見て回ろうと言って下さいましたの。わたくし、今からとても楽しみで楽しみで…」
全くいい度胸である。
さすがはレイディアに選り抜かれた令嬢と言おうか。女官の補佐役として付いてきたクレアはほとほと感嘆した。
「苦労して探し出した、正妃としても十分通用する様な方ですもんね。王の寵愛や着飾る事にしか関心の無い妃達にどうこう出来る訳が無い」
シルビアの言葉はともすると、あからさまな挑発や世辞ともとられかねないが、真実、そう思っているかのような表情と声音を使い分けているのはさすがだと思う。
眺める先の、シルビアの笑顔は、何も知らない人が見れば、何の含みも無い、清らかなものに見えるだろうが、事情を知るクレアはその笑顔の下でシルビアが舌を出しているように見えて仕方がない。
クレアはシルビアが輿入れする前から彼女を知っている。彼女にレイディアの文を運んでいたのはクレアだからだ。
レイディアが、新しく後宮に入れるのに相応しい令嬢を探していた時に、シルビアの存在を知った。たいそう出来た令嬢だという触れ込みだが、表向きの評判では心許無かったのか、クレアに命じてシルビアのいるノノリズ地方へ赴かせた。クレア達蔭にとって、密かに屋敷に忍び込み、目当ての者について探る事はさほど難しくない。そして、クレアからシルビアの報告を聴いたレイディアは文を認め、再びクレアを遣わして、密かにシルビア本人に手渡した。
当初は、当然シルビアに警戒されたが、根気強い説得によって後宮入りを本人に承諾させ、議会にその打診が出された際、嫁に出す事を渋った父の子爵をシルビア本人に説得させた。
実際シルビアは理想的であった。レイディアにとっても、…王にとっても。
クレアは溜息をついた。
あの事はレイディアに伝えていない。王がしようとしている計画を彼女が知ったら、当然反対するのは目に見えていたから。クレアはレイディアの絶対の味方ではあるが、王の命令を聞く蔭でもある。レイディアさえ無事なら、他の者がどうなろうと、正直なところ、どうでも良かったりするから、王の計画に否を唱えなかった。
クレアが思案に耽っていると、再び側妃達の声が耳に戻ってきた。
「…そうですの。それは失礼致しました。そうですわ、わたくし、この日の為に特別なお菓子をご用意致しましたの。実家の方で好まれて食されているお菓子ですわ。是非シルビア様に召しあがって頂きたくて、お持ちいたしましたの」
メリネスはそう言って、自分付きの女官達に目配せした。女官達は布のかぶせたトレイをメリネス達の許まで運んできた。
布を取り払うと、香ばしく焦げ目の付いたクッキーが盛られていた。厚みのある生地には茶葉を練り込んであり、その香りは独特であった。他にも木の実なども練り込まれてあるらしく、赤や灰色をした実がクッキーから覗いている。
「まぁ、とてもおいしそうですわね。ありがとうございます」
シルビアは笑顔を保ったが、微かに緊張した面持ちになったのに気付いたのはクレアだけだった。クレアは目を細めた。
メリネスが手ずから皿に取り、他の皆にも配る。
「さぁさ、本日の主役であるシルビア様が、まずは召しあがって下さいな」
輝かんばかりのメリネスの笑顔に抗えず、シルビアは皿に手を伸ばした。
「…ええ、是非、頂きますわ…」
シルビアが、ゆっくりと皿を持ち上げ、クッキーを一つ、摘んだ。
その時――
「きゃぁ! 鼠が!」
突然、女官の一人が叫んだ。
驚いて、皆が振り向くと確かに数匹の鼠が地面を駆け巡っていた。
その場は騒然となった。
「いやぁ! ね、鼠がこっ、こっちに…誰かぁ!! 早くこの汚らわしいこれを始末してちょうだい!!」
「テーブルの下に行ったわ!!」
「や、やだ…こっちに来ないで! あっち行って!!」
「きゃあっ…あ、貴女達何をしているの!! 早くこの鼠共を駆除なさい!」
マリアと会話していたローゼは、慌てて侍女や女官に命じた。
しかし、鼠に怯えているのは女官達も同様で、殆ど役に立たなかった。その中でも気丈な女官が女奴隷を呼んで、事にあたらせた。
クレアはその呼ばれた女奴隷の中にレイディアがいるのを見つけた。鼠駆除に駆り出されたレイディアの傍に手伝う振りをして近づいて、囁いた。
「これ、レイディア様ですか?」
クレアは目線の向こうで繰り広げられている、未だ収まらぬ騒動を、やたらのんびりと眺めながら問うた。
「…さて? 何処かの親切で気の利く、厨房隅で居を構える鼠一家が、遊びに来てしまったのかもしれませんね」
レイディアの表情は読めなかったが、レイディアが近くにいた鼠に微かに頷くと、その鼠はチチ、と一声鳴き、他の鼠を引き連れて、一目散に去って行った。
嵐の様な一瞬が過ぎ去り、皆のいる前で取り乱してしまったのを恥じて、我に返った側妃達はしきりに咳払いをして愛想笑いを浮かべた。
「さ…さぁ少し邪魔が入ってしまいましたが、お茶会を再開しましょうか」
ここが、ローゼ主催でなければ、管理の杜撰さをなじり、退出するところではあるが、生憎そうもいかない。ローゼ付きの女官達は、この不始末に関する後のローゼの叱責を覚悟して青ざめていた。
「そうですわね。折角メリネス様がお持ちくださったお菓子もまだ食べていないんですもの。女官にお茶を淹れなおさせますわ」
にこやかに賛同したシルビアは、先程にあった僅かな緊張がすっかりなくなっている。シルビアは女官達が淹れなおしたお茶が皆に渡るのを待って、改めて皿に手を伸ばした。
「それでは、メリネス様、頂きます」
そして、躊躇いも無くクッキーを口に含む。
一度二度、と咀嚼し、ゆっくりと嚥下した。
「…如何ですか?」
メリネスが僅かに声を潜めて、しかしすぐにたおやかな笑みに戻った。
「ええ、とても美味しいですわ。サクッとしていて、ほんのり甘くって」
メリネスの笑みがやや強張ったかに見えたのを、シルビアは見逃さなかった。シルビアは敢えて見せつける様に二つ目のクッキーも腹に収める。唇が戦慄きだしたメリネスにシルビアは畳み掛けた。
「メリネス様も、召しあがりませんの?こんなに美味しいのですもの。わたくし達だけ頂いては申し訳ないですわ」
「い、いえ、わたくしは…」
見渡すと、他の妃達もそれぞれクッキーに手を付けていた。そして口々にクッキーの称讃を述べている。
「メリネス様。このクッキーはどちらでお求めになりましたの?是非教えていただきたいわ」
一番格上のローゼまで食べ、しかも賞賛されてしまっては、自分だけ食さないのはおかしい。
「え、ええ。勿論頂きますわ。わたくしもこのお菓子が大好きですの」
何処か動揺した風なメリネスは、慌てて机に残っていた皿を手に取り一口齧った。
すると、どうだろう。いくらもしないうちにメリネスの顔色が青くなっていくではないか。それどころかどんどん土色に変わっていく。異変に気付いたムーランが慌てて侍医を呼んだ。
「メリネス様!?どうなさってのです?」
シルビアが真っ先にメリネスに駆け寄り、助け起こした。
「あ…うぁ…ぐ…」
上手く口が動かないのか、メリネスは目ばかりが大きくひんむいて、利けない口を動かしていた。
「もうすぐ侍医がやってまいります。どうか、それまで頑張ってくださいませ」
その声に反応して、メリネスは物凄い形相でシルビアを見つめた。まさに、鬼が乗り移ったかの様な顔つき。
メリネスは必死で言葉を紡いだ。
「お…お前が…悪いのよ!! お前が…お前さえ来なければ! わたくしはっ…」
かすれて聞き取りづらいが、シルビアは自分が責められているのが分かった。
「何の事でしょう? わたくしはメリネス様に何か気に触る様な事をしてしまったのでしょうか?」
「お前の! お前のそん…ざ・いが憎い! 夏妃などに! 正妃などな…るな・ど! 断じ・て…」
他の妃達も怪訝そうに二人を交互に見比べている。シルビアは細く息を吐きだした。ちらりと地に落ちた菓子を見やる。
「…だから、毒を盛ったのですか?」
その言葉に他の側妃達は目を見開くが、シルビアは無視した。その時、ようやく呼ばれた侍医が到着し、メリネスの容体を見て、引き連れてきた兵にメリネスを病室に運ばせた。
「…どういう事かご説明下さる?」
途端に静かになった茶会の席に、ローゼがシルビアを問い質した。その口調に疲れが見えるものの、シルビアに対しての憤りは感じない。ネズミ騒動に引き続き、こんな事態を起こされては、完璧にお茶会を台無しにされたも同然だが、理不尽にシルビアに八つ当たろうとは思わなかった。怒りの矛先は正当にメリネスに向いている。
シルビアは消沈した様に重い口を開いた。
「わたくしも…どういう事かは存じませんの。ただ、元々わたくしに渡された物が、結果的にメリネス様のお口に入ってしまったから、そう思ったというだけです」
「何故そんな事に?」
「先程、鼠が乱入してしまいましたでしょう? お皿を一旦、テーブルに戻しました。騒ぎが収まって、大して考えずに他のテーブルの皿を取ってしまったのです」
「お皿はお菓子どれも同じものでしょう? それを貴女はちゃんと自分のものだったと分かったのは、何故?」
「確かに、お皿のクッキーは、どれも同じように見えますが、メリネス様の取ったものが、元々わたくしが座っていた席の前にあった事、それとクッキーの形や色から、初めに自分に渡されたものだと分かりました。そしてクッキーを盛って下さったのはメリネス様ご自身でしたわ。…ですからあの毒は自分に向けられたのだと悟ったのです」
ローゼは納得した様に頷いた。さすがに筆頭側妃を自負するだけあって冷静さを備えている。幾分久々ではあるが、こんなもの、幾度も過去に繰り返されてきた騒ぎだ。
「そうね…。それは納得できたわ。けれど、どうして後宮に来たばかりの貴女に、メリネス様が殺意を抱いたのかしら? 貴女が何かしたようには見えないし…」
そうは言っても動機はいくらでも思いつく。ただ、シルビアのみに殺意を向けた。ライバルであるローゼ達には見向きもせずに。それが引っ掛かった。
その疑問には、ムーランがぽつりと意見した。
「…メリネス様は、夏妃や正妃になど、と叫んでおられました。もしかしたら、その、最近噂されているのを気にされてしまわれたのではないでしょうか」
ローゼは溜息をついた。あり得る事だ、と思ってしまったのだ。
メリネスはローゼに次ぐ立場を有してはいるものの、実際のところあまり脚光を浴びていない。最も脚光を浴びているのはローゼだし、その他の妃達もその立場相応にもてはやされている。
決して一番になれぬ二番手。それが、メリネスの立ち位置であった。
勿論、メリネスも最高の淑女として貴族相手に敬われているが、メリネスはローゼの家とも見劣りしないだけの家柄であるがゆえに、その中途半端な地位に我慢がならなかったのだろう。
それでも上に立つのはローゼだけであった今までならまだしも、些細な噂でも、自分と同等、もしくはその上をいくかもしれない女が現れた。
普段、ローゼに対抗するように、淑やかで高貴な女を演じていただけに、我慢の限界を迎え、その憤怒の行き場をシルビアの排除に向けたというのは、たいした疑問も無く受け入れられる。
「それにしても、メリネス様ともあろう方が、このような愚行をなさるとは」
元気が戻ってきたのか、ソラーナやマリア達が口々にメリネスの事をあげつらった。名門とはいえ、この騒ぎを起こしたメリネスは、もはやこの後宮にはいられまい。競争相手が一人減った。そう思ったからこその軽口だ。
しかし、ローゼはそれを諌めた。
「お黙りなさい。メリネス様の行いは甚だ遺憾しがたいものではありますが、貴女達も、くだらない嫉妬の矛先をシルビア様に向けていないだなどと言わせませんからね」
ぴしゃりと言い放ったローゼに途端に青くなる側妃達。メリネス程ではないとはいえ、大小の嫌がらせを向けていたのは紛れもない事実。ここで白を切っても意味はない。ローゼは優秀な侍女達を抱えている。行動は筒抜けだろう。
「折角の歓迎会でしたが、愚かな者の為に残念な事になってしまったわ。けれど、シルビア様。ここはそういうところよ。これからも平穏無事に過ごせるかは貴女次第だという事を、お忘れなきよう」
その言葉に、その場にいた者は、ローゼがシルビアを受け入れた事を悟った。
本当のところ、ローゼとしてもほぼメリネスと同意見であった。突如現れたシルビアの存在を、疎ましく思った。当然、その噂も聞いている。けれど、メリネスのように殺意まで抱きはしなかったし、そもそも噂はいつだって勝手に横行するものだ。所詮、最初の物珍しさ故の、口さがない者達が捲し立てる噂に過ぎないと。それに踊らされたメリネスに失望し、またそんな女とは違うという自意識によって、自分を律した。そんなところも、ローゼとメリネスの格差であろう。
「メリネス様を悲しませた事にはとても申し訳なく思っておりますが、わたくしはもうこの後宮の一員でございます。これからも、どうぞ、良しなに」
少々青ざめてはいるが、しっかりとローゼと目を合わせ、気丈な笑みを見せたシルビアは、正式に後宮の住人に認められた。
しかし、事態はそれでは収まらなかった。
その日の夕方、五参式最後の夕餉の前に、突如シルビアが失踪する事件が発生した。
メリネスの毒騒動からいくらも経っていない、まさにその直後であった。
その報せは直ちに後宮中に広まり、間もなく王の元へも報告が飛んだ。
そして、もう一件。シルビアの宮に勤めるある一人の女奴隷の姿も同時刻に姿を消すのだが、王の寵妃の失踪の前には誰も頓着しなかった。
ただ一人、その報せを蔭の一人から耳打ちされた王以外は。
エリカは目を覚ました。
既に夕暮れ時なのか部屋が橙色一色に染まっている。室内に張り付く庭の木々の影が風に揺れる。身を起して、エリカは部屋を見渡した。誰もいない。勿論、レイディアも。
寂しい夕焼け色の中にエリカは一人ぼっち。
「……エリカの枕…」
耳を澄まさないと聞こえないくらい小さく呟く。
「誰が…持ってったの?」
その顔に、いつもの無邪気さは、無かった。
エリカは立ち上がった。
「何で俺がこんな役回りなんだよ」
みすぼらしい身なりの男はぼやいた。折角割の良い仕事を請け負ったというのに、回された仕事は戸の見張り。
荒事が大好きな彼は、日々下町の酒場に顔を出しては喧嘩三昧、老人や女に金をせびっては酒と賭け事に消え、腹がすけば気弱な店主の店から適当にかっぱらってくるという具合に、かなり荒んだ生活を送っていた。
この間、面長な顔の、やけに愛想の良い男に美味しい仕事と囁かれ、喜んで引き受けたはいいが、今にきて後悔している。彼は暇というのが大嫌いだ。何らかの騒動の中にいなければ、この世から引き離されているような孤独感に襲われる。適当に仕事をした後、暖かくなった懐で賭博場に向かおうとしたが、とんだケチが付いた。
先に賃金を取り立てて、さっさとばっくれようかと考えていると、前方から誰かがこちらに向かってくるのが見えた。
男はにやりとした。ようやく仕事が来たようだ。彼の仕事は何人たりともこの扉の向こうへは通さない事。どんな事をしても構わないと言われている。
夜の気配が濃くなってきた夕闇の中でも、顔の判別が出来るくらいに近づいてきた人物は女だった。それも、若い。男は舌舐めずりをした。
「おい、お前。何の用があってここに来た」
へらへらと軽薄な笑みを浮かべて、女の肢体を上から下まで舐めまわす。柔らかそうな肉体は男の劣情を煽った。
しかし、エリカは男の言を無視して素通りしようとした。無視どころか、存在さえ彼女は気付いていないそぶりである。
「ちょ、おい、待てよ」
男の背後の戸にエリカが手をかけようとするのを見て、男は慌てて女の手を掴んだ。
なんだこの女、頭可笑しいのか?
「無視すんじゃねぇよ」
その言葉にも反応を示さず、男に握られた手をじ、と見つめた。
その様子を怯えたと思った男は、卑下た笑みを再び浮かべた。
「怯えんなよ。ただイイ事しようと思ってるだけだ。大人しくしてれば、悪いようにはしねぇから」
頭が可笑しかろうが身体は立派な女だ。適当な物蔭に連れ込んで可愛がってやろうと、女の腰を引き寄せようとした。
しかし、
「…………邪魔だなぁ」
「…え?」
男は、自分の身がどうなったのか分からないまま意識が暗転した。
開け放たれたままの戸の周囲は静寂に包まれていた。微かに風に揺れる戸の音のみがその場に響く。その戸の前には、首をねじ切られた男の死体が転がっていた。
こんばんは、トトコです。
お気に入りに多くの方に登録していただいているようでにやにやが止まりません。そして評価も、一人一人の方が、この小説を分析吟味していただけているようでとても嬉しいです。
本日(もう昨日になっていますが)成人式を迎えました。気持ちを一新して、これからも執筆頑張りますので、今後とも応援よろしくお願いいたします。m(_ _)m