第十四話 ローゼ妃の懸念と大将軍と茶を飲む女奴隷
穏やかな陽光に包まれる長閑な午後、幾つもある後宮の庭園の一つでローゼはいつものように侍女達に囲まれてお茶を楽しんでいた。
表面上は。
「夏妃様」
ローゼはダリアの声に目を開けた。
「…何か分かった?」
傍目にはローゼは後宮の主さながら落ち着き払って腰を落ち着けてはいるものの、その心内はさざ波立って神経が休まらない。
「それが…―」
ローゼはカップの手を止め、ダリアの報告を黙って聞いた。
「そう…完璧な姫君、ね…その噂は本当の様ね」
「まぁっ夏妃様以上に素晴らしい姫君などいらっしゃいませんわ」
すかさず給仕をしていた女官がローゼを持ち上げる。
ローゼはそれに何の反応も示さなかった。示せなかったと言った方がいい。
ざわめく動揺の波を、それでも周りに悟らせないのはバルデロにおける名門貴族、王族とさえ血縁関係にあるデノスリット公爵家の姫としての矜持がそれをかろうじて静めているからだ。
今口を開いたらそれが嫉妬による人目を憚らない言動をとってしまいそうだ。そんなみっともない最悪の形で決壊してしまうのは己の誇りが許さない。王は見苦しい女を最も嫌う。
「シルビア嬢は、数多の求婚者に見向きもせず、屋敷に閉じこもっている変わり者だという話です。公にも滅多に出てこないとか。ああ、それは娘を溺愛する子爵があまり外に出したがらないという説もありますが」
ダリアの言は真実だろう。シルビアは彼女の地元では大層有名で、彼女に関する噂は案外簡単に手に入った。
「…そう。分かったわ。…お下がり」
ローゼはそれだけ言って、他の者達も追って下がらせた。
「…完璧な淑女。求婚者を撥ね退ける変わり者。勉強が好きで図書室に籠りがち」
おぼろけながら浮かんでくるのは、作法通りに動くお堅い令嬢像である。美しく手堅い令嬢は男にとって都合がいいだろう。多少変わり者でも、子爵家というれっきとした貴族だ。結婚相手としては申し分ない。普通の貴族ならの話だが。
――王は、何処をお気に召されたの?
ローゼの気がかりと言えばそこに尽きる。しかし、どうも釈然としない。完璧な淑女を求めるなら既に自分がいるではないか。たいして権力を持たないただの子爵家の姫を態々結婚相手に選ぶ必要性を感じない。皇后に召すつもりなら、適当な他国の王女でも娶ればいいのだ。それなら、完璧な淑女の上身分も申し分ない。わが国の勢力も増すだろう。
幼いころより後宮に上がる為に育てられ、最高の教育を受けてきた自分はどんな令嬢にもそうそう劣らない絶対の自信があるため、政略で嫁いできた女如きに寵を奪われはしないと安心できもする。
…単に新しい女が欲しくなったのだろうか。今いる女では飽きてしまったと?
あり得る話だった。今でこそ妃の元にさえ滅多に訪れていないが、王は即位前、夜毎違う女を召していた。それこそ来る者拒まず手当たり次第に。
後宮の女はいづれも見目麗しい者ばかりだ。そのせいか自分こそは王に愛されるはずだという自信を少なからず持っている。一夜だけ寵を頂いただけで女達は欲を出しては手酷くその妄想を否定され、果ては王の怒りに触れ剣の錆となって消えていった。
正式に妃として入った者とて例外ではなかった。何度か王の渡りがあった者でも少し王に酒杯を溢してしまっただけで打ち切られた事もある。
側妃だろうが女官だろうが王は気に入らなければ紙屑のように女達を捨てていった。
怖くなかったと言えば嘘になる。しかし、同時にその強さに憧れもした。近づけないからこそ、少しでも近づきたいと思わせる何かが彼にはあった。
そんな事が繰り返されていたので当時は後宮の顔ぶれが頻繁に変わっていた。
見かねた女官長が時折苦言を呈した後の暫くは平穏が戻った。彼女にだけは王も憚りを見せた。女傑という二つ名はその時の彼女を指しての事だろう。普段の彼女は温和で、ともすれば殺伐となる後宮の空気を柔らかくほぐしてくれる。そういう意味では彼女は紛れもない後宮の柱だった。
ローゼより先にいた側妃達は今はもう皆鬼籍に入っている。今いる中ではローゼは一番の古株になる。あとはソラーナやメリネスといったの古い家柄の有力貴族、最近頭角を現してきた新興勢力出身の令嬢、マリアにムーラン、キリエ。
総勢六名が後宮における妃の位を賜っている姫の全てだ。王が不足分を補わないから妃は減る一方だ。過去と比較しても少なすぎる。
その内、夏妃の位はローゼの他にメリネスだけ。ソラーナとムーランとマリアは秋妃。残るキリエは冬妃だ。当然お互いしのぎを削る間柄ではあるが、その過程でそれなりに自分の分相応を知るようになり、昔の様な派手な衝突は少ない。それぞれお互い快適に過ごすための妥協といったところか。
ローゼ達は即位前の王の所業を見てきている者達ばかりだ。王の粛清を潜り抜けてきた者達が今ここに残っている。つまり、それなりにわきまえを知っている。
それに、即位後新しい妃も来ないので、皆数年来の顔見知りだ。滅多に顔を合わせる事など無いが、閉じられた後宮という世界において、そこそこ気安さも覚えるというものだろう。その仮初といえど後宮が平穏であれるのは王が特定の側妃を偏愛する事が無かったというのもあった。
そこに、シルビアが参入するのだ。心穏やかでいられるはずもない。もう自分達以外に競争者はいないとタカをくくっていたのだから。安らかな眠りを突然頬を打たれて叩き起こされた気分だ。
…誰か動かないものか。シルビアを後宮から追い出す口実。ついでにその行動を起こした者も出ていけば万々歳である。
ローゼは自分以外の側妃が王に侍る事は不快でしかないが、排除したい気持ちを抑え、鷹揚さを見せて筆頭側妃の威厳を保っている。王に疎まれたら昔の女達の様な末路が待っているだけであるのをローゼはよく知っていた。
誇り高いわたくしは生臭い事は似合わないもの。みっともない姿だけは晒したくないわ。
それが、ローゼの本音だった。
うららかな天気を堪能している者達がここにも一組。
「良い天気だ」
「…本当に」
女奴隷のお仕着せの少女と壮年期を幾ばくか過ぎた、しかし一目で武人と分かる頑強な男性が向き合ってお茶を啜っていた。
「もう一杯いかがか?」
「あ、すみません」
男性が手ずから注いでくれたカップを御礼を言いながら一口啜る。ほっこりと湯気が立ち、爽やかな香りにほっとする。一杯目より少し濃くなってしまった味は、それでも美味しかった。
「ここしばらくぶりだ。変わりはないか?」
自身の物にも茶を注ぎ淹れながらレイディアに話しかける。
「おかげさまで。ダイダス大将軍こそ戦に出向く身。大きな怪我も無く、ご無事のお帰り何よりです」
ダイダスと呼ばれた男性は微かに苦笑した。
「年々、歳を感じてしまう。もう若い頃の様な無茶は出来なくなってしまったからね。戦場で思うように立ちまわれない。口惜しい事だ」
「まさか。率先して兵卒を率いて先陣を切っていると耳にしましたよ」
「はは、やる気だけは若いもんには負けんよ」
「将軍の覇気が軍の士気を高め、勝利に導くと、貴方を慕う兵達が自慢しているとか」
「買い被りだ。わたしは凡庸でね、名誉を追いかけて、がむしゃらに剣を振るって振るって…いつの間にかここまで来ただけの男だ」
穏やかな声音で語るダイダスは軍の中でも中枢を担う第一軍を纏め上げる大将軍だ。彼は叩き上げの戦士で、その功績から大将軍にまで上り詰めた男ではあるが、家格は実はそう高くない。
「先君に隊長の位を賜って、一生そこの地位で終わるものだと思っていたが……陛下にこの地位に抜擢された時誓ったよ。陛下に我が身の血の一滴まで捧げようと」
軍とはいえ、上層部は貴族で占められているため出世には身分が大きく関わってくる。しかし、ギルベルトが即位して間もなくダイダスを隊長から大将軍に引き上げた。異例の大出世である。実際、彼の功績は目覚ましいものがあり、配下達は喜んだが、一部の貴族至上主義のお偉方は渋った。が、ギルベルトはそんな者達に、
〈それほどまでに功を立てたいならば立てやすいよう次の戦で最前線に配置してやろう。俺の温情だ、ありがたく思え〉
それを聞いた彼らは慌ててその旨の詔令を書こうと筆に伸ばした手を引きとめた。
そうして、ダイダスは第一軍の大将軍に収まった。今でこそレイディアとお茶を楽しむ余裕があるが、昔は戦場が寝床だった様な男である。
「しかし、出世したらしたらで事務仕事もこなさなくてはならなくなって…気楽な兵卒時代が懐かしいくらいだ」
戦時中は前線で猛威を奮い、平時は平時で剣の腕を磨く事に始終していた彼にとって、大人しく机に向かう作業は敵に拷問されるよりも堪えるという。
「セルリオ様が何かと手伝ってくださるそうではありませんか」
「…あやつ…セルリオは文官向きでね。細かい事はやつに押し付け…頼むに限る。どうして武人になったかのか今でも疑問だ」
歳は離れているが、同僚時代があったせいか二人は仲が良い。第一軍の大将軍と第二軍の将軍と複雑な間柄になってしまった今もダイダスが事務仕事に飽きて脱走した時など必ずセルリオが出向く(逃げたダイダスを見つけられるのはセルリオしかいないためだというのはダイダスの副官の言だ)。当人達に言わせると腐れ縁らしいが。
レイディアはセルリオと面識が無い。レイディアの方は知っているが、向こうは彼女を知らない。関わる機会が無いなら無いに越した事はないからこちらから接触する事など無い。レイディアの存在は知られていない方が都合がいいからだ。しかし、ダイダス繋がりで、セルリオの人となりは何故かよく知っているレイディアである。生真面目だとか、苦労性な所があるだとか。
…それだけ将軍がセルリオ様の話題を出すからだけれど…。
全く素直ではない。
「それはそうと、例のものだが、レイディア殿に渡せばよかったか?」
お茶もそろそろ尽きてきた頃、ダイダスはそう切り出し、懐から封筒を取り出した。
「はい。テオール様は今お忙しい身ですので、私が代わりに受け取りにまいりました」
「来月、新しい側妃が来るというのだから、忙しいのは君も同じだろう」
レイディアは封筒を受け取り、ダイダスに礼を言った。
「…妃の件はもうどうという事はございません。あらかた準備も整いました」
「そうか。まあそれもそうだろうな。三か月前から少しずつ準備をしていればそう慌てる事もあるまい」
ダイダスは珍しく悪戯っぽい表情を黙ったレイディアに見せた。
「君だろ? 新しい側妃を薦めたのは。こういう事に関してあの王を頷かせられるのは君しかいない」
「…それこそ買い被りです。私はあくまで王の命に従う身なので」
「そうか。そういう事にしておこう」
くつくつ笑って最後の一口をあおった。レイディアは何となくいたたまれなくなった。
「…それでは、そろそろお暇させていただきます。お茶をありがとうございました」
「もう行くのか。もう少しゆっくりしていけばいい」
「…もうそろそろ副官の方が呼びにいらっしゃる頃かと思うので」
今頃執務室から消えた上司を血眼で捜しているだろうダイダスの副官と鉢合わせしたくはないので、静かな動作で一礼すると、速やかに退出していった。
「…自分を知らない者が大多数の中でよくぞこれだけ動けるものだな…」
ダイダスは座る者のいなくなった向かいの席を眺めた。
ダイダスは王の手足となって動くレイディアの存在を知っている。ごくたまにだが、こうしてお茶をする仲であったりする。
四年前、突如城に現れた彼女を思い出す。静かに鎮座してずっと俯いていた彼女。それだけなら快活を好むダイダスは歯牙にもかけなかっただろう。しかし、ただ大人しかっただけではなかった。あまりに纏う空気が静かだったのだ。人は黙っていても主張するものだ。言葉にせずとも身体から自分の存在を発するものだが、レイディアからは一切何の音も聞こえてこなかった。目に映さねばレイディアの存在を確信できない程に希薄だった。
このお茶は、そんなレイディアの存在に疑問を持ち、王に害なす者か否かを確かめるためというのが切っ掛けだった。今では年に数回程のこの一時を楽しみにしている。息子はとっくに独り立ちしているし、娘に恵まれなかったから余計かもしれない。ここ最近、少しずつ話す様になってきた彼女の成長を見守る父の心境で見てきた。
「あの小僧め。何かと執務室に呼ぶ口実を作ってはフォーリーに小言を食らっておるというに。全く懲りてない様だの」
生涯を捧げたはずの主に向かってそう毒づく。彼が幼少の頃より知っているからこその揶揄だ。背もたれに身体を預け、何かを探す様に天井を見上げた。
「ベリーヤの次は、ノノリズ…か」
ダイダスは微かに外から自分を呼ぶ声を聞いた気がしたが、見つかるまでこの部屋から出るつもりはなかった。
ダイダスの部屋から辞して人気のない廊下を歩いていると、前方からクレアが駆け寄ってくるのが見えた。
「レイディア様ぁ、置いていくなんてひどい」
可愛らしく口をすぼめる彼女にレイディアは苦笑する。
「ダイダス様のところへ行くと言っていたでしょう」
その名を聞いてクレアは少し苦い顔をした。
「あの人苦手です」
「…そうなの?」
「王と同じ人種ですよゼッタイ。理論より勘を優先して動く性質というか…根拠ない癖にいやに核心ついてくるというか……血に染まる人間に敏感そうだ」
「…」
クレアの最後の言葉にレイディアは一瞬息がつまった。クレアの瞳が無機質に変わる。
「…クレアは綺麗よ」
優しく頭を撫でてやる。クレアはレイディアの腰に腕をまわして縋りついた。暫くしたいようにさせてやった。
「…お使いを頼める? これをテオール様に届けてほしいのだけど。多分第三資料室あたりにいると思うから。いなかったら戻って来ていいわ」
「…分かりました」
先程ダイダスから預かった封筒をクレアに渡し、遠ざかっていく背中を見送りながら先程のお茶の席を思い出した。
レイディアが何者であるかはダイダスは知らない。元より、蔭以外にレイディアの正体を知る者など殆どいない。例外はフォーリーだけだ。
彼とて知ろうとしなかったわけではなさそうだが、武人らしいというかざっくりとしたところがあるダイダスにとって王に仇為す者でないなら何者であるかはあまり興味が無いのだろう。検索せずにそのままの態度で接してくれるダイダスは何かと仕事に強力さえしてくれる。
確かに自分の勘に信用を寄せている感がある。しかし、勘が必ずしも正確とは限らない。
「……最も汚れているのは私かもしれないのに…」
レイディアは裾を引き払った。レイディアはすれ違う人の記憶に残らないくらい自分の存在を極力消して、後宮に戻っていった。
カラカラと、豪奢な馬車が行列を率いて王都へ続く街道を通っていた。
一等豪奢な馬車の中に、黄金に輝く髪が揺れていた。緩く結わえられ、髪留めに使われている宝飾品が霞むほどにその髪は際立って美しかった。その持ち主は今は顔を俯かせ、静かに目を閉じて馬車の揺れに身を委ねていた。
「姫様、お疲れではございませんか?」
姫と呼ばれた黄金の美女はうっすらと目を開けた。けぶる様な長いまつ毛の奥から氷の様な薄い水色の瞳が現れ、声をかけた侍女に向けられる。侍女の頬がうっすらと染まった。
「いいえ、大丈夫よ。それより、外にいる者達の方がずっと疲れているはずよ。その方達も今宵はよく休むよう言っておきなさい」
「まぁ、まぁなんとお優しい。もったいのうございます」
感激して涙目になった侍女は深々と跪いた。
「そのお言葉確かに皆にお伝えいたします。―――シルビア様」
美女――シルビアは美しく、優しい笑みを浮かべた。