第九話 女官長と女奴隷
初老を迎えたフォーリー・エンデラスは長年後宮を預かる女官長を務めている女性だ。白髪が交じってきたものの豊かな栗色の髪は優雅に纏められ、凛と伸びた背筋、皺が出来てもかつての美貌を思わせる彼女の容姿は穏やかな彼女の性分をよく表していた。しかし、いざという時、優しげな飴色の瞳は意志の強さを反映するようにきりっとしたものに変貌することもよく知られている。
女官長の位を頂く以前は王の乳母を勤めあげ、王の信頼厚い彼女の意見はよく聞きいれられると専ら評判の彼女は間違いなく今世の国を支える一柱といえよう。
そんな彼女が王や側妃達の為の食事の采配をとっていた時だ。
「女官長、ローゼ妃様の宮に勤めるレイディアが貴女と親しいとお噂を耳にしたのですが、本当でしょうか?」
ある女官がお盆を運ぶ途中何気なく口にした。
「何ですか? いきなり」
フォーリーはその唐突さにやや呆れた様な笑みを口に浮かべた。
「だって…レイディアといったらいつも俯いてばかりの…その、あまり目立たない子ですから」
遠回しに地味で仕事を押し付けられてばかりの、女官達に冷遇されているレイディアが後宮の実力者であるフォーリーの知り合いなどとは信じられないというのだろう。フォーリーは彼女の処遇を知っていたが特に何もしていない。そう酷いものではないし、何より彼女が何も言ってこないからだ。
「同じ後宮に住む仲間をそういうふうに言うんじゃありません。あの子はとても仕事熱心で思慮深い子です」
あの子、という言い方に親しみが籠っている事に気付いて女官は目を丸くした。
「やっぱり噂は本当だったのですか」
フォーリーとレイディアの関係を隠す事まではしてないまでも声高に主張してもいない。時々フォーリーの部屋に呼ばれるレイディアを見てそういう噂が立ったのだろう。フォーリーは特に隠す事無く説明した。
「噂になるほどたいしたものではないのよ。…この国に流れてきたあの子をたまたま保護したのが自分だっただけで」
フォーリーはいやに好奇心を寄せる女官に苦笑した。
「あの子は戦争で家を失くしてしまってね。私が偶然あの子を見つけて保護することにしました。あの子の立ち居振る舞いは相応の教育を施されたものでしたから、これならば後宮でも通用すると思い、私が後見人となってここに勤めさせたのです」
女官長が後見人という事実に女官はまたしても驚いた。
「でしたら、王の乳母でもあった貴方の後見でしたら女官であるべきでは?」
「あの子は…とても慎み深い、そう、あまり目立ちたがらない子でね。女官だと客人を接待したり宴にも全面的に表で立ち回るものですし。 だからそれを厭ってあえて女奴隷として勤めたいとあの子が望んだの」
女官は妃達の世話の他に王宮の客人をもてなす仕事も担っている。それは特に花形の女官達が活躍するもので王や貴族に顔を覚えてもらえる絶好の機会であり、誰もが憧れる役割である。もし女官長の後見を持つレイディアが女官となれば当然のように表舞台に立つことになる。普段のレイディアを多少なりとも知っている女官は納得した。確かに良く働くが引っ込み思案でもある彼女はそういう仕事を厭うだろう。女奴隷ならたとえ表に出ても女官の補佐役の様なものだから滅多に日にあたる事は無い。
「納得してくれましたか?」
「ええ、とても。不躾な事聞いてすみません」
「気にしていませんよ」
一度納得したら二度は聞いては来まい。晴れやかに笑った女官にフォーリーは穏やかに目を細めた。
フォーリーはあらかた準備は終わると自室に戻った。すると、そこには来客がいた。
「レイディア様」
「もう終わったのですか。いつもながらお早いですね」
「いつもの事ですから。それで、何か御用でしょうか?」
レイディアは抱えていた書類の束をフォーリーの机に置いていたところだった。女官長のものなだけあってレイディアの部屋にあるものよりはるかに大きくて立派だ。レイディアの机の様に物を置いたらすぐにいっぱいになってしまうものとは大違いだ。
「ここ最近の逢引していた方達の名前と相手の詳細です」
「…こんなにですか?…レイディア様、夜中に出回っていらっしゃるので?」
フォーリーはレイディア達が動いている事を知らない。
「別件で仕方なくです。これはあくまでついでです」
フォーリーは仕事の顔になってその紙束をぺらぺらとめくった。
「…この子達を即刻処分いたします」
捲っていくに従い眉間の皺が深くなる。
「その必要はありません。女ばかりの世界では必要なものでしょうし。真剣に想いあっているのであればむしろ祝福してあげてください。ただ、彼女達とそのお相手は把握しておいてください。万一、彼らが問題を起こした時に使えるでしょう」
「見逃すというのですか?後宮では恋愛は御法度ですよ」
後宮のものは王のもの。それは女官であっても同じ。しかし、それは元々時の王が大変な好色で身分など関係なしに後宮の女達を食い荒らしたおかげで、王の寵愛を頂いて身籠った女官達の子が王の子か密通相手の子か分からなくなってしまったので決められた規則だ。昔はともかく今の王には女官らに手を出す気配はない。最近では後宮勤めをしている間に、良縁を見つけて嫁いでいく者も多い。この規則は形骸化しつつある。
「もちろん規則は規則です。表沙汰になれば相応の処分はしてください。大丈夫です。彼女達の顔、氏名、家柄、人となり、交友関係、もちろん相手方の方も把握していますから」
「この数を全て、ですか?」
何でも無いようにレイディアは頷いた。
「それでは、私は私の仕事に戻ります。―――…あぁそうでした、一つ、忘れていました」
「は、何でしょう?」
「今夜あたりちょっと騒がしくなるかもしれませんのでお部屋の鍵はしっかりとかけておいてください」
問い返す間もなくレイディアは速やかに退出していってしまった。
フォーリーは改めて書類の束を捲った。
「あの方の能力を思えばこれくらい造作もない事なんでしょうね……」
いつもながら感嘆せずいはいられない。彼女は物事を覚えるのではない。忘れないのだ。それも彼女の能力の一つ。
フォーリーは孫の年ほど離れたレイディアを思い浮かべる。普段は俯きがちにしているせいで周りには目立たない子娘としてとらえられている彼女の本来の姿を。
彼女との関係はあらかじめ打ち合わせたものだ。鼻の利く好奇心旺盛な女官達がフォーリーにレイディアの事を尋ねられても違和感なく納得させるために。
一度納得すれば彼女達は満足する。下手に隠すよりずっと有効だ。そして多少首を傾げる事態があっても彼女達は勝手に憶測して納得してくれる。
「本当に後宮を統括していらっしゃるのは誰かと疑う事無く…ね」
書類の束を鍵付きの引き出しに入れた。
レイディアに釘を刺されたので彼女達を表だって罰したりはしない、が、この中に書かれた――特にレイディアをやたらしごく者――彼女達を気どられない程度につついてやろうと心に決め、軽く休憩を取った後、再び仕事に出掛けて行った。
夜も更けて荒れくれ共達の活動時間。カランカランという音と共にその店に入ってきたのはこないだ来たばかりの新顔だった。
「いらっしゃ…なんだお前さんか」
「親父ぃ」
ずかずかと店に入り込んでくる男に店主は首を傾げる。
「何だ? お前さん、こないだ俺から情報を貰って喜び勇んで出て行ったじゃないか」
男はボロボロの外套を羽織ったままバーヌーンを頼んでカウンターの上に突っ伏した。
「その情報、ガセだった」
「馬鹿言え。俺はこの界隈じゃ情報の正確さでは有名だぞ。確かな情報を客に提供する。それが俺の信条だ」
慣れた手つきで杯に酒を注ぐ。まだ開店したばかりのこの店に客はまだいない。だから店主である彼も隠す事無く裏の顔を見せる。常連はたいてい店主の裏の顔を知ってはいるが、中には何も知らない、普通に酒を飲みに来る客だっているのだ。
「でも、後宮に巫女の手掛かりはなさそうだぞ」
「そんな一度や二度の詮索で掴める訳無いだろうが。巫女の情報だぞ? 最も扱いには気をつかう情報だ。一流の情報屋にだってそうそう手は出せねぇ。下手すりゃこっちの命がやばくなるからな。で、アルフェッラ出身の後宮の召使いには会えなかったのか?」
「さあ? 後宮に探りに行ったが偶然会えたのは頭に被りものした小さいお嬢ちゃんだけだった」
「…被り物? 女奴隷のか?」
「だと思う。少なくとも女官の様には見えなかったし」
夜の気配を纏った少女を思い出す。正直なところ静かな雰囲気に呑まれそうだった。あれ以上あそこに留まらなかったのは衛兵を警戒した訳じゃない。彼女の空気から逃れるためだ。
一度捕まったら戻れない気がした。彼女なしの人生に。まだチビでほんと良かった。
「お前さん…後宮に行ったのは夜だよな?」
店主はグラスを磨きながら尋ねた。
「当たり前だ。真昼間に活動する盗賊なんて盗賊じゃねぇ」
店主はそういう問題ではないと言うのをこの際置いておいた。
「…お前さん。後宮には夜に許可なく出回ってはいけない規則があるのを知っているかい?」
「あん?」
「王が後宮に渡っている時は別だが、そうでなけりゃ夜出回っている女は逢引か、妃の命令か、最初から権限がある者だけだ」
「んー…そういやあの嬢ちゃん。特に用があるふうでもなかったような」
「それだ」
「何が?」
「お前さんがいうお嬢ちゃんだよ。女奴隷は夜に出歩く必要はねぇ。妃の命令で動くのは侍女か女官だ。その子がきっとアルフェッラ出の子だ」
「でも被り物してて髪の色なんて分かんなかったぜ。好奇心で夜たまたま出てたっていうのかもしれない」
出された酒を一気に煽る。
「確かにその可能性も無くはないがな。だが、お前さん、俺の情報がガセだとか言っただろう? それは、お嬢ちゃんの話を聞いてそう思ったんじゃないかね」
「そうだが…」
「なら決まりだ。確証なんか無い噂でしかないのだがね…お嬢ちゃんは…」
「お嬢ちゃんは…?」
声を潜めた店主に息を詰めて前のりになった男の前に手が出された。
「何の手だ?」
「情報料」
「ちっ…しっかりしてやがるぜ」
男はその懐から金貨を一枚取り出した。店主はその金貨を懐にしまった。
「まいど。…お嬢ちゃんは周囲には地味で目立たないいつも俯いた根暗な子とされている。だから滅多に表に出てこないが、街や王宮にたびたび出入りしているって噂だ。そんな特別待遇を受ける理由…その子の正体は…――――」
それを聞いた男は飲みかけのバーヌーンを放って店を飛び出した。
吟遊詩人は庭に出て夜空を見上げた。視界いっぱいに広がる瞬く星。ひしめき合う光はしかし互いの光を損なうことなく一連の美しさを伴って群青色の夜空に浮かぶ。
「あと少し…か」
この王宮に滞在して大分過ぎた。仲良くなった女官や他の楽団の芸人達との別れが近づいてきている。親しくなった者達との別れはいつだって寂しさを伴う。けれど今の吟遊詩人の心を占めるのはただ一人の少女だった。
「彼女は来てくれるだろうか…」
ついこないだ知り合ったばかりの少女。名も知らず、顔さえ真正面から見たことは無いがどういう訳か心をとらえて離さない。
吟遊詩人は自嘲した。彼は女を知らない訳じゃない。街から街への旅の中でそういう体験もしてきた。どれも成熟した女ばかり。そういう女性ばかりを相手にしてきただけに彼女は新鮮だった。確かに彼女言う通り彼女はあまり口数が多くはない。けれど気詰まりなものではなく、寧ろ纏う空気は安らかな木陰の様で。その木の傍にいたいと思わせるような雰囲気を持っていた。
初めて共にいたいと望んだ少女の名を聞きそびれるなんて我ながら情けない。聞く機会を逃してしまった。
彼女が一緒に来てくれなくても、せめて名前だけでも名乗り合おう。また会いに来ればいいのだから。
吟遊詩人は苦笑した。まるで青かった昔の自分に戻った様でこそばゆかった。
バルデロ国は自分の故郷を蹂躙した国だ。正直好きにはなれない。けれど彼女がいるならここに定期的に訪ねてもいいかと思った。
それに、ここには巫女がいるかもしれない。そういう噂が絶えない国だ。もともと巫女の話題に触れる機会が多いこの国ならいい唄が創れそうだと思ったからこの国に寄ってみたのだ。
夜空から視線を外しそろそろ自室に戻ろうとした時だ。ガヤガヤと城がざわめいているのに気付いた。
「…? 何だ…」
もう城の者も当直の者以外は眠りにつく頃だ。何事かあったのだろうかと室内に戻る事にした。
部屋に戻るとそのざわめきがますます大きく聞こえた。
吟遊詩人は胸騒ぎを覚えた。微かに怒号と剣が合わさる音が聞こえてきたからだ。
物盗りだろうか。吟遊詩人には心当たりがあった。
この度、恐れ多くも王城への滞在が許された楽団達の中には、一部きな臭い気配を纏った者がいたのを思い出す。旅団が護衛を雇う事は珍しくない。信頼のおける護衛ギルドもあるが、かなり高額なため、稼ぎのいい旅団くらいしか手が出ない。格安で引き受けてくれる個人営業の護衛もいるにはいるが、信用は今一つで傭兵崩れの者が多い。そういう奴らは人相が盗賊一歩手前の者も少なくない。だからその類の護衛かと思っていたが…。
もし、それが楽団に化けた盗賊だとしたら?
狙われるのは王宮のあらゆるところに飾られた美術品。そして、とりどりの極上の宝石が山とある、後宮。
一人の少女が頭をよぎる。
その瞬間、彼の脳裏に過った顔に急かされるように駆けだした。
遠くで怒号が聞こえる。後宮からでは詳細は分からないが、城の方で侵入者と兵がやり合っているのだろう。
今日の昼間、王が何やら気まぐれを起こして今夜の衛兵達の見回り体制を変えさせたのだ。それを知ったレイディアは用心に越した事は無いと女官長にも用心を呼び掛けておいたのだが。
「全く…あの人の勘は動物並ですか」
何処まであの人は分かって行動しているのか。彼の元に来てもう四年も経つがいまだに彼の本音が分からない。
この後宮もならず者が押し寄せてくるかもしれない。賊の数は分からないが用心するに越した事は無い。
門番のベルが気にかかった。ベルの腕は確かだが、多勢なら危ないかもしれない。
彼の元に行こうと踵をかえすと突如として目の前に黒い影が降り立った。
「貴方は…」
警戒心が頭をもたげる。後ずさろうとするレイディアの行動を読んだようにボロボロの外套を身に纏う男が間合いを詰めてきた。
「悪ぃな、お嬢ちゃん。ちょっと一緒に来てもらおうか」
抵抗する間もなく意識を持って行かれたレイディアはそのまま後宮から姿を消した。
――――――――封印した記憶がある。
決して開けてはならない禁断の箱。
どうか、お願い。私を放っておいて。人形のままでいさせて。壊れそうな精神を永遠に凍結させておくために。
愛した人を愛したままでいるために…―――
――――だから、お願い。私の箱を開けようとしないで…――――。
気を失った彼女の耳に、鈴の音が耳に反響した。