第八話 蔭と女奴隷と吟遊詩人と
一従業員の様に接客をこなし、お盆を下げに厨房に戻ったおさげの娘――三代目店主、ソネットは何もいないはずの天井を見上げた。
「面白い事になってるわねぇ、シアちゃん?」
誰もいないはずの厨房で、ソネットは営業用の笑顔とは全く違う、得体の知れない笑顔を向けた。
「…王も御承知の事」
数秒して、諦めたような声が返ってきた。
「うっそぉ、あのディーアちゃんを溺愛しちゃってる王が? 何の天変地異に前触れよ」
「…」
「何故か後宮に渡るようになってから日に日に機嫌の悪くなっていく王が、今朝までに鍛錬と称して暫く使い物にならなくした近衛の数でも言いましょうか?」
「……」
「私に何か隠そうとしても無駄な事、貴方なら百も承知よね?」
彼女は老舗のお菓子屋店主の他に、王御用達の情報屋という裏の顔も持っている。声と同じ、彼女も王に仕える蔭の一員。
ソネットは表の方を見やり、面白そうな顔をして客席に座る彼らを見やる。
「一緒にいるの、確か王に滞在許可を出された噂の楽団達の中の内の吟遊詩人でしょう? こないだ市で唄ってて、ちょっと評判になってた。なかなかの色男で、王宮でもモテてるみたいね。女官達からのお誘いも結構貰ってるし。まあ女の趣味は褒めてあげてもいいわ」
「たかが一人の吟遊詩人にまで、お前は情報網を張り巡らせているのか」
「裏路地の一人にいたるまで、ね。王のご機嫌斜めな原因は勿論、シアちゃん、貴方の事も」
「お前が…わたしの何を知っていると?」
微かに漏れた殺気とソネットの笑みがぶつかる。
シアとは声の名前ではない。古代語で“囁き”を意味しており、便宜上、声を指す時に使われるだけの記号。蔭なる存在は他にもいるが、それらは必ずしも連携している訳ではない。よって声の存在は知っていても殆ど呼ぶ者の無いこの名を知る事さえ普通は不可能なはずなのだが、その極秘事項をあっさり入手する腕前を持つ。その上、手練の者にさえ滅多に気どられない声の気配を察するほどの者。
対外的に名乗る名はソネットだが、彼女の名もまた記号に過ぎず、本名は声も知らない。
「地味な子を装って日々慎ましく過ごしているあの子に惹かれて近づいた男をことごとく左遷、しつこいヤツは闇に葬ってきたあの王が、他の男と一緒に出掛ける事を許すなんて明日にはこの国は大地震でも起こって沈むにちがいないわぁ」
誰も知らないはずの情報をさらりと披露し、大げさな身振りで身体を震わせてみせる。しかしその目は秘密を暴こうと探る眼だ。
「それはそうと、その事と関係があるかどうか分からないけど、面白い情報を入手したわ。聞きたい?」
あっさりと怖がる振りを止めて、今度は意味ありげな笑みをして声に問う。
「…お前の事だ。もう殆ど把握しているのだろう?」
何を、とは問わない。ソネットは笑みを深めた。
「…で? 聞きたいの? 聞きたくないの?」
「…代わりに何を要求されるのか分かったものではない。今わたしが聞いたところで重要な情報ならばいづれ王にお伝えするのだろう」
その答えにソネットは口を尖らせる。
「つまんないわね。これだから蔭は。ディーアちゃんにうつさないでよ」
ソネットは何故かレイディアをとても可愛がっていた。その様は妹を溺愛する姉のそれ。先程の妨害でもその事がよく分かる。どうやら可愛い妹に近づく男が純粋に気に食わないらしい。王とどっこいどっこいだという感想は、声の胸の内に留めている。
それはともかく声が聞きたいと言ったらやはり何か要求するつもりだったらしい。立場上は味方でも、蔭同士の仲は必ずしもいいとは言えない。何を要求されるか分かったものではない。
「はぁ、蔭っていうのは役職上仕方ない事であって、性格までそうなれっていうのじゃないのよ? ちょっとは明るく努めなさいよ」
「…必要のない事はしない主義だ」
「私と慣れ合う気は無いって? まあ私もごめんだけど、なんかムカつくわ」
「何とでもいえ。―――もう行かねば。そろそろレイディア様は店を出られる」
遠ざかる気配をソネットは呼び止める。
「―――王に、折紙付きのお菓子を送っとくわ」
一瞬間を空けて、声は答えた。
「了承した」
「もういくらもしないうちに日も暮れちゃうね。時間が経つのはあっという間だ」
『ミレイユのお菓子工房』から出て、再び二人はぶらりと街を歩いていた。
「今日は付き合ってくれてありがとう。ほんとのところ時間が無いって断られるかもしれないって思ってたんだ」
あれだけ強引に約束を取り付けたくせに今更そんな弱音を吐く。
「こちらこそ…良い息抜きになりました」
「忙しそうだからね、君。城の芸術品を見て回ってる時、たまに見かけたんだ。遠かったし、呼び止めるのもなんだか悪くて」
レイディアは頭を覆うスカーフの下で妙な顔をした。
「私に気付かれるとは珍しい…」
「何だい?」
「いえ、お気になさらず」
レイディアは気配を出来る限り殺している。特に、本城では。だから特に意識してレイディアを探そうとしなければレイディアを認識する事はないはずなのだが。よほど鋭い人なのだろうか。
「それはそうと、もう少し時間あるかな?」
「え…ええ。まだ大丈夫ですが」
「良かった。今日の記念に僕の唄を聴いてってよ。こないだの様に後ろじゃなくて、僕の…隣で」
リュートを持ち上げて、どう? と聞いてくる。どうやら、手頃な場所で唄を披露してくれるらしい。
「…そうですね。是非」
その答えに嬉しそうに笑った吟遊詩人は首を巡らして街の広場にある噴水に目を向けた。
そこまでレイディアを導き、隣に座らせ自身も座りリュートを構える。
吟遊詩人は軽く音を出し、リュートの調子を見る。
彼は目を閉じて、軽く息を吸った。
〈神の国アルフェッラ 彼の国の宝は黒曜の瞳
彼の国を滅ぼせし国の王は 揺り籠からその瞳を奪った――
レイディア達の周りに唄に気付いた人々が少しずつ集い始める。
――皆は嘆く 黒曜の瞳は何処だ 加護が宿りし花は何処だ
皆は囁く 王の宝石箱に 王の腕に 王の膝元に――
人々は唄に魅了される。その光景も見えず、レイディアは膝を抱えて瞳を閉じた。
――されど真実は闇の中 花の行方は誰も知らぬ――
吟遊詩人の唄は有名な唄だ。姿を消した巫女を尋ねる唄。
――囚われた巫女は何を思う 王への怒りか 憎しみか 慈悲か――
皆は言う。神に愛されし巫女は何処にいる? 安息をもたらす愛し子は本当に神の元に帰ったのか。
――隠れた瞳に真意は見えぬ 姿を隠した花は何処や――
皆は言う。巫女はきっと生きている。巫女はきっと彼の国に帰る事を切望している。はるか北の国、己の治めるアルフェッラに。
――摘まれた花は何を願う 自由か 帰還か 復讐か――
誰も知らない巫女の生死、居場所、その思い。
――その漆黒の瞳に宿る想いは―――――――――――〉
悲劇の巫女は何を、思う?
吟遊詩人はいつの間にか集っていた人々から帽子に投げ入れられた銅貨や銀貨を麻袋に詰めた。
「今日のは…別に路銀稼ぎの為じゃなかったのだけど…」
「あんなに人が集まる広場で唄えば当然そうなります」
苦笑しながら言う吟遊詩人に、帽子の周りにも散らばった硬貨を拾ってやりながらレイディアは淡々と返す。今日稼いだお金は庶民が三日は何もせずとも生きていける結構な額であった。
「ところで…さっきの話だけど…」
レイディアは一瞬手が止まった。
「ミレイユのお店で…言おうとした続き」
「……」
吟遊詩人は迷ったように瞳を伏せたが、やがて決心したように顔を上げた。
「君さえ良ければ…―――僕と一緒に来ないかい?」
「………え?」
意外な言葉にレイディアは目を瞬かせる。
「会ったばかりの僕にいきなりこんなこと言われて驚くかもしれない。そんな僕に付いてくるのに抵抗があるのはもちろん承知の上だよ。でも僕は本気だ。後宮の様に豊かな生活は送らせてあげられないかもしれないけど、不自由の無い暮らしなら保証できる」
レイディアは吟遊詩人を茫然としたように見つめた。
「僕は、豊かじゃなくてもこうして生きていくのに充分なお金も稼げる。君に不自由をかけさせる事は無いと思う。君を好きなところに連れて行ってあげられる」
レイディアが何も言えずに黙っていると、何を思ったか吟遊詩人は慌てたように付け足した。
「あ…もちろん。やむを得ない理由があってここから離れられない理由があるなら無理にとは言わないけど…養う家族がいるとか」
「今の私に家族はいませんが…」
「そうなの? 不躾な事を言ってしまったかな…ごめんね」
レイディアを身寄りの無い者とでも思ったようだ。レイディアが口を開こうとすると吟遊詩人は遮るように言った。
「今すぐ返事はしなくていいんだ。数日後、僕がここから出て行く時に答えをくれれば」
出ていく日を告げ、その時そこに来てほしいと、吟遊詩人は言った。そう告げる顔は照れながらも真剣な顔で、レイディアは頷くしか出来なかった。
並んで王城まで歩き、吟遊詩人はレイディアを後宮のすぐ近くまで送ってくれた。
「今日はほんとに楽しかったよ。それじゃ…闇が癒しを与えん事を」
「…貴方にも安らかなまどろみを」
一つ笑顔を残し、吟遊詩人は自分の滞在する宮へと帰って行った。
その背中を見送るレイディアに高くも低くもない中性的な声が掛けられた。
「レイディア様」
「やはり…いらしたのですね」
振り返らずに答える。
「は。王命にて…貴女様の警護を」
「気にしてません。もともと蔭の誰かが付くのは分かっていましたし。…まさか貴方を遣わすとは思いませんでしたけど」
「それほど、貴女様の事を大事に思っておられるのです」
「……そうかしらね」
微かに自嘲する様な笑みを浮かべた様な気がして声は訝しがった。
「レイディア様?」
「いいえ、何でもないです。それにしても、貴方が話しかけるとは珍しいですね。何か言いたい事でもあるのならお聞きしますが」
「は…それでは。……レイディア様は如何なさるおつもりでございますか?」
「彼と共に旅に出るのかということ? それが考える事すらあり得ない、不可能な選択だと貴方は知っているでしょう? だって…」
レイディアは一旦言葉を区切った。彼女の顔には先程までの柔らかな色など微塵も残っていない無表情に戻っていた。
「…私はあの人から離れられない。…そうでしょう? シア」
そう。私はあの人の元でしか生きられない。契約を交わした、あの瞬間から。
シアはレイディアの声に微かに宿る感情を正確に読み取った。
諦観、悲哀、そして外への憧れ。
シアもそれは分かっている。レイディアはここから出て行かない。王の執着もあるが、何よりも自分の意思で。
けれど、同時に彼女の望みは別のところにある事も知っている。おそらく彼女は気付いていない。
彼女の求めるものを考えると、今の吟遊詩人の言葉はおそらく彼女の琴線に触れたことだろう。
叶わない願いほど、もし、を考えてしまうものではないのだろうか。
「この話は、あの人には報告しないでくださいね」
「…それは」
「今度こそあの吟遊詩人さんに人を差し向けそうなので。…貴方あたりを」
その通りなので、声は小さく、是と呟いた。




