あとのまつり③
――終わった。
さよなら。あたしの新生活……。
「……好きにすればいいよ」
弁解する気力もなくなり、本音が口をついて出た。
諦めの感情があたしの中の百パーセントを占めている。もう、ゼロ川さんに何をされようと怖くはない。
上司に報告するなり、嘲り笑うなり、好きにすればいい。
「分かった」
しかしゼロ川さんはそう言うだけで、破れたシャツを拾い上げた。あたしの方を見向きもしない。
そのあまりにも素っ気ない返事があたしの不貞腐れ具合をますます加速させる。
(こんなに冷たい人だったなんて。さっき、一瞬でも心のある人だって思った自分がバカみたい)
窮地に陥ったあたしを助けてくれる、なんてことは端から期待していなかった。
でも、人としてどうなのよ。その態度。
なんかもっとあるんじゃないの。「大変!」とか「どうしたの?」とか。
誰がどう見ても只事じゃないのに、どうしてそんなに涼しい顔でいられるの。
イライラを抑えきれず、目つきが悪くなる。反抗期真っ盛りの中学生もドン引きして我に返るほど、今のあたしの眉間にはびっしりと皺が刻まれている。
しかしそんなことは意に介す素振りもなく。相変わらずこちらを見る様子もなく、ゼロ川さんは言い放った。
「じゃあ好きにさせてもらうね」
この一言が、カチンと来た。
元はあたしが悪いんだって分かっている。でも、どうしようもなく腹が立った。文句の一つや二つ言ってやらないと、とてもじゃないけれど気が済まない。
「あのねえ……!」
口を開こうとするが、その言葉は叫ぶような鋭い音に遮られた。
「え……」
掠れた声を絞り出すのが精一杯だった。
目の前で起こったことが、理解できなかった。
その出来事を認識しようと、脳がフル回転する。必死に理由を考える。
つい先程まで昂っていた感情が全て吹き飛ぶほどの衝撃を受けていた。
人は理解できない事象に遭遇すると頭も体も動かなくなる。
石像のようになりながらも、どうにかして目の前の事象を認識しようとする。
かろうじて動く頭で何度も考えるが、やっぱり分からなかった。
「今起こった事実」以外は。
――シャツは、さらに破かれたのだ。
ゼロ川さんの手によって。ビリビリと。
傷口に塩を塗りたくられて……塗りたくられすぎて、塩まみれになった気分だ。
好きにしていいとは言ったが、いくらなんでもあんまりではないか。
言葉にならない感情が溢れるが、何か発そうにも口をぱくぱくさせることしかできない。
そんな私の視界の隅で、ゼロ川さんがおもむろにスカートのポケットから小さな箱を取り出し、開く。
箱の中から針と糸が出てくるのを見て、それが裁縫セットであると分かった。
(……なんで針と糸?)
まさか縫い合わせるとでもいうのだろうか。
いや、まさか。それはない。
破れたシャツをさらに破っておいて、縫い直すなんて。そんな意味不明なことをするわけがない。
が、あたしの予想を裏切り、ゼロ川さんは針へ糸を通した。
(まさか……)
ちょきん、と優しい音をたてながら糸が切れる。
細い指は器用に糸を結び、そして――ブスリと、躊躇することなく、彼女は針をシャツに刺した。
(えっ……えっ!?なんで!?)
たった今、自分で破ったのに。どうして縫い直すのだろうか。
彼女が何をしようとしているのか一向に分からない。
――と、ゼロ川さんの動きが止まる。
空いた手でスカートの上からポケットを探っているようだが、目的のものがなかったらしく、おもむろにこちらを振り返る。
「ハンカチ、持ってる?」
「ハンカチ……?も、もちろん」
ここの社員で白のハンカチを携帯していない人間はまずいない。
会社を表すシンボルとして、そして何かあった時のためにと、携帯が必須となっているのだ。
ゼロ川さんがこちらに向かって手を出す。――貸してほしい、ということだろうか。
おずおずとハンカチを手渡すと、彼女はすぐに、それを切り刻み始めた。
「えっ!?」
今度は思わず声が出た。
しかしあたしがどれだけ驚いても、ゼロ川さんの手は止まらない。
あたしもそれを茫然と見つめることしかできない。
シャツだけではなくハンカチまでも駄目にされてしまった。こんな踏んだり蹴ったりな状態では、ただの感想しか出ない。
あたしはついに、どうにかすることを諦めた。
考えたところで彼女が何をしようとしているか分からない。かといって、これ以上自分で何かができるわけでもない。
最悪、起こったことすべてをゼロ川さんのせいにすればいい。なんて性悪なことまで考えていた。
とにかくあたしは現状を見守ることを決めた。
すると一気に頭が冷静になり、あることに気付く。
(――……あれ?)
よくよくゼロ川さんの手元を見ると、切り刻まれたはずのハンカチがシルクのシャツに縫い付けられているのだ。
先程破れてしまったシャツの端に、ゼロ川さんの手は素早く、でも確実に綺麗なフリルを生み出していた。
まるで物語を紡いでいくような芸術的な動きに、あたしはただただ見惚れてしまった。