あとのまつり②
「…………!」
扉は随分と力強く開いた気がした。
背筋から血の気が引き、慌てて振り返る。
そこに立っていたのは。
「ゼ……ゼロ川さん!?」
綺麗な黒髪のボブから覗く幼めの顔立ち。間違いない。
そこに立っていたのは、同じ部署の先輩社員――零川祀だった。
茶髪や派手なメイクなど華美な人間の多いこの会社で、飾り気のない彼女は殊更目立つ。
流行りの化粧品を持っている様子もなく、ブランド物を身に着けているわけでもなく、興味のある素振りさえも全くない。かといって何かのグッズにお金を使ったり、アイドルや俳優などにハマったりしている気配もない。少し値の張るランチに同僚と行くわけでもない。
そんな生き方を批判するわけではないが、周りの人間はそうではない。彼女の行動が理解できないのだ。だからどうしても浮いてしまう。理解できないもの、自分と異なるものを毛嫌いする人種の多いこの職場では、特に。
彼女のような異端分子は仲間の輪から省かれ、近づかないよう釘を刺される。その”釘”となっているのが「物欲ゼロ川さん」というワードだ。仲間内では鉄板ネタとなっている。
「新色のリップ欲しいんだけど、今月もうピンチなんだよね~……物欲ゼロ川さんの給料分けてほしいわ~。お金あっても使わなさそうだし。だったらアタシがじゃぶじゃぶ使って経済回した方が、よっぽど有意義じゃない?」
などという話は数時間前に先輩社員から聞かされたばかりだ。あたしのような下っ端は黙って同意するしかない。ゼロ川さんが嫌いなわけではないが、ここで「うまく」やっていくためには必要なことだから。
長いものに巻かれて生きる方が、楽で賢いから。――あたしには必要なことだから。
そんなどうでもいいことまでフラッシュバックするくらいに、あたしの頭の中はとにかく不安でいっぱいだった。
あたしのやったことがバレたら、すぐに失態を上司に報告されてしまうはず。そしたらもう、終わりだ。
でも……今ならなんとか誤魔化せるかもしれない。まだあたしが何をしようとしているかまでは気付かれていないだろうし。
「何か、用ですか?」
何事もなかったように笑顔を繕うが、その作り笑いはゼロ川さんの一言で崩壊した。
「そのシャツ」
心臓が大きく跳ねる。冷や汗がこれでもかというくらい、どばっと溢れた。
なんで分かったの――と聞こうと思ってゼロ川さんの顔を見ると、その視線は一点に注がれていることに気付く。
視線を辿ると、流し台のフチからシャツの袖が出ていた。
「あっ……ああっ!違うのこれはっ!」
慌てて袖を引っ張り隠そうとする手を、ゼロ川さんが引く。
決して強い力ではなかったのに、びくっと思わず手を開いてしまう。
シャツのお腹部分にできたシミが露わになる。
掴んでいたシャツは手汗でぐっしょりと汚れていた。
汚れた布は重力に従い、地に落ちる。
バレた――そう確信したと同時にかくんと膝が抜けて、その場にへたり込む。
視界がチカチカして、体が宙に浮いてしまうような不思議な感覚に襲われる。
近づいてくるゼロ川さんの足が、二匹の黒い大蛇に見える。
あたしはこの黒蛇に、今からすべてを喰らい尽くされてしまうのだろうか。
新しく始まろうとしていた、人生のすべてを。
ゼロ川さんが、あたしの罪に触れようとする。
「――お願い!やめてっ!!」
考える前に手が出た。
驚いた顔のゼロ川さんがこちらを見ている。
感情の起伏が乏しい人だと思っていたけれど、そんな顔もするんだ。
間抜けにもそんなことを思った。
花が開くように、表情が変化する。
なぜか春の日差しに包まれたような、あたたかい気持ちになる。
白昼夢の中、突如桜吹雪に包まれ、彼女の瞳が一瞬見えなくなる。
世界の時間がゆっくりと流れているような錯覚に包まれる。
随分と長い間、ただあたしたちはお互いを見つめ合っていた。
「…………」
どうして目を逸らしてくれないの。
どうして。
魔法のような時間の中、ふと何かに違和感を覚える。
おかしい――ゼロ川さんの瞳がゆっくりと向きを変えているのだ。
あたしの目、肩、腕――……。
(……あたしを見てるわけじゃない?)
指先に、何かが当たる。
それは、桜の花びらだった。
綺麗だな、と思うあたしをゼロ川さんが現実に引き戻す。
「破れたね」
「……え?」
破れた?
何が?
最悪の結果を想像した途端、散った桜の花びらが、ただ白いだけの布に変わる。
魔法が解けるように、あっさりと現実はやってきた。
あたしとゼロ川さん、二つの力が同時にかかったシャツは……端が見事に裂けていた。