あとのまつり①
「聞いたよ。同じ部署の子、助けてあげたんだって?」
カラリ、とグラスの中の氷が傾く。
ほの暗い店内には、マスター以外、客は自分と隣に座る男の2人しかいない。
「何のこと?」
私が誰かを助けた、なんて噂は社内に流れていない。
もっとも、別の噂は流れているようだが。
薄くなりはじめたグラスの中身を、一気に呷る。
お互い、まだ酒は大して回っていない。
「もう一杯、いっとく?」
金曜日の夜、22時を過ぎたところだ。終電まではあと2時間近くある。
まだ帰るつもりはない。
「梅酒、ロックで」
「僕も同じのを」
マスターの上品な革靴の音が店内に響く。
静かな空間の中、机の上では蝋燭の炎がゆらゆらと踊っている。
「ところで」
「何?」
「どうして僕とは飲んでくれるのかな」
酒が注がれ、氷がパチパチと鳴る。
「めんどくさくないから」
手元に冷えたグラスがやってくる。
「はは、違いない」
横に座る茶髪の男は、随分楽しそうに笑った。
* * *
後野祭は人生最大のピンチを迎えている。
極めて簡潔に言うと、社会的に死にそうなのである。
最悪クビにはならないかもしれないが、このままではこの部署全体から、よくても村八分にされてしまう。
ヤバイ。
超ヤバイ。
(……あたしのバカ!)
この会社で、よりによって「真っ白」なシルクのシャツにコーヒーを零してしまうなんて……。
* * *
ここ「株式会社 白記号」はデザイン制作会社だ。
名前の通り「白」を基調とした清廉なイメージを、あらゆるもので表現することを強みとする会社である。
企業や商品のロゴデザイン、WEBサイトのデザイン、壁紙やテーブルクロス、ウエディングドレスといったものまで、その幅はとてつもなく広い。
すべてにおいて唯一無二、こだわり抜いた白の美しさの評判は業界内外問わずピカイチである。
だからシルクのシャツひとつとっても、「白」の色の種類やデザイン、素材など様々な要素を大切に製作しているのだ。
つまり「白」は会社の顔のようなもの。白を汚すことは、ここでは禁忌だ。
私は禁忌を犯してしまったのだ。
これだけでも相当な罪だが、あたしの罪はここで終わらない。
今日は、お得意様から依頼を受けていたシルクのシャツのサンプルをお披露目する大事な日なのだ。
言うまでもなく、そのシャツを管理していたのはあたし。
そして、その1着しかない貴重なサンプルに、真っ黒なシミを作ってしまったのも……あたし。
(どうしよう……また1ヶ月で会社、辞めちゃうのかなぁ)
新卒で入った会社は酷いブラック企業で、1ヶ月と持たず辞めてしまったのだ。
(またイチから就活して、秋になってようやく入社できたっていうのに……)
自分がやらかしたことを認めきれないのか、現状の打開策を考えることすら諦めているのか、現実逃避したいのか。あたしの頭は全く回ってくれない。
「…………はあ」
後悔しても「あとのまつり」。あたしの人生、こればっかり。
(なーんでこんな名前つけたかなぁ、親は)
あんたたちのせいで、あたしはこんな人生を送ることになったかもしれないのに。……などと親に当たっても仕方ない。
見境なく責任転嫁してしまう自分に辟易する。
ひとまず冷静にならないと。
あたしはまず、何をしなきゃいけないのか。
(とりあえず、バレないようになんとか処理するしかないよね……。……これ、水洗いで落ちるかな?)
幸いにもここは給湯室。
コーヒーを零してしまってから1分と経っていない。
(すぐに水洗いすれば落ちそうだし……!)
気休め程度かもしれないが、水洗いした方がしないよりマシだろう。
他の人が来る前に――そう思い、洗面台にシャツを突っ込む。
勢いよく蛇口を捻ろうとしたその時。
後ろで、ガララと扉が開く音がした。