図書館ではお静かに
「なるほどなるほど。実はかつてもこんな現象があったと」
大図書館へ来て一週間。漸くクレオパトラが古びた文献からお目当ての記述を見付けた。
アリスは今、大図書館でちょっとした小遣い稼ぎに勤しんでいた。
「全く! ここのプールって大き過ぎなんだよ! 掃除する身にもなって作って欲しいもんだよ!」
ワレコランドリア大図書館には、自慢の大プールがあった。本来は図書館が火事になった時の消火用の水源として設計されたものだが、今や水浴びが主な用途になっていた。
しかし水浴びを用途とする場合、衛生上定期的に水を入れ替えると共に、清掃も行わなければならない。
この作業は金のない観測者にとって、しばしば絶好の小遣い稼ぎになっていた。
「お疲れ様、アリス」
「いや、だから何で僕が、この炎天下にこんな肉体労働をしなきゃ……」
「だって大図書館に来れば、何か仕事が見つかるかも知れないって言ったのはアリスでしょ? ここはやっぱり、言い出しっぺが実行するのが筋じゃない?」
「くっ、相変わらず腐れ外道だね、君って」
「おっほっほ! 何とでも言いなさい。おっほっほ!」
「で、クレオパトラの方は何か成果があったの?」
「そうよ! 聞いて驚きなさい!」
「おほん! 図書館ではお静かに!」
しかしクレオパトラのはしゃぐ声を、近くにいた館長が静めた。
現ワレコランドリア大図書館の館長は、大魔導士ヒッパリダコスである。観測者としての名声はユークリッドやエラソーナ・スッテンテンに一歩譲るものの、その政治的手腕によって大図書館館長にまで登り詰めた人物だった。
「ところでクレオパトラ君。我が大図書館としても、君のその発見は非常に興味深いのだが」
大図書館はムセイオンの総本山でもあるが故、近頃の魑魅魍魎の出没状況の異変について深い関心を持っていた。
「大図書館としても近々調査隊を派遣するつもりでいたのだ」
「まあ、そうだったの! ヒッパリダコス先生!」
ヒッパリダコスはかつてコフウ家の宮廷観測者を務めており、クレオパトラのジオメトリーの師でもあった。
「おほん! クレオパトラ君! 図書館ではお静かに! ……そもそも君は、一応死んだ事になっているのだろう? あまり目立たれると、いくら私でも誤魔化しきれんぞ」
「あっ、ごめんなさい、ヒッパリダコス先生。それと、いつもお気遣いありがとう」
クレオパトラは小声で言った。
「まあ、コフウ家には長年世話になったのでな。それに弟子を気遣うのは師匠の役目。まあ、どこかの誰かさんはちょっと違うみたいだが」
そう言うとヒッパリダコスはアリスを一瞥し、嫌味ったらしい笑みを浮かべた。
「ふんっ、相変わらずだな! ヒッパリダコス!」
しかしその時、聞き覚えのある声がアリス達の耳元をかすめた。
「ユークリッドの批判をしていいのは我輩だけ。貴様なんぞには十年早いわ!」
その声にヒッパリダコスは後ろを振り向くと
「き、貴様は、エラソーナ・スッテンテン!」
思わぬ人物の出現に驚きの声を上げた。
「き、貴様、どの面下げてこの大図書館に! この大図書館の館長を三日で辞めてしまったような奴が!」
エラソーナ・スッテンテンはかつて、ワレコランドリア大図書館の館長だった。しかし彼は、三日でその職を辞任してしまった。
「くっ、我輩だって辞めたくて辞めたわけではない! だいたいこの町には借金取りが多過ぎるのだ!」
王都ワレコランドリアは世界一の大都市だけあって、借金取りの数も世界一だった。
「ところでヒッパリダコスよ。風に聞く噂は本当だったようだな。大図書館が昨今の魑魅魍魎出現の異常を調査するという噂は」
「ふっ、相変わらず耳ざとい男だ、貴様は」
「さて、ヒッパリダコスよ。その調査隊、我輩が指揮を執ってやろう。我輩ほどの観測者が指揮を執るのであれば、鬼に金棒であろう。ふっはっは!」
「だが断る!」
「ぐっ! 貴様、ヒッパリダコスめ! 即答しおって!」
「ふんっ。我が大図書館の調査隊の指揮を、誰が貴様なんぞに任せると思っておるのだ!」
「ふっ、我輩以外に誰がおると言うのだ! 観測者としての名声も実力も兼ね備えた我輩以外に! ふっはっは!」
「ふんっ。観測者としての名声や実力が問題なのではない! それ以前に貴様の人格が問題なのだ!」
これにはアリスとクレオパトラも思わずうんうんと頷いた。
「ぐっ、貴様、ヒッパリダコスめ! 大図書館の館長ともあろう者が、好き嫌いで人を判断して良いと思っているのか!」
「私は常日頃、大図書館の館長として不偏不党を貫いている。だが、貴様は別だ、エラソーナ・スッテンテン!」
「ぐっ、はっきり言いおって! ならば我輩もはっきり言わせて貰おう!」
しかしその途端、アリスがゴホンと咳払いし
「図書館ではお静かに」
静かにそう述べた。
ヒッパリダコスとエラソーナ・スッテンテンは顔を赤らめ、クレオパトラはアリスの隣でクスクスと笑っていた。
それから数日後、以前の約束通り、サーニャ・ハッシュが大図書館に訪ねて来た。
「漸く時間が取れたよ、アリス、クレオパトラ。じゃあ、早速王都見物と行こうか。もし君達が既に飽きるほど王都見物をしているのでなければだけど」
「大丈夫さ、サーニャ。僕が飽きるほどしたのは、ここのプール掃除だけだから」
そう言ってアリスはクレオパトラを一瞥した。
「おほん! それじゃあいよいよこのシティガール、クレオパトラさんの本領発揮ってところかしら」
クレオパトラはそう言うと、まるでアリスとサーニャを従えるかのように、颯爽と街中へ繰り出した。
「王都って言ったら、やっぱり劇場よね」
王都ワレコランドリアには、数多の劇場がひしめいていた。
「今日は日曜日だから、夜になったら大河演劇を見に行きましょうよ」
大河演劇とは一年に亘って演じられる連続劇である。それはある人物の人生を大河の流れの如く描く骨太の物語であり、毎週日曜の夜に演じられていた。
「大河演劇って、もう三年も観てないわ。昔は良く観に行ったんだけど。今年の大河演劇って何てタイトルなの?」
「確か今年は『ハルマゲドン』だったかな? 貧しい家に生まれた破壊神が、兄弟や仲間の破壊神達と力を合わせ、超能力者達に最終決戦を挑む、痛快サクセスストーリーだったな、確か。僕は忙しくて時々しか観に行けてないんだけど」
「そう言えばサーニャ、宮廷観測者ってそんなに忙しいの?」
アリスの問い掛けに
「う~ん、以前はそうでも無かったから、好きな時にのんびり演劇を見に行けてたんだけどね。最近は……」
サーニャ・ハッシュはそう言い掛けて口ごもった。
「どうしたの、サーニャ?」
クレオパトラの問い掛けに
「いや、この話はよそう。折角の王都見物に水を差しちゃ悪いからね。今日は思いっ切り王都見物を楽しもう!」
サーニャ・ハッシュはありったけの笑顔でそう答えた。
「良かったわね、ハルマゲドン」
クレオパトラが涙と鼻水を流しながら言った。
今回の『ハルマゲドン』のストーリーは、宿敵の王女の陰謀で大切な仲間を失いながらも、主人公の破壊神ハルマゲドンが深い悲しみから立ち直り、再起を誓うシーンで幕を閉じた。
「次回はいよいよ、前半のクライマックスだ。ハルマゲドンが亡き友との約束を果たす為、王女率いる超能力者軍団の本拠地へ接近する話になるらしいよ」
「詳しいね、サーニャ」
「今年の大河演劇のパトロンはエッツェン公だからね」
大河演劇に限らず、数多の演劇には王侯貴族や大商人がパトロンに付いている事が多い。特に大河演劇のパトロンになる事は大変な栄誉とされ、その為パトロンになろうと立候補する者も多かったので、パトロンはくじで選ばれた。毎年末にくじが行われ、当選した者は二年後に上演される大河演劇のパトロンになれたのである。
「去年の大河演劇のパトロンは、あのタイロン・イイネだったからね。おかげでタイロン・イイネは名声を得て、大執政官にまでなれたんだ」
サーニャ・ハッシュは苦々しい顔で述べた。
大執政官とは臨時に置かれる執政官である。他の執政官が筆頭執政官を含めて合議で政務を執り行うのに対し、大執政官は合議に諮る事なく独断で政務を執り行える、非常に強力な権限を有していた。
タイロン・イイネは半年前、その大執政官の職をトレミー868世から任命されたのである。
「イイネ公って確か、エッツェン公と並ぶ由緒ある大貴族じゃなかったっけ?」
「そうよアリス。イイネ家はエッツェンより少し南の地に広大な領地を持つ大貴族なんだけど、昔から互いにライバル意識が強かったの。王宮では顔を合わせる度に嫌味を言い合うのが、半ば恒例行事になってたそうよ。他の貴族達はとばっちりを受けるのを嫌って、さっさとその場から離れちゃって、仕方ないから最後は王族が執り成すっていうのが、いつものパターンだったらしいの」
「尤も王宮での嫌味の言い合いは、どこまで本気だったか分からないみたいだけどね。寧ろ王宮で退屈している王様を喜ばせる為のお芝居だったって説が、最近では有力らしいし」
サーニャ・ハッシュがそう付け加えた。
「う~ん、つまり、うちの師匠とあのおっさんみたいな関係って事?」
「それはどうかしらね。私もユークリッドとエラソーナ・スッテンテンの関係っていまいち良く分からないし」
「エッツェン公とイイネ公も、確かにかつては良きライバル関係の時もあったらしいんだけど」
サーニャ・ハッシュはそう述べると
「それも昔の話さ。後継者争いなんてものがなかった頃の」
口惜しそうにそう言葉を続けた。
「そう言えば『ハルマゲドン』の主人公ハルマゲドンと敵の超能力者軍団って、元は共に腐った世の中を改革しようする仲間だったそうね」
「それどころか、主人公のハルマゲドンと超能力者軍団のリーダーの王女は、元は恋人同士だったんだ」
「まあ! あの闇と光の戦いに、そんな壮大なドラマがあったなんて!」
クレオパトラは、『ハルマゲドン』のエンディングで流れた壮大な音楽を口ずさみ、恍惚の表情を浮かべた。
「じゃあ、僕はこれで! 今日は楽しかったよ、アリス、クレオパトラ」
「私達こそ、今日は楽しかったわ、サーニャ」
「また今度会おう、サーニャ!」
「ああ。また今度。じゃあアリス。君も頑張って世界を測れよ」
「えっ! 何で知ってるの?」
「まあ、蛇の道は蛇って奴さ。僕は宮廷観測者だから、君みたいな芸当は出来ないけど、陰から応援してるよ。じゃあまた、アリス、クレオパトラ!」
そう言ってサーニャ・ハッシュは、手を振りながら人ごみの中へ消えて行った。
「以外にバレてるもんだね」
「そうね。でもバレたところで、特に問題はないでしょ?」
「まあね。でも、君の師匠はいい顔をしないだろうね。ヒッパリダコスと言えば、観測者の中でも保守派の代表格だし」
観測者の中でもユークリッドやエラソーナ・スッテンテンのような世界を測ろうと考える者は改革派と呼ばれ、長さの基準が王の足の大きさである事に満足している者は保守派と呼ばれていた。
「そう言えばクレオパトラ、この間から疑問に思ってるんだけどさ」
「なあに、アリス?」
「観測者って保守派が多数を占めてるでしょ?」
「そうね。何だかんだ言って、改革派なんてほんの一握りだものね」
「なのに何であのおっさんがよりによって大図書館の館長になれたんだろう」
「まあ、確かに! エラソーナ・スッテンテンがかつて大図書館の館長に就任した事は、王都ワレコランドリアの七不思議の一つに数えられてるわ。あの大灯台と並んで」
王都ワレコランドリアの岬の端には、世界一高い大灯台が建っていた。そしてそれは、王都の七不思議の一つに数えられていた。
「おっと、ごめんよ!」
大図書館へ帰る途中の歓楽街で、二人はいかにも遊び人といった風情の、一人の中年男性とぶつかった。
「って! あらまあ! キンさん!」
「え! こりゃまたお嬢じゃねえか! こんな所で何とまあ、奇遇だねえ」
「え? クレオパトラ、誰この人?」
「ああ、アリス、紹介するわ。キンさんよ、下町奉行の」
下町奉行とは王都の下町区域の治安と防災を管轄する奉行である。王都には他に、王侯貴族や大商人の邸宅が立ち並ぶ山の手区域の治安と防災を管轄する山の手奉行がいた。
「え! 下町奉行のキンさん! って、あの有名な名奉行の?」
「おっと、兄さん。いや、お嬢ちゃんかい? 名奉行とは、お世辞でも嬉しいねえ」
「兄さんでいいですよ、トーヤマ公」
キンさんことヒーラック・トーヤマは、生まれも育ちも王都ワレコランドリアの中堅貴族であり、十年以上前から下町奉行を務めていた。
「おいらの事もトーヤマ公なんてしゃちほこばった呼び方じゃなく、キンさんと呼んでくれや、兄さん」
キンさんの正式名はヒーラック・トーヤマだったが、彼のひい爺さんが間違えて彼の名をキーラックと呼び続け、そのうち面倒だからとキーさんと呼ぶようになった。更にこちらの方が呼びやすいからとキンさんと呼ぶようになった。爾来、他の家族も本名のヒーラックより呼びやすいという理由でキンさんと呼ぶようになり、いつの間にか友人知人を含めて彼の事をキンさんと呼ぶようになっていたのである。
「ひいじいさんは終ぞ、おいらの事をヒーラックと呼ぶ事はなかったよ」
ヒーラック・トーヤマはかつて、そう友人にしみじみと語っていた。
「うふふ。相変わらずキンさんらしいわね」
「そういうお嬢も、相変わらずとんでもねえ事をしでかしてやがるんじゃねえのかい?」
「うふふ。ご想像にお任せするわ」
「そいつは参ったな。そういやあ、お嬢。お父上お母上には会ったのかい?」
「残念ながらまだ。下町はともかく、コフウ家の邸宅がある山の手へは、流石に近寄れなくて」
「そいつは悪い事を聞いちまった! 済まねえな、お嬢。この下町ならともかく、山の手じゃあ、おいらも手が出せねえ。お嬢をお父上お母上に会わせてやりてえのは山々なんだが、如何せんあそこは山の手奉行の管轄だ。つくづくおいらの力不足が悔やまれるよ」
「そんなこと言って! あのバンシャーの粛清の時だって、キンさんが下町のあちこちに手を回したおかげで、カイ・タリーの手から逃れられた人が多かったって聞いてるわ。私が死んだ事になって王都から姿を消せたのも、キンさんのお陰じゃない」
今からおよそ十年前、バンシャーの粛清というものがあった。トレミー868世即位間もない頃の事である。カイ・タリーは当時、山の手奉行だったが、このタリー家は先祖代々王族や貴族に帝王学を教授する由緒ある家柄だった。カイ・タリー自身はタリー家の次男として生まれた為、分家を起こした身であったが、若い頃から優秀だった彼は、まだ本家にいた頃、何名もの貴族に帝王学を教えていた。
さて、十年少し前の事である。この時、カイ・タリーの弟子が続けざまに何名も執政官となった。しかもそのうちの一人は筆頭執政官だった。
執政官となったものの、政敵も多かった彼らは、帝王学の師であるカイ・タリーを参謀として迎え入れた。彼らはカイ・タリーの頭脳を欲したのだった。それほどカイ・タリーは頭が切れたのである。カイ・タリーはそんな彼らの期待に応える為、山の手奉行の職を選んだ。もっと高い地位の職も打診されていたが、敢えて山の手奉行の職を選んだのは、その職務の一つが山の手区域の治安だった為だ。カイ・タリーはその治安権限を最大限利用して、政敵の集まる山の手区域でその動向を事細かく探ったのである。
切れ者のカイ・タリーが執政官達を陰で操るようになるのは、時間の問題だった。政敵の排除をカイ・タリーに任せっきりにしていた彼らは、いつの間にかカイ・タリーの傀儡に成り下がっていた。全ての執政官を丸め込んだカイ・タリーは、事実上大執政官と変わらぬほどの権勢を誇るようになったのである。
そんなカイ・タリーが当時、最も嫌っていたのが、改革派の観測者だった。無論、いかに事実上大執政官と変わらぬ権勢を誇るカイ・タリーとて、魑魅魍魎退治の要である観測者の力は認めていた。しかしそんな彼も、世界を測ろうなどと考える改革派の観測者は、どうしても許容出来なかった。
カイ・タリーにとって、改革派の観測者はどうしても許せぬ存在だったが、しかし観測者には容易に手が出せない。そんなカイ・タリーが見せしめとして行ったのが、改革派の観測者と関わった者達を、罪をでっち上げて捕縛するというものだった。これが世に言うバンシャーの粛清である。
「買い被りだよ、お嬢。何しろあのバンシャーの粛清を終わらせたのは、エラソーナの奴だぜ!」
そんな時だった。エラソーナ・スッテンテンが大図書館の館長に立候補したのは。
すでに名声と実力は兼ね備えていたものの、当初は改革派故に当選は難しいと見られていた。
しかし意外にも、彼は当選した。
カイ・タリーのやり方に多くの観測者が反発し、その票が彼に集まったからである。
大図書館の館長に就任したエラソーナ・スッテンテンは、その日のうちに山の手奉行所に乗り込み、上から目線でカイ・タリーを散々罵倒した挙句、大図書館の力を以ってして彼を失脚させた。
観測者の総本山でもある大図書館は、例え大執政官と変わらぬほどの権勢を誇っている者であっても、手出し出来ぬ存在だったのだ。