点とは大きさを持たぬもの
「アリス、点とは何だ?」
アリス・タルタルは、かつての師ユークリッドとの遣り取りを思い出していた。
「点とは、位置を持ち、しかしながら大きさを持たぬものです」
アリスはそう答えた。
「そうだ、アリス。点とは位置を持つが、大きさは持たない。そして魑魅魍魎とは特異点。特異点故に、世界に様々な異変を引き起こす。だから俺ら観測者が、魑魅魍魎の大きさを測るんだ。特異点とは点の一種。つまり魑魅魍魎は点の一種だ。そんな魑魅魍魎の大きさを定義出来りゃあ、魑魅魍魎は大きさを持ち、大きさを持たぬもの、すなわち点じゃなくなる。そして点じゃなくなるって事は、特異点じゃなくなるって事だ。これが俺ら観測者だけが唯一、魑魅魍魎を封印できる理由だ」
かつてユークリッドは、観測者だけが魑魅魍魎を封印できる理由を、こうアリスに説明した。
アリスとクレオパトラ、それにエラソーナ・スッテンテンの三人は今、エッツェンの地に来ていた。
「ここがエッツェン公の城下町フッキーか」
アリスはそう言って、高台にそびえるフッキー城に目を遣った。
「懐かしいわね、フッキー城」
「え? 来た事あるの、クレオパトラ?」
「五年前、先代エッツェン公のお葬式の時にね」
シュンガー・エッツェンの伯父である先代エッツェン公は五年前に死去し、シュンガーがその後を継ぎエッツェン公となった。
「我輩が来たのは十年以上前。我輩がまだ、大図書館の館長になる前の頃だったな、確か」
「え? おっさんも来たの? ……って、まさか!」
「ふっはっは! ユークリッドの弟子よ。お前さんの想像通りだ。我輩、あの時は先代エッツェン公に投資話を持ち掛けにやって来たのだ。先代エッツェン公は大変温厚な方でな。我輩の話をニコニコと笑顔で聞いてくれたのだ。残念ながらあと一歩の所で話は纏まらなかったが」
「いや、それ、単に聞き流されてただけでしょ?」
「そう言えば、お葬式の時に掲げられていた肖像画でも、満面の笑みを湛えてたわ。本当に温厚で話も聞き上手な人だったらしくて、若い頃のお父様も、時々先代エッツェン公に会いに行って悩み事を聞いて貰ってたそうよ」
「なるほど。クレオパトラのお父上も若い頃、先代エッツェン公に何度も会いに行ってたのか……えっ?」
「どうしたの、アリス。いきなり驚いたような声を出して?」
「そうだ。どうしたのだ、ユークリッドの弟子よ?」
「いや、例の、エルランゲンの扉がどうのこうのって話さ。そもそもこの話、コフウ公は一体誰から聞いたんだろ?」
「そうよね。この話、お父様は誰から……」
「あるいは、どこで発見したのかだ」
エラソーナ・スッテンテンがすかさず口を挟んだ。
「発見?」
「その通りだ、ユークリッドの弟子よ。我々観測者にもあるだろう。思わぬ発見というやつが」
「それをお父様が?」
「先代エッツェン公に悩み事を聞いて貰いに、このエッツェンの地まで足繁く通っていた若かりし頃のコフウ公が、何かの拍子にこの地でエルランゲンの扉とやらに関係する文献を見付けた。あるいはそんな噂話なり都市伝説なりを耳にした。そして興味を持って調べて行くうちに、真相に辿り着いた。そう考えられんかという事だ」
「なるほど! つまり僕らは、かつてコフウ公が辿ったかも知れない道を辿れば、エルランゲンの扉とやらに辿り着くと!」
「その通りだ、ユークリッドの弟子よ! ふっはっは!」
「それについては私も賛成だわ。でもその前に……」
「そうだった! 僕らはお城に行かなければならないんだった!」
確かにアリス達には、大図書館からの使者として、エッツェンの政治の中枢であるフッキー城へ向かう任務があった。
「ところでクレオパトラ、大図書館から預かった手紙は?」
「大丈夫よ。私がいつも肌身離さず持ち歩いてるこの絨毯の中にちゃんと挟んであるわ」
そう言ってクレオパトラは荷物と共に背負っている丸めた絨毯を指さした。
「えっ! そんな所に? ……っていうか、肌身離さずって言ってる割に、王都にいた時はいつも大図書館の宿舎に置きっ放しにしてたじゃん」
「あら、そうだったかしら? そんな昔の事は忘れたわ。おっほっほ!」
しかしその時だった。
クレオパトラの頭上に突然、人が逆さの姿勢で現れた。
その足元には、身の丈ほどもある木の葉状の大きな盾があった。
「サーファー!」
アリスが大声で叫んだ。
サーファーとは、巨大な木の葉状の盾に乗って戦う軽装の騎士の事である。
八千年前、トレミー1世によって統一されたこの世界では、騎士の役割も大きく変遷していた。
人間同士で戦争をする必要の無くなったこの世界で、騎士の戦う主な相手が魑魅魍魎になったのである。
騎士達の任務は、観測者が到着するまでの間、魑魅魍魎を抑え込む事だった。
しかし魑魅魍魎との戦いは、人間同士とは勝手が違う。
人間同士の戦い、特に軍勢同士の戦いは、二次元方向に広く展開される。
重力という制約がある為、上下方向の自由度が大きく制限されてしまうからである。
しかし魑魅魍魎は、空間のあらゆる方向へ無秩序に蠢く。
しかも魑魅魍魎は常に単体で現れる為、狭い範囲での戦いとなる事が多い。
このような事から、魑魅魍魎との戦いでは、平面方向と同じくらい上下方向の動きが重要となって来る。
つまり魑魅魍魎との戦いでは、三次元方向への高い自由度を持った動きが必要とされたのである。
そこでサーファーと呼ばれる、三次元の動きで魑魅魍魎に切り込む役割を担った、新たな騎士が生れた。
サーファーは後衛の騎士が繰り出す魔法を盾に受け、空中で自在に姿勢を変えながら、ヒットアンドアウェイで魑魅魍魎を攻撃した。
この世界の騎士は、接近戦で剣を交えて戦う他に、離れた敵に対しては剣で魔法陣を描き、攻撃魔法や防御魔法を発動する。
魔法による攻撃は強力で、離れた敵にも当たりさえすれば強いダメージを与える事が出来た。
反面、その攻撃は極めて直線的であり、また魔法陣を描くまで時間も掛かる。
騎士達は集団で連携し合う事により、その欠点を補った。
トレミー1世による世界統一の以前から、騎士達による様々な陣形が編み出されたのは、それ故である。
かつての軍勢同士での戦いにおける陣形は平面的だった。
しかし騎士の戦う主な相手が魑魅魍魎に変わった時、その陣形は三次元を強く意識した新たなものに変わった。
魑魅魍魎との戦いでは、前衛にサーファー、後衛に魔法を繰り出す騎士を配置する。後衛の騎士達は上空へ魔法を繰り出し、サーファー達はその魔法を盾に受け、空中を自在に動き、あるいは盾で反射させて魑魅魍魎を攻撃した。
「え?」
クレオパトラがアリスの叫び声に気を取られたほんの一瞬だった。
「どうしたのだ、お前さんら?」
そう言って先頭を歩くエラソーナ・スッテンテンが後ろを振り向いた時には、既にクレオパトラの絨毯は無く、サーファーも姿を消していた。
「と、盗られちゃった!」
そう言ってクレオパトラはがっくり膝をついた。
「まさかサーファーが、あんな真似をするなんて!」
そう嘆くクレオパトラに
「ぐずぐずしてる暇はない! とにかく追い掛けるのだ!」
エラソーナ・スッテンテンはそう言うと、城に向かう坂道を急いで引き返し始めた。
しかしサーファーの姿はどこにも無かった。
「確かにサーファーの動きは素早いんだけど……」
息を切らしながら、アリスはそう口を開いた。
「でも魑魅魍魎相手の動きなんだから、そんなに長距離は動けないはずなんだよね」
そしてそう続けた。
「でも、やり方によっては可能よ」
クレオパトラも息を切らしながら、そう口を開いた。
「後衛の騎士が一定間隔で並んで魔法を出せば、いくらでも遠くへ行けるわけだな」
エラソーナ・スッテンテンが涼しい顔で答えた。
「ならば、我輩達が探すのは、サーファーではなく後衛の騎士だな。連中なら、まだ近くにいるかも知れんからな。ふっはっは!」
そしてそう続けた。
三人は手分けをして、まだ近くにいるかも知れないサーファーの仲間を探し始めた。
「ちょっとすいません。この辺りで、普段見掛けない騎士を見ませんでしたか?」
アリスは公園でホットドッグを売る屋台の男性に声を掛けた。
盗まれたのが大図書館から預かった手紙である事から考えて、犯人達は恐らく、大執政官タイロン・イイネの手の者に違いない。そうであるならば、当然ながらエッツェン軍の騎士ではない。また、王宮から派遣されている守備隊の騎士である可能性も否定できた。
貴族の領地であっても、ムセイオンのある都市は王宮から守備隊が派遣されていた。トレミー1世による世界統一当初は、大貴族達の反乱を警戒してその城下町や主要な都市に王の親衛隊を駐屯させていたのだが、やがてその役割は反乱の警戒から魑魅魍魎から都市を守る事に変わって行った。魑魅魍魎の出現しやすいこれらの都市には王の命によりムセイオンが作られ、親衛隊は守備隊と形を変え、ムセイオンから派遣される観測者達と協力して魑魅魍魎を迎え撃つのが主な任務となったのである。
そしてこのエッツェンの城下町フッキーにもムセイオンはあった。そして守備隊は現在、大図書館の指揮命令下にある。故に犯人達が大執政官タイロン・イイネの手の者であるならば、守備隊の騎士達は犯人から除外できた。
つまり犯人の騎士達は、この城下町フッキーに常駐していない者達、つまりこの城下町の人々が普段見掛けない人物だと考えられたのである。
「そう言うお嬢ちゃんも、普段見掛けない顔だが、この辺りはぶっそうだ。小学生の一人歩きは止めといた方がいいぜ」
「あ、良く間違えられるんですけど、二十歳過ぎてるし男ですから」
アリスのその言葉に
「そう言やあ……」
屋台の店主は何かを思い出したかのようにそう言葉を発した。
「ついこの間も、同じよう事を言った兄さんがいたな。その時も俺は、最初その兄さんの事を小学生のお嬢ちゃんだと勘違いしちまってな」
「え? それってもしかして?」
「何でも、エッツェン公のところの宮廷観測者をしてるとかって言ってたぜ」
「サーニャ! サーニャが今、このエッツェンに!」
アリスは大声を出すと、クレオパトラ達にもこの事を教えてあげようと、聞き込みの事もすっかり忘れて一目散に町の大通りを駆け抜けた。
「ねえ、クレオパトラ!」
「どうしたの、アリス? いくら私と離れ離れになったからといって、まだ大して時間も経ってないわけだし、そんな息せき切ってやって来られたら、私だって困ってしまうわ。そりゃあ、アリスが私と一緒にいたいって気持ちは分かるけど、これは大図書館から託された大事な任務なのよ。だから少しの間だけ我慢して。後でたっぷり可愛がってあげるから」
「いや、全く以って、別の用件で君に知らせたい事があってここに来たんだけど」
「あら、そうだったの」
クレオパトラが何だか残念そうに答えた。
「どうやらサーニャがこのエッツェンに来てるらしいんだ!」
「え? サーニャが?」
これにはクレオパトラも驚きを隠せない様子だった。
「あっ! でも、考えてみたらそうよね。サーニャもシュンガーも十日前に王都の山の手から姿をくらませてるんだから。ここエッツェンに来てる可能性だって、十分考えられたわ」
「転送ゲートを使えばだけど。流石に王都からここまで、転送ゲートを使わずに十日足らずで来るのは無理だし。でもあの周辺って、大図書館の手の者が何人も見張ってたでしょ?」
「それにスミダイル水軍も絶えず出入りしてたしね。シャギー・ムケイン提督の事だから、サーニャを見掛けたら、きっと私達に知らせてくれたはずよ」
「つまりサーニャは、大図書館の手の者にもスミダイル水軍の者にも見付からずに転送ゲートを通ったって事か」
「そういう結論になるわね。スミダイル水軍に関して言えば、サーニャはシャギー・ムケイン提督が大図書側に内通してるなんて知らないはずだから、警戒したってのは分かるわ。でも、大図書館の手の者にまで警戒する必要はないはずよね」
「そこが疑問なんだ。そもそも山の手を抜け出してエッツェンに来るなら、大図書館に挨拶に来てくれたって良さそうなものなのに。そうしてくれれば、大図書館にしたっていくらでも手を貸せるのに」
「確かにそこは謎よね。何でミエハエルみたいに訪ねて来てくれなかったのかしら?」
「あるいは、大図書館を巻き込みたくなかったとか?」
「え? どういう事、アリス?」
「ねえ、クレオパトラ。今思えば、サーニャの奴、僕らが王都に到着した時から忙しそうにしてたよね?」
「あ! そう言えばそうだったわね」
「あの頃は、宮廷観測者って忙しいんだなって、漠然と思ってたんだけど、でも、良く考えたら変だよね。いくら宮廷観測者だからって、観測者があんなに忙しそうにしてるなんて」
「確かにそうだわ! ヒッパリダコス先生がうちの宮廷観測者だった時だって、割と暇を持て余してたわ。それなのにサーニャったら」
「これは僕の仮説でしかないんだけど」
「いいわ。聞かせてアリス」
「もしかしたらエッツェン公は、かなり前から大執政官タイロン・イイネ公と事を構えるつもりだったんじゃないかな? その為のシナリオも出来上がっていたのかも知れない。少なくとも僕らが王都に到着した時点では既に」
「つまりサーニャは、その準備の為に王都とエッツェンを頻繁に往復してたって事?」
「そうだと思うよ、クレオパトラ。サーニャはエッツェン公の命を受けて、エッツェン軍を王都まで進軍させる準備をしてたんだと思う」
「でもエッツェン軍を王都まで進軍させようとしても、今と違ってイイネ軍が黙ってないと思うわ。今でこそタイロン・イイネは大図書館と対立してるから、迂闊にイイネ軍を動かせないけど」
「確かにイイネ領はエッツェン領の南。だからエッツェン軍が王都に向かって動けば、たちまち追撃して来るのは目に見えている。それでもあえて、エッツェン軍を動かすとしたら……」
「動かすとしたら?」
「寧ろイイネ軍を誘う事が目的なんじゃないかな?」
「どういう事、アリス?」
「恐らくエッツェン公の考えは、王都の手前までイイネ軍を誘ってから、頃合いを見計らって反転してイイネ軍を叩くつもりだったんだと思う。王都の目と鼻の先でイイネ軍をねじ伏せれば、大執政官タイロン・イイネ公を敗軍の将と印象付けられるでしょ? そうなればいくら大執政官だって、立ち所にその権威は失墜し、今まで大執政官派だった者達も次々に反対派へと寝返る。これによってタイロン・イイネ公を一気に失脚に追い込む。これがエッツェン公の狙いだったんじゃ?」
「確かに王都の目と鼻の先で自分のとこの軍が敗北を喫したんじゃ、大執政官の権威なんて一気に地に落ちるわね。でもアリス、それはあくまでイイネ軍が敗北するって前提でしょ? 実際、エッツェン軍とイイネ軍の兵力って殆ど差がないじゃない。つまりイイネ軍の代わりにエッツェン軍が敗北する事だって有り得る。つまりこのシュンガーのシナリオって、一か八かの賭けに過ぎないわ。私にはあのシュンガーが、そんな運任せの事をするとはとても思えないんだけど」
「うーん、クレオパトラ。確かに僕もそこは気になった。確かにイイネ軍もエッツェン軍も、全軍を動員すればそれぞれ十万の兵を動かせる。十万の軍同士だったら戦力は互角。戦えばどちらが勝つか分からない。でも実際に、全軍を動かしちゃったらどうだろう? 領内はまるっきり手薄になっちゃうでしょ? そんなんで魑魅魍魎が現われでもしたら、どうなるかは目に見えてる。だから軍を動かすにしても、実際は精々半分の五万程度。ところが、エッツェン軍はそんな常識を敢えて無視して全軍を進軍させたとしたら? そしたら王都の手前で戦うのは五万のイイネ軍対十万のエッツェン軍って事になる。これなら兵力の差で、圧倒的にエッツェン軍が有利になるでしょ?」
「確かにアリスの言う通りだけど、でもそのやり方だったら、エッツェン領内が手薄になっちゃうでしょ? 城下町や主要な都市だったら守備隊に守ってもらえるけど、その他の中小都市にだって魑魅魍魎が現れる可能性はあるんだし。何より手薄になったエッツェン領内にイイネ軍が攻め込む可能性だってあるわ」
「逆に言えばクレオパトラ、その課題を解決出来るなら、エッツェン軍は全軍を王都に向けて動かせるわけだよね?」
「確かに言われてみればそうね、アリス」
「サーニャはその為に、忙しく動き回ってたんじゃないかな? 例えば大勢の観測者をスカウトしてこのエッツェンまで連れて来るとか。だって予め大勢の観測者が守ってくれてるなら、エッツェン軍が出払って手薄になってても心配いらないでしょ?」
しかしその時だった。
「ご名答、アリス!」
路地の奥から一人の人物が手を叩きながら姿を現した。
「サーニャ!」
アリスとクレオパトラが同時に発した言葉通り、それはサーニャ・ハッシュの姿だった。
ここまで書いて来て、細かい設定を深く考えずに書き始めたツケがじわりじわり回って来た事を実感しまくってます。今までの話と整合性を取る為に、もう四苦八苦してます。という事で、次話の投稿に時間が掛かると思いますが、何とぞご了承ください。