気まぐれな隣人
僕と深見は家が隣同士だった。
それは僕が生まれるずっと昔からそうであったし、それは運命でもなんでもないただの事実の一つにすぎなかった。
ただ、子供の頃というのは家が近所であったりとか、親同士の仲が良いとか、そんな理由で友達関係が構築されていってしまうのだ。
元々深見はどちらかと言うと活発的な子供で、僕が家で本を読んでいてもテレビゲームに興じていてもお構いなしに僕を外へと引っ張っていくような性格をしていた。深見の家は広く、庭には松や桜の木が植えられていた。春には桜の下で花見をし、夏には照りつける太陽の下を走り回り、秋には落ち葉をかき集めて焼き芋をし、冬には一日かけてかまくらを作って次の日には二人とも風邪を引いて寝込んだ。
さすがに雨の日は深見に外に連れ回されることはなかったが、余計なことにそれを見ていた僕の祖父は雨の日でも遊べるように将棋、チェス、囲碁、麻雀などのボードゲームからトランプや花札のカードゲームを深見に教えたのだった。
頭が悪い僕はルールをうまく理解できず、そのどれも熱中することがなかったが、天性なのか努力の賜物なのか目を輝かせて祖父の話を聞く深見はメキメキと上達していった。
祖父は深見を大層気に入ったらしく、毎日のようにうちに遊びに来る深見を孫のように可愛がり、僕らに自分の宝物だというコレクションを一つずつくれた。僕には透明なガラスでできた瓶を、深見には金色に輝く銀杏の落ち葉を。
僕がもらった小瓶はどう見てもジャムかなにかの容器を洗って再利用したものにしか見えないのだが、不思議なことにこの小瓶に入れられたものは外界の影響を全く受けなくなるというそれこそ世界中の科学者が卒倒してしまいそうな代物だった。この小瓶に収められた水はいつまでも腐ることがなかったし、摘み取った花はいつまでも枯れることなくその美しさを保ち続けた。
だからといってその中に人間を入れて永遠の命が得られるわけでもなかった。この小瓶は人間を入れるには小さすぎたのだ。
何故こんな小瓶を持っていたかというと、僕の祖父は探検家ともトレジャーハンターともつかないオカルトマニアの一面を持ち合わせており、世界中を旅してはおとぎ話の中でしか存在できないような変なものを集めていたからだった。たまに見せてくれるその魔法のような力に僕らは魅了されていた。
「恵子ちゃんが宗輔のお嫁さんにきてくれたらなあ」
祖父は口癖のようにそう言っていた。
冗談なのか、本気なのかはわからなかった。深見の方も満更ではなさそうに笑うだけだった。深見と結婚することになるならそれでもいいと思っていた。その程度には僕は彼女に好意を抱いていた。
でも、この関係は長くは続かなかった。
ある年の秋、うちの庭にある銀杏で木のぼりをしていた深見が落ちた。
下が土で落ち葉も積もっていたこともあり深見に大した怪我はなかったが、僕は祖父のよく聞き取れない方言交じりの説教が終わるまでじっと耐えているしかなかった。
悪いことをしたつもりはなかったのに、どうして自分が怒られるのかわからなかった。銀杏の木に勝手に登ったのは深見だし、葉を取ろうとして勝手に落ちたのも深見だった。僕は本当に何もしていなかった。
その頃から祖父は僕よりも深見の方が大事なのではないか、と子供心に思うようになっていた。僕は深見と祖父が碁盤を睨んでいるのを横目に新発売されたテレビゲームをすることが多くなっていた。
祖父が身体を悪くして入院した時も深見は見舞いに行っていったようだが、ぼくはあまり気が進まなかった。あそこに自分の居場所などないような気がしていた。次第に深見とも遊ばなくなっていった。小学校の登下校時は仕方なく一緒に通ったが、それだけだった。
中学生になるとお互いにそれぞれ多くの友達が出来た。クラスが別々になると廊下ですれ違っても話しかけるようなことはなくなっていた。僕は彼女を無視しようと必死だった。それに気付いたのか深見の方からも僕に話しかけることはなかった。
祖父はたまに懐かしそうに深見の話を持ち出したが、その度に「子供の頃の話だから」と僕は会話を遮った。
高校は別々の学校に進むことになった。
中学生で成績が伸び悩んでいた僕とは対照的に、深見は県内でも有数の有名校に進学していた。深見の話題は黙っていても母親から伝わってきた。
「恵子ちゃんまた全国模試で成績上位者に載ったらしいわね」
深見のことは別に嫌いではなかった。
それでも何故か深見に会いに行こうという気にはならなかった。手を伸ばせば届くところにいるはずなのに、伸ばしても届かないような気がしていた。
僕が大学生になる少し前に祖父はこの世を去った。
通夜の席で深見を見かけた。彼女の姿を見るのは決して珍しいことではなかったが、カラスの羽根ように黒い礼服に身を包んでいた彼女は僕の知っている深見よりもとても大人びて見えた。
目を腫らして泣きじゃくる深見を見て、彼女は本当に祖父のことを慕っていたのだと知った。それは僕には見せない一面で、僕が知らない深見だった。
祖父の死後、孫である僕が受け継ぐような何もなかった。遺品の多くは両親によって既に整理されてしまっていた。
それでも祖父の書斎を片付ける際にふと目に付いた古びた柱時計を貰うことになった。祖父はこの柱時計を書斎に置いていたが、その書斎は何故か扉を閉めることを固く禁じられていた。それこそ扉が完全に閉まってしまうことがないようにわざわざ蝶番に細工をするほどの手の入れようだった。
葉巻の匂いが染み込んだ書斎の棚には週刊誌や新聞の切り抜きがクリアファイルに何冊もピックアップされており、その隣のガラス棚には隕石の欠片などが並べられていた。その多くについて祖父は僕や深見によく話を聞かせてくれたが、この柱時計については「この時計がある間は絶対にドアを閉じてはならなないんじゃぞ。もしも閉じたら...」という断片的な記憶しか残っていなかった。
ひょっとしたら僕が忘れているだけなのかも知れないし、実は全て僕の妄想で、何の変哲もない唯の時計なのかもしれない。しかし、僕はどうしてだかこの柱時計を手元においておきたいと思ったのだ。
元々狭かった六畳間の僕の部屋は更に狭くなった。柱時計を部屋に運び入れた時、無意識のうちに部屋のドアを閉めてしまいそうになったが、祖父の言葉を思い出して念のため少し開けておくことにした。そんな言葉を真に受けるなんて馬鹿らしいと思うかもしれないが、言いつけを守らないのはやはり良くない気がした。
昼間は気にすることがなかったが、夜になって静かな時間がやってくると柱時計の奏でる音は僕の心をかき乱した。特に心臓の鼓動とカチコチという音が重なるときなどはまるで死んだ祖父が枕元に立って自分を見下ろしているのではないかと思うほどだった。
しかし、三ヶ月もするとその違和感に僕はすっかりなれてしまっていた。
部屋に友人を招いて宴会を開くこともあった。その時にたまに祖父の遺品の超常現象の話を聞かせたことがあったが、酔っているにも関わらず誰も信じてくれなかった。
「ならここで今すぐ不思議な現象を起こしてみろ」
と返されることが多かったが、ガラス瓶はとっくの昔に無くしてしまっていたし、この時計にどんな力があるかを僕は知らないので、実際に見せてみろと言われても無理な相談だった。
そう話すと友人は「やっぱり嘘じゃないか」と言うわけでもなく、そもそも時計の話などどうでもいいようだった。僕としても信じてもらおうなどとは思っておらず、ただ単純に僕が話せる面白い話といったら祖父の話しかなかったからだ。
いつしか祖父の言いつけを守ることはなくなっていた。夏は冷房をかけなければ厚苦しくて寝付けなかったのだが、扉を閉めなければ冷房を付ける意味が無いからだった。言いつけを破ることに抵抗がなかったわけではないが、閉めても特に何も起こらなかったので何度も繰り返すうちにこの時計はただの柱時計なのではないかと思うようになっていた。
既に夏は終わり、外に見える銀杏の木も黄色く紅葉しかかっていた。夏に太陽が暴力的に照りつけたためか紅葉は例年にも増して綺麗だった。
この頃になると冷房を付ける必要はなくなっており、僕はまた自然と部屋の扉を開けたままにすることが多くなっていた。
柱時計の様子がおかしいのに気付いたのはちょうどそんな秋の中頃に差し掛かった小春日和の日のことだった。
柱時計の時間が微妙にズレていた。それは誤差とも呼べる僅かなズレだったが、几帳面な性格がそうさせたのか、僕は直ぐに気づくことができた。
腕時計で時間を確認すると長針を指で少し戻した。
そのうち時計の遅れは目に見えてわかるようになっていった。
ぶっきらぼうで無頓着な性格の母でさえも「変な時間に時計が鳴ると気になるから何とかしてよ」という始末だった。
こうして僕は時計を直すことに決めた。
時計屋に電話して見てもらったところ、どうやらゼンマイが緩んでしまっているらしかった。
「一般販売されていないものなので代替のゼンマイがなく、一から作るとなると時間もお金もかかってしまうかもしれません。おじいさんから交換用部品などは預かっていませんか」
すぐにはわからないので探してみますと僕は答えた。修理の件は部品が見つかるまで待ってもらうことにした。
祖父の部屋を開くのは葬式以来だった。
棚の引き出しを次々に開けていったが部品らしいものはなかなか見つからなかった。大きなものはあらかた処分されていたが、棚の中は手つかずのまま放置されていた。
この部屋全部を調べ終わるのにはとても時間がかかり、ようやくそれらしき小瓶を見つけたのは翌朝のことだった。時計の部品が入っていたその小瓶は、僕がなくしてしまったと思っていたまさにその魔法の小瓶だった。
僕はその小瓶を開けた。強く閉めてしまったのか、開けるのにはそれ相応の力が必要だった。ポンという音と共に歯車の金属の匂いが漂ってくる。小瓶の効果なのか歯車には錆の一つもついておらず、まるで新品のようだった。
目的のものを見つけたという安心感から、今まで忘れていた眠気が急に襲ってきた。閉まらない祖父の書斎を後にすると踏み外さないように階段を上り、扉を閉めると僕は自分の部屋のベッドに倒れ込んだ。
薄れていく意識の中で僕は夢を見ていた。
まだ髪が短かった頃の深見と僕が外で走っている。季節は冬で、僕の靴が完全に隠れてしまうくらいに雪が積もっており、家の前には不細工な雪だるまが二つ鎮座している。着ぐるみみたいに服を重ね着している僕とは違って、深見はまるで夏服のように薄着をしていた。自分自身の顔が曖昧でピントがずれた写真のようになっているのに対して深見の顔ははっきりと思い出すことができた。大きくて綺麗な瞳からまつげの一本一本まで再現されている。
僕らは雪合戦を始めたが、ずんぐりとした格好の僕が勝てるわけもなく動きの鈍い格好の的になっていた。
雪まみれになった僕を見て深見が笑った。そこに祖父がきて、深見の頭をなでる。
「恵子ちゃんの方がほんの少しお姉さんなんじゃ。宗輔に手加減してやってくれ」
「うん!」
深見は元気よく答える。
祖父は僕の方を見て何かを言った。でもその声は何故かノイズ混じりで上手く聞き取ることができない。
なんだろう。じいちゃんは僕になんと言いたいのだろう。
次第に風景が暗転していく。すーっと深見と祖父は闇の奥へと消えていった。
目を覚まさなければいけない気がして僕は目覚めた。夏でもないのにぐっしょりと汗をかいている。
柱時計を見る五時になっていたが、柱時計はひどく遅れるので本当は今何時なのかはわからなかった。窓は閉め切られているので今が昼なのか、夜なのかさえわからないのだ。
机の上の目覚まし時計を見ると十一時を指していた。信じがたいことだったが、十数時間も寝ていたらかった。ほんの数時間しか寝ていないことがないというのは本能的にわかった。それほどにあの夢は濃厚で、濃密で、記憶を全て遡っているかのようなそんな感覚を覚えていたからだ。
「あんた殆ど寝ずに探してたみたいだけど大丈夫なの」
昼食を食べているときに母がそう言った。
「さっきまで寝てたよ」
「さっきまでっていつからなの。あんた七時くらいまでじいさんの書斎で捜し物してたんでしょう」
七時くらいとはいつのことを言っているのだろう。僕は昨日は部屋に入ってから一度も外にでていないし、今日も起きたのは先ほどのことだ。
少なくとも母は僕の姿を二十四時間以上は見ていないはずだった。
「部屋に入ってそのまま夜まで寝るつもりなのかと思ってたんだけどね」
「え」
何かがおかしい。母と僕の間に何らかの大きな認識のズレがあるとしか思えなかった。
「今日って何日?」
母はまるでおかしな人を見るような目で僕を見て言った。
「今日は七日だけど」
その返事を聞くと同時にリビングを飛び出すと二階へ駆け上がり、机の上に置かれているはずの時計を探した。
驚くべきことに机の上の目覚まし時計は今日が八日であることを示していた。その事実は僕に現実を受け入れさせるのに十分だった。
この時計の周りでは時間の進み方が違うのだと考えざるを得なかった。ただし力は周囲の空間が“閉じられている”時に限られるのだ。そうでなければ、この部屋に長時間居座っている僕と現実世界の時間のズレはもっと酷くなっていなければいけないからだ。
時計を中心とした空間が閉じられている時、外の空間は柱時計を基準として時を刻むのだろう。
何度も考えた末に僕はそう解釈した。
そしてその仮説を試してみることにした。
部屋を閉じて時計の針をくるくると回した。柱時計は五時を指していたが、本来との時間のズレが七時間あるのでその分だけ時間を進めた。
扉を開けるとさっきまで明るかったはずの世界は真っ暗になっていた。
「食事中に急に部屋に行ったかと思うとそのまま夜まででてこないなんて酷い生活リズムね」
母はそう言った。
この柱時計の仕組みを僕はおおよそ理解した。
部屋の中の時計は外の世界と同じように一秒で一秒分しか進まないのだ。ズレているのは外の世界の方であり、部屋の中は普段と変わらない時の進み方をする。
例えばお湯を注いだカップラーメンを外に置いて、部屋の中の柱時計が三分進んだ後に外に出るとちょうど良い具合に完成しているといった具合だ。目覚まし時計は二十数分進んでいることになるのだが、外の世界は柱時計が進んだ分のちょうど三分しか時を刻んではいないのだ。
この時計をこのまま置いていてはいけない気がした。一刻も早く修理しなければいけなかった。
今は柱時計が遅れているだけなので、部屋の中に閉じ込められたとしても自分が歳を余計に食うだけで済むのだが、もしも何かの拍子に時計が進むことになれば中にいる人間だけが時間に取り残されることになる。時計が完全に止まってしまった時のことなど考えたくもなかった。
僕はさっそく時計屋に連絡した。部品が見つかったのでなるべく早く修理して欲しいという旨を伝えた。
「わかりました。お急ぎのようなので明日の朝にお伺い致します」
急かしてしまい申し訳ないと謝り、電話を切った。母にも明日に修理が来るのでそれまでは決して部屋に入らないように固く念を押した。
明日の朝が来るのを待った。部屋で寝ようと思ったがとてもそんな気分にはなれなかった。何かの拍子に扉が閉まってしまい、目が覚めたら自分の知らない全く違う世界に飛ばされる悪夢が何度も脳裏をよぎるのだ。柱時計の針を進めてしまおうかと思ったが、万が一回してる途中で折れてしまったら取り返しのつかないことになるので触るのは止めておいた。
部屋で寝ることを諦めた僕は気晴らしにコンビニに出かけることにした。
そこで深見と再会した。
「こんばんは」
久しぶりに聞く彼女の声は高校の卒業式のスピーチで聞いたのと同じ、透き通るような綺麗な声だった。
「久しぶり」
僕と深見は久しぶりに言葉を交わした。乾ききった喉は張り付いて、何も言葉がでないのではないかと思っていた。
子供の頃とは違って深見はスカートを履いていた。寒空に晒された白くて魅惑的な脚と女の子らしくなった身体が流れていった月日がいかに長いものだったのかを示していた。
店にも入らずに入り口の目の前で話している僕と深見をコンビニの店員が不思議そうにこちらを見ていた。
「ちょっとお腹が減っちゃって」
珈琲とサンドイッチが入った小さな袋を見せて深見はそう説明した。
「親と喧嘩して」
僕は本当の理由を誤魔化した。時計の説明をしていては話がややこしくなりそうだったからだ。母親と喧嘩してこうして夜中に家出するのはありふれたことだった。
「そうなんだ」
特に疑うわけでもなく、深見は小さくそう答えた。そう答えただけだった。
しばらく無言の状態が続いた。気まずさに似た嫌な雰囲気が僕と深見を包んでいた。
何か話さなければと思ったが、言葉は出てこなかった。唇が乾燥してくっついてしまったかのようだ。深見も何も言い出さなかった。
僕の目尻に涙が浮かんだ。
さっきまではここで深見と話すことで僕と深見の間の溝が埋まるのではないかと考えていた。でもそれは都合のいい話だった。十年の月日を隔てた二人の距離は遠く、その間の溝はマリアナ海溝のように深かった。たった一言の会話で埋まるような隙間ではなかったのだ。
僕と深見はもう交わることのない別々の道を歩んでいるという現実はまるで死刑宣告のように僕に突きつけられていた。
僕は深見に背を向けてコンビニを後にすることにした。この傷がまだ浅いうちに立ち去るつもりだった。
「どこいくの?」
深見が後ろから声をかけてきた。
立ち止まってしまいそうになったが、僕は深見の声を無視して歩き続けた。きっと深見は今日のことなどすぐに忘れてしまうに違いない。深見にとって僕とはその程度の人間で、それは昔の僕が望んだことだった。だからこれでよかった。
家に帰った深見は最初のうちは僕のことを心配するかもしれないが、試験前だということを思い出して勉強に集中するのだ。そのうち僕のことは記憶の片隅に追いやられ、水槽に垂らされた一滴の絵の具のように霧散して消えていくのだ。
「ね、ねえ...」
遠くから消えそうな深見の声が聞こえる。目を瞑って深見の声を意識しないように努めた。これ以上声をかけられたら立ち止まってしまいそうだった。
「ねえ、待ってよ!」
僕は目を開いた。何かが僕の服を引っ張っている。振り返って見てみると僕のコートの端っこを掴んでいたのは深見の細い腕だった。
「帰っちゃうの?お母さんと喧嘩してるんでしょう」
咄嗟についた嘘を後悔した。このまま家に帰ったら深見に言ったことが嘘だとばれてしまう。
「友達の家にでも泊めてもらうよ」
そう言うしかなかった。
「こんな時間から、誰の家に?」
深見は上目使いで尋ねてくる。深見が僕の服の裾を掴む力が一段と強くなった。
「まだ決まってない」
「泊まるところがないならうちにきなよ。あたしも退屈してたんだ」
彼女の家にあがるのは何年振りになるのだろう。夜も更けていたので僕らは彼女の家の裏口からこっそりと入ることにした。玄関の扉は立て付けが悪く開けると両親に気付かれるかもしれないからだった
僕は彼女の部屋は窓際にぬいぐるみが置いてあったり、カーテンがピンク色だったり、もっと女の子っぽい雰囲気があるものとばかり思っていた。しかし、その予想に反して彼女の部屋は淡白だった。必要最低限のものしか置いていないようなそんな印象を受けた。
子供の頃には男の子の部屋かと思うほど散らかっていたというのが信じられないほどだった。
「恥ずかしいからあんまりジロジロ見ないでね」
彼女は照れくさそうにそう言った。
恥ずかしくなるようなところなどどこにもなかった。本棚には資格のための参考書や週刊の少年誌よりも分厚い医学書の類が並んでいる。今日コンビニで僕に会わなければ、今頃は彼女は窓際の机でコーヒーを片手に参考書を開きながら試験勉強をしていたのだろう。そんな姿が容易に想像出来た。
この整頓された空間に紛れ込んだ自分が異物であるかのような錯覚に陥りそうでたまらなかった。この部屋にきたことを後悔し始めていた。こんなことならばあのままコンビニで朝になるまで雑誌でも立ち読みしていれば良かったのだ。
深見との自分の生活の差を見せつけられて息苦しさを感じた。呼吸をしても肺に酸素が取り込まれていかない。僕の心の中は空っぽだった。
彼女にかける言葉はなく僕は困り果てた。同じように深見も困っていたのだろう。お互いに声をかけづらい状況になっていた。
「月が綺麗だね」
先に口を開いたのは深見だった。その声につられて窓の方をちらとみたが、真っ黒な空が広がっているだけで何も見えなかった。
「月?」
深見の言葉の意味が分からず僕は聞き返した。
「あっ、ほらさっき外で見た月が綺麗だったからね。そ、その…。やっぱりなんでもない、忘れて」
深見の助け舟も報われず、結局会話は続かなかった。読心術の心得があるわけでもなかったので深見が何を考えているのか僕ははかりかねていた。ただ僕がそうであったように深見も僕のことを嫌っているのではないだろうということはなんとなく伝わってきた。僕はそれだけで十分だった。
「そうだ、お布団どうしようか」
適当でいいよ、と僕は返事をした。床で寝ることになったとしても構わなかったが、深見は押入れから布団を引っ張りだしてきて畳の上に敷いてくれた。
布団に横になるとうっすらと残る防虫剤の臭いが鼻孔を突いた。
「電気消すね」
天井から垂れるひもを三回引くと部屋は真っ暗になった。
子供の頃、深見とこうして一緒に寝たことを思い出しながら暗闇に目が慣れる前に僕は眠りに落ちた。
母親からの携帯の呼び出し音で僕は目を覚ました。
「どこにいるか知らないけど早く帰ってきなさいよ」
「時計を直さなきゃいけないからもう帰るよ」
通話を切って部屋を見渡すと深見は既に着替えており、椅子に腰掛けて古めかしいハードカバーの本に視線を落としていた。長い髪が本の端に垂れておりとても読みにくそうだったが、深見は気にしていないようだった。
「時計って?」
本を閉じると深見は僕に尋ねた。
「じいちゃんの遺品の時計が最近調子悪くて修理を頼んでたんだよ」
そう答えて僕は「しまった」と思った。
「ねえねえ、その時計を見にいっても良いかな」
大学生になっても深見の好奇心の高さは変わっていなかった。こう言い出した深見はどんなことがあろうと止まらない。それは僕が一番良く知っていたし、手を引かれて連れ出さないだけ深見も成長して大人しくなったと思ったほどだ。
「あら恵子ちゃん、どうしたの」
玄関前で新聞を取りにきていた母親に見つかった。昨日の夜にどこに行っていたのかと言及されたら誤魔化すのが大変だったが、母親は深見と僕の顔を見比べて含んだ笑みをこぼすだけだった。
「お茶でも淹れるから先に部屋に行ってて。場所は変わってないから」
気を遣わなくていいのに、と深見は言った。
「でも…うん」
深見は素直に頷くと靴を脱いで丁寧に並べるとそのままスタスタと階段を駆け上がっていった。
「時計屋さんって今日くるのよね?」
母親が思い出したように言った。
「さっきあんたの部屋の時計見たら止まったわよ。修理の日に壊れてちょうど良かったわね」
母のその言葉に手が止まった。
コップに注いでいた麦茶が溢れて床を濡らしていく。驚いた母が声をかけてきたが何も理解することができなかった。
僕は脱兎のごとくかけ出し、跳ね上がるようにして階段を駆けのぼった。
部屋の扉は閉じられていた。開ける気にはならなかった。
時計が止まった状態で扉を閉めるとどうなるのだろうと考えたことがあった。
時計が止まると部屋の中は時を刻まなくなる。すると部屋の中でどれだけ時間が経過しても部屋の外は時が進まないので“もしも扉が開かれることがあるならば”中に入った人間からはまるで扉を閉めた瞬間に扉が開かれたように感じるのだろう。
ではそれを外から眺めている人間にとってはどう見えるのだろうか。
扉が閉まってからどれだけ時間が経っても中にいる人間は時間が進まない。それはつまり扉を開けた時に外の時間が“何時であってもいい”ということになる。
ーー部屋の中の人間と無限の時間のズレが生じることになるのではないか。
それが僕の出した結論だった。
恐らく部屋の中の深見はもはや生きてこの部屋を出ることはできないだろうと僕は考えた。あの時計の力を逃れる術などないという確信があった。
ただ扉はまだ閉ざされている。
この薄い壁の先には確かに深見がいて、お茶を入れてくるであろう僕を待っているのだ。
どうしたらいいのかさっぱりわからなかった。このままいつまでも放置して置くわけにはいかないのはわかっていた。でもそうしたいという気持ちで心は満たされていた。
何度もドアノブを握るが、決心はなかなか付かなかった。
このまま放っておくと、なかなか僕がこないことにしびれを切らした深見が開けてしまう可能性もあった。深見の手で深見自身の存在を消させるわけにはいかない。
僕は覚悟を決めた。
生まれたての雛を触る時のようにドアノブにそっと手をかける。この扉が開かれることを僕は恐れていた。時間をかけて積み上げたトランプタワーを崩す時の悲しさと虚しさのようなものが混じりあっていた。
葛藤を断ち切るように、僕は思いきりドアを開いた。
「遅い」
ほっぺたを膨らませながら深見は意地悪そうにそう言った。
結果として時間は崩壊しなかった。
ぽかんとした僕の間抜け面を見て深見は笑った。
僕の瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。
「どうしたの……ねえ…」
突然泣きだした僕に深見は酷く狼狽した。
僕はこれまでの経緯を説明した。
祖父ちゃんからもらった時計の力のこと、その時計が止まっていたこと、もう会えないと思っていたこと。
「そっか。心配してくれてたんだね。ありがとう」
深見は僕を優しく抱き寄せた。
「私の方が三日だけお姉ちゃんなんだから。たまには男の子だって甘えたり泣いたりしてもいいんだよ」
涙は止めどなくあふれ続けた。何故こんなに悲しいのか説明できなかった。
「どうして時間がズレなかったんだろう」
十年分くらいの涙を流しきって落ち着いた僕は尋ねた。
それだけが気になっていた。時計が壊れて止まると不思議な力も失われてしまうのだろうか。
「たぶん、その理由はこれじゃないかな」
深見がそう言うと部屋に一陣の風が吹き抜けた。
閉じられているはずの部屋に風が吹いた。いつも閉めているはずの部屋の窓が開いていた。
「宗輔くんの部屋からだと見えるんだよね、あの銀杏の木。さっき家に入る時に見えたから、子供の頃におじいちゃんに貰ったあの綺麗な色を思い出して懐かしくなって部屋に入るなり勝手に窓を開けちゃった、ごめんね」
深見は財布から銀杏の葉を取り出した。
十年以上は経っているはずだったがその輝きは全く失われておらず、すぐそこに見える黄金色の葉と全く同じ色をしていた。
こんなに綺麗なものがすぐ隣にあったのに、僕は窓を閉めて目を逸らし続けていたのだ。見ないように、見えないように、思い出さないように、比べられないように。
深見の持っている銀杏の葉に何の力があるのかはわからなかった。それでもいいと思えた。
「ありがとう。じいちゃん」
その声は茜色の空に溶けていった。
新着短編小説から辿られた方ははじめまして、あらすみのぶです。
本来は氷の記憶のように後味の悪い暗い話が好きなのですが、今回はハッピーエンドにしました。
書くこともないのでこの作品が完成するまでの経緯でも書こうと思います。
はじめは“祖父が死んでその時計を貰って、時計が不思議な力を持ってる事に気が付いて、いろいろ使っているうちに時計が壊れて永久に部屋の中に閉じ込められて苦しみの中で死んでいく”みたいな感じの話だったのですが、あまりに暗いのでやめました。
二次創作ではないのですが、この小説には明確なモチーフが存在します。
初めてその小説を読んだ時、電流に打たれるかのような凄まじい衝撃を感じました。
こんな美しい話があっていいのだろうか、と。
一字一句として不必要な言葉はないのではないかと思うくらいに素晴らしい作品で、今でもたまに読み返しています。
その作品の一番残念なところはハッピーエンドではないということでした。敢えて著者がそういう結末にしたのはわかるのですが、私にはどうしてもやるせない気持ちが残りました。
なら、自分でハッピーエンドの結末を書いてやろう。
それがこの作品を作るきっかけでした。
ではまたどこかで機会があれば。
あらすみのぶ