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意思

「……桜、いつか外の世界へ出てみなさい。旅行でもいいし、何なら自分探しの旅でもいいから。世界はとても広くて素敵なことで溢れているのよ。あ、信じてないでしょ? 海賊の私が言うのだから間違いないわ、騙されたと思って信じてみて」 

 アザレア・シリエジオ、彼女が今際の際に伝えたことは愛の言葉でも別れの言葉でもなく、自身が明言していた『夢』を桜に託す言の葉。それはつまり二人で旅をするという夢が叶えらないという証左なのだ。母の痩せこけた顔を毅然と見つめていた桜は何かが喉につっかえる感覚を覚えて、曇る視界を悟らせぬようにと目を伏せる。握る母の手は今にも折れそうで、もう花の手入れができそうになかった。

「……分かった、信じる。いつか絶対外の世界に行ってみせるから……だから…………」

 声が詰まり、滲む視界を上げてみれば母は微笑っていた。何もかも包み込むような大らかな笑顔だ。

「うん。外の世界に出たら一人でもいい、大切な人を作りなさい。流れ続ける日々を一緒にいたいと思えるような人を見つけて……生きて」

 桜の手を握っていた力が突然、糸が切れたように途切れた。桃色の瞳は瞼に隠され、慈愛に満ちた視線を投げることはない。

「母さん? 母さん、母さん、母……さん」

 何度も何度も呼び掛けても、一向に返事がない。今一度母の手を握るが、握り返されることはついぞなかった。

 ――俺を置いて行かないで、母さん……!    


       ✥


 瞼の裏に光を感じた。だが意識は起きている筈なのに身体が思うように動かず、歯痒い思いをしながらも難儀して目を開ける。朧気な視界にあったのは白い天井、どうやらトビウオ内の急造したあの和室ではないようだ。億劫げな身体に鞭打って首を動し、それから何処までも青い海のような瞳と視線がぶつかり合うこと数秒、電灯の光を受けて仄かに輝く金髪に縁取られた容貌が安堵したように綻ぶ。

「……ここは病室か?」

「ええ。丸五日ぶりのお目覚めよ、桜ちゃん。気分はどう?」

 以前にも似たようなことを起き抜けに言われた、と思い返しつつ疑問を口にする。

「何故、愚生は生きている。生存の可能性は極めて低かった筈だ」

 刺し違えなければこちらが敗死する、それこそがあの時の『桜花』の判断だった。それはつまり初めから生還を度外視していたと言うことだ。そのことをアーシャも察しているのか、あの戦法を肯定も否定もしない複雑な表情を浮かべながら視線を落とした。見れば椅子に座りつつもベッドに頭を乗せて寝息を立てている詩乃がいて、はらりと落ちた一房の狭間に見える目元は薄っすら赤かった。

「桜ちゃんの心臓、一度止まったのよ。お医者様も匙を投げかけたそうよ、でもまた動き出したの。生きることを諦めなかったのね」

「そうか……」

 無理矢理上体を起こすとアーシャが制止しようとしたが、かぶりを振って見せたらそれまでだった。視線を振れば枕元の各種バイタルの数値が表示された機器が目に止まり、警報が鳴らないのを確かめつつ電源を落として身体から慎重に一本ずつ電極や針を取り去る。

 アーシャの言は一概にも正解とは言えない。恐らく生存本能が働いて自分の肉体を生かしたのだ、と推測する。何故ならあの時に桜の頭にちらついたのは戦死――つまり、それこそを。

 その時、唐突に詩乃が勢いよく跳ねた。高所から飛び降りる夢でも見たかのように跳ね起きた詩乃は目を白黒させ、ややあって目線の焦点が桜に合った。

「……あ、シリエジオさ――」

「なぜ助けた」

「え?」

 詩乃の表情が硬直し、発言の意味を理解しかねている様子だった。アーシャも顔を引き攣らせて、何か言おうとする出先を桜は潰しにかかる。

「なぜ助けたと訊いている。兵器同士の戦いには勝つか死ぬかの二択しかなく、また如何なる過程を辿ろうと兵器の任務はすべからく戦死という終着点に帰結しなければならない。意味が分かるか、君は愚生を冒涜したのだ」

 詰め寄るように繰り返した桜に気圧されたような詩乃、だがそれでも力なく小首を振った。

「でも、それじゃシリエジオさんは死んでしまって、それで」

 無性に腹が立ち、桜の口から怒号が迸る。

「それで良かったのだ!!」

 黒髪に縁取られた容貌が凍り付き、隣のアーシャは悲しそうに息を呑む。

 切迫した叫びは、夕焼けの光が差し込む病室に殷々と響く。

 それで良かったのだ。兵器としての本能を否定されることなく、死力を尽くして敵を撃墜したのならばこれ以上のことはない。にも関わらず詩乃は、詩乃は、

「役目を終えて使い古されることなく、戦いの中で果てる。あの結末こそが我らの至上の望みだった! なのに君は、君はッ! っ、――俺は、俺はあのまま死にたかった!!」

 途端、乾いた音が鳴り響くのと同時に桜の右頬に衝撃が走った。椅子が盛大に倒れて、甲高い音を立てた。

 立ち上がり様の初動はフェイントなど絶無な単調さで、あまりに遅く、軌道も甘く、頬に広がるじんとした熱からしても破壊力は到底皆無に等しく、だが避けられなかった。詩乃の平手打ちは今まで訓練・実戦問わず経験してきたありとあらゆる戦術の定石の埒外にあり、故に対処できなかったのだ。そして桜はそれを、反射的に一種の敵対行動に近いものと認識して我知らず握り締めていた手を閃かせ、反射的に迎撃する。五指を揃えた手刀は詩乃の首筋にぴたりと据えられ、一突きで相手を絶命せしめることが可能だ。

 それでも詩乃は、剣呑な表情の桜から目を逸らさずに睨み返す。その眼差しは今まで向けられたどれよりも鋭利で、だが見る者の網膜に焼き付かんばかりの鮮やかな翡翠色の瞳は深い哀切を帯び、そして濡れていた。

「……っ」

 気圧されたのはこちらの方だった。息を詰め、夜色の瞳が揺れる。

 ここに至り、凍っていた容貌が見る間に溶けて悲痛げに歪む。

「お、置いてい、いかれる人の、気持ちも、知らないで…………そん、そんっ、なの、ひどいですっ! し、シリエジオさん、は人間なの、なのです。兵器じゃ、ないのですよ! す、少しは、人の気持ちを、か、考えて下さい!! もう、置いていかれるのは嫌……!」

 すんすん、と啜り上げる間に吐露されたのは幼子のような弱々しい声、それと湿った吐息だ。唇をきゅっと噛みしめるように引き結ばれた唇からそれでも漏れるのは細い嗚咽で、静寂の空気を揺らす。窓から差す暮れゆく朱を目尻に溜まった涙が水晶のように透かしている。

「――、」

 桜はその様をただ呆然と見つめることしかできない。突き出された五指は力を失い、右腕がだらりとベッドに付く。

 どうすればいいのか、どうしなければならないのか、最適な行動が思いつかない。

 この場合の適切な対処は、どんな行動を起こせば、どのような言葉を掛ければ、全然分からない。こんな状況を想定した訓練など、受けていない。母が死んだ日からずっと戦って死ぬことだけを望んできた少年にとって、理屈で解決できない問題など対応できるわけがなかった。

 詩乃の息が詰まって喉が鳴り、ついに涙腺が決壊する寸前で勢いよく踵を返した。振り返る動きで宙に透明な雫が散って、陽光を反射する。

「詩乃ちゃん!」

 アーシャの制止を振り払って早足で病室を出ていった少女とすれ違った木葉は、目を白黒させた。だがすぐに状況を呑み込んだのか、

「あたしが詩乃ちゃんの方行くから、アーシャちゃんはそっちお願い」

 早口でそう言い残し、硬質な靴音が遠ざかっていった。


       ✥


 二人だけになった病室は耳が痛いほどの静寂に沈んでいた。跳ね起きるようにした迎撃態勢を力なく解いた桜はベッドに根を生やしたように座り込み、飽くなき思考をただ繰り返していた。

 俯く少年を悲哀に染まる顔で見下げたアーシャは倒れた椅子を起こしてから、ゆっくりと自分に席に腰を落ち着かせた。

「……詩乃ちゃんね、二度も置いて行かれているの。だから我慢し切れなかったんだと思うわ。桜ちゃんもその気持ち、知っているでしょ?」

 こちらを過去を見透かすような発言だ。おもむろに上がった顔は憔悴し切っていて、毅然さの面影はない。夜色の瞳から行き場のない感情が漏れ、縋るような視線を送る。

「理解、できる。だが、納得できない。彼女にとって愚生はそれ程の存在だったのか? そのような素振りは一度も……」

「詩乃ちゃんは天ノ弱だから、ね。意地っ張りで見栄っ張りな頑固者、桜ちゃんと同じね。……桜ちゃんは、何が分からないの? お姉さんに話してみて?」

 理解できる、と言った筈なのにアーシャはそんなことを訊いてきた。胸中に残るもの一つの疑問を言い当てたのだ。息が詰まり、声も、言葉も、出てこない。核心を突かれ、瞠目するも自然と想いが口から零れていった。

「愚生は…………俺は、あの時どうすればよかったんだ? あらゆる状況を想定して臨機応変に対応する、ガイアと同じ思想で訓練された俺は答えを出せなかった」

 咄嗟に思考を行動に移せないなど、兵器として失格だ。悠長な戦術思案を敵は待ってくれないのだから。その例は人であろうと漏れることはない、つい今しがた証明されたばかりだ。涙を零すまいと堪えた少女に、自分はどんな態度を取ればよかったのか。きっとその答えは果て無き演算の末に導き出される戦術の埒外にあるのだ、だからこそ『桜花』では決してその答えに辿り着けない。

 アーシャは訥々と語った桜の言葉を聞いて仄かに微笑み、水底のような静かな瞳が真剣な眼差しを注ぐ。

「答案を出す方法はただ一つ、『桜花』としての価値観を排するだけよ。『桜』として考えて、出てきた全部の答えを消去法で失くして、それでも残る想い。自分の心に向き合って見えるものこそが、桜ちゃんの答えなの」

 桜の価値観を採用して考え尽くす、一体どれほどの工程を繰り返せば終着点に辿り着けるのだろうか。その上、出した答えが正しいという確証もない。

 掠れた声で、問いを口にする。

「もし、それが間違っていたらどうする?」

「もう一回考えを煮詰めればいいだけよ。だって一度の失敗が死に繋がるような戦闘の話ではないもの、いくらだって間違っても敗死することはない。言わなくても分かるなんて幻想で、言わなきゃ何も始まらない。真摯な姿勢で想いを伝えれば例え間違っていたとしても、気持ちを知ってもらいたいという意気込みだけは相手の心にきっと届くわ」

 真摯な表情と諭すような声音を伴って紡がれた言の葉は、桜の胸の内に積もっている。あとはそれを吟味し、飲み下して、煮詰めるための材料にするだけだ。

 失敗を恐れずに挑戦すること、それこそが今の状況を打破する第一歩なのだ。

「あと、ワンポイントアドバンス」

 こちらを覗き込むように語りかけたアーシャはふと立ち上がると、両手を桜のおとがいに添える。至近の相貌は穏やかな微笑を湛え、そして桜の頭を胸に包み込むようにして抱いた。

「どうするべきか、じゃなくてどうしたいか、それが一番重要なことよ」

 囁くような、それでいて芯の通った声。滑らかな声は桜に沁み入り、身体の硬直がふっと解ける。

 緊張した心が緩み、つい口を突いて言葉が漏れる。

「アーシャ、君は慈悲深いな」

「慈悲、だなんて私はそんな人格者じゃないわ。ただ桜ちゃんよりも少し大人で、まあ包容力には自信があるけどね。だから桜ちゃんの無茶はこれで許すわ、抱擁だけに」

 それだけ言うと、アーシャはぱっと離れた。お説教はこれでお終いと言った体で、例の如くしたり顔をする女性の微笑は、いつもの余裕あるそれではなく年相応の可憐さを漂わせていた。



 病室を抜け出した桜は途方に暮れていた。アーシャに背中を押されて決心したはいいが、肝心の詩乃の行き先が検討つかない。そう遠くには行っていない筈であるが如何せん、しらみつぶしに探していては日が暮れてしまう。

「おりょ? サクランじゃん」

 とことこ歩いていた木葉がよっと手を振り、近づいてくる。苦言を呈したいところであるが、今は時間が惜しい。

「詩乃の居場所に心当たりはないか?」

「会ってどうすんの? また詩乃ちゃん泣かすようじゃ、お姉さんは容赦しないわよ」

 おどけた調子ではあるが、表情は真剣そのもの。目には目を歯には歯を、桜も真摯な表情で答える。

「愚生は詩乃と話がしたい。教えてくれないか?」

 じっと吟味するように凝視する木葉はやがて、ふっとため息を吐いた。

「上、あそこの角曲がってすぐの階段。その調子なら仲直りできんじゃない、たぶんね」

「感謝する」

 一礼した桜はそのまま木葉の脇を通り過ぎ、角を曲がった。それを見届けた木葉は再びため息を吐いて、感慨深く呟く。

「若いっていいわねぇ、まっ、あたしも十分若いけど」

 白衣を着た童女はそう言って、のらりくらりと踵を返したのだった。


       ✥


 海面に名残惜しそうに残照の尾を引く夕日は、本棟と別棟を繋ぐ空中回廊を朱に染め上げていた。東の空は夜の帳を予感させるほどに暗く、茜色の陽光はぽつりと立つ少女を照らす。夕明りが編んだ黒髪と白磁を肌を照らし出し、憂いを湛えた翡翠の瞳は遠く、星屑が仄かに輝く藍色の空を見つめている。

「詩乃」

 先程とは違うしっかりした声で呼び掛け、だが詩乃は振り向かない。

 それでも桜は歩み寄り、残り五歩ほどの距離を開けて立ち止まる。そして、頭を下げた。

「すまない、先の戦闘や発言も含めて愚生は自分のことしか考えていなかった。愚生は、桜花としての判断に依存していた。……恐らく母さんの死から、現実から、目を背けたかったのかもしれない。何か一つのことに集中して、過去の気持ちを忘れたかったのかもしれない。思考を放棄し、ただ無鉄砲に戦いに身を投じて、その行為が他者にどのような影響を与えるのか、考えもしなかった。思考の怠慢は認める、君を迎撃しようとしたことも謝罪する。所詮は言い訳である、だが今から言うことだけは心に留めてほしい」

 顔を上げた直後、潮風が二人の間を吹き抜けた。その風に煽られるようにゆらりと振り返った詩乃の瞳は濡れて力なき視線を投げかけるも、胸元を押さえるようにして握った手には力が込められている。

 ここに来るまでの道中、ずっと己の心に向き合い続けた。論理的に説明できない思い付きの言葉が答えとして出たが、無論正しい保証はない。それでも言わねば何も始まらず、何より桜の価値観を前提として出した答案を信じたかったのだ。

 桜は一言一句、心を込めて告げる。

「愚生は、君達と、一緒にいたい」

 アーシャと、木葉と、詩乃と、一緒にありたい。

 本心からの言葉に果たして、詩乃は瞳をこぼれ落ちそうなほど大きく見開いて凝視する。やがて桜の言葉を理解し、固まった身体に水のように染み渡っていき、そして、

「詩乃は置いていかれたくないだけで、別にあなたと一緒にいたいわけではありません。心配してもらったからって調子に乗らないで下さい、それと指摘しないことをいいことに呼び捨てすんな、です!」

 ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

 常の桜であれば憮然とした面持ちをした後に、強気な返答の一つや二つぶつけるものだが如何せん、今は内心慌てるばかりだ。やはり答えを間違ってしまったのか、自分も気安く名指しされるのは嫌だと明言したと言うのに、とか狼狽するしかない。

 その反応を物珍しげに見つめた詩乃はやがてぷはっと吹き出して、腹を抱えて笑う。桜はその様を見て何だか面白くない、と思う。

「む、何が可笑しい。愚生は真剣なのだぞ」

「いえっ、まさか、そんな反応を返されるとは思ってもみなくて、肩透かしでっ」

 一頻り大笑した詩乃は別の意味で目尻に浮かんだ涙を指で拭うと、晴れやかな表情で言葉を継ぐ。

「あなたの言葉、詩乃の胸に届きました。少し癪ですけど許します、詩乃は寛容ですから。それと……あの……その……」

 詩乃は何故か髪を梳いたりして落ち着きを失くし、意味が分からず首を傾げる桜。ややあって意を決したように唇を噛むと、遠慮がちに呟いた。

「……名前」

「名前、が?」

 一歩踏み出し、覗き込むようにしながら言葉の続きを待つ。詩乃はふいっと顔を背けた。

「詩乃、でいいですから……」

 言葉の後に薄い息遣いが耳を撫で、意を汲んだ桜は首肯で示す。

 夕焼けに照らされた詩乃の横顔は、熟れた林檎のように真っ赤であった。

 戦いは止めない、だがそれでも皆と一緒にいたい。それが「どうしたいか」という問いに対する桜の出した「回答」だった。

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