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軍事教練

 東の空で微睡む星々がじわりじわりと朝日に押し退けられていき、桜は細やかに差し込む陽光を受けて目覚める。

 昨日は夜闇に包まれる街の屋根を走り渡って大方の哨戒を終えた後にふと図書館を発見し、閉館まで残り三十分程度であったがその間でヴェニスに関する文献を読み漁った。桜にとってチヴェタンにいた頃から書物こそが知識の源泉であり、限られた時間で大量に読むために速読を身につけていた。地図を用いて目視での光景と照合し、それからは無造作に読みまくった。

 桜が夜を越したこの場所は枯井戸であり、水道が整備されていない頃の飲水確保のために珍重された場所のようだ。そして使用されていないが故に蓋がしてあったのだが、何気なく着地してそのまま落下し、行くあてもなかったため眠りに落ちたと言うわけだ。

「朝か……」

 一夜を明けたおかげか、荒立った心の水面も今は静まっている。動揺の残滓が尾を引かなかったことを確認し、一息に跳ぶ。広場に降り立った桜は人っ子一人いないことをいいことにそのまま建物のバルコニーに飛び乗ったりして屋根に着地し、爽やかな朝焼けに目を細める。日光が紙に零したインクのようにじわじわと彼方の水平線を滲ませ、月影の青が山吹色に染められていく。ビル群が密集するチヴェタンとは違い、石造りの建物で統一されるヴェニスの街並みは早朝独特の静けさも相まって特異な静謐に満ち、この雰囲気はチヴェタンではまず味わえないものだ。

「素敵なものを一つ見つけたな……」

 感慨深く呟く桜は脳裏にある人を想起させて苦々しく口をへの字に曲げる。自分はあの島から攫ったのはアーシャで、この景色も彼女の働きあってこそ眺められたものである。そう思うと妙に気持ちが悪く、気付けばあの住居に向かうため屋根を跳躍で飛び渡っていた。


       ✥


 時刻は午前六時を回った頃であり、まだ人々が寝静まっていてもおかしくはない。そう思ったからこそ、二階建ての目の前に着地した桜は硬直せずにはおれなかった。玄関ポーチに座り込む人物は暖色のカーディガンを羽織り、縮こまるように俯いている。一本に纏められた三つ編みが猫背に垂れ、心なしか萎びれているように見えるのは自分が動揺しているからか。両側に垂らされた金髪のせいもあって、表情は窺い知れない。

 音に気付いて華奢な身体がぴくりと震え、顔がゆっくりと上がる。桜を認めた底の見えない海のような群青の瞳が見開かれ、息を詰めるような音が微かに朝の澄んだ空気を揺らす。見つめ合うこと数秒、やがてアーシャは安堵で華麗なる相貌を綻ばせた。

「……よかった……本当に、よかった……。日付が変わっても帰ってこないから心配したわ。……おかえりなさい、桜ちゃん」

「っ…………」

 開いた口が塞がらないとはこのことか、と桜は実感する。瞠目する桜を前にして、アーシャはすっと立ち上がりつつ二の句を継ぐ。

「桜ちゃんも外で夜を明かしたのでしょう。何か温かい飲み物でも一緒にどう? 公費でコーヒーなんて……ふふ」

 心が風に吹かれる木の葉のように揺れる。桜は微笑を伴う駄洒落に反応できず、ただ動じることしかできない。も、ということはつまり一晩ずっとこの場所にいたという証左に他ならず、何を言えばいいのか即決できない。

 何故ここまで自分に干渉してくるのだろうか。不思議な干渉は桜にとある女性を想起させた。

 あまりに不可解な行動、アーシャのそれはまさに意味不明だ。故に口を突いて言葉が漏れる。

「……何故だ」

 存外に掠れた声は芯がなく揺れ、毅然さの欠片もない。

 果たして、アーシャは思案するように虚空に視線を泳がせた。そして母なる海のような色をした瞳が柔和な眼差しを送り、薄い色の唇が綻んで言の葉を紡ぐ。

「…………桜ちゃんのことが大切だからよ」

 そう言ってアーシャは微笑った。親愛溢れる満面の笑みだ。

 たった一言、それが桜の胸に抵抗なくすとんと落ちた。そうして言葉に内包された感情が胸中に広がっていく。水面に落ちた一滴が波紋を生む様を桜は脳裏にイメージした。そして以前にもこれと似たような質問をしたことを思い出す。あの時の返答はこうだった。

『私にとって桜は、かけがえのない大切なお宝だから。海賊だけに』

 何故アーシャの笑顔を見ると心がざわつくのか、何故昨夜あんなにまで胸が痛かったのか、その理由が今、分かった。

 ――ああ、そうか。アーシャは…………どこか、母さんに似ている。

 悟った桜の発言は必ずしも論理的な思考に従った産物ではなく、何となくと言った塩梅である。

「昨日は…………すまなかった。それと、コーヒーを頂きたい」

 その時アーシャが見せた笑顔は、今までのどれよりも可憐だった。想起させた母親と同じように。


 氷でできた機械は、少しずつ溶け始める。


       ✥


『詩乃は別に何も言いませんよ。どうせ何を言ったって無駄でしょうから』

 ゴンドラに乗る直前に放たれた言葉によって、船上には鉛のように重い空気が流れている。そして運河メインチャンネルに出ると、周囲が喧騒に溢れるので重苦しい空気がいっそう際立つようだ。

「あちらがヴェニスの中心的な広場で、アックア・アルタが起こった際は浸水した様子が見られます。お三方には新鮮味のある光景になるのではないかと」

 事の経緯を知らないアリスは仄かに困惑を滲ませ、それでも回廊のある建物に囲まれた広場を指し示して説明した。詩乃は前側の席に座ってこちらに背中を向けているため表情は窺えず、だがその小柄な後ろ姿からは不機嫌オーラが醸し出されている。桜はその様を見て、しかし内心で首を捻った。気遣いを突っ放されたアーシャがむかっ腹を立てるならまだしも、何故直接の関係がない詩乃がむくれているのだろうか。

 ――解せんな。

「へぇ、そういう現象も起きるのね。浸水ね……アリスちゃん、そんなのアリっスなんて……うふふ」

「え、あ、有りなのではないでしょうか……」

 黙す二人とは違ってアーシャは平常運転で、それに反応せざるを得ないアリスは当惑したように「あはは……」と乾いた笑い声を漏らす。以前はその駄洒落に対して精々感心するくらいであったが、早朝のあれを経験した今なら分かる。この軽口は重い空気を和らげるためのものだろう。そういうことは自分にはできないので、桜は微笑むアーシャに向けて感服の眼差しを送り、当人はそれに気付いたようにこちらに話を振る。

「桜ちゃん、運河に落ちた人は運が悪いと思わない? 私達も気をつけないとね~」

 前言撤回。恐らく空気を察して、は本人にとって二の次なのかもしれない。

 それからずっと駄洒落のオンパレードとなり、アーシャは船上の空気を和らげたり寒くしたりしたのだった。


       ✥


『フィオーレ、これは演習であるが愚生は手を抜く気はない。行くぞ』

『▼了解/戦闘演算ヲ開始』

 光学神経接続、視野が一気に拡大する。知覚範囲はATの何倍もあり、複数の動体反応を感知した。

 空気を焼く太陽の容赦ない日差しを浴びて飛行場に陽炎が立ち上り、毒々しいほどに青い空には積雲がぽっかりと浮かび、風に流されてゆっくりと動いている。

 鏡面のようなアイセンサーが青紫の光を宿し、薄桃色の装甲が日光を鈍く照り返す。軍施設の郊外にある山々、自然界の一点にぽつんと立つ人工物の存在感は異様の一言に尽きる。桜の黒目は鋭利な光を秘め、フィオーレは左手を背部の柄に掛ける。

 マニピュレーターがぐっと柄を握り、刀身を晒して陽光をちかりと閃かせ――

 ほぼ同時に、四方の稜線から四機のATが躍り出た。

 全動体目標を捕捉。

 状況開始。

 ATは情け容赦なくフィオーレを照準し、迷いのない一発を発射する。東西南北から弾丸が迫り、だが銃声が轟くより早く弾道を見切っていた。咄嗟に機体を捻る動きに合わせて鞘走らせ、斬撃が虚空を裂く。

 北の一発、頭部を狙ったが大気を唸らせる機動によって標的を射るに至らない。

 南の一発、弾道上の脚部をぎりぎりで掠めて塗料を飛び散らせ、桜色の装甲に一筋の朱色を刻むだけで終わる。

 東の一発、事も無げな切り払いで真っ二つに両断される。

 西の一発、右腕部に格納されたダガーが高速で射出され、弾頭の真芯を捉えて甲高い音と共に火花が光り、裂かれた弾丸から真紅の塗料が飛散する。

 ATの包囲による射撃は、回避・迎撃された。いとも容易く。

 ATが子供に見えるほどの体格差があるフィオーレ、搭乗する桜は四の銃口を睨み返す。

 反撃開始。

 ブースター点火。地面を蹴立て、土塊や岩塊が舞う。狙うは真正面の斜面に着地した一機、地を這うように飛ぶ燕の如く急速接近する。真っ向の一機が弾かれたように、否、驚いたようにライフルの引き金を引く寸前には既にフィオーレは切っ先を地面に向けていたカタナの返す刃で小銃を弾き飛ばしてのけた。そしてあっさりと右手でATの機体に触れ、それから素早く背中の鞘を抜いてそちらを見ずに投擲。今まさに射撃しようとしていた一機のライフルにぶち当たり、銃口が逸れて明後日の方向に銃火が弾ける。そうして次の瞬間にはフィオーレの機体は空中にあった。

 翅を展開する素振りを見せない。自在に飛行しないレリックなど撃ち放題の木偶の坊に等しく、即刻銃撃可能な二機は躊躇なく斉射しようとし、

 転瞬、二機のアイセンサーが眼前に捉えたのはカタナとダガーの切っ先。

 それらは反射的に回避機動を取った二機の直近の地面に突き刺さり、ついでのように木々を切り裂いた。戦況にほんの数秒の空白が生まれ、桜は鋭く呼気を吐く。

 ブースター最大出力、空中から急加速で降下して銃口を向けられる頃には既にATに触れていた。残りは二機、回避した一機と誰もいない方を銃撃していた一機が揃って照準波を浴びせかけ、フィオーレは即座に退避。

 山を飛び越え、谷間を駆け抜け、撒き散らされる弾丸を回避していく。土や泥や木々を跳ね飛ばしながら移動するフィオーレは、斜面を駆け上って山の向こうに躍り出る。桃色の機体を確認したATがこの弾幕で仕留めようと滑らかに小銃を構え、だが一瞬だけ射撃の穂先がぶれた。

 フィオーレが着地と共に流れるように伏せたのは最初に敗北扱いとなったATの背後であり、思わず躊躇した二機を尻目に先程カタナで弾き飛ばしたライフルを拾い上げる。途端、銃口炎マズルフラッシュが閃き、漫然と立つATに弾丸が殺到する。被弾しまくるAT、フィオーレは赤い塗料の飛沫を少々浴びるくらいで着弾は零。それもその筈、此処は平地ではなく山間部であり、そして相手は斜面へと撃ち上げているのだ。伏臥しているため的は小さく、おまけに虚を突かれたことも災いして正確無比な射撃など不可能に近い。

 回避は成功、しかしだからと言って攻撃の手を休める訳ではない。

 右手を伸ばし、腕部の射出口を撃たれまくるATの股下の空間を通して遠方の一機に据え、迷わず射出し続ける。数十はあった残刃がみるみるうちに減少していき、最後のダガーが小銃の引き金を引くマニピュレーターの付け根付近を射抜いた。それによって一旦銃撃が止み、弾幕が薄くなる。

 好機。

 立ち上がり様にブースターを点火させて横っ飛びするようにして退避し、跳躍。爆発的な踏み込みはブースターの推力も加味して馬鹿げた跳躍距離を発揮し、追撃の弾丸を引き離しながら軽々とATの頭を越えた。

 ATは即座に銃撃を中断、実装されたばかりの翅を展開して空を打ち、驚異的な旋回速度で機体を翻す。だがそれでも遅い。ATのアイセンサーが捉えたのは真正面に立つフィオーレと、突きつける真っ黒な銃口であった。平静にタッチし、踵を返すフィオーレの視線の先には片手で小銃を撃つATであるが、まるで踏ん張りが効かずに着弾は零だ。それからは巨体とは思えぬ敏捷さで接近して状況終了。

『状況終了。完敗か、見事だ。全機帰投、今夜反省会だ。寝れると思うなよ、お前ら』

 モニターしていた男の感嘆の後に、意地の悪い声が通信波に乗るのだった。


       ✥


 飛行場には四機のATと一際巨大なフィオーレが跪き、高圧空気の漏れる音と共に首の後ろのハッチが開く。地面に片手を突いて頭を垂らすフィオーレから出てきた桜は外気を吸って、底が抜けたような青空を見上げる。

 事前の適合検査から十全なる機体制御が可能だと木葉に言われていたが、実際に乗って見てそれが真であることを実感した。ATに比べればかなり視線が高く、視界も広くなっているが想定の範囲内であり、主脳とのリンクも安定している。残る懸念事項は主兵装を的確な場面で上手く運用できるかどうか、くらいである。

 これからの課題を頭の中でまとめた桜は素早い身のこなしで機体を降り、自機を仰ぐ。傅く桜色の巨人と迷彩色の操縦服に身を包む少年、何とも奇妙な組み合わせである。それを指摘しようとした訳でもなかろうが、桜の周囲に先のATパイロットとモニターをしていた男が歩み寄ってきた。

「どうだったかね、ウチのAT小隊は?」

「判断は悪くない。だが咄嗟の行動に些か迷いが見られた」

 淡然と返答する桜に対し、男は苦笑を漏らした。

「だ、そうだ。機体の性能差以前の問題だな」

 その言葉に他の四人はバツの悪そうな、或いは苦虫を噛み潰したような表情をする。

「ブースターの出力がまさかあそこまで桁違いだったとは思いませんでした。予想の遥か上を行って、驚いている間に接近されて終わりです」

「弾を切るなんて予想できませんよ、普通」

「それはまだいいでしょう。自分なんてダガーで真っ向から弾を返り討ちにされましたし」

「機動力もさることながら、注目すべきは迅速かつ的確な判断力です。翅を展開する暇すら与えないとは……二十秒もかかっていなかったのでは?」

 実のところ、会敵から終了まで二十秒足らずであった。そして彼らが何よりも驚いているのは、ハンデを背負った上で完封せしめた戦闘の技能である。制約その一、翅の使用を禁ずる。その二、軍が用意した兵装のみを使用する。この二点を遵守した上で勝利したのが二十もいかない若年であるのだから、驚かれるのも無理はない。

「使用する武装から最適な行動を取ったまでだ。しかし完全に凌ぎ切れたとは言えない」

 目を丸くする一同は桜の視線を追って唖然としたような表情をした。フィオーレが膝突く左脚部に刻まれた朱色の線のことを言っているのだ。主脳の弾道予測に桜の判断力がほんの数コンマ遅れたが故の痕跡である。

 呆気に取られた四人の心中を代弁するかのように、上官である男が感嘆混じりに言う。

「あれ以上の何を望むというのか。なるほど、あの黒騎士が見出したわけだ。本当に救世主メシアを打倒しそうだな、君は」

「しかし少尉、今朝の一報では混乱に乗じてウーラノスの植民地にポントスの救世主メシアが強攻したと……」

「何弱気なこと言ってんだよお前はよぉ。そいつからこの国を守るために俺達がいるんだろうが、それに今は心強い味方だっているんだぞ」

 慎重派な若造をどつく中年、どちらの言にも頷ける。他勢力による植民地への侵攻は均衡が崩れたことの証左であり、三大勢力下から物理的に距離が離れていると言ってもトビウオを使えば一日あれば事足りる程度。桜達の所在が漏れていないとも限らず、警戒するに越したことはない。

「臆病者は長生きするとも言うが、命令無視は厳禁だぞシレン。お? あちらも帰還したようだな」

 見れば、翅を展開したカリーナとAT四機がゆっくりと降下していた。搭乗者の瞳と遜色ないほどの純粋な《緑》の装甲をしたカリーナは数メートル滑走した後に停止し、同様に跪く。そして空気が漏れる音を伴ってうなじ部分がスライドしてハッチが開き、頭部に摑まるようにして搭乗者が立ち上がる。

 詩乃は戦闘の残滓を払拭するように頭を振り、その動きに合わせて額の両側に結わえた房が揺れた。遠くを見つめる容貌はシックな雰囲気を漂わせ、完璧な円弧を描く小さな頭から滝のように流れる濡羽色の髪は腰近くまで至り、それに滑る陽光が見る者の目を眩く射る。

 束の間、一同は目を奪われる。普段の可憐さは鳴りを潜め、触れ難い清雅さを湛える風貌に、彼女と演習していたパイロット達まで見惚れている。すると視線に気付いたか、怜悧さを纏う顔がこちらに向く。ややあって詩乃は可愛らしく愛想笑いを浮かべ、息を呑む者や鼻の下を伸ばす者を尻目に慣れた動きでカリーナを下りると、演習のモニター役らしき男に一礼する。そして冷ややかな目つきで桜を一瞥し、そのまま歩き去っていく。

 それについて別段何か思ったわけではないが、桜も皆に一礼すると足早に後に続く。やがて隣に並び、すると翡翠の瞳が冷淡さを帯びた。

「……ついて来ないで下さい」

 素っ気なく突き放す詩乃。

「追従しているわけではない。愚生もこの先に私用があるだけだ」

「改造さんは食事をする必要がなかった筈ですが、詩乃と違って」

 何とも嫌味な倒置法であった。もはや人間扱いすらされていない。やはり昨日の件が未だに尾を引いているようだ。

「早朝にアーシャとは和解した。問題はなかろう」

「あなたにはなくても詩乃にはあるのです。無味乾燥なあなたと一緒にしないで下さい。詩乃は先を急がなければなりませんので、あなたに構っている暇はないのです」

「それはこちらも同じだ」

 玉響たまゆら、双方は火花を散らす。険悪な空気が流れる。

 つっけんどんな口調の詩乃は、どんどん歩調を上げていく。対抗し、桜も歩みを速める。傍からは競争をしている様に見える二人は地面がアスファルトからリノリウムの床に変わっても依然として歩を緩めず、周囲からの奇特な視線も気にも留めずに幾つもの廊下を直進し、角を曲がってそこに行き着いた。

 昼過ぎで疎らに軍関係者が行き交う食堂である。二人は入り口で一度立ち止まり、目標地点を見据えた直後、

 ずんずんずんずんずん。

 踵から床を踏む堂々たる歩みで進む二人は、三角巾にエプロンという出で立ちのおばさまに物申す。

「刺身定食を一つお願いします」

「刺身定食を一品注文する」

 声が重なってしまい、睨み合う二人へおばさまが朗らかに笑う。

「まずは券売機で券買って、そんで順番はちゃんと守りなさいな」

 見れば、二人は図々しく最前列よりも前に割り込みをかけていた。

 間、

 完全に周りが見えていない典型的な行動をしてしまった二人は、言われた通り無言で列の最後へと引き返したのだった。 


       ✥


「あなたのせいでとんだ恥をかいてしまいました、どうしてくれるのですか」

「先に仕掛けたのは君であろう。言いがかりも甚だしいぞ」

 刺々しい声とむすっとした声の応酬。何度目か分からない睨み合いを展開する二人は盆を持って移動し、そして対面で腰を下ろす。すると羞恥冷めやらぬ顔の、少し切れ上がった気の強そうな瞳が鋭い視線を照射する。

「詩乃の目の前に居座るの、やめてくれませんか。ひどく不愉快なので」

「何処に座ろうと愚生の勝手だ。嫌なら無視すればよかろう」

 あくまでも頑として譲らない態度の桜を相手に、弓型の眉をぴくぴくと引き攣らせる詩乃。その憤り様を意識の端に追いやった桜は魚の刺身に目を落とし、ごくりと唾を飲み込む。

 半透明の白身と少々の赤で色づく黒鯛は、アリスが紹介した広場から少し離れた場所にある市場から直送されたものであり、魚を刺身で食べるという文化は元々ヴェニスには馴染みがなかったようだが、過去にアーシャが来訪した際に広めたらしい。アーシャ曰く「醤油と山葵と生魚の三位一体は瑞穂の食文化の一つの特徴なのよ」だそうだ。

 この食べ方はヴェニスでは珍妙とされながらも庶民の間では人気があるらしく、他にも「寿司」と呼称される酢飯の塊に生の魚介類を乗せ、握って馴染ませる食べ方も同様の知名度を獲得しているようだ。

 何でもこれらの料理に感激したグラス総督はこれのために何千キロと離れた瑞穂と同盟を結んだ云々、もっともそれを差し引いても中立国である瑞穂にはかねてからパイレーツの拠点があるだのと噂されているので、決して無益な行為ではないだろう。

 閑話休題。

 演習前から刺身のことを聞いていた桜は顔にこそ出さなかったが、内心では心待ちにしていたのだ。事前にアーシャから教えてもらった食事儀礼の合掌をした後に、少々難儀しつつ箸を手に取る。

 すると対面の詩乃も打って変わって瞳を輝かせ、同様の動作をした後に刺身の真ん中に盛られた薄緑の塊を置いて二つ折りにし、箸で挟んで端の方に醤油をつけると口に運んだ。アーシャが言った通りの粋な召し上がり方であり、何とも優雅な所作だ。なのだが。

 ――山葵の量が明らかに多い。何という胆力だろうか、伊達に寵児と称されただけはある。

「君のことを少々見くびっていたようだ」

 桜が朴訥な語調で述べた直後、仄かに喜悦を滲ませていた顔がぴしりと硬直した。ややあって耐えるようにぎゅっと目を瞑ると、くわっと活目。それからシュバっと手が閃いて冷えた水の入ったコップを摑み、一息のうちに飲み干してしまう。

「――、ぷはっ!」

 忙しない詩乃、対して桜は状況が読めずに怪訝顔をする。

「それは愚生の水なのだが」

 気息を整える詩乃は律儀にも両手でコップを返し、少し間を空けてから言う。

「し、仕方ないではありませんか。まさか生姜がこんなに強烈な香辛料だったなんて思いもしなかったのですよ」

 はてな、と首を傾げる。それを見て今度は詩乃が怪訝顔をする。

「君、それは生姜ではなく山葵だ」

「へ?」

 実物を見たことがないのは桜も同じだが、まさか生姜と間違えるとは思いもしなかった。間の抜けた沈黙が流れ、頓狂な声を出した詩乃は目を瞬かせた。やがて乳白色の頬にかあっと朱が浮かび上がる。

「い、言っときますけど詩乃は知っていましたからね。今のは……そうっ、あなたのツッコミを採点してやろうと敢えてボケてみただけです。だいたい詩乃が冗談抜きで間違うわけないではありませんか」

 あまりに取ってつけたような釈明である。今までの彼女の言動を受けて、面白くないと不満に思っていた桜はここぞとばかりに指摘する。

「ほう、それにしては随分な慌てようであったな。あれが演技であるならば大したものだ」

「まあ、それほどでもありますけどね」

「なるほど、これから先の旅で身元を詮索される場合を想定して今のうちから鍛錬に励んでおこうという腹積もりか。それならば、演技のコツというのを是非ともご教示願いたい。生憎、芝居の訓練経験がないものでな」

「え?」

 得意面が一転して焦燥を帯び、狼狽の素振りを見せる。

「どうした? まさか、本当は辛いのが苦手でもうこれ以上は食べれないとでも?」

 びくっと肩が跳ね、動揺ここに極まりと言った塩梅の詩乃は視線を泳がせた後に、ふんっと鼻を鳴らす。

「詩乃を甘く見ないでほしいですね。いいでしょう、詩乃は寛容ですからその頼みを引き受けてあげます。いいですか? こうやってですね……」

 またも量多めに一口ぱくりと咀嚼する様をじっと凝視する桜は至って真面目であり、また詩乃も売り言葉に買い言葉で真剣そのもの。それに加えて注文時に目立った経緯もあって殊更二人の有様は傍からすれば奇妙に映り、周囲の食事する兵士や厨房のおばさま達が好奇の視線を送る。

 今度はそんなにはっきりとしたリアクションはなく、周辺から感嘆の声が上がる。だが桜はうんともすんとも言わない。何故なら鮮明に見て取れるからだ、翡翠のような輝きのある瞳が潤みまくっている様が。

「………………」

 絶句する桜に見せつけるように、したり顔を披露して見得を切る詩乃。

「ど、どうですか。この程度、詩乃には造作も無いのですよ。……さて、お手本を見せたのですから次はあなたがする番です。まさか実践なしで本番で通用するとは思っていませんよね?」

「む……、よかろう」

 にやりと意地の悪い笑みを仄かに浮かべる詩乃に触発された桜は、では、とかなりの量を一口でいく。敵前逃亡など兵器の名折れである。驚愕に打たれたように瞠目する詩乃と周囲に注目される桜は至って平然としており、そもそも元から表情に乏しいのでリアクションのなさは必定と言える。

 今度は桜がしたり顔を作り、演技力を誇示した。

 ぐぬぬと遺憾の意を示す詩乃はやけになったようにもう一口頬張り、負けじと桜も応戦する。次第に二人は我慢比べの様相を呈し、ギャラリーが面白半分に声援まで送り始めた。いつしか疎らだった食堂も何処からか聞きつけた野次馬によって人だかりが生まれ、それに比例するように追加される山葵。もはや途中から皿の白飯や刺身ではなく山葵しか口に運んでおらず、完全に歯止めが効かなくなっていた。

 そんな意地の張り合いは、整備業に没頭するあまり食事を忘れて腹を空かせた木葉に連れ添うアーシャの二人が来るまで続いたのであった。

 その後、そういうのは衆人環視の中じゃなくて身内の間だけでしなさい、と木葉に叱責されたのは言うまでもない。


       ✥


 山葵の多量摂取で気分を悪くした詩乃を帰りの船揺れが襲い、よって本島に到着してからはゴンドラに乗らずに徒歩で帰路に着くことになった。胸やけがするらしい詩乃を気遣ってアーシャは付き添い、逆に正常な桜は先に帰って良いと言いつかった。

 夕暮れのうみに星々が瞬く。夕暮れの街は淡い紫色に染まり、多彩な街灯や窓明かりの光が暗然たる水面に照り映えて、夢幻的な景観を露わにしている。軒を連ねるレストランでは垢抜けた格好の客が魚介類をふんだんに使った料理に舌鼓を打ち、白亜の大理石造りの橋の下では赤く沈む太陽の残照を受けながらゴンドラに乗る男女が口づけを交わす。

 小型船は舳先へさきともに、大型船は屋根の縁にランタンをぶら下げて幅広の水路を行き交い、夕焼けが教会の鐘に反射する。世界の殆どが海と化したと言っても空路がある故、それなりに観光客らしき人々が見られるところからいつの時代も人間というのは変わり映えしない、と桜は思う。だがそれでも人数は少ないようだ。それもその筈、旅客機は如何に蛟竜の水撃が届かぬ高高度を飛行しようとも人間が駆る戦闘機からは逃れられない。  

 海は途方もなく広く、しかし空は思いの外狭い。それが植民地開拓時代の世界の姿だ。

 水路の端、石畳の道を感慨に耽りながら歩く桜はそこでぴたりと足を止めた。水路に見慣れたゴンドラが滑っており、それを繰る船首の後ろ姿も見覚えがある。

「アリスか」

 長ければ数十日滞在する桜達の貸し切りなため客を乗せてはいないようだ。水路が入り組み本島で移動の際は船が優位であることは明白なので、私用で漕いでいても何ら不可解ではない。そしてゴンドラは滑らかな動きで方向転換すると細い水路へと入っていき、

「…………!」

 建物の陰に消える直前にアリスは指先を耳元に添えた。それが意味するところを軍属兵器であった桜は直感的に察した。

 ――無線を使ってまで誰と連絡を取ろうとしている。

 尾行を決意し、足早に追いかけようとしたところで唐突に背後から声が飛んできた。

「そこの人! 風船を取って下さい!」

 振り返ると二十メートルほど先にアーシャと一緒の詩乃が何やら指差していた。それを目で追うと水路の空中を風船が流れており、どうやら誰かが迂闊にも手放してしまった物のようだ。風船は街路に程近い所まで風に吹かれて来ているため一息に跳躍すれば取るのは造作ない。しかし。

 桜は一瞥するに留まり、それを当たり前のように無視した。

「え、ちょっと!? この距離で無視ですか!」

 慌てて声を張り上げる詩乃、それに桜は一瞥をくれて一言。

「愚生には迅速に遂行しなければならない任務がある。よって、君が取ればよかろう」

 返答を聞くこともなく桜は駆ける。再度後方から声が投げかけられることはなかった。


       ✥


「……な……」

 唖然と口を半開きにした詩乃は、桜が駆け去った方角をただひたすらに眺めた。隣のアーシャはと言うと、フォローに窮したように困り顔で「あらあら」と微笑する。それを皮切りにして、ぷつん、ときた。

「…………なんですかあれ!!」

 非難の声を上げる詩乃を尻目に風船が彼方の空へ上昇していこうとする。仕方なく憤懣やるかたない思いを抑えた詩乃は走り、石積みの柵に乗り上げて思い切りジャンプした。小柄な詩乃は果たして、ぎりぎりで風船の紐を摑んだ。

「やりました!」

 嬉々とした声を漏らす詩乃はそのまま着地――したはいいが、低い柵の端で足元がぐらつく。

「わっ! と、と、ま、ちょっと待っ」

「詩乃ちゃんっ」

 バランスを崩している詩乃を見て取り、走り出すアーシャであったが時既に遅し。ずっこける。そして水面に盛大な水飛沫が上がり、派手な波紋が広がる。落ちる直前に手放された風船をアーシャがキャッチしたのが唯一の救いであった。


       ✥


 結局、尾行は失敗に終わった。途中でアリスを見失ってしまったのだ、それもゴンドラ諸共だ。追躡ついじょう経験の浅さが仇となった。もしやすれば感付かれた可能性もあるため用心しなければならないと自身に言い聞かせる桜は、すっかり日の暮れた街の屋根を駆け渡って帰宅した。 

 門限は夜の十時、と早朝の時点で言い付けられていたからだ。まるで童心に帰ったようでむず痒い気持ちであったが、特別嫌ではなかった桜を出迎えたのはむせ返るようなアルコールの臭いと上機嫌な笑い声である。

 見れば、リビングで女二人と男一人がにこやかに晩酌していた。

「海難訓練でのとある新兵の話だ。溺れかける民間人という役柄をこなしていた彼は突如として顔を青褪めた。見れば数十メートル先の海面に三角形のヒレが出ていたのだよ。それで新兵は泡を食って身体をばたつかせたのが逆効果になってしまい、どんどん滑らかな曲線を描いて近づいてくる。もはやこれまでと思った時、背びれが高々と飛び上がった。だが長さ五十センチほどのハデヒレジャクシだったのだよ」

 赤らんだ顔で語るグラス相手に、ジョッキ片手に呵々大笑する木葉はバンバンと机を叩き、矮躯をぷるぷると震わせ、アーシャは口許を掌で隠してくすくすと微笑する。すると桜に気付いたのか、艶やかな金髪に彩られた美貌が鷹揚な笑みを浮かべた。

「あら、おかえりなさい桜ちゃん。約束、ちゃんと守ってくれて嬉しいわ」

「む……アーシャが取り付けたことであろう」

 やはりこの笑顔を前にするとどうも調子が狂い、ぶっきらぼうに返してしまう。けどアーシャは嫌な顔一つせず、きっとあの碧の瞳はこちらの内心を見透かしているのだろう。

「おっかえりー! 遅帰りねぇ、何? 女の尻でも追っかけてたんじゃないでしょうねぇ?」

「品がないわよ木葉ちゃん。自重しないとめっ、よ」

 からからと笑う木葉も悪戯っぽく微笑むアーシャも酔いが回っているようだ。三者一様に炙りイカなどの酒のつまみに舌鼓を打ち、夜はこれからのようだ。

「桜ちゃん、お腹空いたでしょ? 一緒にどう? もちろんお酒はダメよ」

「む、頂こう」

「ちょっと待って下さい!」

 何やら二階からどたどたと慌ただしい足音が聞こえてきたと思えば、階段を駆け下りた薄緑のネグリジェ姿の詩乃がふくれっ面でこちらをびしりと指差し、抗議を飛ばす。

「そこの人! 夕方のあれはどういうつもりですか! おかげで詩乃は水路に落ちた挙句全身びしょ濡れで帰宅する羽目になったのですよ! 人目を避けるのにどれだけ苦労したと思っているのですか!!」

 その時の羞恥心やら憤慨で顔を真っ赤にして物申す詩乃。対し、桜は平然と返答する。

「それは君の自業自得であろう。自分の情けなさの遠因を愚生に求めて、それの方がよっぽど恥ずかしいと思うが」

 正論を言われて口ごもる詩乃であったが、それでも目尻を吊り上げて反論する。

「例えそうだったとしても、あなたの行動にも落ち度がある筈です!」

「何事においても任務を優先する、兵器として当然の判断をしたまでのことだ」

「詩乃は『桜花』としてのあなたではなく、桜・シリエジオと話をしているのです!」

「む……」

 自己にとっては桜・シリエジオも桜花も同一であるのは揺るぎない。それなのに何故か口を噤んでしまう。

「あっはっは! 楽しそうね二人とも、さぁて夜はまだまだこれからよぉ!」

「ビールを浴びーるほど飲みたい、なんて……うふふ」

「お二人ともお強いですな、私も負けませんぞ」

 不機嫌な猫のような詩乃といつもの仏頂面を保つ桜はぎゃあすかぎゃあすか口論を繰り広げ、残りの三人は酒豪ナンバーワンを競い始めた。もはや事態を収拾する者は一人もおらず、そうして夜は更けていった。

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