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水の都

 桜がトビウオ空賊団に入団してから丸一日が経過し、例の如く低空低速滑空に入ったトビウオのあまりに広い装甲面の上にシートを広げて日向ぼっこをする女が二人いた。加えて彼女達を直立して腕組みしたまま見下ろす男が一人。

 桜は大海原を見回し、海面に乱舞する陽光に目を細める。世界の殆どが海と化した世界で、トビウオの滑空能力は巡航速度と航続距離の面で絶大な効果を発揮し、たった一日で一時的に滞在していたピタテン島から低速でありながら何千キロと離れた座標まで到達していた。

「二機のトビウオによる索敵に敵影は感知されず、またウーラノスによる報復の兆しも皆無、か。こちらに構う余裕もないようだな」

 カリーナ用トビウオと編隊を組む黒色と藍色の装甲色をしたトビウオを一瞥し、現況を呟く。両足を折ってぺたんと座るアーシャは空中投影式の小型端末に表示された矩形ディスプレイをスクロールしながら相槌を打つ。

「他の救世主メシアとの交戦経験がなかったから常勝無敗を誇っていたザ・プルトニウムが堕とされたのだから、当然と言えるわね。今頃あちらはてんやわんやの状況でしょうし、それを含めなくても私達を捕捉することは不可能でしょう。植民地開拓戦争を巡る三大勢力の薄氷を踏むような均衡の崩壊への序曲が始まったと言うところかしら」

「それを奏でたのが君達だと言うのに随分と他人事のように言うのだな」

「戦局を客観的に見るのは基本よ。救世主メシアのジャックは陥落、残るはクイーンとキング。戦力最小のポントスが狙い目だけど、救世主メシアは最強の呼び声が高い……いくらこちらが二機と言っても迂闊に仕掛けるのは早計ね」

 顎に手を添えて熟慮の仕草を見せるアーシャの眼差しは常の微睡むようなそれとは違い、真剣そのものだ。余裕を感じさせるおっとりとした物腰や童顔なことも手伝って戦とは無縁な雰囲気があるのだが、反動勢力に属する以上それなりの洞察力を持っているようだ。

 その時、アーシャが常備する無線機に入電。

『▼告/未定義反応多数/三時方向ヲ飛行/反応数・三十/熱源反応カラAT及ビ大型回転翼機と思ワレルデアリマス』

 トビウオだ。二人はつられて煌めく水平線の彼方に視線を転じるも、当然ながら目視は叶わない。

「敵襲か?」

『飛行軌道ヲ算出/目標地点チヴェタント推測サレルデアリマス』

「ウーラノスがトビウオと救世主メシアの残骸を回収しようとしているのかもね。まあ、チヴェタンの迎撃能力は高いから徒労に終わるでしょうけど」

『高熱源反応感知/先方ハ蛟竜の水撃ニ対処シテイル模様』

「ほらね」

 私の言った通りでしょ、と自慢げに言うアーシャ。それでこの話は終わり、桜は仕切り直す。 

「カリーナの損傷修復及び弾薬補給のことも留意しなければならん、此処の設備だけでは心許ない。愚生としてはフィオーレの演習を希望する。訓練なしでの実戦は愚行と言わざるおえん。……然るに目的地はそれらの懸念を解消できると推察するが?」

「ご名答、よ。目的地はヴェニス、島国としての規模はチヴェタンより小さくて軍事面はそれほどではなかったりするのよね」

「だがそれ故に植民地としての価値は低い。だからこそ隠れ蓑にするのは打ってつけということか」

「そういうこと。交渉は私に任せて、きっと上手くいくわ」

 戦闘以外はおしなべて門外漢である桜は首肯する。それから視線を下げて仄かに呆れを帯びた声で続ける。

「暢気なものだな、君は」

 アーシャに膝枕される詩乃は最初こそ羞恥からか渋っていたが、今や穏やかな寝息を立てている。ウーラノスの救世主を倒したトビウオ空賊団は今や他の二大勢力の敵と目されると言うのに、僚機を務める詩乃は緊張感の欠片もない有様である。軍事組織の主力であるならば、作戦行動に全力を注ぎ込むのが道理であると考える桜にとって彼女とは相容れぬところがある。現に今がそうだ。

 そのような思考を悟ったか、アーシャは見透かすような微笑を浮かべる。

「戦場に身を置く以上は休息が必要よ。けじめをつけることはとても大切なこと、何より作戦ばかりでは気が荒んでしまうわ」

「む……」

 アーシャの微笑みには何もかも包み込むような不思議な大らかさがあり、それが桜は苦手だった。理由は判明しないが、とにかく彼女の笑みを見ると心がざわつく。

 そこで眠る詩乃が小さく呻き声を漏らして身動ぎをした。

「ん……」

「あら? 起こしちゃったかしら」

 瞼を持ち上げて揺れる瞳で直近のアーシャを見上げた詩乃は気の抜けた表情のまま瞬きを繰り返し、それからゆっくりと上体を起こすと右手を口許に持ち上げて小さくあくびをする。

「ふぁ……、すみません。気持ち良くてつい……」

「いいのよ、詩乃ちゃんの寝顔可愛かったわ」

「か、からかわないでくださいっ」

「あらあら」

 途端に頬を上気させる詩乃へアーシャは慈しみに満ちた視線を投げかけ、その様を桜は無言で眺める。特に意味のないやりとり、そんなものは学生の頃に傍観してきた筈なのに何故なのか、桜の胸中には名称し難い暖かな気持ちが広がっている。チヴェタンを出奔してからと言うもの、己の感情の機微に戸惑うばかりである桜は眉を寄せるのが癖となりつつあった。

「桜ちゃん」

 アーシャは膝立ちするとすっ、と腕を伸ばして細い指で眉間をトンっと突く。

「何をする」

「難しい顔をすると眉に皺が刻まれちゃうわよ~。……あら?」

「アーシャさん? ってああ、珍しいですね。この空域ではあまり見かけたことはありませんのに」

 空を見上げる二人につられて振り仰ぐと、疎らに浮かぶ入道雲の間を飛行する影を認めた。七色に輝く鱗を纏う長大な身体が日差しを跳ね返し、拡がる極彩色の一対の翅が日光を透かして水面のように揺蕩っている。大蛇にも似た身体をくねらせて飛ぶ虹蛇こうだの軌跡には美麗なる虹の橋が架かり、桜の目は釘付けになる。

「……虹蛇こうだ……、生で見るのは初めてだ。ニジ粒子の塊、か」

「虹の発生という理を掌握する存在、ね。エレボスから神と讃えられる所以ね」

「鱗と翅の緑色の部分で光合成をしているのですよね。多才とはこのことです」

「葉緑体か、それは初耳だな」

「ふっ、これだから田舎者さんは。常識ですよこれくらい」

 昨日と同じく双眸に気迫を滲ませて睨み合いを始める二人を、アーシャは掌を打ち鳴らして仲裁する。

「ほら、そうやってすぐにいがみ合わなうのはめっ、よ。命を預け合う仲なのにそんな希薄な関係なんて……けどその気迫は必要ね、希薄だけに。あ、でも喧嘩するほど仲が良いって言うわね」

「寒いの禁止、です! あとそのようなものは俗説です! 誰がこんな人と……!」

「あらあら」

 キロリ、と睨む詩乃を見てアーシャは少し困ったように微笑する。それから何かに気付いたように顔を綻ばせる。

「見えたわ、あれがヴェニスよ」

 振り返る桜の目に入ったのは大海にぽつぽつと浮かぶ諸島であり、その一つこそが水上の都市だ。


       ✥


 ヴェニス軍からの広域通信に従って本島を迂回したトビウオ二機は、諸島のうちの一つにある飛行場に着陸した。そうして待ち構えていた兵士や装甲車に取り囲まれた三人は指示されたままにトビウオから下り、四方八方から銃口を向けられた。

 黒の詰襟少年と紺色のセーラー服少女、質素で派手ではない控えめな服装の女性の三人が小銃を持った軍人達に取り囲まれている様は異様の一言に尽きる。

「随分と手荒な歓迎だな、当然とは言えるが」

「あの、アーシャさん。疑っているわけではありませんが、本当に大丈夫なのでしょか?」

 柳に風とばかりに動じない桜に対し、詩乃は心なしか冷や汗を垂らす。対照的な反応を見せる二人をちらりと見やるアーシャは、鷹揚なる微笑を返す。そこで対面した相手がアーシャに睨みを利かせた。

「動くな女。妙な動きをすれば只では済まんぞ」

「あら、脅しがお上手ですね。動いたら、いったい何をされてしまうのかしら?」

 この隊の指揮官と思われる壮年の男の睥睨を意にも介さず、微笑みを返すあたり剛胆と言わざるおえない。

「見たところ救世主メシアではないようだが、トビウオを二機も保有しているとは。パイレーツの差し金か? 答えろ!」

「半分正解で、半分不正解と言ったところね」

「はぐらかしおって、舐めるなよ女」

 壮年の拳銃が額に据えられる、それでも碧の瞳は一切揺らがない。緊迫の空気が膨張し、踏みだそうとする詩乃を桜が視線で制する。引き金に指がかかり、トリガースプリングの軋む音さえ聞こえてきそうな静寂、

「やめんかお前達! 銃を下げろ、彼女達は敵ではない!」

 稲妻の如き一喝が響き渡り、隣の詩乃の肩が僅かに跳ねた。桜は声の方向を淡然と見つめる。小銃を持つ人波が粛然と割れてそこから姿を見せたのは、鋭角的な髭、顎鬚と白髪が繋がって獅子のたてがみのような偉容を醸す初老の男だ。精気横溢な風貌をした男は脇に控えた壮年を一瞥した後に、アーシャと対峙する。

「三年ぶりですか、アーシャ・ウォルコット。トビウオを見てもしやと思いましたが、本当に実現されるつもりですか。あの野望を」

「小娘の戯言だと思っていたのかしら、グラス総督。約束通り参りましたわ、まさか違約するおつもり?」

 視線を交錯させる二人、暫しの沈黙の果てにグラスは鋭い眼光を和らげた。それから視線を周囲に巡らせて、厳粛な声で告げる。

「彼女達の身柄は私が預かる、異論は許さん!」

 アーシャは戸惑いつつもたちまち小銃を下げる兵士達に視線を走らせ、それから詩乃と桜に向けてウインクを寄越すのだった。


       ✥


 書架に囲われた部屋に通された三人は革張りのソファに座り、ガラス造りの机を隔ててグラスと対面する。部屋正面のガラス張りの大窓からは飛行場が見渡せ、路面には白衣に着られているように見える銀髪少女が整備兵達に対して何事か喚いている様子が認められた。

「何をしているのだ木葉は?」

「大方、子供扱いされたのでしょう。木葉さんにとっての禁句ですから。まあ、どこかの誰かさんは敢えて言ってのけていじける様子を楽しんだりしますけど」

「うふふ」

 ちらり、と送られる視線をアーシャは微笑み混じりに受ける。そこでグラスが咳払いし、三人は居住まいを正す。

「まず粗暴な対応を謝罪する。すまなかった」

「いえ、三大勢力の植民地が拡大の一途を辿っている以上警戒は常に備えているのが望ましいわ。それより私は三年前の口約束を覚えて頂いていたことに驚いたわ」

「黒騎士と交わした約束など忘れられるわけがありますまい。……先日、パイレーツからもたらされた一報で世界は色めき立ち、ウーラノスの植民地各地では早くも暴動が起きているようだ。よもや本当に救世主メシアの一角を崩すとは驚嘆を禁じ得ないところだよ」

「トビウオのステルスで追跡は困難を極め、ウーラノスは対処に追われて報復の余裕もないでしょうし、今頃他の勢力は血眼になって私達を探しているでしょうね。こちらで準備が整い次第倒しに行くわ、迎撃は性に合わないの。あ、けどまだどちらを狙うかは決めていないから、やっぱり長居することになりそうね」

「行き当たりばったりであるのに結果は残す、そういう部分は変わりませんなウォルコット殿」

 互いに微笑み合う二人が暫くして笑いを収め、アーシャは片手で詩乃と桜を示した。

「こちらが詩乃・S・グリンフィールドちゃんで、あちらが桜・シリエジオちゃん。レリックの搭乗者で実力は私の折り紙つきよ。ちなみに、救世主メシアを倒したのは詩乃ちゃんね」

 グラスはちょこんと一礼する詩乃と会釈する桜に視線を転じ、感嘆の息を漏らした。

「まだお若いのにあの救世主メシアを撃破するとは、是非ともウチに欲しいくらいですな」

「そんな、恐縮です」

「アーシャ、一つ質問がしたい」

 控えめな微笑を見せる詩乃とは違い、桜は唐突に声を上げる。不意なことであった故か、アーシャは不思議そうに目を瞬かせた。

「? 何かしら?」

「君は同類ガイア殺しの黒騎士だったのか。何故秘匿していた?」

「訊かれなかったから、よ。それにわざわざ言うことでもないしね。何? 私のことが気になるの桜ちゃん?」

 魅惑的な微笑を浮かべるアーシャをじっと見つめ、桜は淡々と返す。

「黒騎士は二年前のピタテン島の一件で撃墜されたと聞き及んでいたのでな。少々驚いただけだ、他意はない」

 そこですっと目を伏せる詩乃が少しばかり気になったが、アーシャの明るい声音で意識をそちらに向ける。

「往生際が悪いのよ私って。……さて、本題に入ろうかしら。グラス総督、約束の内容は覚えていらっしゃいますね?」

「勿論だ。弾薬・設備と衣食住の提供を君達の準備期間が終えるまで継続すること。代わりに君のところの整備兵とこちらの共同で翅を実装したATの整備開発並びに兵士達への軍事教練を実施すること、であったか」

「ええ。こちらも手を抜くようなことはしませんので、そちらもよろしくお願いしますわ」

「無論だ、こちらこそよろしく頼みます」

 双方立ち上がり、握手を交わす。交渉は成立、二大勢力による襲来が危惧されるが世界は、海は広く、そう容易に此処を探知されることはないだろう。中立国を謳うヴェニスでの滞在が確定された事実に、隣の詩乃が小さく安堵の息を吐いたのだった。


       ✥


「銃口を向けられた時はどうなることかと肝を冷やましたよ。アーシャさん、ああいう挑発するような返事は心臓に悪いので今後は自重してください」

「うふふ、努力するわ。けど本当に良かった、あちらが約束を覚えてくれていて」

「来たぞ」

 船着き場で二人の会話を聞くともなしに聞いていた桜はこちらに向かってくる水上バスを認め、声を掛けた。やがて水上バスはどすん、という振動を伴って着船した。

「二人とも、ちゃんと切符は持った? 降りる時に切符は出さなくていいけど、時々船内で抜き打ち検査があったりするから失くさないように。検札に引っかかったら罰金が科せられて、そうなるとMoneyが少なくなってほんまにー困っちゃうことになるからね」

「随分と流暢な発音だな」

「ツッコむところそこですか……」

「アクセントでいつも悪戦苦闘しちゃうのよ~」

「すぐにツッコまないからって、調子に乗って畳み掛けないでください!」

「あらあら」

 乗船券の代金はヴェニス島中央政府から支給されたもので、当面はこのお小遣いで生活していくことになる。刻印器によって日付と時間が刻印された切符を大事そうに持つ詩乃はまるで遠足時の子供のようで、心なしか表情も明るい。

 そこで船から出てきた乗組員が幅広の木板を待合室に向けて架け、そこをまずアーシャが平然と渡っていき、詩乃が目を丸くする。

「随分とレトロな乗降方法ですね、初体験です」

「これが『船』というものか、写真でしか見たことなかったな」

「足元に気をつけてね」

 三人が乗船したのを見計らって水上バスが発船し、さざ波を裂きながら海面を滑っていく。軍の主要施設が密集するこの島を巡回ルートにする水上バスの利用者は駐留する軍関係者か、或いは見学ツアーの観光客くらいなものでそれも今はシーズンではないので船内はがらんとした有様である。だから船内は貸し切り状態となっているのだが、誰が言ったわけでもないのに三人は甲板デッキに出て潮風を浴びる。

「……いい風ですね。全身で海風を感じることができるなんて……」

 さらさらと靡く黒髪を押さえる詩乃は青く煌めく海原を見渡し、恍惚そうに呟いた。

「ドラグライトで海域も含めて囲むなんて芸当、世界中探してもそう見られないからね。それに注力するあまり、軍事力の増強が疎かになったってグラス総督は嘆いていたけど。けどそのおかげで周辺海域の蛟竜の射程外に島を逃がすことができたわ」

 そよぐ金色の三つ編みがゆったりと揺れ、アーシャは微笑み混じりに補足した。

 その言葉通り、遥か沖合に防波堤のように築かれた漆黒のドラグライトは本島含む諸島を囲うように円形を描いている。等間隔に配備されたブラッククロームの防波堤・モノリシックを構成するドラグライトは特異な金属塊であり、発散する特殊な磁場を蛟竜は極端に嫌うため、天然の結界の役割を果たしているのだ。ドラグライトの加工は極めて難しく、三大勢力の本国や植民地ならまだしも中立国での実例は稀である。その実例はドラグライトを最も多く保有しているパイレーツの支援あってこそであるが、今の時代の海賊が実に気まぐれであるため矢張りヴェニスの外交能力には目を見張るものがある。

 桜は任務でチヴェタン島の天井に出向く時くらいしか海を見たことがなかったし、詩乃は外交部隊で島外に赴く機会は多かったようだがそれでも船上から景色を一望したことはなく、心ここにあらずと言った体で惚けたように大海を眺めている。アーシャは以前にも此処を訪れているのでこの景観を望んだことがある筈だが、黙して目を細めるのみだ。

 三人は無言で潮騒を奏でて凪ぐ海を見つめ、沈黙を埋めるように海上を飛翔していくカモメが鳴き、羽音が耳に届く。水上バスに揺られながら穏やかな時間がゆっくりと流れ、戦場とは真逆の空気だ。そしてそれはチヴェタン島にいれば決して手に入れることの叶わないものである。外の世界に出てから数日、ここに至りようやく桜は自身が自由の身となったことを実感した。

 気づけば、言葉が口を突いて出ていた。

「けじめをつける、か。一概にも否定できないな」

 今のこの時間のおかげで桜の心の水面は澄み渡っている。自分はともかく詩乃は人間だ、そして人間であるが故に精神の安らぎ、ひいては意思の安定が戦果に影響するやもしれない。その論に則って考えてみればけじめの否定は早計と言える。もしやすれば眼前の光景によって固定観念が揺るがされてしまったのかもしれないが、不思議と癪ではなかった。

「あら? どういう心境の変化かしら?」

 窺うように小首を傾げるアーシャを一瞥し、海を眺めながら素直に思いの丈を口にする。

「どういうも何も愚生はただ……世界は広く、美しいと思っただけだ」

「気色悪い台詞をほざくな、です!」

「む、感想を述べたまでだ。否定される謂れはない」

「あらあら。ほら二人とも、ビルデン礁が見えてきたわ」

 例の如く剣呑さを帯び始める視線がぶつかり合い、それをぶつ切りにするようにアーシャは彼方の洋上を指差す。自然、二人の視線もつられてそちらに向けられる。干潮の時刻なのか、潮位が下がったことで海面からビルデン礁が突き出ており、どうやらそれは大昔の人々が居住用として設計した物のようだ。傾いだビルデン礁は半分ほど露出し、屋上にぽつぽつと点在する人影を桜は認めた。

「なるほど。監視役ということか」

「さっきの軍島にレーダーはあるんだけど、蛟竜対策に重きを置くのは島国の常識だからね。と言っても、ビルデン礁に効率良く人や物資を運べる船の使用あってこそだろうけど」

「ヴェニスの人々にとって海での生活は当たり前なのですね。ちょっぴり羨ましいです」

 ビルデン礁の屋上で見張りをする人々に羨望の眼差しを送る詩乃を横目にし、桜はビル壁に砕かれて立つ白波を遠望しつつぽつりと呟く。

「羨慕するのは彼らも同じではないか」

「え? 詩乃たちを、ですか……?」

「無論だ。海上で生活を営むことが当然という認識ならば、それは新鮮味に欠けるということだ。……母さん曰く、世界には素敵なことがたくさん溢れているそうだ。先日まで愚生の世界はチヴェタン島だけだった、故に世界の、ひいては地球のことを然程に知らない。そのことを君は田舎者と罵るが、逆説的に言えば世界の全てが素敵に輝いて見えるということだ。何の変哲もない日常を送る中で素敵なことを見つけるのは困難を極め、だがその問題を容易に解決できる時期がある」

 はっ、と息を呑む詩乃の隣で佇むアーシャは手摺に軽く手を置いて言葉の接穂を継ぐ。

「それが今、ってことね」

「然り。知らないからこそ見える世界もある。変わり映えのしない日常をいとも容易く一変させる好機を握っているのだ、愚生らは。故に彼らもまた愚生らを羨ましく思うのではなかろうか」

「………………」

 朴訥な物言いで長口上を終えた桜をまじまじと見つめる詩乃は沈黙の後に、打って変わってしかめっ面を作る。

「急に能書きを垂れるな、です!」

 表情の割に、その声色に帯びる拒絶や否定の色合いは薄い。「あらあら」と微笑むアーシャとは違い、にこりともしない桜は例の如く淡然と言葉を返す。

「持論を述べたまでだ」

 声風とは裏腹に、詩乃を見つめる夜色の瞳は存外に険しさとは無縁な視線を注ぐのだった。


       ✥


 本島に到着した三人は前方に見える石造りのアーチへ向けて上り坂を登っているところだった。軍事施設が密集しているあの島にも居住スペースはあるのだがグラス曰く「利害の間柄であるし、何より旧知のウォルコット殿と君達にヴェニスという島国を堪能してほしいのだよ」、という経緯で三人は民間人が多く住む本島に身を置くことになったのだ。

 石積みのアーチを潜った桜の視界に広がったのは色彩豊かな街並みと、午後の日差しを受けてきらきらと揺らめく水面だ。幅広の水路が通り、建物の玄関は例外なく二階に設えられ、水上には大小様々な小船が幾つも並んでいる。

「これがゴンドラですか。手漕ぎとはまた古風ですね」

「風情があって良いと思うけど」

 街路は横幅三十メートルはあろうかという船着き場で終わっており、恐らく街中を行き来するにはゴンドラを使うしかないようだ。岸壁に停留するゴンドラ群を見渡す三人はそこでこちらに手を振る船頭に気付き、船着き場の階段を下りて挨拶を交わす。

「アーシャ・ウォルコットよ。案内の方お願いしますね」

「お待ちしておりました、アリス・シナリーと申します。滞在中は私が専属の水先案内人となりますので、何なりとお申し付け下さいませ」

 木葉ほどではないにせよ小柄な体軀の少女がぺこりとお辞儀をした。亜麻色の髪は肩口で切り揃えられ、くりくりとしたはしばみ色の瞳はまるで小動物のようである。そこまで少女の外見を観察したところで桜は周囲を見回し、首を捻る。

「女性の船頭というのは珍しいのだな」

 客を乗せて櫂を漕いでいる他の船頭は一様に麦藁帽子と横縞シャツという出で立ちであり、例外なく逞しいむくつけき男ばかりなのだ。

 独り言にアリスはああ、と得心したように頷いた。

「相応の腕っ節が必須な職業なこともあって、女性の水先案内人は私のみですね」

「女性初のゴンドラ漕ぎということですか、すごいですっ! 私は詩乃・S・グリンフィールドです、よろしくですアリスちゃん」

「いえ、そんな褒められるようなことでは……。え、えと、それではグリンフィールド様、お手をどうぞ」

「詩乃でいいですよアリスちゃん」

 差し出された手を柔く摑む詩乃は微笑み、対するアリスは照れたように頬を紅潮させる。その様を間近で見る桜は不可解げに眉を顰め、思案の後に自己完結して頷く。自身に対する詩乃の態度は木葉曰く嫉妬しているからのようだが、もしやすれば桜が異性であるからなのかもしれない。というよりその理由を加味した上であの刺々しい言動を鑑みた方が幾らか得心がいくというものだ。

 気品のある所作を伴って談笑する詩乃の影響か、表情に仄かな緊張を滲ませていたアリスも肩の力が抜けているように見える、

「他人は自分を映す鏡、か。見え透いた愛想笑いであるな」

「愛想が良い人とは気が合いそうと言うわ……うふふ」

 桜の囁き声に耳ざとく反応したアーシャをまじまじと見つめ、感嘆の声を返す。

「愛想と合いそうをかけているのか、なるほど。上手いなアーシャ」

「ええと……まさか称賛されるとは思っていなかったわ。……っあ、やっと名前で呼んでくれたわね」

 何故か戸惑うアーシャは転じて嬉々として微笑し、桜はむず痒い心持ちになって僅かに目を逸らす。

「君が強要したのであろう」

「嫌なら無理に呼ばなくてもいいけど」

 悪戯めいて笑うアーシャを見つめ、曖昧な口調で返答する。

「別に、嫌ではない」

「そう」

 直近から慈しむような眼差しを注ぐアーシャの顔を直視することが憚られた。それと奇妙な気持ちが胸中に広がる。

 ――この感覚、以前にも味わったような……。

 それの記憶を探ろうとした桜の耳に不機嫌そうな声が届いた。

「そこの人は放っておいて、行きますよアーシャさん。アリスちゃんを待たせるのも悪いですし」

 二人は傍目から見れば囁き合っているようにも見え、詩乃は心なしか頬を膨らませてアーシャの手を引っ張る。アーシャは「あらあら」と照れたように微笑みつつ手を引かれるままにゴンドラに乗り、次いで桜も飛び乗る。

「それでは参りますっ」

 アリスは掛け声と共に長い櫂を一漕ぎし、アイボリーホワイトのゴンドラが水面をするりと滑り出す。船着き場から発船したゴンドラはそのまま街を十字に貫く運河メインチャンネルに滑り込み、視界が一気に開けるのに合わせて舳先に立つ詩乃が控えめな歓声を上げた。

 横幅二十メートルはあろうかという水路には色とりどりのゴンドラが行き交い、風景を鮮やかに彩っている。水路の両側には多種多様な商店が軒を連ねており、午後ということで猥雑まではいかないまでも活気に溢れている。

「皆さん、船でお仕事をしているのですね」

 ゴンドラのみならず、周囲には水上バスに水上タクシー、渡し船や警察と思しき人々を乗せた船まであり、何処を見渡しても船、船、船である。

「この街は船がないと始まりませんから。専用の橋以外では自動車も自転車も使用を禁止されています。詩乃さん達はチヴェタン島からいらしたのですよね、そうなるとヴェニスはとても不便な街に思えるかもしれませんね」

「そうですね、不都合を徹底的に廃することで利便性を追求した島国ですから」

「だからこそヴェニスの街並みはどれも好奇心をそそられるのよね」

 会話に花を咲かせる三人とは別に桜は周辺に視線を巡らせて、景色を克明に記憶していく。有事の際に地形をインプットしておくと有利となるからで、一種の癖とも言っていい。見回して分かったことは二つあり、一つはほぼ同等の高さの建造物ばかりなので屋根の上を移動するのが容易であること。もう一つは路地の多さ、恐らく街中に無数の隘路が幾重にも張り巡らされているのだろう。ならば敵と遭遇した際に撹乱しつつ死角からの奇襲を仕掛けやすい。

「桜ちゃんはどう思う?」

 不意に水を向けられて暫し黙考、それから素直に心の丈を声に出す。

「確かに不便である、だがそれはあながち悪い意味ばかりではなかろう。……チヴェタンでは買い物も仕事も殆どのことを家で済ませることが可能で、ガイアの操縦でさえシミュレーターで事足りるという意見も散見された。美観化と合理化が図られた街並み、それは文明崩壊からの復興と好意的に捉えることもできよう、だが愚生は心の隅でそれらを淡白で物足りなく感じていた。と言ってもそのような感情を抱いていたことに気付いたのは先刻であるが……。畢竟、何かと不都合に思われるこのヴェニスは不思議と落ち着く。それに景色も見惚れるに事欠かない……例えば、そうだな」

 言葉を区切った桜はおもむろに前方を指差し、三人の視線がそこに転じられる。指し示すは陽光を映してきらきらと輝く水面であり、アーチ状の石橋の下で明暗が分かれて光の反射具合が微妙に違うのだ。視線を誘導した桜は常より抑揚豊かな声で続ける。

「陽の光が舞い踊る水面は架かる橋の存在で二つの顔を見せる。橋の下の川とはまた違う趣があり、文明崩壊・戦争・蛟竜の存在等の外的要因に晒されながらも人々の努力の末で生み出されたこの光景は様々な人達の思いによって今でも維持されているのだろう。そう思うと殊更風韻ある素敵な街ではなかろうか」

「気色悪い長口上をするな、です!」

「む、感想を述べたまでのことだ」

「あらあら」

 うへぇ、と辟易としたような表情を浮かべる詩乃や笑むアーシャとは違い、アリスは呆気にとられたように目を丸くし、するとやがて滑稽そうに微笑した。

「面白いことを仰るのですね桜さんは」

 否定される謂れや笑われる意味が心底理解できない桜は航行中、終始怪訝な顔をするのだった。


       ✥


 青色だった空はいつしか茜色から藍色に至るグラデーションに染まり、ぽつぽつと点灯し出した街灯やランタンが白の石畳を照らし出し、その光を暗くなった水面が控えめに反射する様は幻想的の一言に尽きる。

 三人が居住することになる家屋はそんなに遠くない場所にあるのだが、アーシャと詩乃が専用ゴンドラであることをいいことに道草しまくった結果、あっという間に時間が過ぎ去ってこの有様である。停泊している屋台船を覗き込んだり、気になる店があれば桟橋にゴンドラを停留させて立ち寄ったりと、端的に言ってやりたい放題であった。それでもアリスは嫌な顔一つせず質問されたことやそれ以外に至るまで懇切丁寧に説明し、プロ意識を見せた。

 そういった経緯でゴンドラはようやく居住区まで到達し、一見地味だが趣のある狭くなった水路を慎重に、だがのろのろではないスピードで進んでいく。家路を急ぐ子供達や夕暮れの景色を堪能するように散歩する老夫婦が散見され、家居の台所からは夕餉の香りや音が漏れ、暖色の光が水面を照らし出す。時折別のゴンドラとすれ違うも、アリスは危なげない操船で事故をすることもなく無事に目的地の岸壁へと横付けした。

「こちらがお三方の住居となります」

「わあ……、綺麗です……」

「こんな良い場所を提供してくれるなんてグラス提督は太っ腹ね」

 三人が居住するのは小型の美しい造形をした二階建てであり、先にゴンドラから降りたアーシャと詩乃はまじまじと眺めた後に、アリスに礼を言う。するとアリスがぺこりと一礼して連絡先を記入した紙を手渡す場面を間近にし、桜はそういえば他の島に電波塔が立っていたと思い出しつつ船を降りた。

「お部屋の方で何か不都合があればそちらの番号にお掛け下さいませ。すぐに係の者を向かわせます、それではまた後日」

「またよろしくですアリスちゃん」

 例の異常に上手い愛想笑いをする詩乃に答えるように、アリスも無垢さの混じる笑みを返した。そして長い櫂を小さな手でひと漕ぎしようとするアリスの背中に、ふと桜が声を投げかける。

「シナリー、君は華奢な割にゴンドラの操船が上手いな。加えて数時間漕いだというのに然程の疲れも見せない、流石はプロフェッショナルと言ったところだ」

 これには女性陣も驚きに見舞われたようで、アーシャを除いて当惑の表情を浮かべる。それもその筈、会ってから一度もにこりともしない朴念仁ぷりを発揮していた桜が脈絡もなく称賛を送ったのだから宜なるかな、である。困惑と慈しみの視線を一身に受ける桜は何ら表情を変えずに、淡々と言う。

「感想を述べたまでだ、他意はない」

「はぁ……、有難うございます。これでも鍛えていますから……。それでは失礼します」

 釈然としない様子ながらも一礼したアリスは今度こそ櫂を漕ぎ、岸壁から離れて水面を滑っていくゴンドラを三人は見守った。その小さな背中を街角で曲がってから隣の詩乃が幽霊でも見るかのような目でこちらに視線を注ぐ。

「何ですか急に。普通に気持ち悪いのですけど」

 気味悪そうに顔を引き攣らせる詩乃に向き直り、桜は仏頂面で返す。

「理由は説明した筈。……では愚生はこれから付近一帯の哨戒に当たる」

「ちょ、ちょっと待って。昨日も言ったけど桜ちゃんはもう兵器じゃないわ。もう任務や訓練に縛られることもないし、それに……もう夕ご飯の時間よ」

 言うが早いか、この場を後にしようとする桜を珍しく慌てた様子のアーシャが引き止めた。街灯に照らされた美貌には憂いが浮かび、慰留する声色も諫めるような色合いが濃い。

 しかし桜は一顧だにしない。

「我らは既に三大勢力から敵視される存在であり、いくら追跡されなかったとは言えこのヴェニスに敵の伏兵、或いは軍に内通者がいるとも限らん。仮に襲撃に遭った際、街区の地形や構造を把握しているとしていないとでは雲泥の差である。愚生は単独での戦闘力はあるが、君達は非戦闘員であろう。グリンフィールドに関しても生身での対人戦闘経験はそれ程ない筈だ、違うか」

「……認めるのは癪ですが……」

 忸怩たる思いを抑圧するかのように唇を噛む詩乃を一瞥し、それからアーシャに視線を戻す。

「如何に黒騎士と言えど、敵からの刺客を撃退するほどの力量を生身で持ち合わせてはいまい。……愚生は兵器だ、例え銃火器で武装した兵士が一個中隊で攻めてこようと撃破し得るほどの戦力を保有している。故に敵が来襲してこようと君達を戦域から離脱させることなど造作もなく、そして効率良く迎撃を行うためには矢張り下見は必須だ。それと血糖値は最適に保たれている。……愚生は《桜花》だ、基本的に経口摂取の必要はない。

 昨日も食事を半ば強要されただけで甚だ不本意ではあったのだ。

 行動の必要性を淡々と語る桜は早々にこの場を立ち去りたかった。それはつい先程の会話で看過できない仮定を立てたからで、もしそれが正鵠を射ているのならばと考えると居ても立ってもいられなくなったのだ。先程の一部始終を脳裏に閃かせる桜は、そこで虚を突かれて息を詰めた。

 何故なら目の前にある金髪に縁取られた顔貌が、途端に沈痛げに歪められたからだ。詩乃はそれに触発されたように瞠目すると、射殺せんばかりに睨みながら憤然と手を伸ばしてくる。動揺する桜はしかしそれでも即応し、素早く飛び退るとそのまま跳躍して建物のバルコニーに足を掛け、そこから一息に屋上に飛び乗る。

 目にも留まらぬ早業、だが翡翠の瞳は憤激を焚いて追い縋っていた。

「待ちなさい、桜・シリエジオ!!」

 迸る怒号を物ともせず、桜は踵を返すとそのまま屋根の上を次々と飛び移っていった。翻る裾が風圧を物語り、いっそう駆ける速度を上げる。たった数秒で詩乃の怒声が聞こえないところまで来たがそれでも足は止めない。疾走し続ける最中、桜は胸元を握り締めて苦悶の呻き声を漏らす。

 アーシャの顔を見た瞬間からずっと胸が痛い。理由が判明しないことが腹立たしく、殊更に桜を苛立たせる。

「何なんだ、一体……!」

 幾度と無く敵にぶつけられてきた常套句を自らに向けて吐き捨てた。感情らしいものの発露など最近では精々あの花壇の件くらいしかなかったが、その時よりも強い激情が心中に渦巻いている。こういう時は別の案件のことを思考すべきだ、と即決した。

 ――鍛えていますから、か。確証はないが留意すべきであるな。

 狼狽を塗り潰すために思考を続行する桜はそうして、数十秒間尚も駆け続けた。

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