空賊
泥沼から這い上がるように意識が覚醒した。
まず瞼の裏に光を感じ、次に微かに漂う薬剤めいた臭いと何とも例えようのない独特な匂いが鼻の粘膜を刺激する。全身を柔らかい何かが包んで温かくて心地よく、億劫げに片手を持ち上げると傷口があった腹部には包帯が巻かれていた。続いてシャリ、シャリと控えめで涼やかな音が耳に届き、鉄のように重い瞼を難儀しつつも持ち上げる。
焦点の定まらない視界にぼんやりと浮かび上がったのは鉛色の天井で、真上から少し離れた場所に真四角の穴が開いており、恐らくハッチが開けられているのだろう。何度か瞬きを繰り返すと周囲の情景が明確になっていく。目線を下げると白い敷布が被さっており、どうやら自分は布団に寝かされているようだと他人事のように思う。次に視線を巡らせてみれば壁際には簞笥やちゃぶ台が置かれて床には畳が敷き詰められ、視覚で得た要素から場所を推測する。
此処は生前の母親が好んだ和室と呼ばれる部屋だ、と思い至った桜はここに至りようやく直近に人の気配を察知した。寝起きとは言え真っ先に自分を治療した誰かの存在に気づけなかったことに忸怩たる思いを感じ、そこで唐突に鼓膜を声が揺らす。
「そのままの黒鮪を差し出してくるなんて品位の欠片もありません。第一、物で釣ろうという魂胆が浅ましいのです。一片の誠意も感じられません」
「あらあら、どうせなら鯛でもプレゼントしてくれたら良かったわね。そうじゃなくてもせっかくの貴重なお魚を頂かないなんて、もったいないわ……うふふ」
「……アーシャさん、寒いの禁止です」
「あらあら、禁止されちゃった」
聞き覚えのある声とゆったりした口調の声との掛け合いを見せる二人を、桜は首を傾けて眺めた。一人はセーラー服を着た小柄な少女で、お嬢様結びした豊かに流れる長髪は緑がかって見えるほどに深い黒艶である。もう一人はそこそこ長身の女性で、艶やかな金髪を長めの三つ編みにしてすらりとした背中に垂らし、薄闇の黒と日光の白を映していっそう際立つ。
桜の観察的な視線に気づいたか、ふと会話を切った二人が振り向く。少女――詩乃は驚いたように目を見張って口を半開きにし、女性は水底のように深く静かな碧の瞳を瞬かせ、やがて緩やかな曲線にするとぺこりと一礼した。
「目が覚めたのね、丸二日眠っていたのよ。救世主は詩乃ちゃんが撃破したからチヴェタン島は侵略されていないわ、だから安心して。どう? 気分は?」
間、
「……最悪だ。経口摂取不全における三十二時間レンジャー訓練完遂後よりも酷い」
事後報告に安堵することもない。生まれ育った島国ではあるが、境遇からして別段思い入れもなかった。
「そう、それは良かったわ。あと数分手当てが遅れていたら命の危険があったのよ……一応点滴は打っておいたけど、お腹空いているでしょ?」
歩み寄って膝を折り、差し出した盆に乗っているのは兎の形をした林檎である。上体を起こした桜はそれを一瞥すると、すぐに視線を転じて眦を鋭くする。
「何故愚生を助けた。目的は何だ、此処は何処だ、何を企んでいる?」
「瀕死のところを助けてもらったのに何なのですかその言い草は。感謝の一言くらい述べないとは失礼ですね」
詩乃の切れ上がった双眸から放射される刺々しい視線を一顧だにせず、桜は淡々と返す。
「愚生は貴女らに救助を要請した覚えはない。今回のことは愚生としても不本意であり、よって感謝する謂れはない」
「っ謂れって……!」
途端に柳眉を吊り上げて詰め寄ろうと一歩を踏み出す詩乃を細腕で制すのは女性で、無言でかぶりを振る。それに詩乃は非難を浴びせかけようと開きかけていた口を噤み、キッと桜を睨んだ。
「ふてぶてしい態度、失礼極まりないのです……! 詩乃は外の風に当たってきます」
小高い踏み台に乗ってハッチの縁に手をかけると、そのまま憤然と腕の力で乗り上げていった。荒々しくたなびく黒髪がハッチの外へと消えていったのを見届けた女性は少し困ったように微笑んだ。
「気を悪くしないでね、文句を言いつつもあなたのお世話をしてくれていたのよ。……え、と、自己紹介がまだだったわね。私はアーシャ・ウォルコット、元傭兵よ」
「愚生は桜・シリエジオだ」
そこで区切り、改めて詰問するような口調で言う。
「質問の回答を要求する。何故愚生を助けた?」
「目の前で重傷の兵士を見かけたら思わず助けてしまうもの、じゃ納得してくれないわよね?」
「無論だ」
アーシャは顎に指を添えて逡巡するような仕草をし、ややあって口を開く。
「……桜ちゃんを助けたのは私たちの目的を完遂するため、ってところなんだけど……どうかしら?」
「なるほど、理解した。つまり、戦闘であるな」
自分の有用性は戦闘のただ一点に尽きることを自覚している故、この回答には素直に納得できた。首肯で示す桜を前に、金色の長いストレートヘアを両側に垂らした容貌がまたも困ったように微笑った。
「ええ、そうなるわね。だから本当に良かった、このまま目を覚まさなかったらどうしようかと思っちゃったわ。本当に……良かった……」
安堵の吐息と共に流れた声は目的云々に関係なく、桜の身を案じていたという心境を如実に露呈させていて、それが桜にはむず痒かった。理由が判明せず、眉間に皺を寄せる桜はその感覚を拭うように二の句を継ぐ。
「して、此処は何処だ? 見たところ和室と判断するが」
その問いにアーシャは部屋を見回し、それから視線を落とすと掌で畳を優しく撫でる。
「私、子供の頃から和室に住んでみたいと思っていたのよ。大昔に存在していた瑞穂という国ではこの部屋が一般的とされていて、畳表の材料であるイ草の香りには癒やし効果が含まれているらしいわ」
目を伏せるアーシャの雰囲気はそれこそ瑞穂男児に理想と称されていた楚々としたもので、絵に描いたような撫子のそれだ。
「愚生も畳の香りは嫌いではない。……場所は解した、ならば現在地は何処だ?」
「ピタテン島の平原ど真ん中で翼を休めている最中ね。どう? 気分転換に水風に当たってきては?」
取り敢えず最優先事項の確認を終えた桜はそこでふと、差し出された掌に眉を上げた。訝しむ桜を見かねて、アーシャは一言付け加える。
「二日もまともに身体を動かしていないでしょ。男の子一人を支えるくらいなんてことないわ」
心なしか自慢げに胸を張るアーシャを見て、ここに至り桜は理解した。どうやら自身を気遣っての動作らしい。正面から優麗な相貌をまじまじと凝視し、淡々と告げる。
「この程度の昏倒期間など障害のうちにも入らん。故に補助は愚生には不要だ」
即座にばっと立ち上がり、間髪入れず跳躍すると一息にドックから飛び出す。「まあ……!」と面食らうアーシャを見向きもせずに硬質な音を鳴らして着地した桜は、視界に広がる光景に息を呑む。
四方にひたすら広がる水底の草原が一目を引く。彼方に見える山々の日向をちぎれ雲の影が通り過ぎ、若葉の山腹が日差しを浴びて自然の輝きを放っている。透明度の高い水底に広がる下草は時折ゆらりと揺蕩い、装甲の下半分を彩る深緑のラインまで浸かっているのは機械仕掛けのトビウオだ。自分が立つ場所はどうやら尾部のようだ。
涼やかな風が頬を撫で去る。清新な空気を吸い込み、鮮麗な光景に見惚れる桜の背後から不機嫌そうな声が飛ぶ。
「恩人の厚意は素直に受け取るのが礼儀と言うものです。そんなことも理解できないのですか」
腕組みしながらむくれる詩乃はフンと鼻を鳴らし、ツンとそっぽを向いた。続いて開け放たれた分厚いハッチからひょこっと顔を出したアーシャが二人を見比べて、鷹揚な笑みを浮かべる。
「私が余計なお節介を焼いちゃっただけだから、ね?」
「アーシャさんは甘ちゃんです。ひっじょーに不愉快ですけど、成り行き上とはいえトビウオ空賊団の一員となったのです。そこの人は詩乃たちの後輩になるのですから、然るべき時はちゃんと叱責しないといけません」
眉を顰めて言い募る詩乃を神妙な顔で見上げるアーシャは、片目を閉じて悪戯めいた微笑を唇に浮かべる。
「そういうやり方ができないこと、詩乃ちゃんは知ってるでしょ? それとも私の怒るところ見たいの?」
「別にそういうわけでは…………不本意ですけど今回は特別に不問にします」
不服そうに吐き捨ててこちらをじろりと睨む詩乃を気にも留めず、桜は再度アーシャに問い質す。
「状況は把握した。して、当該目標の戦力を把捉したい故、目的詳細の説明を求む」
「あらあら、せっかちさんね。いいわ、ついてきて」
如何な仕掛けか、収納された本を抜くと本棚が独りでに横滑りして露見したのは断面が十センチを超えるであろう、分厚い鉄扉だ。それをがっこん、と男手で押し開けた先には長い廊下が一直線に続いており、一行は天井に等間隔に設置された照明を頼りに進んでいく。歩を進めること数十秒、開けた場所に出た。
真っ白な照明の下には数多の機材や電子機器が所狭しと並べられ、計器類が仄かに発光している。床を這う無数の大小様々なコードは恰も巨大な生き物の血管のようで、それらは鉄塊と見紛うほど無骨で硬質そうな機材に繋がれている。正面には戦車砲の直撃をも凌げそうなほどの重厚な隔壁が聳えており、恐らく此処はドックなのだろう。
そして何よりも目を引いたのは並んで屹立する二機のガイアで、その威容は畏敬の念を抱いてしまうほどだ。
「今でもにわかに信じ難い。これは本当にガイアなのか?」
「正式名称はガイアレリック、人類に仇なす竜を滅亡させるために当時の技術を結集して製造した超高性能兵器の本体よ。この二機とトビウオこそが私達の保有する戦力で、トビウオの方は同時に整備場であり住居でもあるわ」
ガイアATは眼前の機体をモデルにして製造されたものだが、開発に着手したのは現代最先端科学力を有するパイレーツ・オブ・ジョーカーであり、チヴェタン島のATもその組織から輸入したものであるため、云わばオリジナルに当たるレリックを目にするのは軍属であった桜も先の戦闘が初見だったのだ。
「本体……? トビウオとレリックは相互作用の関係にあるということか?」
「この前の戦闘でそれを目の当たりにしたのではなかったのでしょうか? 所詮、あなたの目は節穴ですか」
蔑むように見つめる詩乃を、アーシャが「まあまあ」と宥める。
「この手の分野の話は専門家が説明したほうが分かりやすいわよね? ということで、コーさん。出てきてください~!」
おっとりした声音の呼び声がドック内に響き渡ると、壁際にこれでもかと山積したガラクタの中からぼこっと銀髪が飛び出した。髪に引っかかったパーツ類を意にも介さぬ様子で面を上げた童女は、まだあどけない相貌をたちまち破顔させた。
「おお、やっと若いのが目ぇ覚ましたのね。ガイアのことはスーパー専門家である木葉さんに任せなさい! ってあら~、詩乃ちゃん今日も可愛いわねぇ! はい、いつものようにおはようのチュウをお姉さんと――」
細々としたガラクタを押し退けて駆け出した木葉は猪突猛進とばかりに小さい身体を跳躍させて、両手を伸ばして詩乃に抱きつこうとする。突き出された唇を前にした詩乃は無表情で人形のような身体を抱き込むと、そのまま一回転して遠心力のままに投げ飛ばした。ヒュンと風を切って宙を直線軌道で飛ぶ木葉は元のガラクタ山に突っ込み、盛大な雪崩が引き起こされる。どんがらがしゃーん、と派手な崩壊音が室内に殷々と残響を引いた後、方々に散らばった部品に埋まった木葉が力なく片手だけを投げ出す。
口に手を当てて色めき立つアーシャは、続いて咎めるように詩乃を見やる。
「まあっ、大丈夫ですか木葉さん。駄目じゃない詩乃ちゃん、投げ飛ばしちゃ」
「あっちから突っ込んでくるのが悪いのです。詩乃は悪くありません」
ツンと顎を逸らす詩乃を一瞥するに留め、アーシャは駆け寄ると直ぐ様発掘を開始した。「ぷはっ」と吹いて脱出した木葉を直近にして、アーシャは眉を下げる。
「ごめんなさいね、コーさん。あれは照れ隠しだと思うから怒らないであげて」
「わかってるわよぉアーシャちゃん。そういうとこも可愛いわよねぇ、もう! 食べちゃいたいぐらい!」
まんざらでもない様子の木葉と共にアーシャが生暖かい視線を送り、当の詩乃は居心地悪そうに身を捩って眉を寄せる。
「勝手な勘違いはやめてください。それよりさっさとそこの人に説明してあげたらどうですか?」
詩乃は隣に立って腕組みしたまま無言を保っている桜をダシにし、話題を逸らす。
「それもそうね。ではコーさん、お願いします」
「合点承知よ、ではでは」
はだけた胸元を直して歩む木葉は直立するレリックの前で立ち止まり、講釈を垂れる。
「千はおろか万単位のマイクロアクチュエーター、ATの比じゃない超高感度のセンサーは全天候型、レリックの翅とトビウオの翼を用いた飛行は反重力と慣性制御装置、複合装甲は防護膜を常備した上で液鉄による自己再生機能付きよ。自分で言っておいてなんなんだけど、大昔の人間の科学力は常識外ね」
「一つ問う、液鉄とはあの銀色の流体のことで相違ないか?」
脳裏に渾身の突きを受け止めた銀光の画が閃く。
「そうよ。兆を超える数のナノマシンによって構成される特殊な流体金属で、その制御にはATの電脳が推定百個分は必要と言われているわ。けどトビウオが搭載するサブの四つの副脳の管制なら液鉄を装甲の形状に凝固させることができるの。人格を持たない副脳は最低限の自己防衛とレリックが纏う液鉄の制御補助を行うものとして機能し、レリックのメインとなる主脳の管制の元で一系として複数並列処理を行うわけ。要するに君達チヴェタンのATの総攻撃を耐え抜いた、というよりも損傷した瞬間から超高速で修復を開始したという表現が正しいわねん」
そこまで説明を聞き、その内容に引っかかりを覚えて桜は眉根を顰める。
「……先の戦闘を全て見ていたのか、貴女らは」
「元々詩乃たちの情報をパイレーツがウーラノスに横流しにしたのが事の発端なのです。彼らの諜報能力の高さを詩乃たちが失念していたところを突かれたのです。そうして詩乃たちは撒かれた餌に食いついたトビウオを撃墜せざるおえなくなったというわけです……まあ、詩乃たちにしても目的の一部を達成できたので徒労というわけではありませんでしたが」
虫の居所が悪そうな表情と声でそう補足した詩乃の言を聞き入れ、得心がいってふむ、と頷く。
パイレーツ・オブ・ジョーカー、傭兵に対する依頼の仲介及び傭兵を斡旋し、また各地の紛争状況の報道をする情報機関としての側面も担う組織である。だが本来は膨大な資源と資金を擁する科学技術の宝庫にして、海底に沈む旧時代の遺物を引き上げて研究・新開発する組織であり、翅付きの新型ATを三大勢力に提供している。
「類推するに、貴女らは三大勢力にとって警戒すべき存在であると判断するが如何に?」
最大戦力であるトビウオの投入こそが、彼女達の脅威度を示唆している。ウーラノスにとって先の戦は植民地開拓戦争を有利に進めるための行為であった筈だが、もしかすると自身らを脅かす彼女達を潰すことが本命であったのかもしれない。
「出る杭は打たれる、と言うわ。遅かれ早かれ、彼らと交戦するつもりでいた。三体いる救世主の一体、トビウオとレリックを撃破したから警戒どころか最優先の目標になったわね」
「これでやっとあたし達トビウオ空賊団が本格始動したってことねん。大願成就の日も近いわね…………アーシャちゃん」
目を伏せて感慨深げに呟く木葉を、目を細めて一瞥したアーシャはレリックの傍に歩み寄って鋼の脚部に触れる。こちらに背を向けているため、その表情を窺い知ることはできない。
「……これでやっとあの子のために私の全てを尽くすことができる。二年か…………本当に……長かったわ……」
掠れた声に含まれる感情が如何なるものなのか、桜には理解しかねた。そこでアーシャは振り返り、一本に編んだ太い金髪が動きに合わせてゆらりと揺れた。犯し難い凛とした表情を伴って碧く澄み渡った瞳が桜を見据える。
「私達トビウオ空賊団の目的は三大勢力によって狭まりつつある空の解放よ。そして島取り合戦の駒となった傭兵を在るべき姿に戻す、それが私達の計画」
不思議な静寂が場に降りた。真摯な視線を真に受けた桜は顎を撫で擦り、暫し思案に耽る。与えられた情報を脳内で整理し、問うべき事柄を選択した後に口を開く。
「――危険視される反動勢力、か。して、空賊という単語は何を意味する? 聞き慣れない言葉だ」
一般的に『海賊』とはパイレーツ・オブ・ジョーカーのことを指すが、文献によって知識を蓄えた桜でも『空賊』という名称は聞いたことがない。桜の素朴な疑問に対し、アーシャは大仰そうな口調で呟くように続ける。
「端的に言って国家に帰属しない戦力のことよ。国家、組織、思想、イデオロギーなどに囚われることなく軍事力を必要とする勢力に必要なだけ供給し、けどそれはあくまで行きかけの駄賃程度。空賊の理念は誰からの管理も、支配も、監視も受けずに体裁すらも気にせず、自由への闘争を続けること。そういう信念を胸に抱く者達を呼称する際に使われる単語よ」
「そんな大層な主義を掲げていたのですね、初耳です」
「んま、正直言ってあたしもそこら辺は全然興味ないけどね~。機械いじりし放題って話に乗っかっただけだしぃ」
神妙な顔つきの詩乃と冗談めかして言う木葉。それを受けてアーシャは「そこは乗ってくれてもいいじゃないっ」と唇を尖らせ、その会話を聞くともなしに聞く桜は仏頂面のまま思慮する。
ここに至り、いつの間にか入団させられていた組織から抜けるつもりもない。兵器にとって所属する組織の思想やら矜持は路傍の石にも満たぬ些事に過ぎず、従って興味関心を注ぐものではない。それでも、あらゆる存在からの不本意な干渉を跳ね除けるという理念は束縛された生活を送り続けた桜の琴線に触れたのだ。
「理解した。要約するに、愚生の遂行すべき任務は残存する救世主二体の撃破。間違いないか?」
「別に君一人で打倒してこいって言ってるわけじゃないわよ、というか他の二機がこの前のアレと同等だと思ったら痛い目見るどころじゃ済まないし。それを見越してこっちはレリック二機をこしらえてるんだからね」
見上げる木葉につられて視線を上向け、聳える偉軀に目を細める。
勇壮な姿形をしたレリックの装甲が纏う《緑》は、桜が今まで何にも見たことのない色だ。外見からは徹甲弾の直撃すら物ともしないような堅牢さが醸し出され、ATを遥かに超越する凄みを遺憾なく発露しているように見える。
対してもう片方のレリックはスマートなデザインをしており、緑の機体を戦車と例えるならばこちらは流線型の航空機といった趣である。シャープで強健なシルエットはどこか靭やかさや敏捷さを感じさせ、Vの字を後ろに傾けた形の頭部の前面は漆黒の鏡面じみたゴーグル的な見た目で、刃物のような面構えは猛禽の如き鋭さや狂暴さを連想させる。だが塗装は銀色のままで、これは単に未塗装であるからだろう。
「実戦投入されていない機体のようだな。これに愚生が搭乗するわけか」
「正解よん。塗装は君の趣味に任せるから要望があれば言ってね。まだ実装はしてないけど主な武器はレーザーライフルと信管ミサイルとプラズマブレード……なんだけど、ライフルとブレードに関しては出力調整がまだ不完全でね。だからあくまでこれは一撃必殺の兵装、誘導弾で敵の動きを封じて生まれた一瞬の隙を狙撃するかぶった切るか、これが当機の戦法になるわね」
「了解。して、愚生が前衛となり後衛を彼女が務めることになるわけだな?」
隣の詩乃を一瞥して発言する桜を前に、木葉はバツが悪そうな表情で言い淀む。
「いやー……元々は緑の方、カリーナって言うんだけどコイツの方が装甲や火器は優秀だからさ、敵の攻撃や注意を引きつける……云わば盾の役割を担って君が致命打を与えるっていうのがあたしの考案した戦術だったんだけど…………」
躊躇うような視線をちらり、と受ける詩乃は不機嫌も露わに顔を顰める。
「誰がこんな人の盾になるものですか、丁重にお断りさせて頂きます。――詩乃は、詩乃の意思に基いて、今ここにいます。成り行きでこの場にいるあなたとは違うのです……だから守るなんて以ての外です! 論外です!」
キッパリと言い切った返答の端から端に至るまで、拒絶の意が漲っていた。
レーザーでも照射しそうな眼光を桜は無表情で受け止め、闇色の両目で平然と見返す。呆れ顔の木葉と困り顔のアーシャが見守る中で不意に訪れたぴりぴりとした静寂が場を満たし、視線を交錯させる桜が合理的な言で応答しようとして、
ぐううぅううぅぅぅ。
えらく低い音が鳴り、虚を突かれた桜は黙考の後にそれが腹の鳴った音だと気付く。
目を瞬かせる桜の前で、詩乃が腹を押さえてぷるぷると震える。太陽が中点に差し掛かった時刻、つまり今は昼食時である。羞恥で耳まで真っ赤に染める詩乃は真剣な表情のまま踵を返すと、早口で言い放つ。
「お腹が空きました。詩乃は先に部屋に戻ります、それでは」
かつかつかつかっかっかっかっか。
物凄い速さで早歩きする詩乃の背中を三人は見送り、間の抜けた空気が流れる。
「……ふふ、締まらないとこも可愛らしいわよね詩乃ちゃんは。私もこれで失礼するわ、まだ気になることがあったらコーさんに訊いてね」
安らかな微笑を浮かべたアーシャは桜に向き直ってそう言い残すと、ゆっくりとした歩調で先の通路へ去っていった。ドッグに残された二人は見届けると、桜が口火を切る。
「操縦系統はATと同じく手動か?」
「いえ、思考制御よ。君がやっていたのと同じの、ね」
思わぬ返答に少々面食らう桜を見て、木葉はにやりと笑む。
「恐るべき情報収集能力だな。軍部の秘匿事項であった筈だが」
「ま、これも海賊ちゃんから買った情報だけどねぇ。あたし達はチヴェタン島のことを田舎島だと思ってたから、これにはさすがに驚いたわ。人体改造の技術なんて海賊かあとは精々三大勢力くらいしか実現できてないってのがあたし達の共通認識だったから尚更よ」
神経光学化による知覚直接伝達によって機体の追従性は手動のそれとは比較にならず、また緊急時における搭乗者の生存率を高めるため、或いは敵方の捕虜となった場合に自力で脱出できるようにするという二つの意味を兼ねた肉体改造手術、それが人型兵器・桜花の身体構造である。
レッド・パイル戦での初手の電撃的反応も、最後の一撃時の急速接近もこれらの恩恵の賜物である。
「無論、それまで幾多の失敗作を製作してきた上での完成形が愚生である」
夥しい数の屍の上に桜は立ち、今まで戦ってきたのだ。木葉の感心が滲む言を至極淡々と返す桜。
「つまり操縦原理に然程の差異はない、ということだな?」
「そうね。君が頭の中でイメージした情報を主脳を介して機体レベルで最適化、挙動の命令を各パーツへ伝達、君の思考でレリックが意のままに動くってわけ。まさに人馬一体、そしてレリックが擁する主脳はATのそれとは比べ物にならない。だからそんなのと神経接続する搭乗者には相応の適性が必要となるわけ」
思考制御のノウハウはある程度知っているため、木葉の淀みない解説に口を挟むこともない。だがここに至り、早急に確認すべし要項が出てきた。
「して、適性検査の結果は?」
適正値が高い方が機体の性能が向上するからだ。
「君が眠ってる間に済ましてたこともお見通しなわけね……一応結果は御の字だったんだけど、睡眠時での検査は時たま判定が正常じゃなかったりするわけで……」
木葉は頬をぽりぽりと搔いて言いにくそうに口を噤み、やがて告げる。
「その、詩乃ちゃんがねぇ、起きたら必ず再検査してくださいって譲らなくてね。悪いけどもう一回、頭に回線つけさせてくれる?」
「了解。……一つ、質問をしたい」
歯切れ良く返答し、そこで言葉を切った桜の脳裏を過ったのは嫌悪やある種の敵意を言動と表情から露骨に表現していた詩乃である。胸中に芽生えた疑問の種を迅速に摘み取るために問う。
「初対面時と現在、然程時間が空いているわけでもないだが妙に態度が変貌しているように見受けられる。愚生には何ら心当たりがないのだが……」
「妬いてんのよ、あれは」
即答に少々目を丸くし、それから視線で解説を求める。無言で促される木葉はふいっ、と天井を仰ぎ見てどこか陶然とした声を漏らす。
「――君の適正値はすこぶる高い。レリックとの適合審査をすればたぶん、いや確実に調整なしの一発で凄まじいシンクロ率を発揮する。今流す感じで言ったけどね、これには天性の素質が必要なの。ま、君があのワイルド・ギースの息子って知ったら合点がいったけど」
ちろり、と向けられた横目を桜は微動だにせず受け止める。
父親の名前だ。チヴェタン島では世紀の大罪人と罵られ、その名を口にすることはタブーとさえされていた。桜は知らぬところであったが、どうやら父親は傭兵として高い名声を獲得していたようだ。
「先天的適性者、そんな君と出会えたのは僥倖と言う他ないわ。君の生存ってのは、あたし達からすればカリーナの損傷を加味しても十分お釣りが来るほどなの。けどそれだけじゃなかった。満悦至極のあたしとアーシャちゃんはある事実に気づいたのよ」
一旦言葉を切る木葉は向き直ると、正面から銀の瞳が桜を見据える。
「レリックの主脳から送信される信号を情報として処理できる才能は、類稀なるものよ。けどそれはあくまで『レリック操縦者』としての才覚であって、『兵士』としての優秀さには直結しないの。自分の手足のように機体を制御できたところで、そこに卓越した戦闘技術が伴わければ意味がないわけ。そして君はその二つの肝要を既にほぼ会得している。兵士としての技能は君にとっては不本意に手に入れたものかもしれないけど、まさに理想の人材なのよ。…………詩乃ちゃんも十分稀少な操縦者であるのは間違いないわ、けど本人にとってはそれが気に入らないことなのよ」
訥々と語る木葉を前に桜は僅かに首を傾げる。
理解不能なわけではない。だが共感ができないのだ。そのような感情を内包した視線や言動や態度を受けた回数は数え上げるのも馬鹿らしいほどあるが、それらのことで一度でも気に病んだことはないし、自身がそんな感情を抱いたこともないからだ。
「そのような情緒は作戦行動に支障を来す可能性がある。よって彼女に忠告することを愚生は進言したいのだが、この場合は貴女らのどちらにすべきだろうか? 最上の効果が見込めるのに越したことはないのでな」
曲がりなりにも兵士である筈の詩乃の私情は、桜にとっては邪魔でしかなかった。故に桜は少々むすっとした顔で提案を訊いたのだ。だが率直に問われた木葉は目を白黒させると、一転して憮然とした表情を作る。
「はぁ~~、自分で忠言するっていう思考にはならないわけね。朴念仁ここに極まり、って感じ」
「愚生の任務は敵の撃破である。諌める行為は任務内容に入っていない」
「こりゃまた頑固ね君。詩乃ちゃんとタメ張れるくらいよ……アーシャちゃんが良いわね。あたし達のリーダーだし」
額に手を当ててため息を吐く木葉と、口をへの字に曲げる桜。
そこで天井付近に設置されたスピーカーが唐突にノイズを発し、遅れておっとりした声が響く。
「アーシャで~す。トビウオちゃんが哨戒から戻ってきたからこれより当機は離陸しま~す。搭乗員は速やかに席に座ってシートベルトの付け忘れがないか確認してね」
「席もなければシートベルトもありませんよ、アーシャさん。旅客機みたいなアナウンスをしないでください」
ほぼ同時に床が微かに揺れ、奇妙な浮遊感に襲われる。
鱗蟲・トビウオが静かに離陸したのだ。
✥
高度が低い気がする。
そう思ったのは離陸から数十分経過してからだった。航空機が低く飛ぶ理由は敵方のレーダーから逃れるといった目的があるが、現高度は人工物の索敵とは比較にならない精度のソレに引っかかる恐れがあるため、桜は疑念も露わに眉根を寄せる。
「あー、大丈夫大丈夫。トビウオのステルスはそんじゃそこらのとは性能が別格だから、蛟竜に見つかるかもってのは杞憂ってもんよ」
ちらり、と視線を寄越した木葉がひらひらと手を振って言う。
竜撃大戦と呼称される人類対竜との戦争の嚆矢、ゾディアックというコードネームを持った十二匹の蛟竜の中でも人馬宮は人工衛星すら撃墜せしめるほどの超高度な狙撃能力を持っていたらしいが、現代においては十二匹全ての死滅が既に確認されている。だがそれはあくまで化け物級の蛟竜が消えただけの話であり、通常の蛟竜による水撃の射程距離はおよそ五キロだ。
高高度を超音速で飛行する戦闘機や遷音速で飛ぶ旅客機ならいざ知らず、AT輸送用の回転翼機などは盲目である蛟竜の反射電磁波を活用した狙撃を撹乱するために加工した『ドラグナイト』を装甲素材に使用するのが常識と定義されて久しい。
「過去の恩恵、か。目を見張るものがあるな」
「まあね、高度を下げたのはさしずめ景色鑑賞のためでしょうね。詩乃ちゃんが海好きなのをトビウオは学習してるってわけ。君、チヴェタン島から出たことないから知らないだろうと思うけど、海上飛行からの景色はいいものよ」
言外に外に出てみれば、という意味を含ませる物言いに桜は首肯で同意を示す。
「貴女は行かないのか?」
「あたしは基本夜型だからね、まだ眠いから二度寝するわ。あと、木葉でいいわ。そんじゃあね」
「了解、木葉」
ふぁ、と大口を開けてあくびを漏らした木葉は、そう言い残すと崩れたガラクタ山の裏手に回って寝袋の中に収まった。すぐに寝息を立て始めた木葉から視線を切り、桜は黙々と元来た道を戻っていったのだった。
✥
案の定、トビウオは低速低空滑空のまま南東に進路を取っていた。一息にハッチの外へ出た桜は四方八方を彩る『青』を目の当たりにして瞠目し、絶句する。
何処まで見通しても二色の青しか存在しない世界、全方位を水平線に囲まれた茫洋たる風景が広がっている。昼下がりの青空には入道雲が聳え立ち、大海にはアクリルのように透過したさざ波が走り、日差しを返して煌めく洋上の一点にぷっかりと浮かぶ影を見つけ、桜を目を凝らす。
コウテイマンボウである。
平たい体を悠々と海面に横たえ、無表情に日光浴をするユーモラスな大魚だ。そのあまりに巨大な体の上で二匹のウミガメがのんびりと甲羅を干し、気持ち良さげにヒレを伸ばしている。
青い景観と自然界の共生を目にした桜の口から気の抜けた声が零れる。
「……コウテイマンボウ、初めて見た……」
写真のみでしか見たことのない魚を生で目撃する機会など、チヴェタン島にいれば一生訪れなかったであろう。
「コウテイマンボウなんてポピュラーな魚ですよ。あ、田舎者さんにとっては初見でしたか」
藍色の装甲面に立つ詩乃は意地の悪い表情を浮かべ、流し目にこちらを見やる。
田舎者、という単語が癪に触ったわけではなかったが桜はむ、と眉根を寄せた。
「貴女もチヴェタン島出身であろう。人のことは言えまい」
「詩乃は田舎者と違って外交部隊のエース、でしたから。実見経験も豊富なんですよ、あなたと違って」
田舎者とエース、の部分をやけに強調して返答する詩乃。言っていることは虚偽ではないので桜はぐうの音を出ず、むすっと押し黙る。詩乃は勝ち誇ったような表情を浮かべると、満足そうに風で靡く長髪を搔き上げた。二人の会話を見守っていたアーシャは面白がるようにふふ、と微笑して桜に水を向ける。
「コーさんへの質疑応答は終わったの、桜ちゃん?」
「無論だ。優先的に把握すべき情報は手に入れた。……一つ、具申したい」
「あら、何かしら?」
小首を捻ってきょとんとした表情を作ったアーシャを見て、それから詩乃を一瞥し、視線を戻して告げる。
「諸々の事情があることは察するが、愚生らが戦線に赴くのだ。二機で挑む以上連携は必須、よって余計な私情は即刻排除すべきであると判断する。故に貴女には彼女の独善的思考を矯正してほしい」
桜が二機目に搭乗する以上、アーシャは適性がない或いは低くて非戦闘員であることは明らかだ。それでもリーダーであるアーシャならば詩乃の傲慢さに対処できるだろう、と踏んだ桜であったが、当人の反応は芳しくない。
「矯正って言ってもね~、詩乃ちゃんの頑固さは一流だから。私じゃどうにもできないわね…………諦めてくれる?」
アーシャは頬に手を当てて困ったように笑う。
「その言い方だと詩乃がまるで手遅れわがまま娘みたいではありませんか。それと、チラ見しておいて聞き捨てならないことをずけずけと、直接物申せばいいものを…………あなた何様のつもりですか!?」
額に青筋を立てる詩乃が言い放ち、だが桜は微風でも受けたようにけろっとしている。
「それはこちらの台詞だ。君も兵士であるならば戦場に私意を持ち込むことが愚行であることは承知の筈。君の嫉妬で任務失敗にでもなればそれは由々しき事態であり、ひいては目的貫徹の妨げとなる。以上のことから君は分別を弁えるべきだ」
詩乃は唖然としたように半開きにした口を戦慄かせ、顔を真っ赤にして怒鳴る。
「っ……ぽ、ぽっと出がしゃしゃり出ないでください! 言っときますけどここでは詩乃があなたの先輩なのですよ! 口答えせずに、軍属なら上下関係を守ったらどうなのですか!」
「ほう、これは異なことを言う。確か空賊とはあらゆる者からの不当な干渉を受け付けない組織ではなかったのか? 命令などその最たるものであろう。それに愚生は今や軍属ではない、君も同じであろう。互いに軍を脱し、島から出立したのだ。何より上下関係云々を加味したとしても、君の論は非合理極まりない。対して愚生の言は合理的だ。都人、にはしゃしゃり出ないでもらいたい」
都人にアクセントをつけて反駁した桜は渾身のしたり顔でふんっ、と鼻で笑った。
至極真っ当な反論を浴びせられた詩乃はうう、と狼狽する。誰が見ても正論なのは桜の方であるのは明らかで、詩乃もそれを理解している筈であるから抗弁できないのだ。
桜は比較的に寡黙であるのだが、こと任務と母親関連に関しては途端に饒舌になる。任務を最優先に据える価値観を持つ桜にとって、こちらの意見を素直に聞き入れようとしない詩乃は疎ましくすらあった。だから口ごもる詩乃へ、ここぞとばかりに畳み掛ける。
「一目見た時、聡明な人に思えたのだがどうやら君の言う通り愚生の買い被りであったようだ。単刀直入に言う、君はまるで子供だ。それこそ戦場に迷い込む素人と言う他ない。その有様でよく今まで戦死しなかったものだな、むしろ感心する」
「んなっ!! さ、さすが節穴さんですね。言っときますけど別にあなたが戦わなくても、カリーナ一機で十分なのですよ」
憤然と腕を組み、声は平静を取り繕うとする詩乃であるがその顔は紅潮している。
「木葉の話では他の救世主は先のそれより比較にならんということだったが、それが正しければ君の今の発言は慢心と言わざるおえんな。目下、ザ・プルトニウムとレッド・パイルこそが最弱と評するに、君のカリーナの損傷はどうだろうか?」
ドッグで見たカリーナは中破寸前と言った見てくれであり、これでは先の二戦を戦い切れるかどうか疑問のところであった。
ぐぬぬと唇を噛む詩乃は視線を滑らせ、無言を貫くアリーシャに話を振る。
「アーシャさんも何か言ってやってください。『私が見込んだ逸材だからね』とかでもいいですから」
アーシャはというと、マイペースに空を仰いで雲を指差していた。
「見て、詩乃ちゃん桜ちゃん。あの入道雲何かに似てないかしら? わたあめ? それとも綿菓子? 美味しそうね~」
「どっちでも同じ意味ですし、そんなこと知ったこっちゃありません!」
暢気に微笑むアーシャに、目くじらを立てる詩乃がツッコむ。それでも依然としてニコニコするアーシャを前に重いため息を吐き、詩乃は再び桜へ尖る視線を放つ。
「おまけに君のカリーナは火力に秀でているようだが、それは反面弾薬費が嵩むということだ。トビウオの設備を見ても、そう容易く多用できる機体でもあるまい」
得意面の桜と痛い所を突かれてぐぎぎと歯を噛みしめる詩乃、両者とも視線を交錯させて一歩も譲る気配がない。互いに引込みがつかなくなっている双方を見かねたようにアーシャが仲裁に入る。どのような言葉を送れば円滑に事態が収拾するか思案するように頬に指を当てて、小首を捻るアーシャは妙案を思いついたか、あっと口を半開きにした。
「詩乃ちゃん」
「何ですかアーシャさん、やっと何か言う気になってくれましたか?」
桜と相対しつつ横目でそちらを見やる詩乃の視線を受けて、アーシャは嫋やかに微笑する。
「詩乃ちゃんの黒髪って、とても綺麗よね」
飛行による風で靡く長髪がさらさらと宙を流れ、推移していく風景を彩る。
「へっ? あ、はぁ。ありがとうございます」
突然何を言い出すのだ、と表情で物語りつつ気の抜けた声で返事をする詩乃と同じく、桜も怪訝に眉を寄せる。そんな二人の反応を気にした風もなく、アーシャは続ける。
「ハーフアップも良いわよね。艶やかさと気品を兼ね備えた髪型だわ」
「そ、そんなに褒めてもぜんぜん嬉しくなんてありませんから!」
詩乃は途端に色づいた頬を掌で隠しながら、くすぐったそうに華奢な身体をくねらせる。愛でるような視線を送るアーシャを見て、意図を悟った桜も便乗して称賛の言葉を告げる。
「神々が創りたもうた至上の造形美と言えるな。端的に言って流麗だ」
「気色悪い台詞をほざくな、です!」
「む、感想を述べたまでだ」
吐き捨てるように否定の意を放った詩乃は、瞬時に赤みの失せた顔を顰めた。頭を捻って考えついた台詞を罵倒で返され、けれど桜は正直な言葉を返した。
十年間に及ぶ監視・訓練・任務のサイクルをループする生活から解放された反動か、少々気が緩んでいるのかもしれないと自身を俯瞰的に見て思考する。
「あらあら、桜ちゃん。中々詩的な表現をするのね、素敵だわ」
「む、それほどではない。おだてて機嫌を取ろうと画策する貴女こそ策士と言えよう」
「アーシャでいいわ、桜ちゃん」
二つ返事で了解するだろうという語勢を、だが桜は頷くことはしなかった。あてが外れて不思議そうに首を傾げるアーシャに向き直り、桜は仏頂面で言う。
「その、なんだ。桜ちゃん、なる呼称は即刻やめてほしい。母さんからもらった大切な名である故、会って間もない人間が呼ぶことを愚生は許せない」
途端に神妙な顔つきでこちらを見つめる詩乃を不思議に思いつつ、じっとアーシャを見据える。当のアーシャは目を丸くして思案するように顎に指を添え、今度は逆の方に首を傾げる。
「あら? この呼び方気に入らなかったかしら。まあいいわ、あと二通り候補を考えているから。ねぇ桜ちゃん、お兄ちゃんっ、とサクランっ、とどっちが良いと思う?」
アーシャは無邪気な笑顔と共に幼女のような無垢で可憐な声色で候補を発声し、それに詩乃が思い切り吹き出す。こちらの話に耳を貸そうとしないマイペースさを前に、桜は常の無愛想な表情で応じる。
「貴女の方が年上の筈である、故に兄と呼称される謂れはない。後者は生理的に受け付けない」
明確な拒絶を受けたアーシャは、華奢な丸みを持った顎に細い指を添えたまま眉を寄せる。そうして暫しの黙考の後にはっ、と何かに気付いたように息を呑む。
「もしかして…………ボツにしたサクサクの方が好みだって言うの!?」
「擬音も拒絶する。姓で呼称すればよかろう」
驚愕の面持ちを伴って頓狂な声が上がり、桜はそれをばっさり切り捨てる。
「シリエジオ? それじゃ他人行儀みたいで私が嫌よ」
「…………」
何故、名前一つでこんな押し問答をしなければならないのだろうと思う。アーシャの言動は桜にとって不可解極まりなかった。こちらの要求も受け入れられず、次ぐ提案も却下される始末。ならば後に残された呼称はただ一つ。
「愚生の識別名は桜花、と言う。軍事運用を前提とされた兵器である愚生がこの場で求められるのは戦闘力以外何もなく、よってこの名こそが採用するに最も相応しいと推奨するが如何に?」
言い終わらないうちにアーシャが詰め寄り、そのあまりに滑らかな足運びを前に即応できずに漫然と立つ桜。そのまま胸倉をがっしと摑んで顔をぐいと寄せると、
「桜ちゃんはもう兵器じゃないわ、私達の仲間であり戦友よ。そして貴方は紛れも無い人間で私は戦闘力だけで貴方を求めたわけじゃない、目的に利用するためだけに助けたわけじゃないわ。桜ちゃんの素敵な心も含めて総合的に判断し、その上で仲間に引き入れたのよ」
互いの息遣いさえ聞こえる至近距離、アーシャが柳眉を吊り上げて海の如き碧い瞳に烈火を燃やしている。桜はまっすぐな視線に射られて息を呑み、それから自分でも驚くほどに掠れた声を漏らす。
「貴女は、愚生の何を知っているというのだ……? 愚生の有用性は戦闘力にしかない筈である…………」
直近のアーシャは僅かに視線を和らげ、諭すような語調で返す。
「それは思い込みよ。それと、貴方がお花を愛でることのできる優しい人だということを知っているわ。そうでしょ、詩乃ちゃん?」
ふっ、と呆気無く手を離したアーシャが視線を転じ、その先に佇む詩乃は唖然とした表情ながらも応答する。
「あ、は、はい。……花に話しかけるような痛い人ですから」
そこでアーシャは真剣な顔を綻ばせ、嫋やかな微笑を見せる。
「あらあら、詩乃ちゃん上手いわね」
ぽかんと口を開けて呆然とする詩乃は思案顔を作り、暫し黙考。すると途端に頬に朱が差す。
「ふぇ? …………いえ違います! 違いますから! 今のはその、狙って言ったわけじゃ!」
ぶんぶんと手を振って狼狽する詩乃を、アーシャは温かい目で見つめる。
「いいのよ詩乃ちゃん。恥ずかしいのも最初のうちだけよ、慣れたらすらすら言えるようになるから、ね?」
「そんなのに慣れたくありません!」
言葉の勢いそのままに踵を返してハッチへ歩き出す詩乃の後を、アーシャが鷹揚な笑みを浮かべながら続く。完全に取り残された桜は暫くその場に立ち尽くし、不審に思ったようにアーシャが振り返って叫ぶ。
「桜ちゃん! もうお昼だからご飯にしましょう。拒否しても私が必ず食べさすからね! なんならあーんっ、ってしてあげようかしら」
「えっ!? そ、そんな羨ま……ではなくて、いくら病み上がりでも甘やかしすぎですアーシャさん! そこの人には木葉さんの爪の垢でも煎じて飲ませればいいのですよ」
燦々と陽光が降り注ぐ青空の下、飛行するトビウオの上でぎゃあすかぎゃあすか喚く詩乃の小言を、笑顔で躱すアーシャ。そんな二人を少し離れた場所から眺める桜は妙な心持ちのまま呟く。
「空賊の女は揃いも揃って曲者のようだな」




