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出会い

『複数の敵機を捕捉』

 少年の腹の底に落ちるような重い声が、絶海の孤島チヴェタンの天井に張り詰めた静寂を破る。

 雲一つない蒼天と燦々と輝く白い太陽の下、装甲機動兵器・ガイアATに搭載された電脳が戦闘演算を開始する。燃料電池を動力源とし、内蔵されたジェネレーターの出力と稼働温度が上昇していき、それに呼応して蒸気タービンが甲高い音を立て始める。

 それに合わせて僚機のAT二機も起動し、それに伴う耳を聾する高周波な大音響が空気を帯電させたかのように鳴動させる。そして銀灰色の三機が慣れた所作で大型ライフルを構える。

 直径十キロメートルの城壁都市であるチヴェタンの天井は吹き抜けではなく、特殊な繊維で編み込まれた強靭な鋼線の束が采の目状に張り巡らされ、その上に立つ三機とは別に露天懸架された紅蓮のAT群が輸送用の大型ヘリから投下された。

 銀灰の三機と紅蓮の六機がおよそ五キロの距離を隔てて相対し、睨み合う。

 一陣の潮風が吹き抜け、カモメの群れが鳴き声を上げて上空を飛翔していった。

 開戦の火蓋が切って落とされた。

 奇しくも初動はほぼ同時だった。紅蓮AT群が二手に分かれて散開し、ブースターを点火させて凄まじい速度で交錯を繰り返しながら間合いを詰める。対して銀灰AT群は二機が推力偏向ノズルによるブースト移動の周回軌道で加速しながら側面からの攻撃を狙い、残る一機は小細工なしの正面会敵で突っ込んだ。ブースターの爆音が轟いて、銀灰の装甲の上を炙るような陽光が鋭く滑る。

 ブースターによる二次元機動は複雑怪奇でありながら、両脚による走行とは桁違いの凄まじい高速機動を可能とし、強烈な加速を与えられる機体が空気を裂く。

 互いに射程圏内に突入したことにより、ライフルが火を噴く。直後、戦場が銃口炎と砲声と硝煙に埋め尽くされ、瀑布のような弾雨で全てのATの装甲に線状の擦過傷が無数に刻まれる。

 だが、それらはさしてATの戦闘機動に支障を来すものではない。

『排除、開始』

 少年の無機質な声音が広域通信波に乗って殷々と響き、紅蓮ATによる交錯しながらの牽制射撃による弾幕を突っ切った銀灰ATがライフルの発射機構を切り替える。そして転倒ぎりぎりの前傾姿勢を保ちながら小刻みな蛇行を繰り返しつつ、地を這うように突撃して致命打を搔い潜り、発射。

 放物線を描いて射出されたのは投擲弾、数瞬後に濃密な煙幕が展開された。それから刹那後に少年の一手を読んだ残りの二機が、同様にグレネードランチャーで発射して一時的に敵の視界を奪う。

 激しい交錯機動を繰り返していた敵機の動きが撹乱で鈍り、次の一手に迷う素振りを見せる。

 致命的な隙だった。

 銀灰の三機が荒れ狂う風圧を纏って躍動し、莫大な力を溜めた二脚が鋼線の地を噛み、爆発的な踏み込みで跳躍した。ブースターの加速力も加味したそれは弾道弾が天を衝くが如し、無骨なシルエットの頭部に弧を描いてずらりと並ぶアイセンサーが獰猛な光を宿す。

 ブースターによる跳躍はあれど、基本的に陸戦兵器であるガイア・ATの装甲の比率は戦車を真似たものであり、コアユニットを内蔵する胴体正面が最も分厚い。逆に最も薄いのは関節部分でその次は背部や上部、普段は狙われにくい箇所だ。詰まるところ、トップアタックは火力不足を補う典型的な戦術であり、それ故に効果的である。

 濃い煙幕を切り裂いて降下する三機の砲撃により、紅蓮ATの頭部が消し飛ぶ。銀灰のATは着地後、敵機の胸部目掛けて連射して完全沈黙を確認することなくブースターを点火させ、俊敏な動作で即座に離脱する。

 その数を一気に半分にまで減少させた紅蓮AT群は斃された仲間の仇とばかりに連射、唸る砲身から砲弾が惜しげも無く撒き散らされた。銀灰ATの退避軌道を弾着の衝撃が続け様に辿り、それを目前にした三機は弾かれたように旋転して後方へ蛇行しながら更に距離を取る。その間少なからず弾丸が喰らい付くが、前面装甲に薄く張られた防御膜によって精々装甲を歪ませるくらいで機能停止へ追いやるには至らない。

 たったの数秒で戦況が一変し、多勢に無勢であった敵のアドバンテージが失くなった。だがそれでもライフルを油断なく構える銀灰の三機は、次の瞬間に敵の変異を目撃する。

 全高五メートルの敵機の背部から、その倍以上の巨大な翼が大仰に展開したのだ。蒼く半透明なそれはもはや翼と言うより――翅だ。

『あれは……トビウオの翼か!? ガイアに実装したというのか……!?』

『ちッ、パイレーツ・オブ・ジョーカーが三大勢力に技術提供してんのは聞いたことがあるが。ふざけんなよ、機動力が違いすぎるぞオイ!』

 驚愕に染まる声と悪態をつく声を聞き届け、しかし少年は一切の狼狽も見せず、その夜色の双眸は動揺で泳ぐこともなく冷徹かつ冷静に敵機を見据える。

 如何な予備動作もなかった。紅蓮AT三機はほぼ無反動の誘導弾ミサイルの如く、爆発的な加速を持ってして彼我の距離を瞬時に消し飛ばした。少年が動きを認識した瞬間には、もう敵機は跳躍して上を取っていた。

 異常な機動だ。それでも銀灰ATは即応し、二機は最大出力でブースターを点火させて辛うじて真横に回避、直後に殺到したライフルの大口径弾がそれぞれの腕部を一本ずつ吹き飛ばす。飛散する無数の破片が陽光を鈍く反射し、煌めく。

 だがそれでも致命打を躱すことができた。反撃をすることなく、全速力で距離を取ることに専念する。的確な判断だった。

 しかし少年は違った。敵機からは百八〇度で標的を捉えることができ、およそ不完全な回避ほどしか叶わぬ至近と言える距離からの射撃を前にして、少年の駆るATは鳥肌が立つような動きを見せた。

 仰臥するように後方ブーストして、応射したのだ。

 至近距離で銃口炎が迸り、砲弾が虚空を穿つ。空対地。果たして、紅蓮ATの構えるライフルが粉々に破壊され、銀灰ATの頭部の右半分と胸部内蔵の電子装置を抉った。少年は応戦しながらも回避行動を取っていた、それが明暗を分けたのだ。

 互いに乱射した砲弾が雨あられと銀灰と紅蓮の装甲を喰い破り、胴体の至る所の装甲板を剥がす。やがて紅蓮ATが着地、その着地の瞬間こそがガイア・ATに共通する制御しようのない隙だ。

 それを少年は狙っていた。腕部に格納されたダガーを弧を描く腕の振り上げに合わせて高速で射出。赤熱化した刀身が紅蓮ATの腹部に食い込み、ジェネレーターを突き刺す。制御機構を破壊された紅蓮ATは物凄く緩慢な動作で糸の切れた操り人形のように崩れ落ちていき、その様を見届けることなく銀灰ATは斃れた敵機を跳び越して、ブースターで前進しながら半分になったアイカメラで残機を捉える。

『一機、撃墜。残存、二機』

 無機的な声色が電波に不気味な残響を引く。

 端的に言って底知れぬ怖さを感じさせる声に、二対二で交戦していた紅蓮ATが榴弾を発射して気を逸らしたうちに突撃を仕掛け、肩部の長方形のミサイルコンテナをがぱっ、と開いて躊躇なく発射。

 白煙の尾を引く誘導弾ミサイルが容赦ない殺意を内包して殺到し、正面からの弾幕に銀灰ATは即座に旋転してあろうことか背部を晒す。ブースター最大出力で加速し、がら空きの背中を幾多の誘導弾ミサイルが追撃する中、前方にいるのは今まさに倒れ伏そうとする先程の紅蓮ATだ。

 半壊したアイカメラが妖しく光り、背部にマウントされていた「鞘」からそれをずるりと抜き放つ。それは刃渡り四メートルほどのカタナ、もう片方の手のライフルを放り捨て、両手で鋼鉄の柄を握り締め――掬い上げるような半円軌道の斬撃で膝が折れかかった両の脚部を切断した。

 行きかけの駄賃とばかりに斬った機体の真横を素通りし、残骸となったそれに誘導弾ミサイルが殺到して、爆炎が丸ごと呑み込む。味方の攻撃で死ぬ搭乗者は最期に何を思ったのか、そんな感傷を抱くことなく少年は機体を跳躍させて空中で旋転し、肩部の対戦車用の機関砲を放つ。

 砲声と共に着弾し、紅蓮ATの腹部が滅茶苦茶に抉られて体勢が崩れた。

 一瞬の好機を見出し、ブースターの加速で急降下からの斬撃を見舞う。下降からの袈裟斬りが紅蓮ATを一刀両断した。標的を仕留めた銀灰の機体は鋼の床に派手な火花を散らしながら滑走し、ややあってカタナを振り切った姿勢のまま停止する。転瞬、一閃の衝撃で後方に吹き飛ばされた紅蓮ATが両手のライフルの弾薬による誘爆を起こし、爆発した。斜めに分断されたかつてATであったものが大気を灼く爆炎に晒され、残響を引く爆発音と大火を背後にした銀灰ATはぬらぬらと輝く。

『一機、撃破。残存、一機』

 機械的な語調は怖気を振るうほどに抑揚が全く乗っていない。

 これで戦況は三対一、勝敗の帰趨は既に明白すぎるほどに明白であった。


       

『畜生! 手前は一体なんなんだ!!』

 紅蓮AT内からの怒声が通信波に轟く。そして誘導弾ミサイルとライフル弾を乱射する。厚い弾幕が面として迫り、三機は散開して回避及び迎撃する。一機は両肩の円筒形ポッドから大量のフレアを発射して誘導弾ミサイルを撹乱し、少年の機体は後方ブーストで距離を取りながら放り捨てたライフルを回収してそのまま引き撃ちで相手を牽制し、一機は急加速しながら敵の背後に回りこんで斉射。

『糞がぁ!! ブースターがやられやがったかッ!!』

 吼える搭乗者に呼応するかのように紅蓮ATの動きが精彩さを欠き、その刹那を見逃さずに少年の機体が急速接近し――勢いを緩めることなく激突した。衝突し合った装甲が盛大に火花を散らし、甲高い金属音が天空に木霊する。押し切られた紅蓮ATは離脱もままならず鋼線の束の上を滑走し続け、その身がふっと宙に放り出された。戦場の端、城壁から脚部が離れた紅蓮ATの眼下には煌めく青い海原が茫漠と広がる。

『くおっ!!』

 空いた片手が懸命に虚空に伸ばされて、間一髪のところで城壁の縁を荒々しく摑む。そして紅蓮ATの命運を掌握するのは黙って睥睨する少年の銀灰ATである。

『待ってくれ! 降参だ!』

 銀灰ATはカタナを逆手に持ち替えて、一切の躊躇なく縁を摑む手を突き刺してそのまま縦に手首まで両断した。掌が千切れ、重力に従って紅蓮ATが風切り音と共に落下する。

『ハハハハ…………、冗談だろ、夢なら醒め――』

 六十メートル以上ある白亜の城壁中程にまで落下した機体が、唐突に海面を裂いて現れた銀色の竜が開いた巨大なあぎとに吸い込まれていった。機体を一呑みした竜は宙にアーチを描きながら頭から海面に着水し、それの衝撃で城壁に打ち付ける高波と水面の波紋が竜の捕食を示唆する痕跡となった。


       ⑨


『全機、撃滅。作戦終了、帰投する』

 カタナを納刀しながら少年は硬質な語気で淡々と作戦終了を告げて僚機に振り返ることもせず、にべもない態度でブースターを点火させて城壁から飛び降り、程よい高さに設けられたゲートに入っていった。



 呆気無い戦闘終了と少年の冷淡な態度に目を白黒させた彼らは、ややあって気の抜けた嘆息を零す。

『噂通りの腕と朴念仁っぷりだな。やはり血は争えないということか』

『なんて無茶な機動をしやがる。どれもこれも一歩間違えばお陀仏だぜ。まさに死をも恐れぬ兵器だなありゃ』

 姿勢の自由度の高さがブースト機動の利点ではあるが、それにしても無茶な機動であったのは歪めない。

 作戦行動時の感情の全く乗らない平坦な声と、躊躇なく敵を屠る冷血さ。僚機として作戦に参加した者達はそれらを揶揄し、声を揃えて口にする。

 あれはまるで氷で出来た機械のようだ、と。

 それが桜・シリエジオの邪称である。


       ⑨


 装甲機動兵器・ガイア、それが現行最強兵器の名である。旧世代の恩恵である《ガイアレリック》を海底から引き上げ、それを元に製造したガイアATは現代の技術水準の粋を結集した最高傑作の兵器と言えよう。

 ガンシップ並みの恐るべき破壊力と空爆の直撃にも耐える驚異的な装甲、かつヘリコプターを遥かに上回る途方も無い機動力及び運動性能を内包するガイアATは、射撃戦のみならず白兵戦も十二分に可能とする汎用機マルチロールである。

 特に装甲表面に張られた防護膜は徹甲弾や誘導弾ミサイルを直撃させねば破壊は困難であり、これは虹蛇の散布する特殊な粒子を安定的に還流させることで慣性抑止フィールドとも呼べる力場を形成し、故に対空機関砲の榴弾破片などでは十分な損害を与えることもままならない。

 竜の脅威度は海の支配者である蛟竜を最上位とし、その次に空の支配者である虹蛇を置き、この虹蛇を捕獲することで粒子散布技術の応用に成功したことがガイアATの優位性を確立したと言っても過言ではない。しかしながら電力の問題上その展開時間はおよそ十分と限定されており、必ずしも超兵器とは呼べない。

 高機動兵器に制限時間付きの超防御技術を纏い、単機で戦機を作り、短時間で最大の戦果を奪い取る決戦兵器というのが、ガイアATの立ち位置と定義される。

 無論、虹蛇の捕獲や粒子の技術応用に至るまでには血の滲む努力や途方も無い時間と決して無視できない犠牲があった。

 詰まるところ、ガイアATの戦車並みの防御力と高い機動性、三次元機動力と火力を武器に目標を強襲・攻撃・撃破するという運用コンセプトはまさに装甲化陸戦ガンシップの設計思想と言えよう。そしてそれを駆る者はアームドと呼称される。

 畢竟、ガイアATは孤高の超兵器ではなく、他兵器との共存で活きる一兵器であり、それを操るアームドは戦場を一変させるのではなく、戦況の一助をする存在である。故に如何なる戦況においても慢心や驕りは禁物なのだ。



 装甲機動兵器の成り立ちと優位性について端的に説明せよ、と教師から指名された桜は淡々と答え、教師が深く首肯したのと同時に電子音のチャイムが鳴り響いて授業が終了した。

 それから教室内に一気に弛緩した空気が流れてHRが始まるまでの間、三年E組は常と変わらない喧騒に包まれている。黙々と読書に勤しむ者、友人と談笑する者、眠りこける者、色々だ。

 猥雑の様相を呈す教室内も担任教諭がHRを始めればそれなりに落ち着き、やがてクラス委員長が号令をかけて全員が起立し礼、それが終われば再びの喧騒が訪れて教室から三々五々に生徒達が吐き出されていく。

 その行程を観察的な視点で傍観していた桜は鞄を持って席から立ち、淡々と教室を後にした。道中、様々な感情を孕んだ視線が詰襟を着込んだ桜に突き刺さり、それと併せて「死にたがりの分際で」「でしゃばりやがって」「狂人の忘れ形見如きが」「思い上がりやがって」など、悪意に満ちた陰口がこれ見よがしの陰険な表情を伴って耳に届くが、桜は一切構わない。全くブレない歩調で廊下を進んで階段を下り、やがて昇降口で靴に履き替えて外へ出る。

 夕方の春風が頬を撫で去り、しかし茜色の空には山吹色の夕日を見て取ることは叶わない。小高い丘の上にある《アームド育成訓練校》の玄関口で立ち止まった桜の視界を埋めるのは遥か遠方に無表情で聳え、その威容を人々に晒す高さ六十メートルの白亜の城壁である。チヴェタンに住む人々が蛟竜の襲来から自分達を守るために作り上げた防壁であり、だがそれが燃えるような夕陽の有り様を阻害する。

「致し方なし、か」

 不服げにため息を吐く桜の脳裏に思い起こされるのは、かつて遂行した迎撃任務での景色だ。戦闘後、何物にも視界を阻害されないチヴェタン島の天井から見たのは、鮮やかな朱と血のような赤と深い紫に彩られた果てしなく続く無限の空と遮蔽物のない水平線に溶けていく夕陽、そして尾を引く残照が海面を煌めかせる一幅の名画じみた絶景だ。

 自身の矮小さを思い知らされると同時に、雄大な自然の尊さを諭される光景である。

 数秒ほど過去に見た景色を頭の中に描いた後、桜は帰路に着こうと足早に玄関口を通過する生徒達の間を縫うように歩き出す。進行方向は正門ではなくその逆である校舎裏、滅多に人が寄り付かないそこには小規模な花壇があり、それを管理するのが美化委員である桜の仕事だ。

 基本的に任務に忠実であり、また任務以外の事柄に一切の興味関心を向けない桜にとってクラス内での役職もまた意識の埒外であったが、ことこの仕事に関しては一も二も無く快諾した。と言っても、はたから見れば快諾と言うより仏頂面の承諾であったが。

 まずは物置小屋からジョウロを入手してそれから水道で水を汲む、と脳内で段取りをおさらいする桜は常の仏頂面のまま黙々と歩を進めるのだった。


       ✥


「詩乃さん。ず、ずっと前からす、す、好きでした! オ、オレとつ、付き合ってください!」

「…………………………」

 特徴のなさが特徴と言えるほどの凡庸な風貌した男子生徒が勢いよく頭を下げて、突き出された両手に抱えているのは発砲スチロールの箱で、その中に収まっているのは銀と黒の光沢を纏う黒鮪そのものである。緊張と不安と重量でぶるぶると震える手を見つめて、詩乃は仄かに頬を引くつかせつつも思わずごくりと唾を飲み込む。

 その昔、この地球という水の惑星は海が七割を占め、残りの三割が『陸』という比率であったらしい。だが現代では九割以上を海が独占し、陸なんていう代物は存在せず、その事実を知った当初は詩乃自身も幼かった故に『陸』というのはきっと巨大魚であるコウテイマンボウが幾重にも密集している様子を形容した呼称なのだろうと思っていた。実際のところは島々が隔て無く繋がっているという表現が正しいということを、随分と後から知ったものだ。

 そして目の前にある鮮魚、これは島国では大変貴重かつ高級な食料となる。外界を海で囲われている故に漁などし放題であろうという短絡的な思考は、一度でも蛟竜の姿を拝めば瞬く間に消え去ってしまう。子供の蛟竜でも体長は五メートル以上あり、大きければ軽く三十メートルを超えてしまうのだから、そんなのが跋扈する海に出て魚を獲るなど自殺行為に等しい。そのため魚を食す方法は自然と島内で人工的に作った養殖場となるわけだが、まず海水などの維持費は莫大であるし、自然に生息する稚魚を捕ってきて成魚になるまで育てる方法も不可なため、自然と完全養殖となるのだがこれもまた成功させることは容易ではない。

 その魚の生態や卵が生まれる環境、稚魚が何を食べて育つのか等を熟知せねばならず、従って養魚の生存率は精々数パーセントと言ったところだ。

 これらの理由から新鮮な魚は半端ではない高級品であり、早々お目にかかれる物ではない。料理として振る舞われるのは精々セレブ御用達の社交場くらいなもので、庶民は一生かかっても食せないのはざらである。

 よって、一部の富裕層の間では異性への求婚などの際に花束ではなくこうして鮮魚を送ったりする。鮮魚を所有しているという事実が富裕層内での一つのステイタスとなるのだ。

 閑話休題。

 校舎裏に呼び出された時点である程度は察しがついていた詩乃であったが、それでもこれには不躾な視線を送らずにはいられない。

 それに詩乃、ときたものだ。精々顔を合わせたことがある程度の、ほぼ初対面である相手にいきなり名前で呼ばれてしまった。詩乃にとって両親からもらった名前というのはとても大切なもので、故に赤の他人に呼称されることは憤懣やるかたない思いが腹の底から湧き上がるほどの屈辱であった。

 それでも五年前から良家の令嬢として生活してきた詩乃は鋼の自制心を発揮することで何とか嫌悪感を呑み下してお得意の社交スマイル、所謂愛想笑いを浮かび上がらせながら定型句を口にする。

「ごめんなさい、有原さん。実は……私には既に心に決めた相手がいるのです」

「うぇ…………。ほ、ホントですか!? だ、誰ですか!」

 数秒ほど鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした有原は、硬直から一転して泡を食って詰め寄る。詩乃はさり気なく後退りつつ白く細い人差し指をピンと立てて、謎めいた微笑を唇に形作る。

「誰にだって、秘密の一つや二つはあるものです。詮索は無粋というものですよ」

「あ…………はぁ……」

 華麗な容姿をしている詩乃の微笑みに目を奪われたように、有原は惚けたような吐息を漏らした。

 今のところは計画通りであり、あとはそれとなくこの場をフェードアウトしていけば良いと脳裏で画策する詩乃は視界の奥に人影を認めた。木立の奥からまるで気を見計らったように姿を現したのは、身なりの整っていない如何にもガラの悪そうな外見の男子で、彼は歩み寄って来ると有原の背中を労うように叩いた。

「残念だったな有原、けどまあ漢は見せたんじゃねえか。んで詩乃ちゃんよ、ここで会ったのも何かの縁ってことでさ、一つだけ聞きてぇことがあんだけど」

「……お答えできる範囲でなら」

 馴れ馴れしい言動を前に思わず目尻を吊り上げそうになるのを懸命に堪え、平静な態度で応える。

「あんた、二年前にピタテン島から緊急要請された救援任務の唯一の生き残りなんだろう?」

「はい、まぁ…………」

 翡翠の瞳に一瞬だけ陰鬱で仄暗い影が横切り、詩乃は曖昧な返事をした。それに気付いた風もない男は興味本位といった体で続ける。

「そんで、その危機一髪ってとこに颯爽と現れたのが同類ガイア殺しの黒騎士なんだって? 噂は聞いたことあるぜ、なんでも傭兵同士の間じゃその名を聞いて震え上がらない奴はいねぇって話だし。けどよ、そんな凄腕の傭兵もポントスの救世主メシアに堕とされたんだろ?」

「……どうにも要領を得ないお話ですね。つまり、何を言いたいのですか?」

 仄かに炯々と輝き出す双眸に、やはり男は気付いた素振りも見せずに軽い口調で答えた。

「だからさ、何? 噂ってのは勝手に尾ひれつけて一人歩きするもんだよなって話。いや~、この俺サマが堕ちた黒騎士の代わりに救世主メシアを撃墜してやろうと思ってな。そんで後学のためにちっとばかし名ばかりの黒騎士サマとの戦闘についてご教授願おうと思ってさぁ」

 直後に爪先から頭の天辺まで憤激が貫き、気づけば男の右頬を平手で振り抜いていた。乾いた音が妙に大きく場に響き、空気が凍った。打たれた男は自分が何をされたのか理解できていないようで、有原も含めて表情を硬直させている。暫し時が止まったかのような静寂が流れ、程近い場所に立つ桜の木からひらひらと舞った花弁が男の尖り気味の短髪に乗り、それで我に返ったような男の怒号が沈黙を裂いた。

「――ッナニしとんじゃ手前!!」

「わ、ちょ、古希さん! と、取り敢えず抑えて!! し、詩乃さんもとにかく謝って!!」

 激昂のままに固めた拳を高く振りかぶろうとする古希を、有原が丁重かつ迅速に箱を下ろしてから必死の形相で抑える。先に手を出したのは詩乃であるため有原の言は正当極まりなく、しかし詩乃は瞳に頑なな意思を漲らせてそれを拒絶する。

「断固拒否します。その人は私の尊敬する人を侮辱しました、正直言って万死に値します。第一、初対面の相手を名指しする時点でそこの人はあまりに礼儀知らずで、それを今まで指摘せずに我慢していた私の身にもなってください」

「それは今関係ねぇだろうがッ!!」

「で、ですよねー」

 猛獣の如く暴れる古希を何とか羽交い締めする有原が頬を引くつかせてツッコむ。だが当の詩乃は胸の前で腕を組んでツンと顔を背ける始末、大人びた雰囲気を漂わせる外面が剥がれてしまえば、存外に幼稚な気質が発露してしまうのが詩乃という少女だった。

「おうおう、随分と手荒なマネしてくれやがったな。うちのに手ぇ出すっつーことがどういう意味か分かってンのか?」

 詩乃の稚拙な態度を前にし、存外に筋肉質な体型の有原に力づくで抑えられながら荒ぶる古希がそろそろ業を煮やす頃に野太い声が割って入った。桜の太い幹の裏からぬっと出てきたのは大柄の男子で、その動きに合わせるように灌木で構成される木立の間や周囲の茂み、そこらからハイエナの群れのように次々と男子が姿を見せた。

 詩乃は一気に険悪な空気が満ち出したのを察して瞬時に目を走らせ、相手の人数を把握し、数はこの集団のトップらしき男子も含めて五人。がっちりとした筋肉を纏う長身の男子は一直線な歩みを止めることなく目前に鎮座している花壇を意にも介さず踏みつける。植えられたチューリップの茎が陰惨な音を立てて折られ、男子は傲然と歩み寄ると三白眼を吊り上げて小柄な詩乃を伸し掛からんばかりに見下ろす。

「あんまりナメたことしてくれっと挽きミンチにすっぞ、オウ?」

「うはっ、裏谷さんの超絶メンチマジパネェっス!」

 詩乃の逃げ道を塞ぐような位置取りに落ち着いた、取り巻きのうちの一人が面白がるように声を上げた。それと同調するかのように古希も含めた他の三人もせせら笑い、有原は顔を青褪めてあわあわと口を戦慄かせる。

 裏谷と呼ばれた男の容姿は一際目立っている。開襟された詰襟から露わになる真っ赤なシャツに、ぞろりと太いズボン。赤っぽい金に染めた髪は剣山のように逆立ち、鋭利に細い眉と両耳のピアスで構築された容姿は剣呑の一言に尽きる。

 子供なら一発で泣き出すこと必至な眼光を前にして、詩乃は突き刺さるそれとは毛色の違う研ぎ澄まされた刃のような眼差しを放つ。だが内心で、彼らはきっと子分である有原の一世一代の告白をひっそりと見守るために身を潜めていたのだろう、さすれば意外にも面倒見の良い性格なのかもしれない、という推測があった。所謂、他人事のような思考である。

「リンチにでもするつもりですか。どちらにせよ、あまり意味があるとは思えませんが」

「それはやってみてからのお楽しみってやつだ。安心しろ、顔は殴らないでおいてやる」

 張り詰める空気が充満する校舎裏、凶暴性のある嘲笑を浮かべて大股の一歩で間を詰めようとするのを眼前にし、詩乃は浅く息を吐いて丹田に力を込めようとした。

「貴様等、花壇を踏むな」

 緊迫する雰囲気が今まさに暴発寸前となった時、静かな声が場にするりと滑り込んだ。無論皆の視線が声の主へと向けられ、そして一様に眉を顰める。

 踏み荒らされた花壇の傍、ジョウロを片手に立つ男子が仏頂面でこちらを睨めつけていた。

 そこそこの長身は詰襟を隙無く着込み、背筋は真っ直ぐに伸ばされて泰然とした印象を与える。大人しいスタイルの黒髪の下の両目は柔弱そうで、どこか女性的な線の細い輪郭も相まって如何にも頼りなさげな雰囲気を醸し出していた。しかし全身から発散される圧はこの距離を持ってしても思わず気圧されてしまいそうなほど凄みがあり、端的に言って戦場慣れした者特有の底の見えない恐ろしさを内包していた。

 場違いな台詞と共に登場した奇妙な闖入者を前にし、逡巡するように沈黙する男子達。彼は睥睨し、今度は明確な怒気を孕んだ声を発する。

「これが最終警告だ、花を踏むな。応じないのであれば、当方は貴様等を迎撃する」

 あくまで真面目に、何の衒いもない宣言に、沈黙していた男子が反応した。

「あぁ? ナニ言ってんだ、テメェはよ!」

 取り巻きの一人が声を張り上げるのに合わせてチューリップを盛大に踏み潰した。身の上故に護身術の鍛錬を怠らない詩乃は極めて動体視力が高く、だから目に焼きついた。無残に踏み散らされた花を認めて、彼が一瞬だけ鬼のような形相になったことを。

 転瞬、空気を揺るがす衝撃音が響き渡るのと同時に男の姿が搔き消え、舞い落ちる桜色の花弁が物凄い風圧に煽られて吹き飛ばされた。瞠目する詩乃が一度瞬きをした時にはもう、件の取り巻きが彼の手によって組み伏せられていた。

 驚愕に見舞われた詩乃の瞳に未だ投影されるのは男の挙動だ。苛烈な踏み込みから瞬時に取り巻きの懐に飛び込んだ彼は、そのまま抱き込むようにして体軀を投げ下ろし、うつ伏せにひっくり返ったところで左手首を摑み、肩口を膝で抑え込んだのだ。一連の流れはおよそ人間の身体機能が可能とするものではなく、体術の心得がある詩乃からすれば驚きは尚更のことだった。

 耳に痛いほどの静寂が訪れ、目を丸くする男子達の視線を一身に受ける彼は相変わらずの仏頂面のまま、伏臥しながら気絶している取り巻きを一瞥して静かに呟く。

「一人無力化。残存、五人」

 彼の脅威予測の範疇にどうやら有原は引っ掛からなかったようだ、とこれまた冷静に或いは暢気に思考する詩乃は何かがぷつんと切れる音を聞いた気がした。

「ナメんじゃねェぞ、狂人の忘れ形見風情がッ!! 潰すぞ!」

 顔を激怒で赤黒くさせつつ凶暴に唇を歪ませる裏谷の雄叫びに呼応されて、戦力外の有原を除く全員が男の方へ向き直る。そしてそれを見逃す詩乃ではなく、滑るような踏み込みで取り巻きの背後を取ると、靱やかな脚で股間を蹴り上げる。不意を突かれた上での弱点攻撃に悶絶し、崩れるように倒れ込む取り巻きに気付いて動揺が広がり、その度し難いほどの隙を彼も突いた。

 彼が旋風のように躍動する。

 半端ではない踏み込みの衝撃で足元の地面が沈み、土塊が跳ね上がる。再び彼の姿が霞み、あっという間に肉薄すると空気を唸らせる裏拳で顎を振り抜き、脳震盪を起こした取り巻きは糸の切れた人形のように崩れた。

「一人無力化。残存、三人」

「調子くれんてなよ、死にたがり野郎!」

 猪の如き猛進で突っ込む古希を冷たく一瞥し、引き絞られた拳をいとも容易く躱した彼は異常な速度の掌底を額に放ち、古希は白目を剝いて仰け反りながら地面に仰臥した。

 彼の総身から溢れ出る気迫に圧倒された男子達の気が逸れているのを認識しつつ、詩乃はまたも金的を決めながら彼の正体に思い至る。

 ――死にたがり、忘れ形見。あの人が桜・シリエジオですか。ワイルド・ギース、十五年前にチヴェタン島を震撼させた単独テロの実行犯である狂人、その血を継ぐ者。

「一人無力化。残存、一人」

 血塗られた記録を思い起こす詩乃の耳に、桜の平坦な声が届いた。


       ⑨


 遅い。

 水やりにきてみれば花壇を踏み荒らす不埒な輩と遭遇し、警告を聞き入れなかった故に交戦に入った。交戦、と言っても会敵から十秒もない。一人を投げ下ろし、一人を裏拳で沈め、一人を掌底によって意識を刈り取る。

「何なんだテメェは!!」

 聞き飽きたお馴染みの常套句を叫んだ裏谷との間合いを消し飛ばし、眉一つ動かさずに洗練されていない拳を最小限の動作で避け、畏怖で歪む顔を睨みつける。その夜色の瞳に人とも獣とも違う冷徹な凶気が宿り、V字にした二指を相手の眼窩に照準し、

 瞬間、視界の端に踏み折られた花が映る。チューリップ全般の花言葉は思いやり、それを教えてくれた相手を脳裏に想起させた桜の動きがぴたりと制止した。風圧で躍る前髪と翻る詰襟が急制動の余韻で音もなく揺れ、突き出された二指が眼球の数ミリ手前で据えられ、裏谷は瞬き一つすら危うい状態となる。

「思いやり、か」

 独りごちる桜は臨戦態勢を解き、そのままそそくさと裏谷の脇を通り過ぎるとしゃがみ込み、荒れた花壇の手入れを始めた。

「大丈夫か貴殿ら、待っていろ。直ちに愚生が復旧する」

 作業する桜によって場に拍子抜けしたような空気が流れ、唖然と瞬きを繰り返す詩乃は一つ嘆息してから静寂を小さく破る。

「引き上げることをお薦めしますが、如何でしょうか?」

「あ、じゃあ、お言葉に甘えて……」

 これまで身動ぎせず傍観していた有原が間の抜けた声で答え、気絶した者や悶絶する者を抱き起こし、それからややあって硬直を解いた裏谷が小さく舌打ちしつつも仲間を引き連れながら無言でこの場を後にした。


       ✥


「加勢して頂いてありがとうございます。私一人ではどうにもなりませんでしたから」

 終始無言で花壇の修繕に従事していた桜はふと声を掛けられ、相手を仰ぎ見る。

 烏羽色の艶やかで癖のないきめ細やかな長髪はハーフアップに纏められ、紺色のセーラー服と同色のスカートから伸びる黒のハイソックスに包まれた蹴りの鋭そうな脚が特徴的な外見である。黒髪に縁取られる顔立ちは小さな卵型で、額の両側に結わえた細い房がアクセントになっており、小ぶりな鼻と桜色の唇が華やかな彩りを添えている。

 そして何よりも目を引くのが少し切れ上がった深緑にも似た翡翠の瞳で、理知的な光を湛えるも、目元には仄かな幼さが残っている。

 落ち着いた物腰と淡いあどけなさを同居させた風貌は、端的に言って実年齢の読みづらさがあった。けれど、同校の先輩にあたる桜はあくまでも淡々と返答する。

「詩乃・S・グリンフィールド、十七歳。史上最年少で外交部隊に所属し、卓越した技能と実戦経験の豊富さから我が校の擁する寵児と目される。君ならばあの程度の烏合の衆、単独で鎮圧可能であったと推測するが」

「買いかぶり過ぎです、桜・シリエジオさん。あなたも史上最年少で防衛部隊に所属した才児と聞き及んでいます。ただ、ガイアの操縦技術のみならず、対人戦闘も相当の技量をお持ちなのは初見でしたけど」

 つむじ風のような荒事が収束した後だからか、詩乃の容貌は怜悧さを纏わせている。しかし同時に、その中に柔らかな肉感を内包させているような所謂、触れることすら禁忌と思うほどの高嶺の花じみた近づき難い高雅さを湛えていた。

 一言交わすとすぐに作業を再開した桜を見下ろす詩乃は、おもむろにちょこんと座ると見よう見まねで花壇の整理を始めた。

「ここ一帯の花壇は三年E組の美化委員である愚生の管轄である。よって君が支援をする必要性は皆無だ」

「私のせいでこのような有り様になってしまったのですから、手伝わせてください。それに二人でした方が効率的です」

 どこか頑なな語調で即答した詩乃はそのまま作業を続行し、至極合理的な返しをされた桜は押し黙る。そして真面目な横顔を暫し見つめ、それから一言付け加える。

「協力、感謝する」

「いえ、こちらこそ」

 二人はそれきり無言で作業に没頭し、葉擦れや風鳴りが静謐な校舎裏に響く。隣で手が汚れるのも厭わず黙々と作業する詩乃を見やり、桜は思案する。

 同世代の相手と私情で会話をするなど、果たして何年ぶりであっただろうか。 


 

「最低限の復旧作業は達成された。もうじき日が暮れる、君は帰宅するがいい」

 暮れゆく空の色彩の比率が逆転し、落陽の朱から夕闇に迫る月影の青に取って代わる。もはや薄暗くなった校舎裏で花壇の手入れを粗方済ませた桜は立ち上がって夕暮れの空を仰ぎつつ単調な声音で告げ、同じく腰を上げて伸びをしていた詩乃が「ん」と曖昧な首肯で同意を示す。

 それから二人は近辺にある水道で念入りに手を洗い、スコップ等の後片付けを済ませ、きっちりと作業を終了させた桜がいざ別れを告げようとした時、詩乃が唐突に口火を切った。

「……好きなんですね、お花。手入れの仕方がどこか優しかった様に見えました」

「ああ。…………母さんが好いていたのでな、その影響だ」

 生前の母親は花の世話をするのが趣味の一つで、幼少の頃の桜も一緒になってしているうちに感化され、嗜好するようになった。脈絡のない問いにも回答したことであるし、そこで会話を打ち切ろうと思ったのだが存外に舌が回った。

「――心の中を満たす水面が荒立った時、花を愛でてみなさい。きっと優しい気持ちになれるから。それが花の世話をする時の母さんの口癖だった」

 全てを包み込むような大らかな微笑と共に言い聞かせられた言葉であり、文字通り気が立っていた桜が彼らを見逃したのもそれが最大の理由だったりする。

 それまで淡々な口調を崩さなかった桜が急に抑揚豊かで喋ったからか、対面する詩乃は目を丸くした。それからまるで珍獣でも見るような目で眺められたので、桜は怪訝に眉を寄せつつすかさず問う。

「なんだその不躾な視線は? 愚生は何か可笑しな発言でもしたか?」

「あ、いえ。少しびっくりしてしまって…………そうですね、私は今とても優しい心持ちです。素敵なお言葉です、声色から察するにシリエジオさんはお母様のことが大好きなんですね」

 目元をふっと和らげて薄い微笑みを浮かべる詩乃の返事は、正鵠を射ていた。桜は母親の話をする時のみ、いつもより声風が柔らかくなる。完全に無自覚であり、実感もない。まるで心の裏側を言い当てられたような気がして、それとお世辞と言った風もなく母親のことを褒められたこともあり、何だか背中がむず痒いようなくすぐったいような気持ちになったので、どう対処していいか分からず眉根を顰めた。

 そんな内心を露知らず、詩乃はくるりと踵を返すと後ろ手にゆったりとした歩調で満開の桜の木の下まで歩み、それから半身だけを晒す姿勢で振り向く。

「穏やかな気持ちにさせて頂きましたので、私も素敵な言葉でお返しをします。――シリエジオさん。忘れることはできても、捨てることはできないものがあります。さて、何だと思いますか?」

「唐突だな、謎かけか?」

 詩乃の大人びた怜悧な横顔と宝石のように静謐な輝きを放つ瞳が、返答を促す。暫し黙考した桜であったが如何せん、妥当な回答をついぞ思いつかずに降参する。

「解せんな」

「難しいですよね、私もこの問いかけをされた時は上手い答えが思いつきませんでした。それでは正解を発表します」

 華奢な体軀が完全に向き直り、背中に流れる黒髪がその動きに合わせて残像のように揺れた。

「――それは思い出と夢、です」

 桃色の唇に謎めいた微笑が浮かぶ。

 一陣の風が吹き抜けた。

 その風によって揺れた梢から、桜の花弁が飛沫を散らすかのように宙を舞う。黄昏時の蒼然たる視界を埋め尽くすように無数の花びらが虚空を舞い踊り、その桜吹雪に抱かれる少女はあたかも桜の妖精のようだ。最上の絹糸のように繊麗な黒髪が清流の如く宙を流れ、片手で髪を押さえながら目を伏せるので長い睫毛が際立つ。

 数秒だけ顕現される奇跡のような景色を目の当たりにし、桜は時を忘れて見惚れた。

 やがて妖精や精霊を幻視してしまいそうな現実離れした光景が終わりを告げ、靡く長髪から優美な動作で腕を下ろす詩乃が穏やかな微笑みを浮かび上がらせ、柔い語調で呟く。

「師の言葉です。時の流れと共に風化していく思い出も泡沫の夢も、捨てたと思っていても案外心の引き出しにひっそりとしまってあるもの、なのだそうです。――さて、引き止めてしまってごめんなさい。夜道にお気をつけくださいませ、それではまた」

 両手に携えた鞄を膝の前で安定させつつぺこりと一礼して去っていく詩乃の背中を、漫然と立ち尽くす桜は無言で見送った。やがて何の気なしに空を振り仰ぐ。淡い藤色に染まる日暮れの空にはいよいよ星々が瞬き始め、少し肌寒い春風が前髪を揺らした。

「泡沫の夢、か」

 果たして自分の夢は何だったか、それはとうの昔に置き忘れてきたものだ。今の自分は学校という名の監獄で常に軍部の人間から監視され、この身体はもはや真人間と呼べるものではなく、人間という一個人ではなく一体の兵器として運用される身なのだ。

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