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旅立ち

 二匹のトビウオは瑞穂国の沖合、モノリシックの加護がある海域で浮かんでいた。

 潮風が鼻孔を刺激し、前髪を揺らす。白く輝く太陽は強い日差しを投げかけ、凪ぐ海原は穏やかに反射する。眼下の海面をイルカの群れが裂き、飛沫が上がってきらきらと煌めく。ぽっかりと浮かぶ入道雲がゆっくりと風に流されていき、その間を泳ぐように飛ぶ虹蛇の曲線な軌道に虹が描かれ、やがて泡沫のように消える。

 桜が終わりの見えない海を見たのは、決戦から五日後のことだった。

 最後の一撃を放った直後、意識を失った桜はそれから五日間夢のようなものを見ていた。一面の花畑に佇む母親が微笑みかける夢だった。桜は一歩踏み出そうとし、だが思い留まる。子供のように不思議そうな顔をする母親は、桜が黙ってかぶりを振るのを見ると深い安堵の表情を浮かべた。

 少しだけ驚いたことがあるとするなら、彼女の背後から駆け寄ってくる父親の姿だっただろうか。桜の決意の固さを知って年甲斐もなく泣くのを彼女が慰める光景は妙な心持ちであったが、嫌な感じではなかった。

 記憶の掘り起こす桜の思考は、そこで足音に中断された。

 隣に並んだ少女を一瞥し、口火を切る。

「礼を言う。助かった」

「それは何に対してですか? 詩乃には心当たりがあり過ぎてどれか判別しかねます」

「む……」

 意地の悪い顔でちろり、と横目で見られて押し黙る。思い返してみれば、詩乃には肉体的にも精神的にも助けられたことが幾多とある。それこそ感謝してもしきれないほどだ。

 意識不明になった桜は出血多量の瀕死だった、それで輸血が必要となったわけだが血液型が合致したのは詩乃一人だけだった。一人で可能な輸血量などたかが知れており、あまりに血が足りなかった。それでも何故、桜は一命を取り留めたのか。

 ぎゅ。

 またも物思いに耽る桜は手を握られ、意識を戻される。視線を落とせば、そこにあるのは蒼い結晶で形作られた左腕であり、陽光を透かして宝石のように輝く。

 意思のなせる技なのか、能力の行使で身体を蝕む結晶は結果的に桜の命は繋ぎ止め、それでもあの荒業を使用し続ければ砕死するのは確定事項である。それは理解しているが、先のことより今生きていることを喜ぶべきだとアーシャに諌められたのも昨日のことだ。

 詩乃は結晶の左手の甲を撫で、かちんと硬質な音が鳴る。見れば、詩乃の右手もまた蒼く光っている。詩乃もまた能力の代償を背負うことになるのは想定できたことではあるが、出会った頃ならいざ知らず今の桜にとっては看過できぬ問題であった。

 桜の視線に気付いた詩乃が向き直り、黒髪が靡く。翡翠の瞳がじっとこちらを凝視し、ふっと唇を綻ばせた。そしてちらり、と結晶の左と右を見比べた。

「詩乃たち、お揃いですね」

「…………」

 桜は基本的に表情の変化に乏しいが、ちょっとした眉の動きなどに感情が乗る。そして目ざとい者はそこから気分までも察し、見透かしたようなことを言う。だから気遣われたのだ。今の桜はそんな顔をしている。

 そしていつからだろうか、心の内を見透かす鋭さを疎ましいと思わなくったのは。

 桜は小さくかぶりを振る。否、この感情はきっと相手が特別だから生まれるのだろう。思索に没頭する桜はそこでふと、怪訝な顔つきをした詩乃に気付く。

「何ですか? 眉を顰めたと思えば急に頭を振って、正直言って不気味です」

 この憎まれ口に存外心がざわつくことが少なくなったのは、彼女に毒されてしまったからだろうか。そう思うとこの気持ちを伝えたいという願望が芽生え、けれどそれを口に出すことが憚られて暫し言葉を口の中で転がし、やっと躊躇うように言う。

「詩乃。君に一つ依頼がしたい」

「唐突ですね。さっきから何だか変ですよ? あ、恥ずかしいのはお断りしますので」

 間を空けて、一言。

「愚生のことは、名で呼んでほしい。愚生ばかり君を名指ししては不公平であろう」

「何でそういう話になるのですかっ? どこも不公平ではありませんよ、恥ずかしいのは無理だと言ったではありませんかっ」

「嫌……なのか?」

 予想以上の拒否ぶりに少々落胆し、その表情変化に詩乃は呻くように口を噤む。そして視線を彷徨わせ、唸り続けること数秒、やがておもむろに口を開く。

「……桜、さん」

 ちらり、と一瞥してはすぐに目を逸し五感を確かめるように呟いた。

「何だ」

「呼んでみただけです。呼べって言ったのはさ……そちらではありませんか!」

 詩乃は頬を染めながら怒声を放つ。それが羞恥を消すための言葉であると推測した桜は、気恥ずかしさで赤く染まる詩乃の顔を魅入られたように見つめた。

 すると詩乃が仰天したように目を見開き、訳がわからない桜は訝しむ。

「どうかしたか?」

「桜、さん。今笑いましたか!?」

「問われても愚生には答えられん」

 何故なら全く自覚がないからだ。

「あの……もう一回お願いできますかっ」

 眼の色を変えた詩乃がちら、と上目遣いで見つめる。対する桜は、きっぱりと拒否する。

「無理だ。愚生には自覚がない。それに笑い方など忘れてしまった、故にそう簡単でできるものではなく」

「なら詩乃が強制的に笑わせてあげますから。口角あげて、こう」

「むむ……」

 言い切る途中で業を煮やした詩乃が手を伸ばし、桜の顔をいじくり回す。詩乃の結晶化した右手はひんやりと冷たく、熱い日差しを浴びている桜はそれが妙に心地よくて棒立ちのまま為すがままとなる。

「あらあら、喧嘩するほど仲がいいって本当だったのね」

「あー! なんかこう、むず痒いやり取りよねぇ。お姉さん妬いちゃうな~」

「青春、ってやつだよね! 甘酸っぱいほうの!」

 三者三様の言葉が背後から投げかけられ、黒髪を翻した詩乃はさらに顔を赤らめる。

「ち、違います! 変な勘違いするな、です!!」

「体調が改善したようだなニヴェア」

「うん! おかげ様で絶好調であります! なんてね」

 色素の薄い髪は陽光を受けて金色に見え、山吹色の大きな瞳は元気そうに爛々と輝いている。低身長の木葉より少し高い背丈に流れる髪が敬礼に合わせて踊るように跳ね、無邪気な笑顔が桜には眩しく映った。

 だからこそ内心で思う。アーシャが信頼を裏切り、命を賭けるまでして助けたかった少女であると。ニヴェアを一目見た時にそう思うだけの印象を受けたのだ。

 そこで詩乃が話を逸らすように声を上げた。

「それで、これからどうするのですか?」

 目的は果たした。その後のことなど桜は考えもしていない、己を兵器だと言い聞かせていたあの頃からずっと桜にとって「その後」は未定のままで、だからこそ今目の前に広がる茫漠とした時間の流れに戸惑う。余りに不透明な未来へ踏み出すには相当の勇気が必要だった。

 足元が覚束ない思いが胸中に広がり、眉を寄せる桜。するとアーシャが隣に並び、それに木葉とニヴェアも続いて五人は横一列に揃う。

「前が見えないのは恐ろしいことよね。でも先に立つ不安も恐怖も、何か一つのきっかけで思い切って一歩踏み出せば案外なんてことなかったりするのよ」

 漠然としたその後、言い換えれば「この先」は未知の領域だ。踏み込むのが憚られるのは当然と言える。

「そうかもしれないが……」

「不安や恐怖もある一線を越えてしまえば興味になって、その向こうには不思議が待ってる。その摩訶不思議を私は素敵だと解釈しているわ」

 母親と同じ物の見方だ。桜は見る者の視点一つで世界は変わる、とも教えられた。やはりアーシャはどこか、母親に似ている。

 噛みしめるように言の葉を紡いだアーシャは一転、花が咲くような微笑を浮かべる。

「そうだわ、これからの目的は各々の夢を叶える、にしましょう」

「ま、目的の統一は重要よね」

「賛成賛成! わたし、スルメイカっていうの食べてみたい!」

「完全にアーシャさんの影響ですね。詩乃も興味はありますが」

「それじゃそれで決定ね。いざスルメイカ目指して出発よ」

 詩乃は恥ずかしそうに小さく、その他三人は意気揚々に「おー!」と空へ片手を突き上げた。

 死線を潜り抜けてきたトビウオ空賊団の次の目的が、よもやスルメイカとは思いもしなかった桜は拍子抜けして言葉が出ない。アーシャ一人でもこちらがずっこけそうなほど暢気だというのに、木葉とニヴェアも合わせて三人ではもはや無敵だ。とても桜と詩乃だけでは御しきれない。

 トビウオ空賊団の指針がこの三人の意気投合でこの先も決定されていくのかと思うと、可笑しく思った。だからだろうか、アーシャを除いた三人がこちらを見て驚いたような顔をする。

 その顔を見て思う。きっと自分は笑っているのかもしれない、と。

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