真実
三日後、嵐が過ぎて詩乃も体調が回復したのを機に二人はトビウオで北を目指した。木葉とアーシャとは未だ音信不通、行く宛のない二人が協議の結果に目的地としたのはパイレーツの拠点があるとされる瑞穂だった。瑞穂は木葉の故郷ということで過去に座標は教えられていた詩乃に従って、どこまでも果てしない大海原と蒼穹の狭間を滑空し続けること一日半、低空低速のトビウオの上に立つ二人は目視で島影を確認した。
「木葉さんは元々パイレーツ出なのです。何とか協力を仰げれば良いのですが」
丸一日でヴェニスATに翅を実装できたことから薄々そうではないか、と思っていた桜は頷く。必ずしもパイレーツの拠点があるという確証はなく、また木葉もいない状態でどこまでやれるか不安は尽きないが挫けている場合ではない。
真正面を見据える二人、だが桜はふと視線を転じて問いかける。
「あれは浮島か?」
「見れば分かるでしょ、です。別に珍しいものでもありませんよ」
「方向転換だ」
「どうしてですか?」
「何となく、だ」
何を言っているのだ、と顔に書いてある詩乃を一瞥し、桜は絹布のように撓んで揺れる海面に浮かぶ島を見つめる。
「きゅるるるる」
不思議な鳴き声を上げた蜃が伸ばす長く細い舌で顔をべろり、とされた桜は眉を顰める。
島に接近すると突如として現れた蜃は名の通り蜃気楼を起こす竜であり、一度神経加速を発動させれば全てがゆっくりと視えるようになると言われている。性格の方は比較的温厚であり、何より人懐っこいためこのように犬みたいな仕草をすることもあるのだ。
恐らくこの浮島に飼い主なる人物がいることは想像でき、上陸して歩み出そうとした桜はこうして歓迎を受けたのだった。隣の詩乃がくすくすと微笑っているのを見て、桜は密かに胸を撫で下ろす。まだアーシャの件は尾を引いているだろうが、それでも昨日からずっと表情がどこか暗かったので少しだけ安心した。
海水に溶けないプラスチックや漁網が積み重なった海の墓場こと浮島は、徒歩で五分もあれば一周できそうなほどの大きさだ。トビウオで接岸した後に微かに湿った木皮で滑らぬように歩き、そんな浮島の中央は僅かに膨らんでおり、そこに一軒の寂れたプレハブ小屋が建っていた。扉はなく、室内に潮風が吹き抜けて錆が酷く、外までカビの臭いが流れている。
「こんなところに本当に人が住んでいるのでしょうか?」
「入るぞ」
室内に入った二人を襲ったのはむせ返るような臭気であり、あまりの鼻孔の刺激さに直ぐ様隣の詩乃が鼻を摘む。窓際の机にうず高く積まれた本類に足の踏み場もないほど脱ぎ散らかした洋服や天井から吊るされたハンガープラント、封が切られて放置されたことで腐れた保存食など酷い有様だ。
その時、机の傍の三角椅子が忽然と跳ね上がって詩乃の肩も跳ね上がる。一瞬だけ桜の焦点がそちらに結ばれ、次の瞬間には天井が鉄片を撒き散らして崩れた。残骸の驟雨が降り注ぐ中を突っ切る人影は逆光で見えず、しかし肌に刺さる殺気は感じ取れた。流れるような動作で詰襟を脱ぎ捨て、明らかに初動が遅れた詩乃に頭から被せて破片から庇うように抱き留め、一歩飛び退る。直後まで二人がいた場所を手刀が裂き、風圧で床の埃を舞い上がらせた瞬間にはそこから鋭角に跳ね上がって桜の首を狙う。だがその時には既に桜も左の手刀を突き出し、ほぼ同時に両者の首筋に手刀の五指が据えられた。
最後のハンガーが床で跳ねる音が静寂に響き、黒と真鍮の双眸が至近距離でかち合う。
「何者だ?」
「そっちこそ可愛いボウヤね、ワタチの好みよん」
「……ちょ、前が見えませんっ。え? 男の人?」
詰襟から頭をひょっこり出した詩乃は怪訝顔で小首を捻る。長身の男は肌は日に焼けて浅黒く、岩石から削りだしたような強面に猪首、むくつけき男の筈なのだが目が痛くなるような厚化粧のせいで疑問符を浮かべざるを得ない。
「あら? そっちのお嬢ちゃんも中々じゃない? ちょっと味見しちゃっても、」
太い腕がずいと詩乃に伸びた直後、桜は影のように動いた。自然過ぎるほどに滑らかな重心移動で間合いを瞬き一回の間で取り、瞠目する男の手は空を搔いただけで終わる。
「……詩乃に触れるな。これ以上妙な動きをすれば防衛として貴様を迎撃する」
肩を抱かれる詩乃はぽけぇと目を丸くし、比べて男はきょとんとした後に呵々大笑した。
「面白いわねボウヤ。何? その娘はあんたの女?」
「ち、違います!」
「じゃ愛人?」
「更に遠のいたではありませんか!」
憤慨したように叫ぶ詩乃の傍らで黙考する桜はちらりと一瞥し、肩を摑む力を強めた。頬を仄かに紅潮させて小さく叫ぶ詩乃を一顧だにせず、あくまで真面目に言い放つ。
「愚生の大切な人だ。それ以上でも以下でもない」
「なっ……気色悪い台詞をほざくな、です!!」
「思ったことを述べたまでだ、否定される謂れはない」
それから口論を始める二人を眺めた男は腹を抱えて笑い、それから二人の脇を通り過ぎて外に出て、海面から顔を覗かせる蜃に手を振った。
「気に入ったわ。ついて来て、あんたらのアレを直してあ・げ・る」
海上で浮かぶトビウオ二機を指差した男は、振り向き様にウインクしたのだった。
男も乗せたトビウオは南東二百キロ離れた孤島に到着していた。九割は海に覆われた現代である以上、四方八方を見渡しても水平線が広がるばかりで海面は燦々と降り注ぐ陽光を反射する。桜達が辿り着いた島は廃墟の一言に尽き、倒壊したビルやついに限界を迎えた高架が崩落する音が響くほど静寂に沈んだ場所だった。トビウオは接岸することなく、眼下に灰色のコンクリートジャングルを据えて滑空し続け、やがて廃墟の中央部で着陸した。
「暑い、です」
靴音を鳴らして島の地面を踏んだ詩乃は炙るような日光を浴びて煩わしげに眉を顰め、先を行く男に桜は声を飛ばす。
「貴殿はやはりパイレーツか?」
「ご名答、さっきの彼処は私の遊び場。面白そうな男が来たら食っちゃおうかな、ってそのための浮島よ」
肩越しに笑む男に怖気を感じた桜は半歩後退る。
「ほんとに来た、久しぶり二人ともー!」
転がる瓦礫や倒壊したビルが重なる中にひっそりと口を開けた地下へ続く階段を駆け上がってきた少女は白衣をはためかせ、そのまま桜を素通りすると真っ先に詩乃へダイブし、
「再会のハグ!」
「お断りします」
例の如く遠心力でぶん投げられ、だが今度は男にキャッチされた木葉は悔しげに唇を噛む。
「不意を突けばイケると思ったのにぃ」
「元気そうだな木葉」
「やっぱり知り合いなのアンタ達? それなら話が早くて助かるわ」
飛び降りた木葉から視線を転じた男は二人を眺め回すと、芝居がかった調子で告げる。
「ようこそパイレーツ・オブ・ジョーカーへ。歓迎するわ、世界の未来を担う若人諸君」
「昔は工廠島として栄えた島だったんだけどね、今じゃただの廃墟。ま、あたし達みたいなアウトローが隠れるには打ってつけだけどさ」
男の仲間達がトレーラーで地上工廠まで運び、桜と詩乃がトビウオの自己防衛機能をカットし、レリックも含めたプロテクトを外してシステムを休眠状態にするとすぐに何本ものケーブルを繋いでラップトップ型PCに接続する。
「あちゃー、フィオーレは随分と派手にやられたもんねぇ。ま、主脳はそれほど傷ついてないみたいだからぎりぎりセーフってとこかしら。こりゃ面倒な仕事になるわよ、ギルバート」
銀髪を搔き上げて呻く木葉に話を振られた褐色のギルバートは逞しい顎を撫で擦り、長すぎる睫毛に縁取られた目を細める。
「ここの連中と設備なら何とかできるでしょ、それにあんたもいるんだし。修復が終わるまでは金髪のお嬢ちゃんも粘ってくれるわよん」
「ギルバート、と言ったな。情報通の海賊ならば事の顛末を少しは摑んでいるのではないか?」
桜は言外に情報提供の意を含んだ問いを投げるも、当人は意地悪い笑みを浮かべるばかりだ。
「タダではやんないわよん、ワタチも商売でやってんの。それに知ってどうするつもり?」
「アーシャを、止める」
それこそが桜の出した「答え」だった。少し前なら考えられないような発言に胡座をかく木葉は目を丸くし、ギルバートは真鍮の瞳で見下ろして桜の値踏みするような視線を送る。それを夜色の双眸は真っ向から受け止め、曲がらぬ目線を激突させた。ややあって瞼を下ろしたギルバートは途端に腹を抱えて大笑し、それに憤った様子で詰め寄ろうとする詩乃を桜は手で制する。
「そういう甘ったれた考え、さすがルドの息子ね。いいわよん、教えたげる」
そう言って胸ポケットから紙煙草を取り出したギルバートはマッチを擦って着火し、それを咥えて一服する。
「そのお嬢ちゃんはルドと同じ道を歩もうとしてんのよ」
「正確には強要されている、だけどね」
モニターと睨めっこしながら補足した木葉の言も聞き入れ、二人は眉を顰める。
「どういうことですか?」
「十五年前、ルドが何の意味もなくチヴェタンを襲ったわけがないと思ったワタチは海賊のネットワークで調べ上げ、そして真実を摑んだ。ポセイドンのことは知っているわよねん?」
それから聞かされた真実に桜はただ呆然と傾聴するしかなかった。
ワイルド・ギースはエレボスの実験道具にされかけたまだ赤ん坊だったニヴェアを救うために脅しを受け、チヴェタンを襲撃したこと。その後彼の傭兵仲間がニヴェアを保護するも数年後に強奪され、それから更に数年の月日を経てウーラノスから誘拐任務を受諾していたアーシャが多額の報酬を蹴り、十才だったニヴェアをエレボスから奪った。その出来事をきっかけに救世主全滅による三大勢力の弱体化を画策したアーシャはパイレーツから条件付きでレリックとトビウオ二機、それと木葉を引き抜いた。そして二年前のピタテン島で窮地に追いやられていた詩乃に可能性を見出して命からがらザ・ウランから守ったのだ。
「条件とは何だ?」
「パイレーツがサクランの情報を摑んだらあたし達の手で攫ってほしい、ってやつ。海賊ってのは表向きは三大勢力に武力を提供するキチガイ集団だから、そう大ぴらに君を手に入れるのは色々と不都合があったのよ」
「詩乃達の情報を横流しにしたのはシリエジオさんを燻り出すため、ですか? 下手をすれば死んでいました……!」
詩乃はぎろり、とギルバートを睨む。だが当人は「怖い怖い」と柳に風と受け流す。
「荒事のどさくさ紛れに掻っ攫う方が面倒な工作とかしなくて楽でしょん。三大勢力への技術面も含めた支援は全部一つの目的のための仕掛けなの。そう、ボウヤを見出すためのねん」
「愚生を……だと?」
真剣な表情で語るギルバートを見返し、桜は当惑混じりに問う。あまりにスケールが巨大な計画だ、自分にそれほどの価値があるとは到底思えなかった。
「ルドわね、ワタチの盟友だったのよん。よくガイア同士でぶつかり合ったこともあったし、酒を酌み交わしたのも一度や二度じゃない。それに嫁と息子がいるってことは話には聞いてたわ、けど居場所までは知らなかった。あの頃も今のご時世も、どんだけ親しい間柄でも戦に関わる者は重要な情報は決して漏らさないってのが暗黙の了解だったのよん。そうしないと簡単に今回の件みたいになるからね」
哀愁を滲ませた真鍮の瞳は床に視線を落とし、声音は寂しげだ。父のことを知る人間がまさか現代でもいるとは露知らず、桜は口の中で言うべき言葉を転がしてぽつりと、
「ワイルド・ギースは、どんな男だった?」
「陽気で暢気で酒豪な楽観主義者、諦めることを知らないような良い男だったわ。……あんたに会ったら渡したいもんがあったんだった」
首に下げたロケットペンダントをひょいと投げ、受け取った桜は中身を見る。あったのは一枚の写真であり、写っているのはだらしない笑みを浮かべる無精髭を生やした男性と嫋やかに微笑する女性、そして女の腕の中には禿頭の赤ん坊である。
「会う度に嫁の腹の中で赤ん坊が動いただの、生まれてからは目元が俺に似てるだのって、聞かされるこっちの身にもなってほしいわよん。あれは正真正銘の親バカだったわ」
「そうか…………」
桜は掠れた声を零してロケットを握る。妙な心持ちだった。今までずっと心のどこかで思っていたのだ、父親は自分と母親を果たして愛していたのか、と。己を兵器と思い込むことで母親の死による悲しみから精神を守ろうとしたように、父親のことも意識的に考えないようにしていた。
「シリエジオさん……」
隣の詩乃が厳しかった目元をふっと和らげて微笑む。こちらの心を見透かしたような視線を受けた桜も見返し、ゆっくりと頷く。
「や~ん、見つめ合っちゃって妬けるわね」
「若いって良いわよねん」
「そ、そんなじゃありませんから! 妙な勘違いをしないで下さい!」
二人の生暖かい視線を一身に受けた詩乃は頬に紅葉を散らして叫ぶ。桜は手の中のロケットを握り締め、芯の通った声で告げる。
「して、作戦はどうする?」