表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
94/97

プロット 三河・遠江への指示(Ver.1.1)

三河へ

 三河には、北西部の加茂郡から入る

 美濃、尾張と三河の境である加茂郡は信濃とも接しており、

 山を越えて侵入される恐れがあるため地形の確認も兼ねる。


 加茂郡は松平氏の発祥の地であり、

 他に土豪として三河鈴木氏と中条氏の所領である。

 今川の支配に長らく抵抗をしていたが、

 当時配下だった狸に攻めこまれ、今川の支配に屈したが、

 桶狭間の後に兵を入れ、矢作川以西は織田の領地とし、

 中条氏出身の中条家忠と佐久間一族に代官に任じている。


 市の婚姻につかった黄金の輿を再び用意し、

 松千代と徳を乗せ、まわりを謀臣ら狸の旧臣を配し、 

 前後を、織田家臣と三河衆で固め、

 矢作川に沿って東側山地の地形を、家忠や数正・謀臣に確認しながら、

 三河岡崎城に向けて南下していく。


 謀臣の身分はもともと鷹匠であって、山の中の地形を熟知していた。

 山地は三河の東端である設楽郡まで続いて広くはあるが、

 高い山はなく、山間には入植可能な地がいつもあるとのことであった。


三河国

 三河は足利幕府初代尊氏公の本拠地であり、

 分流の吉良氏、今川氏、細川氏、一色氏が出た地でもある。


 幕府成立後、守護には家宰の高氏の後に

 四職家の一色氏等が任じられてはいたが京に在住し、

 足利一族吉良氏が在地でもあり、将軍直轄地のごとくであった。

 もとからの被官達の多くが奉公衆に任じられ所領を与えられ、

 まとめるような勢力はなかった。


 籤引き将軍義教が一色氏の力を削ぐため、

 三河を取り上げ、阿波細川氏を守護としたが、

 幕府と関東公方との対立によって、奉公衆が反乱を起こし、

 在地土豪で伊勢家被官である松平氏と戸田氏が乱をおさめ、

 守護代格の西郷氏、牧野氏と山家三方衆と足利一族吉良氏らの勢力と、

 割拠して対立する状態となった。

 

 駿河今川が三菅家斯波氏の所領である遠江を奪い、

 尾張斯波氏は三河・西遠江の緒勢力を協力させて

 遠江奪還をはかり攻め込むが負けたため

 今川が三河への影響力を強める。


 今川の意を受け狸祖父の清康が台頭したが、 

 尾張に攻めみの際、父信秀の計略によって敗死したため、

 松平氏は分裂し狸の父広定は今川の庇護下に入った。


 父信秀と松平氏援軍今川との間で争いが続いていたが、

 今川は東三河吉田城を手にいれ松平を従属させてはいたが、

 山家三方衆や渥美郡の戸田氏、賀茂郡の鈴木氏・中条氏などの

 国衆土豪が抵抗を続け、今川の本家である吉良氏もあり、

 尾張へ大軍を送ることができずに、国境での小競り合いが続く。


 武田・北条との三国同盟の締結で、背後の心配がなくなったが、

 三河では国衆の反抗が続き、お歯黒は蹴鞠に家督を譲って、

 三河支配に専任し、尾張に侵攻できる体制をととのえた。

 

 大高城の救援のため大軍を侵攻させたが、

 俺が桶狭間に仕掛けた罠にどはまりして敗死し、

 今川軍は大崩れおこし、東三河吉田城まで逃げっていった。


 桶狭間の後、西三河を占領できたかもしれんが、

 今川の従属化にあった時に搾取され続け、

 民は貧苦を味わっており、

 織田に変わっても搾取される先が変わっただけと

 民意を得ることできない不安があったので、

 史実通りに狸に任すこととした。


 狸が独立して今川方であった三河国衆も降り、

 三河一揆のあと、戦場が吉田城に移ったことによって

 三河の民が平穏を甘受できる状況になったのだ。


 関所がなくなったことに流通が良くなり、

 金肥が入手しやすくなったことから

 密かに生産していた木綿畑も増加し

 さらに資本が流入するようになって、

 景気があがり続け好景気にある。



岡﨑城

 岡崎城に近づくにつれ、領民が道の脇に集まってきている。

 実はサクラをまぎれこませ、

 松千代・徳の歓迎ムードをあおったのであるが、

 城の前には岡崎の民だけでなく三河全土から集まってきており、

 松千代を心から歓迎しているようだする。

 

 城内評議の間において、竹千代と徳を上座におき

 狸家臣や三河国衆にまとめて挨拶させる。

 その場で、松千代と徳の婚約のこととを発表し、

 元服後、岡﨑に返すことを約す。

 西三河は、岡﨑城代石川数正に任せることとで狸と話がついており、

 相談役に大伯父である水野信元がつく。


 歓迎の宴にはいる。

 食材は美濃からと尾張からも運ばせている。

 終わりから屋台を運びも持ち込み、

 城下に集まった民にただで配る。


水野信元

 信元は、狸の母親の兄で伯父に当たり、

 知多半島の盟主的存在である。

 家督を継いだときに、今川から織田に従属することを選択し、

 桶狭間までの間、今川を牽制し続け、

 義元の死を狸に告げ、清州同盟へと説得した。

 

 信元に関する知識はほとんど頭に浮かばなかった。

 知多郡に関しても常滑焼と佐治水軍の「言葉」しか出てこない。

 知多半島は伊勢湾一帯のど真ん中にあり、

 今川も狙っていたはずであるのにだ。

 頭の中をいくら探っても、痛くならずに浮かんでこなかった、

 なので、これ以上の知識はないと判断できる。

 

 名前さえ聞けば、だいたいの能力値とかが浮かんでくるのだが、

 信元の名からはなにも浮かんでこないのが不思議ではあった。

 狸の母を久松氏に再縁させるなどして、

 知多半島の土豪たちとも縁組しており、

 織田を選択してからも今川と敵対し続けたことから、

 判断力と信用に関しては問題ない。

 

 水野氏といえば、江戸幕府の老中を何人も排出する家柄であるにかかわらず、


 知識が出てこないのは…、ふむ、わからん!!

 

 水野のあつかいは、織田の外様衆扱いであり、

 狸への重しとさせ、様子を見るしかないだろう。


 三河に関しては、狸の指示を石川数正が実行するので、

 なにかあれば、織田が協力するとする。


 西三河衆の狸への異常な忠誠心は、

 一向衆と戦いであきらかになったので、

 織田はへたに手をさないほうがいいと判断した。

 狸は西に本拠地を移動させていくので、

 松千代が元服し、岡崎城主なった時までに、

 準備をしとけばいいだろう。

 狸家臣の不安をあおらぬような距離間を保ち続けることとする。。


 虎坊主への対策はおこたることはできないので

  岡﨑城代で西三河の取りまとめ数正

  狸が置いていった本多、高力、天野の三奉行、

  相談役の水野、織田との連絡役で松千代傅役である謀臣、

  山家三方衆、井伊谷領主井伊直虎

 と協議する。 


山家三方衆

 東海道は尾張熱田から岡﨑に入り、

 吉田を抜けて浜名湖の南に通るが、

 地震によって浜名湖が海とつながり、

 渡し船を利用しなければならない、

 

 その為、岡﨑から設楽郡を通り

 井伊谷にまで迂回路を通すことにする。

 普請に係る資金は織田に出し、

 作治は井伊谷に親類がいる菅沼二家と

 井伊谷領主直虎に任すこととする。


 三河北方に広がる山地も開発することとし、

 岡崎衆と奥平家に任す。

 資金は織田が融資し、岡﨑に織田銀行の支店を設置する。


 浜松城に向かうので狸から承諾を得るとする。


 以上のことを決め、松千代と子ら鷹狩と舟遊びに興じながら、

 三河国中を視察する。


渥美郡

 渥美郡は伊勢氏被官で松平氏と同格の戸田氏が治めていたが、

 家康を今川に人質に出す際に奪いさり尾張に送ったため、

 宗家田丸戸田氏は今川によって滅ぼされている。

 庶家である二連木戸田氏が残っていたものの、

 今川についたことを理由に、

 田丸城を家康義父の久松に任せることとにした。


 渥美半島は、海と三河湾の間で西へと細長く突き出しており、

 先端部は知多半島や志摩に近い位置にあり、

 伊勢湾一帯の入り口である。

 

 細長いため水源の確保が難しく、

 水田は半島根元部分でしか無理であろう。

 畑作中心とし、木綿と菜の花栽培、それに養蜂を行わせる、

 年中通して温かいと聞き、椰子の実は生えていたので、

 サトウキビの栽培にもよさそうである。


設楽郡

 松千代と子ら家族を岡崎城に置いて、遠江向かう。

 何故か、軍神様一行もついて来る。

 設楽郡は作手奥平氏、田峯菅沼氏、長篠菅沼氏の

 山家三方衆が治め、互いに親類関係にある。

 遠江にも領地があったことがあり、

 今川と斯波の間で離反と最属を繰り返して家名を保っていた。

 奥平は水野の親類であり、織田と同じ曹洞衆で、

 今川に反抗し侵攻を遅らせてくれた。


 信濃伊奈郡にも近いため、虎対策としては重要な地であり

 井伊谷まで街道を通すなど、開発の支援を約す。


 菅沼の縁者が井伊谷の家老である間から、

 街道の作治を任せることとした。

 奥平には西の賀茂郡までの山地の開発をまかせ、

 嫡男奥平定能を織田との取り次ぎと、加茂郡に派遣させる。

 孫を松千代の近習にと頼まれたので了承した。


井伊谷

 井伊谷の井伊家は、浜名湖の北の山地を所領としており、

 今川遠江進出すると、斯波とともに抵抗したが

 負けたため、今川に従属化にしたのであった。


 当主井伊直親が讒言によって殺され、嫡男虎松が幼少の為、

 出家していた次郎法師が還俗して、

 直虎と名を変えて井伊氏当主を勤めている。

 軍神様がその状況を聞き同情していた。

 

 井伊谷の東には三方ヶ原があり、

 史実では武田は井伊谷城を前を通り、

 三河侵攻した別働隊と合流しようと見せかけたのであった


 井伊谷・山家三方衆との間のラインは、

 対武田戦で重要になるはずである。


浜名湖西岸

 井伊谷を南下して浜松城に向かう。

 途中にある宇津城は今川家臣朝比奈一族が守っていたが

 次男が父と兄を襲い、城を奪いた狸に降っている。

 城は浜名湖に突き出した宇津山にあり、

 その山麓を遠江守護所として整備して、

 後方基地とする予定である。

 そこから船で、浜松城に向かう。


浜松城

 浜松城で狸と対面し、情報交換する。

 狸は浜名湖東岸にある、堀江城・堀川城を攻めているが

 頑強に抵抗し続けるとのことである。


 二俣城にいる義信の立場を説明し、

 遠江守護代として、武田が二俣城から北側を

 所領とすることを認めることし条件に

 「氏真が掛川城とともに東遠江を明け渡せば駿河を安堵する」を

 条件で氏真と仲立ちを依頼するよう命じる。

 三河における開発方針についても承諾させる。


 その日は、慰問の土産と浜名湖の鰻で宴会する。

 前回の、東美濃の遠山氏に関して、勝頼の侵攻により、岩村と苗木が滅んで明智(遠山の金さんの先祖)しか残らなかったことからか不明な部分やつじつまこともあったが、何とかつなぎ合わせることができたのでました。


 三河に関しては最初の方で端折ってしまったので、ここらで一度整理しようとしたところ、史実を確認する箇所が多くて構成に手間取りました。

 特に水野信元は、昔のSLGには登場しないことが多く、狸の伯父であることと、老中水野氏の先祖であろうとの知識しかありませんでした。

 戦国時代に関する本は結構読んできましたが、信元に関する内容は「今川を離反して織田についた」ことと「清洲同盟の仲介」のことくらいしかでてこず、死亡に関しての記載はあまりなかったと思います。

 あらためて調べたみたところ、信元や知多半島に関しては変な空白があることがわかりました。

当時でも重要な役どころ人物であると思わるのですが…


信元関連時系列を並べた物

1543

 信元:水野宗家家督(刈谷城主)を継ぎ、今川方から織田に鞍替えする。

1546年

 信長:初陣で吉良の城を襲う。水野領に近く救援だったともされる。

1547年

 家康:田原戸田氏によって尾張に送られ、田原戸田氏は今川に滅ぼされる。

1548年

 水野一族水野為善の大高城が今川に攻められるが撃退する。

1549年

 家康と信広との交換

1554年

 信元:大野水野氏居城大高城を計略によって山口に落とされる。

 信長:緒川城の前に今川によって村木砦が築かれたため、

    嵐の中熱田から海を渡り救援に駆けつけて落とす。

1556年

 信長:吉良義昭と結ぶ、

 義元:牧野氏、奥平氏(信元義叔父)などが今川に反乱する。

 武田:設楽郡に侵入する。

1558年

 家康:離反した加茂郡寺部足助鈴木氏相手に初陣。

1560年

 信元:桶狭間の際は自城を固めていたと思われる。

    一族・家臣が参加していることが確認される。

    桶狭間で義元死亡の情報を甥家康に伝え、大高城からの退去を進める。

    撤退する今川軍が緒川城を襲い、城主弟近信死亡する。(遺児信政は信元養子となる。)

1561年

 家康:信長と三河石ヶ瀬で紛争を起す。

    吉良氏と紛争開始。

1562年

 家康:三河国宝飯郡上ノ郷城落とし、鵜殿長照遺児新七郎と弟二人と、

    正室瀬名姫、嫡男信康、長女亀姫を人質交換で取り戻す。

    瀬奈姫を岡崎城に入れさせず、築山の地で軟禁し、築山殿と呼ばれる、

    今川方東三河国衆が家康に服属し、氏真は吉田城にいた人質殺害を命じる。

    足助鈴木氏を攻め服属させる。

1562年

 信元:清洲同盟を仲介する。

    伯父として家康の相談に乗るなど影響力を持っていた。

1563年

 信元:三河一向一揆に援軍。

1564年

 家康:東三河吉田城攻める。

    加茂郡足助城攻める。

1566年

 信盛:寺部鈴木氏を滅ぼす(?)

1567年

 信元:刈谷水野信近の子で養子の信政に家督を譲る。

 信盛:徳姫が信康に嫁ぐ際に岡崎城まで供奉した。

    家康領地と隣接した地を任されられている。

1568年、

 信元:義昭・信長上洛に従軍し、信長とは別に朝廷に2千疋の献金。

    幕府「外様衆」として幕府直臣の地位を得る。

 家康:三河国人衆を率いて西遠江侵攻を開始する。

 武田:駿河侵攻

1569年

 家康:居城を遠江浜松城に移す。

     吉田城城代酒井東三河旗頭

     岡崎城代石川数正西三河旗頭

1570年

 信元:姉川の戦いにおいて佐和山城を攻落に参陣。

 信玄:西進開始

1571年

 奥平:武田に鞍替えし攻められる。

 武田:賀茂郡に侵入

1572年

 信元:三方ヶ原の戦いの援軍として参陣し、

    敗走した家康に代わり浜松城の指揮をとる。

    (信盛かってに退却・平手討死)

1573年

 信玄:死亡、奥平氏が武田から離反し再属する。

 信元:土井利勝誕生(信元末子説と家康隠し子説有)

1574年

 信元:長島一向一揆討伐に参陣

 秀康:浜松城で誕生(実母信元叔母の娘)

1575年

 信元:長篠の戦いに参陣

 信盛:「秋山信友と水野領から食料の調達に応じる者があり」との讒言、

 信元:弁明の使者を出すが、信長詰問使者と途中で出会い、

    何故か殺し合って両者全滅したとの連絡を受け、

    甥家康を頼ったが、三河大樹寺において殺害される。

    養子信政(元茂)も斬られた。

    刺客役の家康家臣平岩親吉(信康傅役)は、屍を抱き上げ涙ながらに詫びた。

    案内役であった久松俊勝(妹婿・家康実母夫)は家康のもとを出奔する。

    水野の所領は信盛の領土となり、久松俊勝の長男信俊(御大と別腹)が指揮下に入る。

 信康:初陣で三河国足助城・伏地城を攻めた。(武田が占領していたか?)

1576年

 信盛:前任塙直政の戦死し、後任として対本願寺戦の指揮官に就任。

1577年

 信盛:久松家が一向宗を保護していたと讒言し、

    謀反の嫌疑ををかけられた信俊は憤慨して陣中で自害する。

    信俊の子二人は佐久間家臣によって殺害される。

1579年

 家康:嫡男信康を切腹させ、家康正室で実母の瀬奈姫も処分される。

    秀忠誕生(母:西郷氏出身の西郷の局)

1580年

 信長;佐久間信盛を追放する。

    折檻状で、信元は冤罪とされ、

    家康の下にいた、末弟忠重に刈谷城を与えて水野家を再興させる。

    関連は不明だが、信長姉妹婿である丹羽氏勝も追放処分。

    子は所領安堵されている。(強制隠居?)

    もともと、秀孝死以降の動向不明、所領は三河と接している。

1582年

 信長:本能寺の変で死亡する。

    光秀が軍を動かして京に侵入できた説明に、

    信長による家康暗殺計画があるとも、

 家康:堺で報せを聞き、海路を使わず伊賀越えを決行して伊勢に向かう。

    本領到着後、武田旧臣を使って甲斐への工作を開始する。


ウィキペデア(https://ja.wikipedia.org)

「水野信元」「水野氏」「佐久間信盛」から抜粋したものの要約ですので確認できます。

資料の研究が進み、昔とくらべ通説・俗説の内容がをはっきりしつつあります。


推測&疑問

・信元は1543年から織田弾正忠家の同盟者的な立場をとり続け、

 (期間は清洲同盟より長い)

 佐治氏、久松氏、戸田氏と姻戚関係を取り付けおり、

 知多半島の盟主的存在であった。

・今川方から独立したばかりの家康にとって、

 信元は血のつながった伯父であり、

 後ろ盾でとして、西三河の運営に協力を受けた。

・幕府老中水野氏の先祖で宗家を継いだ末弟水忠重らは、

 桶狭間の後に出奔し、家康家臣となったとされるが、

 甥家康のために、信元が出向させたのではないのかな?

 なお、水野忠重は関ヶ原の前に西軍方加賀井重望に

 謎の暗殺で死亡しています。

・尾張と三河の間に所領をもつ信元の排除が目的で、

 織田・徳川双方の合意がなされたとされるが、

 水野家所領は信長直轄地ではなく佐久間の所領となっている。

 家康と佐久間信盛との間のことで、信長は関与があったのか不明?

 信元殺害によって利益を得た者は所領を得た佐久間信盛と家康かになるか?

・信元が家康を頼った際、浜松城にいるはずの家康が三河におり、

 信長に弁護も許可を得ずまま口封じのごとく、

 従兄弟である刈谷水野当主ごと殺害している。

 同盟者でしかない家康に信長の組下にいる信元を殺害する権限はなく、

 岐阜に護送して信長の判断に任すべきであったのでは?

・信元の弟たちは(水野守隆、水野忠重ら)事件に連座しておらず、

 石山本願寺攻め信盛の麾下にいる。

・同じく佐久間の麾下にいた、家康と血縁がない久松俊勝嫡男信俊が自刃し、

 遺児は信盛によって殺害され、久松氏は家康異父弟が継いでいる。

・水野家は織田の戦いに数多く参陣しているかかわらず、内容や戦歴が伝わっていない。

 姉川の戦に戦いに関して、徳川軍の働きが過大に宣伝されていたともされる。 

・武田とは家康は負けっぱなしで、遠江・三河の所領の半分を奪われたようである。

 三河と遠江で葯60万石だから、2万近く動員できたのかな?

 武田との盾の役目を信長あたえられたのに、情けない。

 織田への援軍は、「義昭上洛」「朝倉攻め」「姉川の戦い」が確認でき、

 三河へが織田によって使いまわされたとは思えず、

 三河の守りを織田・水野を頼っていのではないか?

・三河衆が単独で成果を上げたことが確実なのは

 長久手の戦いのみで、野戦上手で、東海道一の弓取りは、

 後世による改竄か?

・水野宗家に関する記録及び当時の知多半島に関し、

 子孫がいるのにも関わらず、空白な部分があり、

 意図的に消されている可能性があるのでないか?

・佐久間信盛の追放は本能寺の至る要因の一つされ、

 信元を弑した件は当時の方々にも知られているはずであり、

 信長による家康暗殺計画があったとされる理由付けになるかな?


歴史家たちは信元殺害の件に関して本能寺とかかわりがあるのに係らず注目していないと思われます。

この件がはっきりしないうちは、本能寺のミステリーは解決できないような気がする。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ