episode3、2
『はい。もしもし』
聞こえてきたのは、四十代ほどの少し、かすれた男性の声だった。
「空木所長ですか?」
『ええ。確かに、そうだけど。和衛くんだよね、その声は』
「そうです。所長、事務所に、俺、来ているんで。ちょっと、話したいことがあるんですけど。いいですか?」
和衛が簡単に言うと所長こと空木は少し考えているらしかった。
ううむとうなる空木に、和衛はしばし、待った。
『わかった。今日は無理だけど、明日だったら、事務所にいるし。明日の昼前になったら、来てくれるかな?』
空木の答えに、和衛は安堵した。
携帯電話の電源をオフにすると、半分に折り畳んで、ポケットにしまう。
壁に掛けてある時計をみると、四時を回っていた。
和衛は鈴木に帰る事を伝えると、急いで、ドアを開けて、外に出た。
空は少し夕焼け色に染まっていた。
和衛はあわてて、駅へ向かうと、ポケットにしまいこんでいた切符を取り出した。
そして、改札口を抜けて、切符が出てこないのを確認した。財布も出すと、売場まで向かう。
藤沢町までの値段を確かめた。
「五百円か…」
硬貨を出すと、払い込み口へ入れる。
数十秒待つと、ピピッと音がして、切符が出てきた。
それを右手で抜いて、ポケットに入れた。
財布を入れて、早足で歩き始めた。
携帯電話を取り出すと、時刻を確認する。
もう、午後五時前になっていて、和衛は頭を抱え込みたくなった。
すっかり、遅くなってしまった。
(明日良ちゃんには、三時頃に帰ってくると言っておきながら。何をやっているんだ、俺は)
早歩きで、藤沢行きの電車のあるプラットホームを目指す。 階段をおりると、プラットホームにたどり着いた。
しばらく、電車が来るまで、待ってみる。
まだ、季節が初春の三月の終わり頃のためか、夕方になると、肌寒い。
ジャケットだけでも着てきて、正解だったと思う。
それに、明日良の部屋に出た女の霊が気にかかる。
あの女は何者なのか。
それも調べないといけない。
その時、アナウンスが流れた。
『三番乗り場に藤沢行きが来ます。ホームにおられますお客様は黄色の線まで、お下がりください』
そして、独特の音楽がかかる。
和衛の目の前に、キーッと、音を立てながら、電車が止まった。
車両に早足で乗り込むと、ドアが閉まる。
アナウンスでもないのに、ふいに声が頭の中で響いた。
『…お前だけは許さない。あの娘もろとも、不幸にしてやる』
だが、和衛はその女の声を無視した。
相手が怨霊である以上、関わるのは最小限で十分である。
吊革に捕まらず、座席に腰掛けた和衛は、小さくため息をついた。
家に帰ったら、あの女を問いつめるしかなさそうだ。
頭が痛くなってくる。
鈴木に頼んで、一緒にきてもらうのだったと、悔やんだのであった。
藤沢駅に到着すると、和衛はまた、急ぎ足で電車をおりる。 プラットホームを出て、階段を軽快な下りていると、たくさんの人たちでエスカレーターはひしめいている。
仕事先から、帰宅しようとしている会社員が大半だろうか。
ぼんやりとそう考えながら、階段を下りきった。
すたすたと歩いて、駅を出ると、辺りは真っ暗になっていた。
携帯電話の画面をポケットから取り出して、見てみたら、午後五時を回っていた。
早歩きで坂上家宅を目指して、進み始めた。
そんなときに、青白いものがふわりと彼の前に舞い降りた。
『明日良が待ちぼうけをくっているよ。後、友人も来ている』
聞こえてきたのは、甲高い少年の声だった。
和衛はとっさに、人目のつかない所を探した。
誰もいない一角を見つけると、携帯電話を取り出した。
そこで、電話をしている振りをした。
ごまかす為である。
「友人って。明日良ちゃんに?」
そう返せば、くすくすと笑う声がする。
『そう。美加という子だよ。君に会いたがっている』
えっと、驚けば、青白い炎は茶化すように一回転してみせた。
『けれど、紅樹が明日良、波津姫を狙っている。美加は普通の子。気をつけた方がいい』
何故と言いたげな表情をしている和衛に、少年は簡単に説明をする。
『私の名は菊丸。もともと、波津姫のお母様に仕えていた。勢津姫とおっしゃって、後白河院の御所に仕えていらした。ある日、平家の方と恋人になって。平経盛卿とおっしゃって、風流事にすぐれた方だった』
淡々とした言葉使いだったが、やっと、本当のことが聞けて、和衛は合点がいった。
「そして、波津姫が生まれたんだな?」
『…そう。経盛卿には正妻というべき方がいらして、お子もたくさん、もうけられていた。勢津姫は自分が正式な妻になれないことをわかっておられたんだ。だから、実家に帰って、人知れず、子をお生みになられた。けれど、時は源氏と平家が争う最中にあった』
炎はゆっくりと、少年の姿になった。
長い髪を高い位置で、ひとまとめにして、白い袖の分かれた水干という装束を着ている。
青白く光を放って、透けてはいるが。
菊丸はまっすぐに、和衛を見ていた。
「君が菊丸なんだな。初めまして、俺は藤原和衛。奥州の当主殿のいとこの家衛さんの子孫だ。まあ、知っていると思うけど」
『あなたが家衛殿の…』
そう言おうとした時だった。
いきなり、携帯の着メロが鳴り始めた。それを聞いて、驚いたのか、菊丸は炎の姿に戻ってしまった。
和衛がため息をつきながら、ボタンを押して、電話に出た。
「はい、もしもし。藤原です」
常とは違う丁寧な口調で答えたが。
聞こえてきた声はいつもの空木所長のものではなかった。
『…あの、和衛さんですか。明日良ですけど』
意外な相手に、和衛は黙り込んでしまった。
「え、何で?俺の携帯の番号を君が知ってんの?」
『さっき、空木事務所から、電話があって。心配だったら、和衛さんの携帯の番号を教えてあげるって、男の人が言ってたんです。確か、鈴木さんていったかな。私は遠慮したんですけど』
それを聞いて、和衛は鈴木をぼこりたい衝動にかられた。何、勝手に人の携帯のアドレスとか、教えているのか。
「それで、遠慮したのに。どうして、俺の携帯にわざわざ、かける気になったんだ?」
腹立ちまぎれに、きつい調子で言ってしまっていた。
だが、目の前に浮かぶ炎こと菊丸はからかうように、上下に揺れている。
『あの、すみません。友達がどうしても、和衛さんに会いたいって、言っているんです。私も最初は止めたんですけど』
言うことをきいてくれなくて、と困ったように続ける。
「友達?」
とっさに、そう聞き返していた。
明日良はこの説明だけでは足りないとわかったのか、簡単に紹介した。
『私のクラスメイトで友人なんです。渡辺美加ていうんです』
それを耳にして、菊丸をにらみつける。
「その、美加さんが何で、俺のことを知っているんだ?」
引き続き、問いかけるとあ、という明日良の間の抜けた声とゴソゴソという音が聞こえてきた。