episode1. 3
浴槽の中に浸かっていても、誰かがじっと、見ている。
和衛や母はここにいない。では、一体誰がみているのだろうか。
脱衣場で服を着た。髪を乾かすために、ドライヤーを使っていた。
鏡に背の高い男の姿が移っていた。
(もしや、これがよくいう…?!)
明日良は、はっとしたが。よく見たら、それは和衛だった。
「…もう。驚かせないでよ、まったく…」
「どうかしたのか?」
きょとんとした顔で尋ねられたものの、答える気すら起きなかった。
「明日良ちゃん。おばさんが早めにしてくれっていってるよ。あんまり、長いこと出てこないから、俺が代わりに様子見に来たんだよ。て、本当にどうかしたの。顔が真っ青…」
覗きこもうとしたところを手に持っていたドライヤーを顔にぶつけられた。
「あたしが風呂上がりなのに、なんでいるの!とにかく、出て行って」
大声で叫び、けれど、慌ててスイッチをOFFにした。
和衛はあごを痛そうにさすりつつ、静かに離れていった。
「たくもう。女の子がお風呂入っている時に、いくら、お母さんに頼まれたからって。普通、あんな風に覗きにくる?デリカシーていうか、常識ってもんがないのか、あの人は…」
ぶつぶつぼやきながらも、ドライヤーがこわれていないか確かめてから、洗面台のすぐ上にある収納ケースの中にしまった。
中学三年である明日良にしてみれば、眠る前なので、当然下には何にも身につけていない。
パジャマ姿なので、それを見られることが彼女にとっては嫌なのだった。
時刻は午後十時。とっぷりと夜は暮れていった。
自室にもう一度、戻った。
机の上に教科書とノート、参考書などを開いて、春休みの課題をやる。
小学生の時とは違って、ドリルではなく、問題集と銘打って、出されることが多くなった。
しかも、二学期になれば、一気に忙しくなる。勉強一色になることは確かだ。
今は、数学の問題集をやっていた。三十分も経ってくると、集中力が途切れ出すのか、イライラが止まらない。
(お母さんは明日、会社でいないし。一人で留守番てことになるかな。けど、あの和衛さんが一緒なんだっけ?となれば、あの人と二人で過ごすことになるじゃない)
とまで、考えてしまっていた。
急いで、頭を切り替えた。
「今はこんなことを考える時じゃないんだってば。勉強に集中しなければ…」
ぶつぶつと独り言を言いながら、式を解く。二年の時だったろうか。授業で習ったのは。
因数分解の問題がある。それをやっている真っ最中だった。
時計の音がちくたくと鳴る。否応がなしに、一分、二分と経っていく。コンコン、とドアをノックする音がした。
「…明日良。もう、夜中の十一時になるから、寝ちゃいなさい。湯冷めして、体が冷えたら、風邪ひくもとだし」
声をかけてきたのは、母だった。
振り向いて、返事をする。
「うん。わかってるよ、けど、この問題集の十五ページまでやっちゃうから。母さん、先に寝てくれてもかまわないからね」
「そう。あんまり、無茶はしないようにね」
くどくどと、説教じみたことはいわず、それだけ伝えると母は出ていった。
夜の十二時が回っていた。
眠気に襲われながらも、ずっと、課題を続けていた。今で十四ページの問六まで、終わっていた。
後、もう一ページで数学の課題はおしまいになる。それまでは、やり続けなければならない。
だが、またあの時の冷たい気配が明日良の肌に突き刺さる。
これで、二度目だ。反射的に後ろを振り返る。そこには、信じられないものがあった。天井から、逆さまにぶら下がっている物がある。
「…何、あれ…」
まず、目に入ったのは黒い垂れ下がったモノ。
すぐに気づく。あれは人の髪だ、しかも女性の。
そして、片方だけひどく腫れ上がってしまった眼。ぎょろりと動いて、明日良を見てくる。
「ひ…」
声にならない悲鳴が出るが、それはひきつった形でしか聞こえない。
体が動かず、腕や足に鳥肌ができる。ぞわっと、背筋が凍ってしまって、目がそらせない。
―ヤット、見ツケタ。波津姫―
低い、冷たい声が明日良の脳裏に響く。
―何故、家衛サマハ私ヲ見テクダサラヌ。ドウシテ、オマエは逃ゲタ。全テ、オマエノセイ…―
「…いや、家衛って、だれ?私は…」
―オマエサエ、現レナケレバ…。アノ方ハ、ワタシダケヲ見テクレタノニ。憎イ、憎いぞ、波津姫!―
声を荒げながら、女は一気に間合いを詰めてきた。すぐ真正面まで、逆さまの状態でやってきたそれは、明日良に襲いかかる。
「…いやあー!」
夜闇をつんざく悲鳴が部屋に響き渡ったのであった。