4-2
町はまるで色を失ってしまったようだった。
こんなキトラを見たら、きっとあの少女は泣くのだろう──不意に目に飛び込んでくる現実に、パメラ・パトレーゼは歩みを忘れる。しかし、彼女が感傷に浸ったのはほんの一瞬のことだった。長い三つ編みが風に揺れると、口を真一文字に結び、視線を戻す。両手でバスケットを抱え、我が物顔で横たわる屋根の残骸を乗り越えて、道であった場所を歩いた。
こうなってしまう前ならば、買い物客で通りが賑わっているころだ。しかし、いまではだれもいない。通りは愚か、そもそもの店が機能していない。惨事の起こったその日のうちに大挙してやってきた城の人間の手で、店も家もあらかたが引っ越しを終えていた。とりあえずの仮住居へということだったが、いつ戻れるかは定かではない。
まるで、いつかこうなることを予想していたかのような手際の良さ。パメラにはなにがどうなっているのかまったくわからない。わからないが、そのことに憤りはしなかった。
ただ、悲しかった。
パメラだけではない。この町は愛されている。皆が、愛している。彼女も、愛してくれていたはずなのに。
「本当にいいのかい、パメラ」
「ツケにしてくれたっていいんだぜ」
努めてだろう、明るい声がかけられる。力自慢が二人、両肩に荷物を抱えて、パメラを追い越した。二人とも、レーゼ亭の常連客だ。
「いいのよ、ずっと取っておけるものでもないんだし。食べ物はおいしくいただかないとね」
パメラも笑顔を作って、そう返す。キトラに残っているのは、ほんの一握りだ。それぞれが食料を運び込み、協力し合って、一カ所で生活をしている。レーゼ亭の食料は、いま彼らが運んでいる分で最後だ。そろそろ、ここに居続けるのも限界かも知れない。
男二人を見送って、パメラは、いま自分が南を向いていることに気づいた。バスケットを片手で持ち、右手を空に向ける。
空の向こう、逆さにそびえる竜の住処を、掬うように掌に載せた。
それほどに、小さい。つまりはそれだけ、遠い、遠い世界。
そこからゆっくりと、視線を下ろす。
変わり果てたキトラの町は、空に近づくことは許されていない、まるでそういわれているかのようだった。背の高い建築物はことごとく墜ちている。竜たちは町や人を襲うことはなかった。ただ、おびただしい数が押し寄せ、蠢き、吼えた。それだけだ。ただそれだけで、町はその機能を失った。
パメラは、目の当たりにした竜の肢体を思い出す。艶めく肌にはこちら側を連想させるものの一切がなかった。たとえば、キトラの風を受ければその臭いが移るだろうし、木々に触れれば葉がつくこともあるだろう。しかし実際には、目の前にあるのにまったく別の世界のなにかであるようだった。恐怖とは別の、憧憬のようなものを感じてしまったのも事実だ。
パメラでさえ、そうだったのだ。あの男の興奮もわからないでもない。パメラはバスケットを持ち直し、かろうじて形を留める円柱型の建物へと入っていく。
「やあ、ご苦労だったね、パメラ君!」
こんな惨状だというのに、白衣を軽やかにはためかせ、図書館館長ランベルト・ヴォルタはリズミカルに飛び跳ねてきた。楽しさが全身からにじみ出ている。
「不謹慎ですよ、ランさん。亡くなった人もいるのに」
「またその話か!」
聞き飽きたといわんばかりに、ランベルトは片眼鏡を上げた。
「私の目には焼き付いているよ、あの美しい竜たちが! 生きている間にこんな光景が拝めるとは……!」
「またその話」
パメラは深く息をつき、長い三つ編みをうしろに払った。
「竜信仰もいいですけど、だからって人間を軽んじるのはどうかと思いますよ」
「君との議論は平行線だね、パメラ君。君のご祖父母はそれはもう熱心だったものだが」
人々の中には、竜そのものに憧れ、一種の信仰心を抱く者たちがいた。パメラの祖父母や、ランベルトがそうだ。パメラ自身は肯定的でも否定的でもないが、亡くなった祖父母の影響もあり、竜というものに詳しくはあった。
「あの少年……キオン少年だったな、彼は、イリス君をここへ連れてくるんだろう? 話が聞きたくてうずうずしているんだ! 彼女の歌が竜を呼んだらしいじゃないか! その会場がレーゼ亭だったというのがまったく悔やまれるよ、いってくれればここを提供したのに!」
ランベルトは両手を広げた。見事な円柱型であった図書館も、屋根の半分が崩れ落ちている。とはいえ、古くから歴史在る図書館として鎮座しているだけのことはあり、残っている支柱はどれも揺るぎなく立っていた。
書物はすべて屋根のある場所へと移動済みだ。そもそもが非常時に集まれるようにと、図書館の地下は同じ敷地分のホールになっており、町に残った面々が仮の生活を送っている。
「わかりませんよ。あの子だってイリスちゃんだって、もうここには来ないかも」
「なんだと! それは困る!」
ランベルトがわめいているが、パメラはそれ以上聞かなかった。適当にあしらって、階段へと向かう。
階段の上部も崩れ落ちており、雨風を凌ぐために布が張ってある。地下へ行くには、あまり機能性を考えていないそれを一度持ち上げて、屈んで階段に入る必要があった。パメラは一度バスケットを置き、布に手をかける。
ちょうど、その手の向こう側、壁と瓦礫とを額縁のようにして、少年と少女の姿が見えた。
「イリスちゃん……?」
イリスと、キオンだ。パメラは迷わず布から手を離し、図書館を飛び出す。
二人は、こちらに向かっているようだった。パメラは手を振って、イリスに駆け寄る。
「イリスちゃん!」
しかし、声をかけたものの、続きが上手に言葉にならない。イリスがパメラを見上げて、パメラさん、とつぶやいた。目が真っ赤だ。
「戻って来てたの?」
結局、見ればわかる質問を口にしてしまう。イリスは作り笑顔を張り付かせた。
「あの……ハイ、さっき」
笑顔に力がない。散々泣いたあとなのだろう、琥珀色の目は滲んでいて、まだ充分に乾いていない。彼女の手が隣の少年と繋がれていることに気づき、パメラはキオンを睨みつける。
「なにを泣かせてるの」
パメラはイリスの手を引き、キオンから守るようにして抱きしめた。イリスが両手でパメラにしがみついてきたので、その頭を撫でてやる。
「泣かせたかったんじゃないんだ、けど……配慮が足りなかったと思うよ」
キオンは気遣うようにイリスを見ていた。文句はいくらでもいえる自信があったが、どうやら落ち込んでいるらしいキオンに、パメラはなにもいえなくなる。この少年は扱いづらい。結果がどうあれ、やることなすことに、悪意というものがないらしい。
あの日、キオンは楽団を名乗ってレーゼ亭に来た。あとから考えれば、たった一人で楽団というのもおかしな話だったが、そのときのパメラはまったく疑問を抱かなかった。いわれるままにイリスを彼の元に連れて行き──そして、事件が起こる。
彼がどういう人物なのか、謝罪と共に聞かされたのは、数日後に彼が再び訪れてからだった。
「ごめんなさい、イリスちゃん。私のせいね」
もう一度会えるのなら、謝りたかった。イリスを抱く手に力がこもる。
あのとき、イリスに話を持ちかければ、こんなことにはならなかったのだろう。どうしても、そう考えてしまうのだ。
「私が、あなたに、歌わせたんだわ」
「ごめんなさい」
パメラの胸の中で、イリスが顔を上げる。もう一度、泣いたのかも知れない。しかしそれを見せないよう、気遣われないようにしているのが見て取れた。
「あやまるのは、わたしです、パメラさん。キトラを……こんなふうにしたのは、わたしです」
パメラは自分が泣きそうになった。そんなことはない、それはきっと違うのだといってやりたかったが、パメラ自身も目の当たりにしたのだ。
イリスの歌を。引き寄せられるようにして飛来した、おびただしい数の竜たちを。
「イリスは悪くないし、パメラさんも悪くない。ああ……悪いのはぼくということになるのかな。でもぼくも、悪くない」
キオンは明後日の方向を眺めながら、まるで他人事のようにいった。パメラは納得がいかず、手をのばして彼の首輪をつかむ。
「なんなの、それ」
「いたた、ごめんなさい、反省もしてますよ、パメラさん」
「許せないわ」
とはいえ、もう文句らしいものは上手に言葉にならなかった。誰のせい、を繰り返したところで、起こってしまったことは変わらないのだ。
「許してもらわなくてもいいですけど、お願いがあるんです。イリスのことで」
パメラが眉をひそめると、キオンはイリスをちらりと見て、パメラの耳に口を近づけた。小声で囁き、パメラの手に淡い黄色のオプスを握らせる。
「……どういうこと、それ?」
「これはこれは! イリス君にキオン少年じゃないか! やあやあ、じっくり話を聞きたいなあ!」
まったく空気を読まず、輝かんばかりの笑顔でランベルトがやってくる。キオンがひどく冷たい目でランベルトを一瞥した。蛇に睨まれた蛙。ランベルトが動けなくなったところで、パメラはイリスの手を引く。
「ちょっと、こっちに来て、イリスちゃん」
ランベルトの相手はキオンに任せ、図書館まで戻った。混乱を言葉にするよりも、確かめるほうが先だ。パメラは階段を駆け下り、自らの荷物から洗ったばかりの着替えを取る。
女性が着替えるため、布で四方を囲んだスペースにイリスを連れて行く。イリスは一言も話さず、おとなしくついてきた。
ぼんやりと立つイリスの顔をのぞき込み、丁寧にゆっくりと、告げる。
「イリスちゃん。ちょっと、確かめたいことがあるの。一度服を脱いでもらいたいんだけど、いい?」
「え?」
イリスはきょとんとして、まばたきをした。嫌というよりも、意味がわからないのだろう。
「大事なことなの。ね?」
「あ、はい。わかりました」
その全幅の信頼に、パメラはうっすらと危険性を覚えた。しかし、いまはそれどころではない。手伝ってやりながら、イリスの持ち物、アクセサリー、衣類を、一つ一つ取り去っていく。
「これは、鏡よね」
ポケットから出てきたパールピンクの鏡を、パメラは手に取った。
「そうです。ニーノさんオススメの」
「このペンダントやブレスレットは? ほかにも、色々持っているの?」
「ええと」
イリスは懸命に思い出そうとしているようだった。
「たぶん……最初にこの町で暮らし始めるときに、服と一緒にもらったものがほとんどです。部屋に用意してあって、自由に使っていいって」
ウェルさんに買ってもらったものも、あるんですけど。後半の声はなぜか消え入りそうだった。しかしパメラは、どんどん血の気が引いていき、イリスの言葉に耳を傾けている余裕がない。
キオンから受け取ったオプスは、イリスの衣類や持ち物、すべてに対して、その色を変えた。淡い黄色から、濃い茶色へ。それはすなわち、そこに何らかのオプスの力が加わっていることを意味するのだと、彼はいった。
──たぶん彼女は、すべてを「聴かれて」いるんだ。
キオンの言葉を思い出し、パメラはぞっとする。では、ウェルナーやニーノが、そう仕向けたのだろうか。
「ごめんね」
一言断って、しかし返事は待たずに、パメラはバスケットの中にあった瓶で、パールピンクの鏡を叩き割る。表にあしらわれた白いオプスとは別に、内部から転がり落ちた緑と金のオプスを見て、悲鳴をあげた。
「どうしたんですか、パメラさん」
いってもいいものだろうか。パメラは逡巡する。
彼女はずっと、監視されていたのだ。
聴かれていたのだ。
きっと、彼女の信頼する人たちによって。
「あの、わたし」
震えるパメラとは対照的に、イリスは落ち着いていた。
そこにいるのに遠くを見るような目で、パメラを見ていた。
「知りたいんです、ちゃんと」
パメラは心が動くのを感じたが、同時に、新たな可能性に気づいた。
ここで伝えてしまえば、伝えたという事実が、向こうに知られてしまうのではないだろうか。それとも、そんなことは今更考えても意味のないことなのか。自分たちはさっきまで、どんな会話をしていただろう。
そうだ、間違いなく、場所は知られている。
「イリスちゃん」
では、キオンは彼女の味方なのだろうか?
ウェルナーは?
考えれば考えるほどわからなくなって、パメラはイリスを抱きしめた。服のほとんどを脱ぎ去った彼女の肢体は驚くほど華奢で、この身体でなにができるものかと、パメラは憤る。
レーゼ亭で、キトラの町で笑っていた彼女は、もう戻らないのだろうか。
この子がなにをしたというのだろう。
「わたしのお母さんが」
腕のなかで、イリスはぽつりとつぶやいた。
「竜なんです」
パメラは目眩を覚えた。
ああ、やっぱり。
そんな馬鹿なと思う一方、どこかであまりにも綺麗に、腑に落ちる。
「だから、たぶん、わたしも」
イリスの身体に、まったく力が入っていないことに、パメラは気づいた。そっと身体を離す。
「……イリスちゃん」
イリスは泣いてはいなかった。そこにはなんの感情もなかった。ここにいるのにここにいない、見ているのに見ていない、虚空のような琥珀色の瞳に、以前のような輝きはない。
「本当を、少しずつ、思い出しています。わたしにとっての本当は、キトラでの暮らしだけだった。そう思っていたんですけど」
「イリスちゃん」
パメラはもう一度、イリスを抱きしめた。それ以上は聞きたくなかったし、いわせたくなかった。
ここにどうして、あの黒衣の剣士がいないのか。
そればかりを考えて、悔しさに、唇を噛みしめた。